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「鉛中毒? 鉛と言うのはあれか? あの鉛か?」
「そう、その鉛」
「錬金術師どもが必死に金の塊に変えようとしている、あの重い金属?」
「そーね、その重い金属よ」
「星占術でいう所の土星の役割を持つあれか」
「鉛って星占術では土星なの?」
「知らんのか? こんなものは基本の基本だろう? 鉛とは土星、つまりサトゥルヌスのことを表す。それは凶事を指し示す星であり悪魔の星。父親殺し、子供喰らいの迷い星。農耕と時間を司る神クロノスの象徴でもあるのだ。土星が鉛であるのも鈍さや老い、肉体の牢獄に囚われる人の愚かさなどが鉛の性質と近いとされるからだ。かの有名な古代の賢者プトレマイオスが記した星占術の書、アルマゲストにもそう書いているだろう」
「へえ、そうなの? 知らなかったわ」
「知らないだと? ふふん、そうか、貴様でも知らないことはあるのだな」
ほぼ丸暗記であるが、俺が手に入れた本にはそう書いてあった。
聖職者のいる前で堂々と話せる内容でもないが、何でも知っているかのような言動をするルルの鼻を明かせてやった。ふはは。気分が良い。残った魚を口に放り込みワインを呷る。
塩気で引き締まった口内に甘いワインが流れ込む。
音を鳴らしてワインを嚥下する俺の喉に一同の視線が集中する。
骨の躰の時でも味そのものはわかったが、これほど鮮烈なものでは無かった。生きた肉体というのはすごいものだな。何もかもが新鮮に感じる。ワインなども前に飲んでいたものより甘く感じるくらいだ。気分が高揚する。これは酒のせいか? 骨の躰は骨の躰で良い所も沢山あったが、生きた肉体で味わう食事は格別だ。あとは女でさえなければ……く、忘れよう。今は。
「私が何でも知っていると思ったら大間違いよ。過大評価も困ったものだわ。知らない事など沢山あるし間違いも勘違いもするのよ」
「ふ、そうだな、そういえば貴様はいつも失敗ばかりしている。くく」
「そうねえ、失敗ばかりだわ」
対面に座る黒衣黒髪黒瞳の黒ずくめの少女はワインの入ったコップを端に置き、テーブルの上に肘を付き両手を組み、顎を乗せて俺を見る。
少女の口の端が上がる。
「ちなみにだけど黒騎士さん、その知識、一旦保留にした方がいいわね。アルマゲスト、最も偉大な書なんて呼ばれるそれは、膨大なデータを用いて、当時において可能な限り無理なく実在の天体の運動に合うような理論を構築した書物であって星占術の本ではないわ。土星と鉛を同一視する記述はちょっと見つからないわね。同じプトレマイオスさんでも星占術に関わるのはアポテレスマティカの方じゃない? 四つの書、テトラビブロスとか呼ばれるんだっけ? そこにも土星を悪魔の星だのとは書いてなかったんじゃない? あ、あと、農耕の神クロノスと時間の神クロノスを同一視してはいけないわ。同じ名前でもそれらは時代も場所も違う所で生まれた別々の神よ。黒騎士さんのはどこで仕入れた知識?」
「…………」
怪しげな商人から買った怪しげな書物からだとは言えない。
その怪しげな本に先ほど俺が言ったことがしっかりと書いてあった。アルマゲストも欲しかったが俺には手に入れられなかった。なんだそのテトラビブロスとは。それに農耕と時間の神はそれぞれ別のクロノスだと? 同じ名前で? 紛らわしいのも程がある。おのれ、あの商人め、適当な本を売りつけよって、見つけたらプレラーティ共々、酷い目に合わせてやる。
黒衣の少女が俺を見て笑っている。闇の深淵を切り取って張り付けたかのような瞳が俺を見ている。目つきが悪い所の話ではない。いたたまれない。恥を掻かせるつもりが逆に恥を掻いた。くそ。余計な事を言わなければよかった。ワインを呷る。甘い。甘すぎる。
「ルル、その口ぶりでは星占術にも詳しそうだな? 土星が鉛であることも知っていたのだろう。知っているのなら知っていると言えばいいだろうが」
