93
夢を見ていた気がする。長い長い夢を。
暗い湖の底から浮かび上がっていくような感覚と共に、ゆっくりと意識を取り戻していく。
瞼が重い。十分に寝たのだと思う。だがまだ寝ていたいのだろうか。俺は未だ、まどろみの中。夢魔から肉体の支配を取り戻せないでいる。
どんな夢を見ていたのか。
思い出せない。
夢魔の腕から離れると見ていた夢を忘れてしまうのはどういう理屈だろう。
黒猫に聞けば答えてくれるだろうか。
指の隙間から零れ落ちる水のように、見る間に消えて行く夢の残滓をかき集めてみるが、その大部分は失われて戻らない。
楽しい夢だった、ような気がする。
悲しい夢だったような気も。
そうだ。思い出した。最後に見た夢の映像。両親の笑う顔だ。
おぼろげな輪郭。あやふやな顔。だがわかる、二人は笑っていた。いや。苦笑していた。
そら見ろ、と。
なんとも微妙な顔で笑う父と母の顔を思い出した。
今ではもうはっきりと思い出せない、懐かしい顔。
事故と病で立て続けに亡くなる前の、生きている両親。その顔。
それは荒唐無稽な夢のようで、確かにあった過去の記憶のようで……
ああ、そうだ。
あの時だ。
物心がつき始めてしばらく。
始めて与えてもらった木刀が嬉しくて。父に筋が良いなどと褒められて嬉しくて。母に将来は名を残す剣豪にでもなるのかとおだてられて嬉しくて。
もう寝る時間だと言われても言う事を聞かずに木刀を振り回すのを止めなかった俺が、母親に叱られて泣いていた時の、両親の顔だ。
――親の言う事を聞かない子供には。
――悪い魔女が現れて。
――獣に姿を変える呪いをかけられてしまうよ。
だから言う事を聞きなさい、と。
そんな事を言われて、意味もよくわからないまま酷く恐ろしい気持ちになって泣いていた。
他愛のない、子供に対する躾、だったのだろう。
母とて本物の魔女には会ったことなどなかろうに。
まるで本物の魔女を知っているかのような口ぶりで語る母の話が恐ろしくて、いつまでも泣いていた。
ほら叱られてしまっただろう、と、そんな気持ちだったのか、それとも泣き止まぬ俺を見て、言いすぎてしまったと思って反省していたのか、あの時の両親の顔が、そんな顔だった。
それからの俺は悪い魔女に目を付けられては困るからと、剣術だけでなく馬術や学術などにも精を出すようになったのだった。
それも、両親を無くすまでだが。
父よ。母よ。
俺は本物の魔女と出会ったぞ。
奴は本物の力を持つ魔女ではあるが、本人曰く魔女ではなく。
恐ろしい力を持つが、恐ろしいだけの奴ではなく、なにより別に悪い魔女というわけでもないのだが。
最後に見たそいつの顔を思い浮かべる。ルル、少女、魔女。その輝かんばかりの美しい白い頬を薄く赤く染めて俺を見る、満面の笑みを浮かべた顔。
その昏い瞳に宿る、すべてを吸収せんと欲する、漆黒の闇。星の浮かばぬ夜空。
しかしあの時の少女の大きな瞳は少しだけ潤み、そこにいくつもの光が星の様に浮かんでいたように感じた。
やって来た道をなぞるかのように、あの時の状況を思い出していく。
人の言葉を喋る黒い猫を供とし、長い道を歩むかのような、記憶を巡る旅だった。
そこで知った、俺の罪。
黒猫曰く、俺とは別人の男の記憶。俺ではない男の罪。
黒猫の言う事に頭では理解できても、心では納得できないことがある。
別の世界の俺であろうが、あれは確かに俺だった。
どうしようもなく道を踏み外してしまった俺だ。
その最後。知りたいと願った果てにて。
俺が殺された理由が、未来からやって来た俺自身の望みだったと知って。
俺はやけになって。
いつものように。
全てがどうでもよくなって。
もう消えてしまいたいと願い、それが叶う寸前で放たれた奴の言葉。
――愛を受け入れて。
その言葉を受けた瞬間の感情を、どう言葉にして表そうか。
人が生きる意味。人が生まれる意味。
生まれた事に意味などなくとも。愛があって生まれるのだと。そう知った時の、あの感情を。
いや。認めない。
いやだ。認めない。
俺がそんな言葉ひとつで心が動かされる、などと。
は、何が愛、だ。
奴が愛の何を知る?
