89
吐き気を催すほどの邪悪な罪人を裁く者たちに正義はあるか。
『ギー・ド・レ、マリー・ド・クランの息子、ジル・ド・レ、禁治産者、本名、ジル・ド・モンモランシー=ラヴァル。そなたを絞首刑、後、その肉体を火刑に処す』
その男に罪を課す宗教裁判は、何から何までが筋書き通りといった具合に進んだ。
裁判に望んだ男の態度は、最初こそ余裕ぶっていたが、そこに居座る面々が、かつて何度か領地を巡る紛争をしかけてきた敵たちで占められているのを知ると、途端に態度を変え、声を荒げる。
『ふざけるな! 俺の領地狙いの亡者どもめが! 俺が何の罪を犯したか!?』
『異端の罪が確定した。神に反逆した者よ、もはやそなたの発言に意味は無いと知れ』
ブルターニュ公、ジャン5世の手の者。
前々から、俺、いや、その邪悪な男、ジル・ド・レが治めるアンジューとブルターニュの広大な地を欲していた者たち。
その裁判は、始まる前から結論が決まっていた。
邪悪を裁く者が、完全に清廉潔白の善なる者たちだと、誰が決めた?
『何が異端の罪だ! 俺が神を侮辱した、神に反逆したというのなら、裁判には神が出てこい!』
その男の言葉に耳を傾ける者はいない。鼻で笑う者、眉をひそめる者、その全員が侮蔑の視線を男に投げかけるのみ。
『そなたの後ろ盾であったジョルジュ・ド・ラ・トレモイユは失脚したぞ。リッシュモン卿に負けたのだ』
『何の話をしている!? 俺の後ろ盾など関係あるか!』
『そなたの領地で起きた少年誘拐、そして虐殺の証拠は握っている。そなたを守る者はいない。そなたの一族もそなたを見捨てたようだな? ふ。今、そなたを裁いても誰からも文句は出まいよ。これは厳正にして正義を示すことになる裁判だ。そしてそなたは正当なる理由によって裁かれるのだからな。くふ。そなたの領地の今後の話もすでに終わっている。もはや何も出来ぬよ。うふ、ふ、邪悪な儀式によって悪魔と契約し、人の皮を被って人の振りをする悪魔となった者よ。神を侮辱した罪の酬いを受けるがいい』
すべてが目論見通りになって満足の笑みを浮かべる男たちの表情からは、少年殺しという悍ましい犯罪が行われていた事を憂う様子が見られない。
欲に目が眩んだ者たちによって、ジルという男の全てが奪われようとしている。
邪悪な男が、裁かれ殺されようとしている、その邪悪さとは、無関係な理由で。
「ルル……、どうしてこいつらは、少年殺しのことを責めない……のだ?」
俺の言葉に力は無い。疲れている。疲れ切っている。
少年殺しの件も裁判に関わっている。関わってはいるが、大勢は占めない。あの男が裁かれる直接の原因は、聖職者を拉致、監禁したという暴行の罪、そして神と教会を侮辱した罪。
黒猫は黙して語らず、ただその金色の眼で裁判の様子を見ている。
喋らない黒猫に代わり、その世界の俺が、俺の気持ちを代弁するかのように答える。
『この裁判に正当性などどこにも見当たらぬ! 何故誰も俺の少年殺しの罪を、男色の罪を責めないのだ! あ? 俺がその理由を答えてやろうか? それは貴様らもやっていることだからだ! 聖職者は金と色欲にまみれ、貴族は平民を殺す事を何とも思っていない。貴族ならば何をしても許されると思っているからだ! 男色も! 殺しも! 俺のしている事は! 多かれ少なかれ! お前らもしていることだからだ! 神は今、何をしている!? ここに神によって裁かれねばならぬ者たちが大勢いるぞ! 神よ! 神よ! 見ろ! 見てくれ! 気づいてくれ! 罪人はここにいるぞ!』
『理不尽なことを……』
『自分の口で神を否定しておきながら神にすがるか……』
『狂っている……』
『魂まで邪悪に染まった男だ……』
『これ以上の侮辱があろうか……』
『罪を重ねてもしかたがないのに……』
何を言っても無駄。
ここはそういう場。
周囲の者たちが男を見る目は、もはや生きた人間を見るものではない。
『貴族ならば……何をしても許されるのでは……無いのか……何故、俺だけが、裁かれねばならないのか……』
そういう思いは、心の何処かにあったことは確かだ。領民であれば、その人生を好きに決めることが出来るのが貴族だと……だが、何の非も無い子供を殺す事は罪に決まっている。今の俺は、罪だと思っている。