「詳しくないし、占いそのものにはあまり興味も無いから知らなかったわよ、さっきまでは」
「さっきまで?」
「そう。知識や技術は必要になったら引っ張ってくるのよ」
「は?」
「意味がわからない? なら思い出す、と表現してもいいのだけどね。普段は忘れている事も多いの、というかねぇ、全部を覚えていたら人間やってられない。情報過多ね。身動き一つ出来なくなる。だから大体の記憶は預けている。そして必要になったら引き出す」
預けている。引き出す。
「タコとかイカとかの詳細な記憶は人間やってくのに必要無いでしょ、むしろ邪魔。肉体に精神は引きずられてしまうものだけど、精神に合わない肉体でも弊害が生まれるものなのよ。前にしなかったっけ? この話」
天を指したり自分の頭を指したりを繰り返すルルの指の動きを見ながら考える。
改めてコイツが規格外な存在なのだと思い出した。
魔女どころでは語れない。だが魔女以外の言葉を知らない。
テーブルを囲んで食事をとる者たち。プリュエルはいつもの茫洋とした表情で視線を漂わせ、マロー司教もゴウベルも泣き虫も慎重に様子を窺っている様子。
この場に俺たちの会話についてこれる者はいない。
だが俺は知っている。
あの空に浮かぶ巨大な瞳を。それこそが奴の本体だと。
俺は聞かされている。
今、目の前にいる少女の姿をした者は指人形に過ぎないとも。
あの時の角の生えた巨大な悪魔の姿も体に纏っていた蛇もすべては仮初めの姿、ただの指人形のひとつに過ぎないのだろう。姿は奴にとっては自在で、好きに取り出したり引っ込めたりできる。
ならば記憶は?
アレと今でも繋がっていて、情報をやり取りしている、そういう事なのか?
ルルにとっては記憶すらアレに預けることが可能で、必要になったら取り出すことの出来るもの。
どこかに本棚があり、まるで書物ように、そこに必要なものを書き込む、あるいは引き出して読む。
よくわからないが、そういうことだと理解した。
そういうこともあるだろうと納得も出来る。およそ人間のなせる技ではないが、それが出来たら便利だろうとも思う。
俺も思い出したくない失敗の記憶を預けたいくらいだ。さっきのやり取りとか。色々と。
再びテーブルに肘をついた魔女はふふふと笑う。機嫌が良さそうに笑う。
「ルル、何が可笑しい?」
「別に? 黒騎士さんが機嫌が良さそうなので、嬉しくなっただけよ」
「は? 俺が?」
女になって、この先が不安でしかないのに……いや、それを忘れて食事を楽しもうとしていたのを見透かされたのか? ついさっきのことだ。
前にも思ったことだが、こいつは人の心も読めるのだろうか?
「読んでないわよ、心」
「…………おい」
「黒騎士さんて顔に出やすいのよねえ。あ、これも前に話したかしら? 黒騎士さんが骨だった時から思っていたことよ?」
「骨に表情などあるか……」
「いや、死者殿は骨の時から……いえ、何でもないです……」
泣き虫が何か言いかけたのでひと睨みして黙らす。
「天使様の機嫌が良いのは伝わってきますぞ。先ほどの頬を赤らめて嬉しそうにワインを飲むお姿は、ちょっとこの老骨には刺激が強すぎるようで……」
マロー司教が気色の悪いことを言い出した。
「たおやかな黒髪に輝くような白い頬を赤く染め、最高級の紅玉よりもなお鮮烈な紅い瞳がしとやかに潤み……なんでもないですから睨まないでください死者殿……震えてしまいますよ……ふふ」
泣き虫が本当に震えながらも俺を横目で見ながら頬を染めている。なんだ。そのくだらん詩もどきは。なんなんだ。この全身を虫が這いずり回るような気色の悪さは。震えたいのは俺の方だ。
逃げたい。今すぐこの場から逃げ出したい。
これでは軟弱な兵士そのものではないか。
なってない。実になってない。
女か? 原因は女の体か? 女の体になったから、俺の精神も女のものに引きずられているのか?
