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「ジェルマン様、一体何を後悔すると言うのでしょうか?」
そう聞いたのはユーザスと呼ばれた少年だ。短い、くすんだ金髪は彼女を連想させる。おっとりとした表情の少年だが、今は焚火の炎と酒で熱を持ち、白い頬を紅く染め上げていて、潤んだ瞳とあいまって妖艶さをも生み出していて……
……何を考えている、俺は。
思考が上手く働かない。パチパチと爆ぜる焚火の音がいっそう眠気を誘う。眠気だと? この身体でどうして眠気が襲う? 俺の内心の混乱も知らずに老騎士の話は続く。
「うむむ、道中、ずっと考えておったが、上手く言葉にならん、それでもいいか? 儂が思ったのはだな、彼女の死によって、バラバラであったこの地に住む者たちが、一つの意思でまとまるのではないかということじゃ」
「一つの意思ですか?」
「そうじゃ、異端の者、魔女だと判決が出て処刑されたとしても、彼女は教会によって聖女と認められたこともあるのじゃぞ? それを言う陣営が違うだけじゃ。陣営が違ったとしても、騎士を始め農民に至るまで、彼女を慕う者たちは多い。これからは非業の死を遂げた彼女の敵討ちとしての戦いが始まるのやもしれん。そうなれば追われるのは儂らじゃ。いや、そうやって追われるのはいい、良くないが、そういうものじゃ、しかし……」
老騎士はちらちらとワインの入った皮袋に視線をやる。ユーザス少年は苦笑しながら老騎士のコップにワインを注ぐ。アリセン少年は真剣な表情で老騎士の話を聞いている。老騎士の話は続く。
「教会が彼女を神の使いと言い、また教会が彼女を悪魔の使いと言った。どちらを疑えばいい? どちらかを信じれば、どちらかを否定するのじゃ。そうしたことは、これからもずっと続くのじゃろう。教会の言うことを否定していって、その先に何がある? 儂らはいづれ神の言葉まで疑うことになるぞ? その後に何が残る? わからんのじゃ。儂はそれが恐ろしい」
「ジェルマン様!?」
「や、や、口が滑ったわい。神よ、許したまえ」
少年たちの焦った声を受けて老騎士はコップを置いて手を組み神へ祈る。聖句を唱えて許しを乞う。
「むう、眠い、歩きどおしでへとへとなんじゃ。とにかく言いたいことはじゃな、アリセン、ユーザス、今は敵としてあろうとも、明日以降敵ではなくなることなどいくらでもあるということじゃ。大人は頭が固くなって、物を知らん若者に好き勝手なことを教えたがるもんじゃ。なんでも疑ってみるのじゃよ。若く、身軽なうちはふらふらと迷い、間違うかもしれん、しかし本当に守るべきものは何かを考えて、正解を導きだすのじゃ。故郷や家族にとって何が一番良い道なのかを考えるのじゃ」
老騎士は再びコップを持ち上げてこちらを見る。
「儂は半分くらいは土地に縛られておるからの、ふらふらはできん。ぶどうを育てておるし、酒の出来の良し悪しだけでもう精一杯じゃ。人同士で争っても畑の上に立てられる旗の色が変わるだけ。土地の良し悪しは変わらん。無意味な戦いには疲れた。貴殿も、長話に付き合わせてしまったの。さて再びの乾杯じゃ。このフランスの地に住まうすべての者に祝福あれ」
そう言って老騎士は幸せそうにコップを傾ける。
(うおー、ぱちぱち、万雷の拍手を彼に送ろう。彼には知性がある)
(……そうか? 陣営を鞍替えするかもしれないという話と、あとは酒を飲んだだけじゃないか?)