いや。
あの男もまた、それが大罪だと、思っている。思っているからこその、神への反抗心の表れとしての、不徳の行為であったのだ。
神を心から信じるか、信じなければ強く反抗するか。頭の中にある選択肢がその二つしかない男の、愚かな選択だったのだ。
黒猫が口を開く。
「この場、この時代の、貴族や聖職者の人たちの間の常識ってやつなんでしょ。元々、病気なんかで命が簡単に終わりやすい子供に愛を注ぐ人は少数派の世界。子供に人権なんて意識も希薄そう。領民の子供を殺すことよりも、あるいは、自分たちがこっそりと宗教の禁忌に耽ることよりも、表立って教会に反抗した人が最低最悪の極悪人にされてしまうような常識の中に生きている人たち」
あの男に罪をこれ以上重ねさせないようにするためには、どのような理由で処分されても仕方がない。そうであって、いいのかもしれない。
少年殺しの大罪人は、少年殺しの罪によって裁かれるべきだろうがと、心の底からそう思う。だが、常識がそれをさせないのだ。
この世界では、神への信仰こそが、何より尊ばれる世界。そういう常識の世界。
俺の中の常識とは、少し違う。
「常識……常識って何だ」
そんな曖昧で、どこの誰が決めたのかも知らないもので、悪は滅び、正義は為される。
明確に、俺の領地こそが狙いだと言わんばかりの者たちの手によって、この世の正義が執行される。
それは、果たして正義か?
「常識というのは、線、よ」
「せん?」
「点と点を結ぶ、糸のような、線、それの集まり」
「…………」
頭の働きが鈍っているのは自覚している。だがそれを抜きにしても黒猫の言葉はわかりづらい。
「無人島で私と黒騎士さんが二人きりなら、糸は一本。常識はそれで決まる。お馬さんがいるなら、それぞれを結んで糸は三本になる。その糸ごとに、決まり事があり、約束事がある。経験からそれを学ぶ。こう言えば、こう言い返される。あーすればこーなるみたいな、ね。普段、意識しなくても、常に、そこにある知識、関係性」
俺が理解していない事を察してか、黒猫が具体的な話を始める。
無人島……懐かしい。
骨の躰になったばかりの当時の俺は、特に何も考えずに、そこにいた。
あらゆるしがらみから解き放たれた直後の解放感。新しい躰。人の言葉を話す黒猫と会話し、馬の世話をし、空を飛んでいた、まるで不思議の国に迷い込んだかのようなあの時間こそが、最も楽しく、最も貴重な物ではなかったか?
「点が4つなら関係の糸は6本。点の数が増える度に結ばれていく糸は、やがて膨大なものになるわ。人の脳が認識出来るものには限界がある。だからその一部分だけを切り取って見る。その一部しか見れない。人が小規模な集落を作って暮らしていた時代ならば、それで十分な機能だった。無用な争いを収めるために機能していた。けど……」
俺と黒猫の視界の中では、俺でない俺が無駄なあがきをする。不様に泣き、叫んで、それでもどうにもならないと知るや、命乞いを始める。
不様。
不快。
だが見なくてはいけない。この男の最期まで。それを俺が望んだ。知りたいと、願った。
「嘘を信じることが出来る、という極めて強力な特殊技能を獲得した人類は、本来なら到底ありえない数でまとまって暮らすことになった」
無人島で黒猫に見せられた事。宗教の成り立ち。その効果。人は本来、大勢で暮らすように出来ていないのだと。
「黒猫よ、嘘を信じてしまうことは……どちらかというと、駄目な技能ではないのか?」
嘘に騙され、嘘に泣き、嘘で失敗して……嘘は人を不幸にするものだと相場が決まっている。
「他のライバルを蹴落とす為の強力な武器よ? 権威という嘘を信じ込ませて大規模集団を効率的に運用させることが出来るからね。そりゃあもう破竹の勢いの快進撃で笑いが止まらなかったでしょうね。人類の身体そのものはそれほど変わっていないのに、知る前と、知る以前、それで世界を激変させてしまうくらいには強力な技能の獲得だった……そうね、知ってしまった、そう言い換えましょう」
知ることを選んだ人類。知恵の実。イブの子孫。
嘘を信じることが出来ると知って、嘘を吐くことを覚えた人の子。