ルルが居なくなっていなかったことでついうっかり安心してしまっていたが、もはや時間の猶予は無いのかもしれん。はやく男に戻らねば俺の精神がどうなってしまうのか。
恐ろしい。ひたすらに恐ろしい。
今は俺の男の体は無いと断言されてしまっている。
作らねば、無い、と。
裏を返せば作ればあるのだ。
男の体を女に作り変えてしまえるような奴だ。男だった俺の体を新しく作るのもそう難しくはないはず。
男の体を作ってもらうように上手く交渉せねばならない。この魔女と。
どういう話の持って行き方でそうなる? 魔女に男の体を作らせてやるにはどうすればいい? 探りつつ様子を見るしか無いのか? 時間が、時間がないのに。
「何の話をしていたか……」
「あ、話の続きね。ちなみのちなみにだけど、告発者を意味するいわゆる悪魔のサタンと土星のサトゥルヌスも同一視をしては駄目よ。それらも違うものだから。そもそも綴りも違って……」
「ええい、話が大きくズレているではないか! そっちはもういい、忘れろ! 呪いの正体が鉛中毒だとかの話はどうなった!? その話の続きだ!」
「黒騎士さんが脱線させたのになぁ」
「呪いの正体……」
プリュエルが喉を鳴らして唾を呑み、真剣に話を聞こうとして表情を変える。
その呪いのせいでプリュエルは魔女と呼ばれ燃やされるところだったのだからな、気になるのは当然だ。すまんな邪魔をして。ルルが悪い。全部悪い。
「んー、けど私としては、もう終わった話を蒸し返すようだから興味も無いのだけどねぇ」
「何が終わった話だ。それでもいい。俺は興味がある。話せ。呪いは実在したのか? あるのだろう? さっきの口ぶりでは」
「えー。どうしよっかなー、大した話でもないしー」
「天使様、どうか話してはいただけませんかな。天使様の救いの奇跡により呪いは解かれたのですが銀の聖女様はあの後もずっと気にしておられましたゆえ。呪いが生まれたのは自分のせいではなかったのかと」
気乗りしないらしいルルにマロー司教が請願する。
「何より救われた皆が知りたがっております。あの呪いがまたこの地に降りかかるのではないかと恐れている者も多くいます。多くの者が倒れたあの呪いとは何だったのか、誰が呪ったのかと、いくつもの噂や憶測も飛んでおり、中には焼けたノートルダム大聖堂そのものが神に見放され、渦巻く怨念によって邪悪に染まり、人々を呪っているのだのと言い出す者もいる始末。あの誰もが敬い、白く美しく荘厳だったノートルダム大聖堂に、今では恐怖の目を向けておるのです。それは悲しいこと。彼らに話して納得してもらえる正しい理由があれば、儂も知りたいと思いますのじゃ」
「んー、そーねぇ、どうしたものかしら」
「何をもったいぶっている、ルル。いや、つまり、呪いだのなんだのと恐ろし気な事を言っても、実は皆が倒れたのはただの鉛中毒だった、で終わる話だったのか?」
まぁそれなら続きを話すも何もないわけだが。それ以上は何もないからな。呪いの正体もなにもない。毒、以上、終わり、だ。
はぁ。と。
軽いため息を吐いた黒衣の少女は語り出す。
「失敗だったわ。最初から口に出すべきじゃなかったかも。なーんか呪いがありました、呪いは解かれましたでいいじゃないの…………あー、最初に訂正させてもらうわね。呪いの正体が鉛中毒というのは、ちょっと端的に括り過ぎたわ、正しくない。ええと、シンボルとなる場所で鉛中毒の患者が出た事によって生まれた集団ヒステリーが呪いの正体よ」
全員の頭の上に疑問符が浮かんだのを幻視したので俺が皆の代わりにルルに催促する。
「ふん、それでは誰もわからんだろうな。もっとわかるように説明してやれ」
俺もわからないとはわざわざ口に出して言う事ではない。
