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黒衣から伸びる白く華奢な腕。
鉛の汚染が今も続くと言ってのけたルルの繊細な指が示すものは俺たちが飲んでいた赤いワインだった。
「なんですと……ワインに毒が?」
その意味を計りかねて黙する一同の中で一番最初に言葉を発したのはマロー司教だった。
「だ、誰がッ!? い、いつ、どうやって!? ああっ、天使様方、知らなかったのです、ワインにそんな恐ろしい毒が入っていたなんて! そんなものをお出ししていたなんて!」
「はいはい、マローさん、落ち着いてくださいな」
鉛の毒。鉛毒。
ゆっくりと人を蝕み、その性格すら変えてしまう程の恐ろしい毒。それがワインに入っている。そう聞いてこの場を取り仕切っているマロー司教が震え出す。
客に出す飲み物に毒を入れたやつがいる、そう受け取ったか。実際に俺にもそう聞こえたし。だがルルの口ぶりでは誰かを責めるようなことではなさそうだ。毒を入れた者がいるならそう言うはず。奴は汚染と言った。つまり、どういうことだ? いや、わからん。今度は勘違いをしないように慎重に考えねば。
「あわてん坊の勘違いキャラはそこで口を半開きにして呆けている黒騎士ちゃんだけにしてくださいな。間抜け顔も可愛いわねえ、さすが」
「呆けておらんわッ!」
よく考えようとしていただけだ。
口、開いていたか? 今? 開いていたかもしれない。自覚が無かった。
いや、開いていようがいまいが関係ない。いちいち俺を引き合いに出すな。
あと黒騎士ちゃんとか言うな。間抜け顔とか言うな。可愛いとか言うな。
「可愛いなどと、男が言われて喜ぶものでは無いわ」
「女だろう、骨の道化師、女だよな? な?」
「黙ってろゴウベル口を開くなこっちを向くな他の奴らに確認をとるな」
……女だが、今の俺は女だが。おのれ。
「く、口の悪い女めぇ、ちょっと剣の腕が立つからといっていい気になるなよ? あ?」
話が進まん。阿保は完全に無視してルルに話の続きを催促する。さっさと話を進めないルルが悪い。
「ルル、もったいぶっているお前が悪い。マロー司教が勘違いをしていると言うのならさっさと結論を言え。使えん女だ」
「……………………じゃあ、そういうことで、プリュエルさん、猫さんを屋敷に閉じ込めるのは止めて自由にさせてあげてね、さよなら」
「立つな立つな! 席を立つなァ!!!!」
話の途中であろうが構わずに、すべてを放り投げて逃げようとしたルルを必死に引き止める。
今のは俺が悪かった。最後の言葉が余計だった。
至近で睨んでくるゴウベルが鬱陶しくてつい口がすべった。
口の端を上げて笑いながら席に戻るルル。
コイツめ。いつものように俺で遊んでいやがる。消えようと思えば座ったままでも消える事の出来る奴だ。慌てる俺を見て笑っていやがるのだ。なんて性格の悪い魔女だ。いや魔女とはそういうものか。
「屋敷に閉じ込めてしまっているのは、その、リュンヌ様を欲しがる方々も多くて……」
「リュンヌ? 名前をつけてあげたのね?」
「は、はい……その、駄目だったでしょうか?」
「ふふ、いい名前。何の問題も無し、よ。可愛がってあげて時々気に掛けてあげればそれだけでいいの」
ルルがプリュエルに向かって笑いかけ、名を与える行為の承認をする。
そうか、プリュエルはあの黒猫に名前を与えたか。
寝ていたかと思われた黒猫が、不意に動き出し腕を舐める。そのまま顔を撫で、腹を舐めて足を舐めてと毛づくろいを始める。
リュンヌとは天空に浮かぶあの月の事だろう。
古来より人々が見上げ、その謎を解明せんとした天の月。場所によっては神の化身とも言われるほどに人々に崇められた存在。その名を冠せられた猫。
「月、か。たかが猫に与えるにしては大層な名だ」
「黒猫様の名前をどうするのかで色々と揉めたのでございます。最後には”銀の夜、天より授かりし愛し子、その金の瞳、地上に降りた二つの満ちた月のごとき”そういう名前に決まったのですが、その、長いので皆、ただリュンヌと……」
「大層が過ぎる……」
猫だぞ。ただの。
「猫さらい問題は難しいわねぇ。うーん、どうしようか」
「猫は今はどうでもいいだろう、鉛の毒が入ったワインはどうなった。マロー司教が気をもんでいるぞ」
先ほどまで飲んでいた俺たちもまた同じく。
俺たちは毒入りワインを飲まされていたのか?