(幸せそうに、ね。ただ何気ない幸せを、ただ幸せと感じることのできる者は、それだけで知者と言っていい)
(そんな者は世の中にいくらでもいようが)
(いくらいてもいいの! 少なくとも理論をこねくり回して眉間にシワを寄せている者よりかはずっと賢い。彼の知性の証明はそれだけじゃないよ。いずれフランスが団結して国として一つにまとまる未来も、その時の少年たちの身の振り方をも考えて言葉にしている、そのついでに今は敵対者であろう君への牽制と懇願も兼ねてだ。身内の若者に話して聞かせる体で、だから今は襲わないでねってさ。さすが土をいじる人、ヒゲ、似合ってる)
(ヒゲに何の関係がある……)
「あの、ジェルマン様、それで本題は……」
二杯目も飲み干し、ウトウトし始めていた老騎士はアリセン少年の言葉にハッと顔を上げる。よだれが垂れたぞ。知者の姿か、これが?
「そうであった。してルーアンの町の様子は? なんぞ死者の軍勢が現れただの、爆炎とともに復活した魔女が暴れておるだの、そういった話は聞いたが……」
「爆炎とともに復活した魔女はすごそうだ」
おかしな話になっている。魔女、いや彼女は復活などしていない。
「復活した……女などはいないし、死者の軍勢もいない」
(黒猫よ、死者の軍勢は……いないよな?)
(ぅおい。君が不安にならないでよ。当の噂の出所さんが噂を信じちゃ笑い話だよ。死者の軍勢? いるわけないよ。あの町に出たのはひょろい骨一体、それで終わり)
(喋る不気味な猫もな)
(喋る愛らしい猫の間違いでは?)
「どちらもくだらない嘘、でまかせの類だ。ただしルーアンの町へ戻るなら十分に気を付けるべきだ。噂に踊らされて混乱している。町を守るべき兵士も逃げ出して治安は最悪だろう。あちこちで付け火がおきて略奪なども行われていたようだ」
「酷いか?」
「酷いな。おおかた、逃げ出さなかった兵士が強盗に鞍替えでもしたのだろう」
「頭から信じていたわけではないが、もし死者の軍勢が本当にいるなら子供らだけでも家に戻そうとしたが、治安がそこまで悪いなら同じか、うむむ」
「ジェルマン様!? 僕らだけでは戻りませんよ!?」
「そうです。行くなら3人で、帰るならそれも3人でお願いします」
「強盗にしろ死者の軍勢にしろ、恐れる僕らではありません。ジェルマン様の邪魔にならずに立ち回れる自信がありますから!」
(くっ、アリセン君、いい笑顔、その笑顔、守りたい! 視覚の栄養ゴチになりまーす。ああ、けど駄目、それフラグだから、そんなフラグ立てちゃうと悪い強盗に捕まってワカラセられちゃう、いやそんな展開も悪くない)
この黒猫の悪魔は俺が最初に思ったよりもずっと邪悪なものなのだろうか? そんな気がしてきた。
(それより黒猫よ。頭が働かん。俺はどうしてしまった?)
(ん? それって普通に疲れて眠いだけじゃないの?)
(何だと? 俺は眠くなるのか?)
(あたりまえでしょ。肉体的な疲れというよりは精神的な疲れってやつだね。疲れが溜まれば眠くなるし頭の働きも鈍くなる、あ、寝ている間は無防備だから気を付けてねー)
(なんでそんな面倒な身体に作ったのだ)
(おーいおい、睡眠だって人が人として在るための重要な機能なんだからさ、削らないよ。いい? 考えてもみなよ、多くの生物にとって睡眠というのは無防備になる状態だろ? 本当なら無くしたい。けど都合よく進化してきても睡眠というのは捨てられなかった機能なんだよ。それが必要だからだよ)
(くっ、わからん……)
(実は睡眠しなくてもいいように作ることも出来るんだよ? けどね、そんなことをしたら、君の精神は簡単に狂ってしまうだろうさ。人ではない何かになる。新しく物を覚えると頭が疲れる。疲れたら休ませる。自然の摂理ね。君はその身体になって間もないからね、別の領域にある再現された君の疑似脳には今日一日でだいぶ負荷がかかっていることだろう)
(……頭が、働かん、理解が、)
(特に私たちが今やっている念話モードが頭に負荷をかけているよね。慣れない事をすると大変)
(貴様のせいかあーーーーーっ!?)