塩辛いが具が沢山入っていた野菜スープをすべて飲み干してワインを呷る。口の中をすすいで腹の中へ。黒パンもすでに腹の中だ。まだ物足らない気もする。まだ食べられる。しかし食料が乏しいであろうここの者に食い物をもっとよこせと言うのは憚られる。残った茹で豆をあてにしてワインを飲んで腹を膨らますとするか。
空になったコップを上げて替わりを催促すると僧衣を着た女たちが給仕を始める。
彼女らはプリュエルの話にあった、パリの町に戻って来てプリュエルを連れ出そうとした修道院の面々だろうか。
先ほどのプリュエルの話を思い出す。
パリの町でプリュエルに初めて会った時は、死体を集める気狂いの女かと思った。関わり合いになりたくないと。だが、こうしてゆっくりとした場で話を聞くと、あれはそれほどおかしなことではなかったのだと思う。
あの時のプリュエルも恐れていたのだ。
死を覚悟して、恐れながらも、死と静寂に満ちた町にいた。居続けた。
何度も思う事だが、盲目の女が一人、滅びを直前にした町で淡々と弔いを続けるなど、プリュエルの精神性は尋常ではない。
俺たちと関わったのは単なる偶然、ただの成り行きのはずだが、それで聖女扱いされるのも理解できる。それが呪いを放つ魔女などと言われて、プリュエルを聖女だと信じる者たちの腹の底に渦巻く感情はいかほどであったことか。
「火災で焼けたノートルダム大聖堂の屋根。そこには大量の鉛が使われていた」
ジャンヌを信じ、そして失った俺と重ね合わせて感傷に浸りかけた俺を、ルルの静かだがよく通る声が連れ戻す。
「鉛と言うのはね、人体にとって有害なのよ。毒ね」
「毒……」
「鉛の毒にやられてしまった人の症状は嘔吐や貧血、痙攣、呼吸困難。酷い時には失神する人もいたでしょうね。それに人が変わったようになってしまった人も。脳……頭の中を構成する成分が少し変わるだけで、人の精神は容易に変わる。血液も、胃腸や内臓の状態も、その人の思考に影響するの。体が変わるとはそう言う事よ。病で蝕まれた体に引きずられていくように精神の状態も不安定になる。落ち着きが無くなり、攻撃的になる」
「は、はい。そういう人が大勢いました」
「で、プリュエルさんのいた所。ノートルダム大聖堂の屋根に使われていた鉛が火災で焼け落ちて粉塵となって周囲に漂っていた。良くない環境よね。知らずに鉛の粉塵を吸っちゃったことでしょうね」
「ああ……やはり……わたしのせいだったのですね……焼けたノートルダム大聖堂で祈らせて欲しいと望んだのは私なのでございます。小さな祈りの場を作って頂き、そこに籠ってひたすらお祈りだけをして……私の世話をしてくださる方々や、話を聞いてくださる方々に危険が及ぶとも知らず……鉛の毒、それで皆が倒れてしまって……」
「皆じゃないわよ?」
「?」
「倒れる程の重度の鉛中毒患者は数人でしょうね」
「倒れられた方はもっと多く……」
「みんな、真似しちゃったのよねえ。倒れた人の真似」
「え」
ルルの言葉にプリュエルが絶句する。
真似をしたとはどういうことだ。
それはプリュエルに対して悪意を持っていた者がプリュエルを罠に嵌めようとでもしていたという事か? 俺の思った事と同じことを思ったのだろう。いつもは茫洋としたプリュエルの表情が固まる。
「あ、勘違いしないでね。これは悪意があったり、あるいは体調不良を偽装したりとかの問題じゃないのよ。これは、ええとね、人の性、性質の問題。人と言うのはどういう生き物なのかの問題」
プリュエルの強張った顔を見てか、ルルが手を上げて下げてを繰り返して制す。
「あくびが移る事って無いかしら? 誰か一人があくびをすると、それを見ていた人もあくびが出ちゃうっていう、あれね」
「あの、私は目が悪くて……」
「おっと、例題が悪かった。じゃあ、機嫌がいい人を見ると自分までなんとなく機嫌がよくなることって無いかしら?」