普段から人をおちょくるような事ばかりしおって。
奴の言葉はすべて信用ならん。疑ってかからねば大変な事になるのだ。
現に、俺の、未来から来た、あの忌々しい奴めの死体から作られた骨の躰の代わりによこしてきたのは、女の体で……
女、の、体……
半ば無意識に、右腕を動かして胸に手を当てる。
そこにある、生身の肉。その感触。
骨ではない。
そして、柔らかい。腕から伝わってくる、異様な感触。
それ以上に。
胸の方から伝わってくる感覚。
痛いとも言えぬ、心地よいとも言えぬ、言葉に出来ぬ、生まれてこのかた知らぬ刺激。
母の言葉が頭に木霊する。
――悪い魔女に姿を変える呪いをかけられてしまうよ。悪い魔女に姿を変える呪いをかけられてしまうよ。悪い魔女に姿を変える呪いをかけられてしまうよ。
「魔女ぉーーーーーっ! 悪い魔女おおおおお!!!!!」
「きゃ」
思い出した。完全に思い出した。
奴め。奴め奴め。黒猫の奴め。
何が奴は悪い魔女ではない、だ。いい加減学習しろよ、俺。
奴は確実に悪い魔女だ! しかもとびきりに悪い魔女だった! 奴は! 奴は!
女にされた! 女にされてしまった! 俺は!
覚醒し、瞼を開き、上半身を跳ねるように起き上げると、すぐ近くで聞こえてきた小さな悲鳴。
蝋燭の明かりのみが照らす薄暗い部屋。今は昼か? 夜か?
一番最初に視界に飛び込んできたのは教会の聖なる印。ここは祈りの場。聖書など、いくつもの聖具が飾り付けられて祭壇のようになっている。
「ぬ、ここは、どこだ? お前は……」
小さな悲鳴の主に視線を向ける。
状況を思い出した所で混乱は深まるばかりだが、とにかくあれから何がどうなって、今の俺はどこに居て、どうなっている?
偽ジャンヌたちは? リッシュモンやゴウベルらは?
何よりルルの奴はどこだ?
とりあえず今わかるのは、どうやら俺は祭壇のように飾り付けられたベッドに寝かされていたらしいということ。
そして体は……か、体は……考えるな……考えるんじゃない。思考を放棄しろ。考えると、震えて何も出来なくなる。骨の躰とはまるで違う、ずしりと重く、柔らかい肉。俺はこれからどうなってしまうのだ? 女として生きて? あ、駄目だ、震えてくる。考えるな、おい、俺。
俺の視線の向かう先、そこにいたのは金と銀で装飾された白い立派な法衣を着た女。
艶やかな銀髪と、白濁した瞳。
悲鳴を上げたばかりの口を開いたまま、茫洋たる表情を浮かべるその女には、見覚えがある。
印象深い、パリの町のプリュエル。
人づてに聞いた話では、今は銀の聖女、と、そう呼ばれる女僧侶。
「プリュエル、か」
俺に名を呼ばれて少しだけうろたえる女。
「は、はい……」
消え入るような控えめな声で応えるプリュエル。
パリで初めて見た時には顔だけでなく体中が傷だらけであったが、それは跡形も無く綺麗に消え去っている。ルルの治療を受けたせいだ。
髪もルルの奴に香油らしきものを塗られたままでいるかのよう。蝋燭のわずかな明かりにも反射して、銀色に煌めいて見える。
盲目のプリュエル。
パリから脱出する人の流れに逆らい、町に留まり死者を弔い続けることを選んだ、ただ一人の僧侶。
もう一度会いたいと思っていた、その相手。
目覚めてすぐの、まるで意図せぬ唐突な再会に、混乱する頭に拍車がかかる、が、決して態度には出さない様に注意する。
駄目だ。今の俺は弱っている。
肉体では無く精神の話だ。
弱っていることを悟られるのは駄目だ。何となくだがそう思った。こういうのは理屈ではないのだ。誰が相手でも弱みは見せるべきではない。
取り繕って声を発する。
「……久しいな、プリュエルよ。あれから、あー、何日だ? ずいぶんと色々とあったようだな?」
声は取り繕ったものの、とっさに気の利いた言葉が出てこない。
不意打ちのような再会だからな。仕方がない。
真っ先に思いついたのはパリで別れたプリュエルが辿ったであろう、その後の話。
ベッドフォード公から聞いた話だった。
実際とはかけ離れているが、一人残るプリュエルの献身によってパリの町が滅びの運命から逃れたのだと噂され、聖女と呼ばれるようになったと。想像でしかないが、その後も、ルルの奴に黒猫を押し付けられて、さらに奇跡を得た事でますます聖女扱いが酷くなったのであろうことは、今の彼女の姿を見ればわかる。彼女は高位の聖職者が着るような服を着ている。最初に見た時の服は聖職者でも末端の末端が着るような粗末なものだった。それだけでプリュエルが今、どういう扱いを受けているのかがわかる。
プリュエルの元に届けられた黒猫は今どうしているだろうか?
は……もしや……俺はルルによってプリュエルの元に預けられたのだろうか?