わかった、話の内容はよくわからなかったが、確実にわかったことがある、黒猫の悪魔め、貴様が全部悪い。
「死者の軍勢がいるにしろ、いないにしろ、儂らはルーアンへ戻ってあの町の状況を確かめて来ねばならんようじゃの」
くらくらしてきた。眠い。
「とはいえ身体はへとへとじゃ、走って逃げることになるやもしれんからここで十分休んでいこうか。焚火の薪が足らんの、アリセン、ユーザス、ちとそこらで集めて来てくれ」
「はい!」
どこかへ行け、いや、俺が離れるか。ゆっくりと立ち上がる。足元が覚束ない。腰のあたりで猫がしがみついてるのか。歩きにくい。それでも毛布で全身を隠しながら馬の傍に近づく。
「おい、行くのか?」
薪を拾いに立っていたアリセンと呼ばれた美少年、いや顔などどうでもいいだろうが。眠い。少年に応える。
「ああ」
「名を明かせぬ御仁よ、それでは、の。もしいずれかの機会があれば、今度こそ自慢のワインを酌み交わそう」
「そうだな、機会があれば、そうしよう」
「どこに行くんだ?」
「用事がある。人を追っているのだ。コーションという名の司教。まずはパリへ行く」
「パリ?」
「パリの町と言えば、慌てた人たちが逃げていった先だの。聖職者もおったぞ。聖戦の準備をせねばならんとかなんとか」
「そ、れ、を、先に言えええ!!!」
「何がじゃ!?」
「いや! 聞かなかった俺が悪い! すまん!」
「だから何が!?」
何か忘れていると思っていたら、それだ。眠気が吹き飛んだ。馬の手綱を握る。
「おい、お前、最初から態度悪いぞ! どんな陣営の奴だからと言っても顔くらいは見せるべきだろう!」
「そうだな! 少年! 貴様の言うとおりだ!」
馬に飛び乗る。毛布は落ちないように片手で握っていたが、頭からは剥がれてしまう。休んでいた馬は嫌がり前足を浮かせて嘶く。髑髏の素顔は晒された。
「!?」
一拍。理解の出来ない事態に遭遇した3人の頭の中が空白になる様子を馬上から眺める。
老騎士は固まってこちらを凝視。ユーザス少年もまた固まってこちらを凝視。直近にいたアリセン少年は、呆然として、やがてへたり込んで地面に座り込む。
「これでよいか? 貴重な話を聞かせてもらった。ではな!」
馬の腹を蹴る。呆然としたままの3人を置き去りにして駆けていく。街道に戻って南東へ。
「愉快!」
俺を見て目と口を大きく開けて呆然とした3人の顔よ。
俺は神に背いて呪われた動く死者になったはずだ。おぞましい存在へと落ちたはずなのだ。ひとたび俺を見た者は恐怖して否定する存在。しかし何だ、それを心地よいとすら感じるのは? 肉と一緒に削げ落ちて無くしてしまった何か、俺を縛っていた何か、おそらく土地や名前、神への信仰すらからも解き放たれて、俺は自由になった。ふらふらと、自由に彷徨える存在に。
「クッ、マントが邪魔だ」
「マントじゃなくて毛布だけどねー」
いつの間にか俺の前、馬の背の上に座っている黒猫が喋りかけてくる。俺をこの身体にした悪魔。貴様に言いたいことはいくらでもあるが、とりあえず今は、
「兜をよこせ。もしくは全身を隠せる外套だ」
顔を見られる度にいちいち驚かれていては、やはりたまらんからな。
メリークリスマス!
読んでくださりありがとう!