「人の身体はそれほど変わっていない、だから限界も変わらない。もうね、複雑すぎる関係を細やかに把握するのは無理なのよ。手に負えない。だから簡単にまとめて語る。散らばる糸を括ってまとめるように。そこで使われるのが”常識”。コレ、当たり前だよね? から始めて問題が無ければ、そのまま本題の話へ。だけど……」
『俺の身体に触れるな! 俺のしでかした事が罪になるのなら、神が直接裁きに来るだろう! 俺を裁いていいのは神だけだ! やめろ! やめて! 嫌だ! 死にたくない! 俺はまだ死にたくない!』
引きずられるようにして、連れていかれる、俺でない、俺。
「問題はありまくりなのよねぇ」
自分が犯した罪の意識に苛まれ、常々死ぬことを望んでおきながら、いざ本当に死ぬとなったら死にたくないなどと言って駄々をこねる。
ああ、見たくない。見たくないが。これは、俺だ。
俺が死にたいなどと、願うものか。
「常識もまた人が創った虚構の中にあるもの。しかも、それぞれ個人が、それぞれの場所の一部しか参照できないものだから、それはそれは争いも多く起きるわけで……」
場面が変わり、処刑台の上にいる俺たち。俺たちのすぐ横には首に縄を括られている、俺ではない俺。
下には多くの民衆がいて、ひどく騒いでいる。
『領主様! ああ、むごい。領主様をお助けせねば!』
『ええい、この者はすでに領主ではない。この者は教会に盾突いて犯罪者となった者。神を蔑ろにする不心得者の背教者で……』
『関係ねぇ! 領主様は救国の英雄でいらっしゃるのだぞ!』
『そうだそうだ! 武勇に優れた勇者様なんだ!』
『く、何とかして騒ぎを収めねば……』
暴動にまで発展しそうな雰囲気に慌てる処刑人たち。
「ジルさんの人気、あるところにはあるのねぇ」
「……領主としては、まぁ無難といった所ではなかったか? 無理な税を掛ける事もなく、領地を巡る争いから逃げることはしない」
黒猫の言葉にそう返すが、それは俺の生きていた時の話である。
だがこの世界の俺も、自分が治めている地の民衆から搾り取ることは無かったようだ、金に困って領地を手放そうとも。どういう矜持だ。いや、元々、税の取り立てなどといった、その手の領地経営は信頼出来る他人に任せていた事だし、最初から興味が無かったというだけの話か。
今のあいつの頭にあるのは錬金術で金を生み出す事だけだ。より性質が悪い。
「人が違えば常識が違う。ズレる。だから……」
「争いが起きると?」
「ええ」
まさに一触即発の雰囲気であったが、処刑人の次の言葉を聞いて、民衆は押し黙る。
『よく聞け民衆よ! この地に居る者で、もう知らぬ者とていないだろう。この残忍な男は悪魔召喚の儀式を行い、か弱き平民の子供を次々と誘拐し、不埒な行為に及んで、その果てに殺し続けた者である! 証拠も証言者も多く、これは明白な事実である。ここに神に誓いて宣言する、悪が、その為した悪によって裁かれる。これは真実の言葉である!』
そういう噂が流れていた町で、権威ある者から、それが真実であると告げられる。
『そんな……』
『あの領主様が……』
当然、民衆は信じる。
しかも、それは、嘘でも出鱈目でもなんでもない、この世界の俺がしでかした揺るがぬ事実なのだ。
そういう理由で、裁かれねばならない男だった。
「とっさに出た演説にしては上々かもね。貴族や聖職者の人からはあんまり問題視されなかったようだけど、平民の子供を殺すっていうのは、平民の人には、よく刺さるみたい。そういう常識の世界で生きているから」
黒猫の言葉に返答が出来ない。
処刑人が次々に投げかける言葉によって、民衆の態度が一瞬で変化していく様子に目を奪われたからだ。
あの邪悪な俺がしでかした残虐な行為を民衆に言って聞かすことで、蝋燭の火が消えるように騒動が収まった。
当たり前の話、なのか。領民が領民殺しを最低で最悪と思うのは。
これで争う理由が無くなった。
この処刑台に登っているのは、裁かれてしかるべき悪人、そのものなのだと知った。
擁護する者はいない。その男は自業自得で裁かれる。
『しかもこれは、一人や二人の話ではないぞ!』
『りょ、領主様は何人を……』
『その邪悪な手によって殺された無垢な魂、その数、ひゃ、千……千五百人にも上る!』
『ひっ……』