黒猫の様に? 同じ扱いで?
預けられたと言うより、それはまるで放り出されたかのよう。役目を終えた黒猫と同じように、捨てられた。野山に返すよりはマシだとでも言わんばかりに……
唐突に頭に浮かんだ、あまりにもあまりな、それでいて、あまりにもありそうな、むしろそれ以外が無いような答えに辿り着いて、絶句する。
やる。
ルルの奴ならば。そういうことを平気でやる。
「こっ、ここは、パリの町で、ま、間違いは無いか? 無いな? プリュエル?」
取り繕いも体を為さず、声が上擦る。自分の口から洩れる聞きなれない、いつもより高い声。女の声。
まずい。まずいぞ。
とんでもなくまずいぞ。
今後、ルルの奴に二度と会えない、なんて事態になれば、どうやって男の体に戻れるというのだ。
奴は最初から、本来の仕事を終えていて、この世界には用事は無かったのだ。それが理屈はわからんが俺の動かしていた骨の躰のせいで、再び現れて、今は、無くて、今は女で、つまり、もう完全に用事は無くて……
「はい、ここはパリの町で間違いありませんです。燃えたノートルダムの大聖堂の近くのお屋敷をお借りして住まわせて頂いております。お久しぶりでございます、天使様。いえ、黒騎士様。とても、とても色々な事がございました」
正解か? 俺が思った事で正解なのか? と、今度こそ体の震えが止まらなくなりそうだった時に、プリュエルは優し気な口調で答える。
「天使でないと……む、黒騎士……は、鎧、鎧は? 黒い鎧だ。剣は? 俺の剣はどこに……いや、プリュエル、俺がわかるのか?」
焦るあまり、何も考えず普通に話しかけていたが、俺は女になってしまったのだぞ? 男から、女に。いや、骨からだが。わかるのか? いや、違うのか。プリュエルはもともと目が見えない。最初の出会いは鎧も着ていた事だ。だから見た目では俺の変化に気がつけない。だが、声もかなり違うはず。
弱みは見せない姿勢は何処へやら。
完全に狼狽を隠せなくなった俺にプリュエルはその白濁した瞳で定まらない視線を寄こす。
「はい、黒騎士様。私は目がこの通りでありますので、昔からすべてが曖昧に映っておりました。けれど、そのせいなのか、勘が鋭い、などとも言われておりましたのです。黒騎士様は、確かにあの時の黒騎士様でございます」
そういえばプリュエルの奴は匂いで俺と黒猫を尋常な生き物では無いと看破していたな。それで天使だと勘違いしてしまっていた。果たして勘は鋭いのか、鋭くないのか。
「お声を聞くまでは、その、若干ですが、天空を舞う勇ましい黒騎士様は女の方であったのだろうかと、その、不遜にも疑問に思いましたが。声も違って聞こえますが。やはり黒騎士様は黒騎士様でありました。もともとルル様から聞かされておりました事でもあります。この愛らしい女の子は間違いなくあの時の黒い鎧の中の人だから、よろしくね、と……」
「ルルーーーーッ!! そいつだ! そいつは今どこだ? っつ……」
「はわ」
体に掛かっていたシーツを剥がして、立ち上がり、立ち眩みをする。
骨の躰の時には無かった感覚。
鼓動する脈を感じる。今の俺の肉体には熱い血液が流れているのを自覚する。一呼吸ごとに空気が肺を満たしていくのを感じてしまい、戸惑う。生前の俺は、これが普通だったのだ。骨の躰の方が異常。いつの間にか普通でないものに慣れていた。
骨の躰は曰くがありすぎて忌まわしい物ではあったが、あれはあれで性能は良かったのだ。
そこでようやく自分の恰好にまで気が回る。
視線を下、自分の身体に向ける。
膨らんでしまった胸と、無くなってしまったモノがある腰のあたりを隠すだけの、体の線が完全に浮き出た黒い下着。それだけを身に纏っている。ほぼ裸じゃないか。
定まらぬ視線で俺を見るプリュエルの視線が気になる。
実際の所、どこまで見えているのだ?