「それなら、はい、皆さまが笑っていると、私まで楽しくなります」
「人は周りの人を見てその行動を真似する性質があるのよ。意識にも上がってこない、無意識の領域の話」
あくびの話をしていたからではないだろうが、部屋の隅で黒猫があくびをするのを視界の端で捕らえる。のんきなものだ。安心しているらしい。今なら近づいて撫でることが出来るだろうか? いやそんな事をしてどうする。
「実際に鉛中毒の症状が出た人はそれなりに多くはいた。なんとなく気分が悪いとかの軽い症状から、意識を失うような重篤な人もね。けれどね、多くの場合、鉛の毒というのは時間をかけて体に溜まり、症状もゆっくりと出てくるものなのよ。急性の中毒患者に混じって、人格の変わる程の中毒患者が出たのが間が悪かったわね。衝撃が大きいものねぇ。見ているだけで不安にもなる。そういう人は、もっと前から鉛の毒に触れていた人なんだけど……悪かったと言えば、場所も悪かったわねぇ」
「ノートルダム大聖堂……」
「そう、ノートルダム大聖堂。その場所が持つ魔力、ね。いい? …………特別な場所には特別な力が宿る」
注目を浴びる黒衣の少女は、皆を見回して声を潜める。続けて。
「実際は、特別な場所には特別な力が宿っていて欲しいという、人の願望」
黒衣の少女はゆっくりと言葉を刻む。
「祈りの場所。神聖な場所。そして、非業にも焼けて、因縁の生まれた場所。死者の集まる場。弔いの場。悲しみの集まる場。そこでなら、奇跡は起きるし、呪いもあって、不思議ではない。どこかに呪う者がいるだろう。呪われた者がいるだろう。実際に倒れる者がいて、それは因縁のある場所だった。そこに理由が生まれてしまった。自分が倒れてもいい、理由」
黒衣の少女の言葉を遮る者はいない。激高する者も。普段はうるさいゴウベルを含めて皆、固唾を飲んで奴の話に聞き入っている。これはルルの話し方が上手いのか? その内容だけ聞けば、奴は奇跡なんぞ無いと言っているようなものだ。奇跡を願う、ただの人の妄想がそこにあると。神や奇跡を信じる聖職者に喧嘩を売っていると思われても不思議ではないのに。
「人は理由を求めたがる生き物よ。理由を知っているか知っていないかで心の安心感が大きく違う。人は安心していたい。安心し続けていたい。知らないものを知らないやで済ます事が出来ない。だから何にでも理由を探すし、時には勝手に作る。大事なのは説得力。納得できるかどうかであって理由が実際に正しいか正しくないかというのは、関係しない」
ルルの視線を受けてマロー司教がたじろぐ。
「倒れる人を見て、自分も倒れるんじゃないかと恐れ、本当に気分が悪くなり、そして倒れる。自分に納得して倒れる。呪われたのだから仕方ないと。実際に鉛の影響で体調も悪くなるのだから嘘でも作り事でもはないわ。で、倒れた人たちを見た、さらに多くの人が倒れ、そしてそれを見た人も次々と……鉛中毒に端を発する強い思い込みによる連鎖する体調不良騒ぎ、それが呪いの正体」
「そ、それでは、呪いというのは最初から存在しなかったのですかな? 誰も何も呪っていないと?」
マロー司教がルルに確認する。
ルルの話ではそうだ。そういう話だ。これは呪いの話でありつつも、呪いなどは存在しないという話。呪いの否定。
「しかし天使様……急速に騒ぎが収まったのは、その、天使様の声を聞いた銀の聖女様のお言葉によるものでありまして……」
「そーね。天使や聖女は都合が良かったわねえ。神聖な何かから何かを言われ、それに従った。それで自分が倒れなくてもいい説得力のある理由が出来た。呪いなんかよりもっと安全で、安心する理由。いわば祝福の力ね。場所をちょっと移動するだけで騒ぎがピタリと止まった理由はそれ。多くの人の体調不良は続いていたはずよ。けど倒れない。それこそが思い込みの力。これが何の発言力も説得力も無い子供がノートルダム大聖堂から離れなよと言っても、誰も従わなかったでしょうし、離れても騒ぎは簡単に収まることはなかったでしょうね、結局はいずれ収まるのだけど」