「大した話じゃないわよ、結構な量の酢酸鉛が入ってるねぇ、ってだけの話。このワイン、ちょっと甘いでしょ? その甘さを出している成分が鉛、よ。これはどこかに犯人がいるとか、誰かに悪意のあるなしの話じゃなく、甘味を生み出すためのそういう技術があり、それを利用しているというだけの話」
先ほどまで俺が飲んでいたテーブルの上のコップを見る。
飲みかけのコップの中にはまだワインが入っている。気兼ねも無く飲んでいたワインの色の赤が、今は毒気を帯びた血に見える。
泣き虫が慎重な口ぶりでルルに問いかける。
「ル、ルル殿、そういえば私も聞いたことがあります、よ。何かと秘密主義な職人たちの話です。特別な鍋でブドウの果汁を煮詰めると、とても甘い味のシロップが出来るとか。それをワインに入れると、ワインの味が良くなり、しかも腐りにくく、長く保存も出来るようになるのだと。古くから伝わる技法……鉛……それは鉛の鍋だったのですか?」
「でしょうね。人は甘味を求めたがる生き物。ブドウ果汁、酢酸と鉛を反応させると甘くなることに気がついた人たちの作った甘味、人の手による甘味の創製。つまり人工甘味料。人の知識と技術の結晶、その一つ」
ワインの入ったコップを左右に揺すりながら話すルルの様子は怒る風でもない。かといって楽し気でもなく、その感情は読み取れない。
「毒、なのだろう」
「毒、ね。それも結構な」
「何が大した事の無い話、だ。とてつもなく重要な話ではないか……」
先ほどルルを帰してしまっていては、俺たちはこの話は知らないままだったのか。
そして鉛で汚染されたワインを飲み続けていたと。
恐ろしい。
無知とは恐ろしい。
悪意が無くとも、むしろ、ワインの味を良くして長く保存できるようにと、人の為を思って工夫されたものであったとしても、毒は毒。それを知らずに飲む方はたまったものでは無い。
そんなものを飲み続けていたら、どうなってしまうのか。
……倒れる、のか。人が変わったようになって?
「い、い、今すぐにワインをすべて回収して廃棄せねばなりませんぞ……ああ、ワイン造りには教会も深く関わって……どう言って説得すれば……」
頭を両手で覆い、今後の事に頭を悩ます老いた司教。
「厄介なのは、これは蓄積する毒だということ。口に入れても少しくらいなら平気であり、長い時間をかけて体から自然に出て行く毒でもあるということ。このせいで毒であることがわかりにくいのよねぇ。古くからの慣習とか、秘匿される技術とか、色々大変よね。説得は難しいでしょうけど、頑張って、マローさん」
「他人事の様に……」
「他人事だもの」
いつもといえばいつもの無責任。
知識も力も。
人を救う術をいくつも持っているのに、気が向かねばそれを振るわない魔女。
大いなる力には大いなる責任がともなうだろうと言った俺に対して、無い、と、そう言い切ったルルらしい。
そんなことを思いつつ、頭の中で浮かんだ違和感に注意を向ける。
「さっきから見てたけど、プリュエルさんはお酒は飲まないのね?」
「は、はい……昔からですが、お酒を頂くと、すぐに頭が痛くなってしまうものですから、すいません……申し訳のないことで……」
「謝る必要ないからね!?」
「ワインに鉛の毒が入っているとも知らず、私だけ無事で……」
「それも謝る必要ないから!」
消え入りそうな声で謝罪を繰り返すプリュエル。酒が飲めない事で何か問題でもあったのだろう。ワインなど飲めて当然。子供でもワインは飲む。下手をすればすぐに腹を壊すその辺の水よりもワインの方が安全だからな。
飲める者たちに囲まれた飲めない者の気持ちはどういうものか。
プリュエルの普通がいいと言う言葉の裏にはそういう事情があるのかもな。
「お酒が飲めなくても問題は無いわ。むしろ飲めない方がいいかもね、なにせ毒と言えば、お酒、それ自体も毒だからねぇ」
「お酒は毒なのでしょうか」
「そう。口に入れる大抵のものは毒だったりするのよ? 体に害をもたらすまでどれだけの量が必要かという話。お酒はそれなりに高い危険度を持つ飲み物だわ。それを知らずに飲む人は馬鹿ね、馬鹿」
「ルル、貴様は好んで酒を飲んでいただろう」
俺が会話に割って入る。いつぞやのリュミエラの屋敷で出されるワインを楽しみにしていたのを思い出す。俺に振る舞った食事にも酒はあったし自分も楽しんでいたのだ。
「酒が毒なら一滴たりとて飲まないのが正しいのではないのか?」
「平坦で正しい道があるのを知っていても、そこを行かなくてはいけない道理も無し、と。いーのよ。私は。分を知る、よ。脇道、寄り道、結構なこと。楽しんで飲むくらいなら良し、よ。楽しくも無いのに馬鹿みたいにお酒を飲むわけじゃないもの」
「!」
馬鹿みたいに酒を呷って、人格が変わったようになってしまった男を、俺は知っている。
思い出した。
見せられた。見せつけられていた。
黒猫と出会わなかった場合の俺。
そうなったかも知れない俺の可能性。
道を間違えた過去の自分を殺しに来た、未来の俺。
狂人。
ジャンヌを失い、その日以降、浴びるように酒を飲んで、人が変わったように狂っていった男の様を。
「ルル、もしや、あの男、あの愚かな男……あの男が飲んでいたワインにも鉛の毒が入っていて……」
それで狂っていったのだとしたら?