いや、どうでもいい。そんなことは気にしていられない。
「どこだ!? そもそも何があった? どうやって俺はここに来た?」
さっきから質問ばかりだが、今は男に戻れるか否か、その瀬戸際。それだけ必死だ。
俺の考えが正しければ、またしても厄介事を押し付けられたのはプリュエルの方で、むしろ彼女の方が聞きたい事だらけだろうに。
プリュエルが俺の矢継ぎ早の質問に答えるより早く。閉まっていた扉が勢いよく開いて、黒衣の少女が姿を見せる。何かから追い立てられているかのような動きで部屋に入って来る。
「あらまあ、目覚めて早々に元気な事ねえ、よく寝れたようでなによりだわ」
「ルルッ!!!」
直後、立て続けにいくつものことが起きる。
「ええい、魔女め! いつまでもはぐらかしおって、結局貴様の正体は何なのだ!?」
「ゴウベル、待って、その部屋は……」
「フシャーーーーーーーッ!」
黒衣の少女に続いて部屋に入って来たゴウベル、そして泣き虫。
ルルに近づこうとして、その腕に抱かれた存在に剥き出しの敵意を向けられる俺。
猫。
黒猫。
ルルの黒衣の色に混じって一瞬わからなかったが、その金色の瞳に隠そうともしない敵意を宿して俺を威嚇するのは、間違いなくあの黒猫だ。
イングランド兵に切り殺されて、その死をルルに利用されて、蘇り、そして別れた黒猫。ルルの魂が抜けて、今は普通の黒猫。
黒猫の威嚇で、ルルに向かう俺の足は止まる。
「な、なんちゅう恰好をしている! 骨の道化師……じゃなく、骨の、ええと、女め!」
裸同然の俺を見て頬を赤らめる大男。阿呆のゴウベル。嫌なら見るな。奴め、こんなに大きかったか? いや、俺が小さくなったのか? 視線の高さまで違う。じゃなくて。阿保もどうでもいい。
「ルルッ!」
「フシャーーーッ! フッーーッ!」
「!」
再びルルの元に近づこうとして、またもや威嚇されてしまい、動けなくなる。
どうも猫に威嚇されると足が竦んでしまうらしい。
途方もない力を振るう黒猫の印象が強すぎるせいだ。
今、黒衣の少女に抱かれる黒猫は、何の力も持たない普通の猫だと知っているのに、動けない。
なんたること。
猫ごときで。俺が。猫ごときで!
「賢い子ねぇ、ちゃんと黒騎士さんのことを覚えているようよ? 仲直りは自分でしてね、黒騎士さん」
黒衣の少女の腕に抱かれる黒い猫は耳を後ろにたて、俺から視線を外さない。口からは白い牙が覗き、いかにも恐ろし気だ。
そんな黒猫をなだめるかのように優しく撫でる少女。
俺が首を斬り落としかけたのは黒い鎧姿の時の俺であって、女の姿の俺ではないのだが、そういうのはプリュエルだけじゃなく、猫にもわかるらしい。どうなっている。
「ルルッ、貴様……」
「イングランドの方々! 天使様の眠るその部屋には銀の聖女様以外は立ち入ってはならないと、そういう約束であったろうがッ!」
「あ、いえ、その、マロー司教、これは、つい、だから」
「ああ、天使様、お目覚めですかな?」
近寄れないのならば、と、遠くからルルに話しかけようとするが、その間もなく、見覚えのある老人が部屋に入って来て、ゴウベルらを叱りつける。
白い法衣を着た老人は、すでに目覚めて立ち上がっている俺に気がつき、深く深く頭を下げる。誰に? 俺に。
言い訳をしようとする泣き虫は完全に無視だ。
マロー司教。
最初にパリに来た時にノートルダムの聖堂の窓を突き破って空から降って来た俺たちを天使と勘違いした老人。
イングランドに売られたジャンヌを不正に裁いたコーションとも揉めていた。
まだ俺の事を天使扱いしているのか。
「黒騎士さんの周りはいつも賑やかねえ」
「俺のせいでは無いわ……」
まるで悪意に満ちた魔女の様に、口の端を上げて笑いかけてくる少女ルル。腕には、やはり、まるでその魔女の正式な使い魔かのように、おとなしく撫でられている黒猫。これはどういう状況だ? わからない。
だが。
どうしたことだろう。
何一つとして状況はわかっていないのに、こうも安心してしまうのは。
悪い魔女なのに。
悪い悪い魔女なのに。
ルルの奴が消えていなくなっていない。それだけのことで山積みの問題もどうでもいいと感じてしまう。いや、いかん。これも奴の作戦かもしれない。
俺の体を勝手に女体化させた事の追及を逃れるための作戦。いや、どんなだ。
勝手に不安になって、勝手に安心しただけだ。俺は。
「その……黒騎士様。何があったのかとお聞きになりましたが……色々あったのです……色々と……」
混乱する状況の中、いかにも申し訳なさそうに、そう言って苦笑するプリュエルの声を後ろに聞きながら、さて、俺はどうやって悪い悪い魔女から女体化の呪いを解く約束をとりつければいいのだろうかと考える。
その悪い悪い魔女の腕に抱かれる黒猫が、魔女を守るかのように敵意を秘めたままの金色の瞳で俺を見ていた。
そうだな、先ずは魔女の使い魔と和解することからだろうか?
では、どうやったら猫と和解が出来るのか?
そんなこともわからない俺は、一体何を学んできたのだろう。
ラストパート、のはず。
年内の完結は……出来るかなぁ。