「天使様や、聖女様でなくとも、騒ぎは収まった……?」
「でしょうね。鉛中毒については金属加工の職人たちが詳しいんじゃない? そういった方面からもいずれ話は出たでしょうし、ま、迅速に収束してよかったよかった」
ルルの話に神の出番は無く、神秘や奇跡の出る幕も無い。
ただあったのは、鉛という毒と、人の習性のみ。それだけで呪いを説明していた。
「私だけが無事だったのは、その、わ、私が神の祝福を受けた、せ、せ、せ、聖女で……その」
「聖女? 関係無いわよ? 祝福も関係無いわね。プリュエルさんが倒れなかったのはたまたまよ。いえ、理由はあるわね。それは特別でもない普通の事よ。部屋に籠って朝から晩まで祈っている人と、焼け跡で活発に動いている人とでは吸い込む粉塵の量は違うわ」
「ああ……」
聖女だから。そういう理由で倒れなかったのはなく、ただ単に鉛の粉塵を吸い込む量が少なかったのだと、そう告げる。そこに神秘は無く、祝福も呪いも無く、ただそれだけだったと告げる。
恐ろしいことをしている。
酷いことをしている。
ふと、そう思った。
なぜそう思ったのかの理由は漠然としている。ただ、俺がルルにやられたのと同じことを、プリュエルやマロー司教は受けている、そう思った。
奴の言葉を借りるのならば。
白と黒しかない世界に、一点の赤を塗り込むような行為。
聖女が祈り、神が応えた。それでよかったのに。
そうじゃないものもあることを知れと、そう言っているように思えた。
神などはいないのだと、気づけ、まだ気がつかないのかと、そう責められているようで。
最初はどうか知らないが、今のマロー司教はプリュエルが奇跡の聖女であることに疑いを持っていなかったのだろう。あるいは、プリュエル本人もどこかで自分は特別で、祝福を受けた聖なる存在であるとでも思っていたのではないだろうか。病に罹らないのは自分が特別だからだと。
それが普通であると言われた。
彼らの不安や狼狽が伝わってくるようだ。
これはうかつに質問した俺が悪い。奴は聞けば答えるのだ。乗ったマロー司教も悪いが、やはりルルのことを知っている俺が悪い。ルルの奴が言い淀んだ時点で気がつくべきであった。
こんなものは彼らの為になっていない。
二人の信仰を試し、傷つけるような行為だ。
知らない方が幸福であるようなことは、世の中にはあるのだ。
話題を逸らさねば。助け船を出してやる。
「もういい。ルルよ、その辺で勘弁してやれ」
「へ? 何? 何でそんなことを私は言われるの? て、あ、うーん、これ、黒騎士さんの顔を見るに、どうもいつもの勘違いっぽいわね。早とちりは駄目よ。黒騎士さんは頭の中で浮かんだ結論にすーぐ飛びつく癖があるから」
どこが俺の勘違いだ、というか、そもそも俺の心の中の考えが読めるのか、そう言おうと思った時、プリュエルの目から大粒の涙が零れ落ちるの見る。
「そうですか、そうですか、私は特別な存在でもなく、倒れられていた皆さまと同じでありましたか……よかった、よかった、ありがたいことであります……ありがたい……」
「ん?」
「ぐすん。銀の聖女様は自分が体調を崩さないことを気に掛けておりましたからな、自分だけが無事で皆に申し訳ないと。お優しい方ですぐすん」
「んん?」
奇跡や神秘を否定されて打ちひしがれるどころか、何故か良いことを聞いたかのように振る舞う二人。プリュエルとマロー司教。
何だ? どういうことだ? 普通で良かった? 普通がいいのか?