『せんごひゃく……』
民衆から悲鳴が上がる。
「千五百?」
「へぇ、すごいなー、せんごひゃくにんも殺したんだー」
「おい、黒猫よ……俺は、いや、あいつは、そんなにも殺して……」
「なわけないじゃない。何を恐ろしいことを聞いた、みたいな態度で振るえているのかしら。一緒に映像を見て来たでしょ? 君に見せたもの、あれで全員よ。全員分を、見せた。彼が殺した子たち、全部よ」
「し、しかし、あいつは千五百と……」
「とっさについた嘘よねー。被害者の数は大きければ大きいほど衝撃は大きいわけで。ちょっと常識で考えてみて、ほんの数年という短い時間で、人を多少使ったとはいえ個人が、人同士の繋がりが強い世界の狭い町で、真偽不明の噂にしかなっていない範疇で手を掛けることの出来る人数。流石に千五百は行かない」
「あいつめ、俺の、じゃない、あいつの罪を増やすようなことを言いおって」
壇上で調子よく口をすべらせる男を、歯ぎしり混じりで睨みつける俺と、処刑場にいる映像の俺。
「正確な人数が必要かしら? 人数の多い少ないで彼の罪が変わったりする?」
「それは……」
あまりに誇張され、増やされた数字に、少なからぬ憤りを感じると共に、そんな憤りを感じることも無意味だと思ってしまう。人数ではない。多い少ないではない。罪は罪。ただ、正確な数字ではないだけで……
「人は嘘を吐くのよ、そして信じてしまう……」
嘘を信じる事が出来るのは、人の手にした武器であり技能だと、そう語った口で、黒猫は悲しそうに語る。信じてしまうのだと。
『ああ、民衆よ、ただただ恐怖せよ、ああ、かの者の残虐さは、抵抗も出来ぬか弱き少年の股を強引に開きて、嫌がる子供の『おいっ!』……哀れな犠牲者の魂に救いがあらんことを……』
途中で他の者に止められて、ようやく処刑人の口が止まる。
まるで見て来たかのように語る男に殺意が湧くが、すぐにしおれる。それに近いことを、あの男はしていた。
あの男もまた同じ考えであったのか、ただ力なく俯き、処刑人の言葉を黙って受け入れる。
よく回る舌を持った処刑人は語る事を止めた、だがその時には、下を向き、嗚咽し、涙を流す民衆ばかりになっていた。いや。
『嘘だ……嘘に決まっている……信じるものか……』
中には信じない者も。
『本人の口から聞くがいい。なぁ、悪逆なジルよ、汝は子供を誘拐し、手に掛けたか?』
『……ああ。事実だ。……そんなには、殺してないが』
『そんな!』
『悪魔召喚の儀式をしたな?』
『……それも事実だ……結局最後まで悪魔には会えなかったがな……プレラーティはどこに居る?』
『ああ、あいつか。プレラーティとかいう錬金術師もまた捕まっている。貴重な証言者の一人だ。奴は汝に脅されて無理やり悪魔召喚の儀式をしたが、神に反逆する意思がないために、わざと間違った方法で儀式をしていたのだと言っているが』
『!?』
『脅されていた自分に罪は無いと言っているらしいな? まぁ出鱈目な儀式とはいえ悪魔召喚を行ったのは罪、そ奴の終身刑は免れぬ』
『プレラーティぃぃぃぃぃぃぃぃ』
『ひいっ!』
地獄の底から響くような声を上げて唸る男から後ずさっていく処刑人。
『裏切ったなぁぁぁぁぁぁぁ、地獄の、地獄の底まで追い詰めてやるぅ、呪ってやる、呪ってやるぅ、があぁぁぁぁぁ』
手入れのされていない髪を振り乱し、歯を鳴らしながら暴れようとする男に恐怖した処刑人は絶叫混じりに告げる。
『執行ッ! 処刑執行ッ! い、今すぐだッ!』
『何もかもが奪われる! 神よ! 俺から何もかもを奪ったな! ジャッ……』
最期の言葉を言い終えぬうち、男を支えていた木の板が落ち、処刑は完了される。
言いきれなかった言葉は、ジャンヌに向けたものだったろうか。道を踏み間違えたあの男の気持ちは、今の俺にはわからない。
『し、死を確認して後、死体を火刑に処す!』
『そんな! そこまで!』
『そこまでの事をしたのだ! 邪悪な者の死後の復活は許されない!』
『ああ、そんな、そんな』
男の死体は下に降ろされ、薪に火がつけられる。
処刑場に嗚咽が充満し、再び反逆の意思となって燃え上がりそうになる。
『減刑を! 減刑を望みます! 今の彼がどうであれ、彼は確かに救国の英雄であったのですから! どうか、どうか!』
