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人はどこまで愚かになれるのか。
一歩ずつ、階段を降りるように。
いや、崖を滑り落ちていくように。
どこまでも堕ちて行く。
いつまで続く?
どれだけ殺す?
誰があの男を止めるのだ?
男は少年殺しを止めない。
時間を経るごとに、その悪辣な行為は過激さと、口にも出せぬような醜悪さを増していく。誰も止める者はいない。男の周囲に侍るのは、下品な笑いを浮かべる男たち。愚かな行為を諫めるどころか、認め、支持する者たちのみ。悪人の周囲には悪人が集う。そいつらが狭い世界で互いに影響し合い、より一層、不徳の快楽を得ようとして、狂っていく、堕ちて行く。
人はどこまで愚かになれるのか。
『……神よ。ああ、神よ。俺の呼びかけが聞えているか? 俺の姿は見えているか? 神よ。応えてくれ……おお、神よ』
崖を転がり落ちるようにして堕ちて行った愚かな男の姿を、見ている。
俺は今、それを見せつけられている。
『神よ、俺は正しくない行為をしている……死者の肉体を、弄んでいるぞ……尊厳を、破壊している。神よ、俺の声が聞えているなら……今すぐに俺を罰しに来てくれ……』
行為の後、血に濡れた手を組み、跪き、涙を流しながら、祈りの部屋の壁に掛けられた聖印に向かって懺悔する男の醜悪さを、何に例えられようか。
俺の知りえた人の中で、もっとも愚かな男。
『ああ……つらい、つらいよ、神様、もう終わらせてよ……神よ』
ましてや、それが、そうなってしまっていたかもしれない俺なのだと。
どこかの世界で、確かにそうなってしまった俺なのだと。
『……今すぐこの苦しい世界から解放してよ、神よ……なぜ俺はこの世に生まれたのだ……その意味を、教えてくれ、答えをくれ……苦しいよ……神よ、全知全能にして世界を創った神よ……この世界は苦しみで満ちている……、何故こんな世界に創ったのだ……おかしいだろ……ああ、苦しい……つらい……』
愚か者の嗚咽混じりの告解は、いつもこの言葉で終わる。
『……死にたい』
「死ねッ! 今すぐに死ねッ!!」
跪く男の首から上を吹き飛ばそうとして蹴とばすものの、当然すり抜ける。わかっていても、身体が動く。どうしようもない。
外道な行為と知りつつも犯し、殺め、それを己の快楽にした男。間違いを自覚しながらも殺し続ける男。自分の手で自分の首を絞めて苦しくなっている。そのくせ、神や世界のせいにして、最後は死を望むなど、どれほど幼稚な考えなのか。
死んでしまえ以外の言葉はない。
「ルルッ! こいつを殺せッ! 消せッ! いやッ! 俺の手で殺させろッ! もう我慢もならん! コレの存在を許すなッ! 魂の一片たりとて世界にあっては駄目な存在だッ! 消せ! 跡形もなく! 俺に殺させろ! それが出来たなら対価などいくらでも払うッ!」
「はぁ……ぁっと」
激高する俺に対比して、黒猫の方は嫌に冷静だ。他人事、なのだろう。
軽いため息をついて、じっと俺を見る目には、どこか嘲るような視線が含む。
「ちょっと小言、いいかしら?」
「あ゛? 小言だ?」
「私は今、ね、君の知りたい、ただ知りたいという言葉に心を動かされて、ここにいて、面倒な作業をしているわけでね、だから……期待を裏切らないで欲しいわ」
「何? 期待だと?」
何を言いだすのか。俺が何を裏切っている? 黒猫が俺に期待するものなど、想像もつかない。
「情報というのは、君を気持ちよくするものじゃない」
「は?」
「中には嫌な気分にさせるものだったり、意味を感じないものだったり、色々あるけれど、情報は情報、ただの情報、ただの知識。情報、それのみには意味がない。そこに意味を持たせるのは自分なのよ。ねぇ、黒騎士さん、ジル・ド・レとしての記憶を持つ、今は名無しの黒騎士さん。君は今、怒りたいから怒っている」
怒りたいから怒っている。
それだと、まるで俺が、考えも無しに駄々をこねる子供のようではないか。
違う。
怒るべくして怒っている。その理由がある。あの愚かな男に向かう俺の怒りは正当なものだ。
「黒猫、許されざる者に怒りを持つことが悪い事か?」
「そこはどーぞお好きにやって。けど、情報取得の場で怒りに身を任せていると、正しく物事を見れなくなるわよ? ちょっと冷静になって?」
「冷静になどしていられるか。それに、何だ、コレは。俺を気持ちよくするどころか、ただただ不快にさせているだけではないか」
「感情を揺さぶられるのは快楽よ? それは怒りも含まれる」
「そんなことは……」
無い、と言いたいが、そう断言できる理論を俺は持っていない。だが、怒る事すら快楽なら、世の中は快楽だらけではないか。
「娯楽として知的欲求を満たす行為は否定しない、けど、ただ快楽を得るための知識取得を続けていったその行きつく先は、自分の望むものだけで構成された閉じた世界。ぐるぐると同じ場所を巡るだけの世界。それはそれは幸せに満ちた世界にはなるのでしょうね。けど、その世界には……先が無いわ」
黒猫は一旦区切り、続ける。
「先が無い、未来に続かない。間違えることも、失敗することも無く、ただただ同じ正解を繰り返し続ける。すべてが調和して安定した世界。その世界には自分一人しかいない。調和を乱す他者がいない。そんな……寂しい世界」
「何の、話だ……」
「そこから抜け出すための鍵は好奇心って奴よ。ただ……知る事は……恐怖を伴う。好奇心、猫を殺すってね」
猫。黒猫。話が今一掴めない。何を伝えようとしている?