「マロー司教よ、普通でよかったとプリュエルは言っているのか? 普通というのは、つまり、普通だぞ?」
「ぶふ、何その構文」
ルルは無視だ。
指で目元を拭いながらプリュエルは俺のいる方に向かって笑いかける。
「はい、黒様。お二方に出会って以降、すこぶる体調が良いのです。人ではない者になったのかと心配しておりました。私は、皆と同じが良いのです。普通が良いのです」
体調がいい……
そういえばルルの奴は人参スープに何か入れていたな。健康になるだけとか言って。あれで本当に健康になったのか。鉛中毒はどうなんだ。プリュエルはあの人参スープのせいで中毒にならなかったのでは……
「あ、人参スープなら鉛中毒は防げないわよ。免疫力を高めて栄養を足すだけの、そもそも大したものじゃないからね」
おのれ、俺の心を読むな。
「誰も彼もが選ばれたい、特別になりたいとかは思わないの。黒騎士さんみたいに、ぷ」
「マ、マロー司教は、どうなんだ、その、呪いは、神秘でもなんでもなく、ただの鉛中毒と思い込みだったと聞いて」
「よい話を聞けたと思いましたぞ。さっそく職人。金属職人ですな、彼らと連絡を取らねば」
「んんん?」
「ノートルダム大聖堂が誰にも呪われておらず、神に見放されてもおらず、ただの鉛の汚染があるだけと知って心より安堵いたしましたぞ。鉛が悪いのならば、鉛を取り除けば良いのです。皆にどう言って説明しようか悩んではおりますが。神よ、感謝いたします。ノートルダム大聖堂の修復に目途が立ちました」
聖印を切るマロー司教には後ろ暗い雰囲気は無い。本心から安堵しているようだ。
そうなのか? そういう受け取り方をするのか? 全部俺の早とちり。彼らは何も傷ついていなかった。奇跡や神秘を否定されて怒る場面ではないのか、ここは。
ルルと目が合う。笑っている。おのれ。ワインを呷る。お替りだ。
「飲み過ぎよ、黒騎士さん、もう止めておいたら? お酒は嗜む程度に、よ」
「放っておけ」
酒が回り始めている自覚はある。この程度の量で。これも女の体が原因か?
誰もが普通でない存在に憧れるものではないのか? 病に罹らない祝福とか、それこそ貴族連中ならばどれほどの金貨を積んでも手に入れたいと願うような力だろうに。これでは神に選ばれたい、特別な存在になりたいと願っていた俺が頭のおかしい奴だったようではないか。いや、そんなことはない。誰もが心の中では神に選ばれたい、普通ではない者になりたい、超越者になりたいと願っているはずだ。そうに違いない。おかしいのはプリュエルだ。間違いない。
「その、あー、黒髪の美しい、あー」
「私の事はルルと呼んでね、泣き虫さん」
「泣き虫は私の名前では無いのですが……ルル殿、踊りのペストという言葉を聞いたことがあります。あれも最初の一人が踊り出して、周りにも広がっていくものだとか。疲れても踊りを止めず、中には死ぬ者も出るらしいのだと。ペストが感染していくかのように広がっていくので踊りのペストと呼ばれるとか。やはりそれも集団ヒステリー? というものですかね? 伝わっている原因は毒、病気、あるいは……呪い……魔女のしわざ、とも」
「知らないわねぇ、調べてもないし見ても無いから……」
「あ、はい……」
すげなくあしらわれる泣き虫。いい気味だな。そいつは知らない事は知らないと言うのだ。
次の言葉を探している泣き虫にゴウベルが吠える。ずいぶん静かだと思っていたが、ワインを大いに飲んでいたようだな。かなり顔が赤い。