あの男の事は、未だに自分の中で吞み込めないでいる存在だ。どうにも収まりが悪く、だが確かに存在している。どう扱えばいいのかもわからない。
静かに考える時間も無かった。何せ女になってしまったからな……
違和感はあり続けた。
アレが未来から来た自分だったと納得はしているものの、あまりにも不様な姿が自分だと思えない部分がある。昔であれ今であれ、俺とかけ離れている。いや、男と女とかいう問題でもなく。
「ならば、ならばだ、もし、奴の、あの常軌を逸した狂った行動にも理由があったのなら……」
「はいストップよ。黒騎士さん。それ以上は”言い訳探し”よ、理由を探して、楽をしようとしている」
両の手の平をこちらに向けて、俺の言葉を遮るルル。
「?」
プリュエルらは俺たちの会話についてこれない。
当たり前だ。
俺たちにしか、わからない。
呪いだから仕方ない、そう言って倒れていった奴らと同じく、鉛毒にやられたのだから仕方ない、と、そう思いたかったのか、俺は。
そう思えれば、素直に納得して受け入れられただろうから。あれも俺であると。
確かに楽だ。受け入れるのに苦しみも無い。
そんな俺の心を見透かしたのだろう。ルルは許してはくれない。その黒い瞳が真っ直ぐに俺を見ている。瞳が問いかけている。それでいいのかと。
奴のやったことは、決してそんな理由で許されることではない。仕方がないで済むことではない。どのような理由であってもだ。軽い気持ちで受け入れて、軽い気持ちで仕舞い込んでいい記憶でも無い。どれほど忌まわしいものであっても、この先も、ずっと俺の心に残り続けておかねばならない記憶なのだ。
今の俺が、あの姿に、ならない為にも。
「……そうだな」
「ええ、そうね」
「ええい! 何を二人だけでわかり合っとるのか! 目と目で会話するな! 言葉にせい、言葉に!」
目と目で会話していたか? 今。
「わからん! さっぱりわからんぞ! ルルとやら、貴様は結局敵なのか? 悪い魔女ではないのか!? その姿はどうなんだ!? あの戦いの夜の事は!? 黒猫はどうなった? あ? あの隅で寝ている黒猫は? ああ?」
「落ち着け、ゴウベル、ゴウベル落ち着け。魔女が居なくなっちゃうだろうが、あ、魔女ではなくて、ええと、ああと、マロー司教がすごい睨んでいるから……ゴウベル、落ち着こうか……」
諦めの悪いゴウベルがルルに詰め寄ろうとするのを泣き虫が止める。
いいぞ、泣き虫。阿保をそのまま止めておけ。ルルに居なくなられるのは俺も都合が悪い。俺も加勢に行くべきか? 要は黙らせればいいのだろう? 殴ってしまえ。そうすれば静かになる。
「そうね……今こそ話す時なのかもね……いいでしょう、聞かせてあげる、ゴウベルさん。あの日の夜の事、その後の事、そのすべてを。いいわね? 黒騎士さん」
「な」
ルルが俺を見て確認を取る。
もしやすべて正直に話すつもりなのか? あの日の茶番のすべてを?
愚かな俺から始まった、あの、ただ流れのままに繰り広げた出鱈目の戦い、その裏の事情を?
それを知ったらゴウベルはどうなる? 光の戦士など茶番に過ぎなかったと悲しむ? いや、激高するのか? 馬鹿にするんじゃない、と。
どちらも。
おそらくどちらもだ。
奴は悲しみ、そして大いに怒るだろう。
体が光った、聖女を助けたと浮かれていた奴にとって、その心の痛みは計り知れないものになる。
そして俺はどうなる? 俺と、ルルは?
俺たちは嘘つき呼ばわりされるかもしれない。なんて迷惑な奴らだと非難されるかも知れない。それで俺たちはすべてを……俺たちは……すべてを……
……別に何も無いな。
元より失うものなんて無かった。地位も名誉も信頼も貴族のジルとして生きていた時のものだ。今の俺を縛るものは無い。財産も無い。都合が悪くなれば身一つで逃げればいいだけ。
ゴウベルの都合? 知った事か。勝手に傷つけ。
逃げる時にはルルに頼んで連れて行ってもらおう。そうだ。それだけのことだった。
難しく考えることもなかった。お前と一緒に居たい。そう言えばいいだけのことだった。そして様子を見ながら男の体を作ってもらえばいい。解決できない問題は先送りだ。
いいだろう。構わん。すべて話してしまえ。本当の事を。
俺はルルの目を見て、ひとつ頷く。
ルルは俺の目を見て、微笑みかける。
ゴウベルに向き合ったルルは口を開く。
「ひとつはっきりとさせたいのは、私は最初から最後まで黒騎士さんの味方よ。私はルル、黒騎士さんの友であり供の精霊。あの黒猫さんの体を借りて地上に降臨していたわ。そして今のこの体は悪い魔女のもの……話しましょう、あの恐ろしい魔女との魂と肉体を賭けた戦いの話を」
嘘だった。
いきなり嘘から始まった。
目と目でなんぞ会話出来ん。
何一つ通じ合っていないではないか。