前に出て叫ぶその男に見覚えがある。
古くから俺に仕えてくれている男。政治や領地経営のなんたるかも知らぬ俺を支えてくれてきた男。ジャンヌの処刑の後、あの俺が放逐した男。
その男が、涙を流しながら処刑人にすがる。
『救われます! 必ず彼の魂は救われます! だから! どうか、彼の身体を焼くのだけは!』
言葉に呼応するかのように、祈りを始める民衆たち。その男に、そんな価値など無いのに。
『このままでは暴動に……』
『ちっ、仕方がない……』
男の半分焼けた死体を掻き出して火を消す処刑人たち。
『これをもって、悪逆の徒、ジルの処刑を完了したものとする!』
『神よ……神よ……お聞きください、主人を無くした愚かな私の祈りを捧げます、主人を見捨てた愚かな男の願いをお聞きください。どうか、どうか主人の、ジル様の魂をお救いください。どうか。どうか』
顔もわからぬ程に焼けて黒ずんだ死体の前で手を組み、祈り、跪く男の肩を掴もうとするが、すり抜ける。映像だ。別の世界の、過去の映像。知っている。知っているが、彼に触れたい。掴みたい。何度も手を伸ばし、何度もすり抜ける。
目立たない男だった。物心ついた時より傍にいて、いるのが当然になっていた。
「お前じゃない! 愚か者はお前じゃない! 愚か者はッ! あの愚かな俺は、何を捨てた!? 本当に大切な者は! 誰だ! 捨てて、結局何を手に入れた!? 何が奪われた、だ! 自分から捨てておいて! 愚か者、愚か者が」
乾いた髑髏には涙も浮かばぬ。涙を流せないことが、これほど辛いことだとは。
「ルルッ! ルル―ッ!! 終わった! 終わったぞ! あの男は死んだ!」
一人の愚かな男の世界が、終わりを迎えた。
「お前はどこだ! この世界で、お前は今、どこにいるッ!」
揺らされ、乱され続けた俺の心は、そろそろ限界だ。終わりたい。休みたい。いつだ。いつ終わる?
言葉を荒げる俺に比べて、黒猫は石畳の上、静かに佇む。
「それは、未来からやってくる」
「未来?」
「ここから続く、この世界のことを、少し話しましょう」
「何を」
黒猫は表情を消し、言葉に感情が籠らない。その異様さに圧倒されて、言葉が続かない。
「彼は死んだけど、ジル・ド・レの物語は、ここから始まる」
「彼の死を利用する者によって」
「彼の行為は言葉にされ、文字にされ、記録されて、人々に知られていく」
「最初は揺れる木の葉のように、静かに」
「やがて人同士が安易に繋がり、安易に情報を共有できる時代において、それは、嵐のように広がっていく」
「多くの人の目に留まる。多くの人の、虚構の世界の中に、ジル・ド・レが組み込まれる……彼の恐怖の物語が」
感情が籠らない癖に、どこか歌うようにして語られる黒猫の言葉たち。黒猫の金色の瞳が俺を見ている。猫は俺にやさしげに声を掛ける。
「上を見て」
「うえ……」
上を見上げた黒猫に釣られて、俺も見上げる、と、そこには、
「!?」
目……目だ。瞳。空一面を覆う程に、巨大な瞳。
透き通っていて、どこまでも、巨大。
「今回、無理やり視覚化してるけど、本体は情報であり……まぁ、そうね、世界の全てを把握し、理解し、支配したがっている存在を、わかりやすく”形”にすると、そうなる」
ただただ圧倒されて、呆けたように見上げるしかない。
空に浮かぶ巨大な瞳は、ゆっくりと収束し、闇を纏ったように黒く染まり、先ほどよりは小さく、だがそれでも巨大な、一つの”形”になる。
「世界を見て、把握するための、目。物事を理解するための脳と、それを入れる箱。そして、干渉のための触腕」
町の人々が動きを止め、世界は灰色に包まれる。
「時が、止まった、世界……」
「時代が変われば人が変わる。人が変われば常識が変わる。ここから続く後の世界において、子供殺しが凶悪な犯罪だという常識になった世界の膨大な人たちに知られ、悪魔と恐れられ、恐怖され、忌み嫌われて、その感情の揺れから世界に良くない歪みを与えた男、その歪みの元を、消しに」
黒猫が俺を見て微笑む。
「会いに来たわよ」
空に浮かぶ黒く巨大な瞳が、俺を見た。
このショタコンどもめ(ニッコリ)
黒猫の正体はベアード様だった!?