「泣き虫ぃ、魔女には自分が探りを入れるから自分に任せて黙っていろとか言っておいて、回りくどいぞ! もっと直接的に聞け。魔女! お前は確かに悪い魔女だったろうが! 魔女め、貴様は何者だ!」
「く、天使様のことをまたもや魔女呼ばわり、愚かなイングランド人! 今度こそ本当に追い出してくれるわ!」
マロー司教が激高する。
「待ってください! マロー司教! ゴウベルが、ゴウベルが馬鹿なだけなんです! イングランド人全員が馬鹿じゃありません!」
「なんだとっ、こら!」
胸倉を掴んてゴウベルが泣き虫を揺する。
「わ、う、うえ、出る、ワインが出る」
「さてと、騒々しいのは苦手だわ、黒騎士さんが元気にやっていけそうなのも見れたし、そろそろ引き上げどきかしらね。本当はさっきの続きの話をしたかったのだけど、というか、そっちこそ重要な本題だったのだけど、もういいかしらね……うん、いっか、黒騎士さん、幸せになってね? お馬さんは玄関に出しとくから、じゃ」
「待て、待て待て、ルル、待て、行くな、待て、席を立つな、座れ座れええ」
「行かれるのですか……名残惜しいです。もっとルル様のお話しを聞きたいのですが……」
「待ってくださいルル殿! 話が途中で!」
「魔女め、逃げる気か!?」
「天使様、今すぐ不心得者は追い出しますからもっと居て下され」
席を立ちかけたルルに一斉に浴びせられる言葉たち。中で一番必死なのは俺だった。腹の底から声が出たわ。
さらっとここに俺を置き去りにしようとしたか? 今、本当に消えてしまおうとしたか?
女のまま生涯を過ごす、女のまま幸せになる、そんなことが頭によぎり、一瞬で酔いが醒める。
「そうだ、本題、重要な本題とは何だ? 心残りだろう、そういうのは最後まで言った方がいい、ほら、ワインも残っているではないか、座れ、いいから」
「そ、そうです、知りたい、知りたいですルル殿、ゴウベルの阿保は無視してください」
「俺は阿保ではないわ!」
知らない方がいいこともある、ルルには迂闊にものを尋ねない方が良い、俺が学んだ二つを放り投げてまでルルを引き留める。どうなってんだ。もしかして俺は今、凄い岐路に立っていたのではないのか? 引き止めるか引き止めないかで運命が別れてしまうような。ここは俺の未来を決める場面なのか? のんきに酒を飲んでいる場合ではなかった。だが喉の渇きがワインを求める。一口だけ飲む。くそ、甘い。
「さっきの続きというと、呪いの話ですかな? 大聖堂の呪い騒ぎに続きがあるので?」
「呪いの話題は終わったわねぇ、言おうとしていたのは鉛中毒の話かな」
「鉛中毒……ルル様どうかお聞かせくださいませ」
「そうねぇ、これも大した話じゃないんだけど……」
プリュエルの駄目押しでルルは再び席に着く。
ほっと胸を撫でおろす。
部屋の隅では黒猫が体を丸めて寝ている。くそ、のんきにしやがって。悩みとかないのか、猫は。
時間の猶予はいよいよ少ない。何か考えねば。何も思い浮かばない。とにかく話しながらでも考えろ。
「ルルよ、鉛中毒の話も終わったのではなかったのか? 焼けたノートルダム大聖堂から離れて、皆が倒れないようになって、それで終わりだろう?」
「それで終わりでいいわ、過去の話。けど私の本題は次よ、次」
「次?」
「今の話、これからの話」
そういって黒衣の少女はテーブルからコップを持ち上げる。
「鉛による汚染は、現在進行形よ?」
コップを持っていない方の手でコップの中身を指さす。
皆に見えるように傾けられたコップの中には、燭台の明かりを受けて赤く光るワインがあった。
長くなっちゃった。
これもそれもすぐに脱線する黒騎士さん(女)が悪い。全部悪い。