黒猫は続ける。
「物を食べるのは自己の身体を造る為。情報は自己の世界を創るための食事。時には毒のあるものに当たることもある。十分に恐れて、気を付けて、そして真摯に取り組んで」
情報は自己の世界を創るための食事、それは前にも聞いたことがある。
「ただ知りたい、君の口から出た、その言葉の意味を、もっと考えて」
知りたいと願ったのは俺。だがその意味まで考えたか? いや考えるまでも無い。知りたいは知りたい、だ。
「だから、苦しくても、辛くても、知る事を選んだ君には冷静でいてもらいたいのよ。それが未来に繋がる鍵。廻り続ける道を外れて次に行くための手がかり。よく考えて」
黒猫は、一転して、憐れむような瞳を俺に向ける。
声を落とし、物憂げに言葉を放つ。
「あの子、彼女……知恵の実を食べたイブのように、罪を背負わされたくなければ」
「!?」
それは聖書にある、楽園追放。
禁断の実を食べた、最初の女。
前に俺は黒猫こそ原始の蛇ではないかと疑った。イブに知恵の実を食べるように唆した者。最古の悪魔。
「もしや……」
いくら本人の口から否定をしようが、否定できない事実もある。
過去の黒猫の言葉の数々。見せた力の数々。
人に寄り添い、人を理解し、人の言葉を操る悪魔。超越者。冒涜の蛇。
同じ場所を巡る幸福な閉じた世界。楽園。そこからの追放。
人の祖先、その最初の最初。イブを知り、あの子などと言い、イブを哀れむ者など……
「やはり……本物の……蛇、なのか?」
言葉がかすれる。空気が重い。神話の世界に、俺はいるのか。
「さあて、どうかしらね、ふふふ……と、ここで曖昧なままにしておけば、あとは勝手に妄想を膨らまして、勝手に勘違いしてくれるのでしょうね。他者の思考の誘導なんて簡単なもの。赤子の手を捻るが如し、よ。だからこそ誰かの言葉なり映像なり、とにかく情報には注意して当たって欲しいものね。嫌でしょ? 騙されるの」
「……おい」
どこだ? どこからどこまでが嘘で、どれが本気の言葉で、何が真実なんだ。
「黒猫……いや、ルル……ルシフェルというのは、もしや本当に貴様の名で……」
「ないない」
猫は前足で器用に腕を振る。どうなっている、猫の身体。いや、どうでもいい。
「ルシフェルさんとは面識がございません。というか、実在する人なの? まぁいいわ。感情よりも先に、よく考えて欲しいって言いたいだけ。感情が先にあると、自分の好きな情報や結論に飛びついちゃうし、それで満足しちゃうからね。おおむね、そーゆーのは事実とはかけ離れていたりするものよ」
先ほどまでの深刻な表情とは一転して、今度は明るく振る舞う猫。
「感情を持つのは否定してないからね。怒るのも楽しむのも結構な事よ。けどその時にも心は中立に。じゃないと後で後悔をするはめになる。あの時、どうして俺はーって頭を抱えることになる。偏り過ぎた右でも無い、左でも無い、そんな中立でいるのは難しい事、心をどこかに固定しちゃうと、動けなくなる。環境によって酷い偏りが出ちゃうから、フラフラとしているのがいいかもね。いい加減とか、適当とか、そういう心の持ちようも、あるいは中立でいるためのスタンスかもね。だってほら、フラフラしてると右にも左にも行けるでしょ。自由って、そういうものでしょ。あ、さっきのは、やたら意味深っぽいような、それっぽいような事を、ただ口から出任せで放っただけだからね? 考えてもこれ以上のものは出てこないからね? けど、どう? ちょっとは冷静になれたかしら? ただの情報を、ただの情報として受け入れる心構えは出来た?」
いたずらが成功したような顔をする猫。いつもの表情。
肩から力が抜けるのを自覚する。
気がつけば忘れていた。黒猫の掴み所の無い話に気を逸らされて、今はあの男に対しての怒りは、いくらか収まっている。
冷静かと聞かれれば、いや混乱しているが、と返すのだが。
「俺を冷静にさせるのが目的で口から出任せなどと……よく考えるのは貴様の方だ。貴様の言葉はいちいち洒落にならん」
「そうねぇ、ストレートにこう言えば良かったかしら? 記録映像に本気で怒っているの、馬鹿みたいだからやめて、って」
「……それだと喧嘩が始まるな」
間違いない。激高に激高を重ねて手に負えなくなっていたのは想像につく。
しかし、口から出任せなのだとはいえ、考えさせられる。
知る事を選んだが故、楽園を追放されたイブ。
知る事を望んだが故、ここで、こうして苦しんでいる俺。
止められていたのに、止めろと言わていたのに、それでも望んだのだ、本人が。まぎれもなく自分の選択。自分のせい。誰かのせいには、出来ない。
「……だが、身に覚えのない罪で苛まれ続けるというのは……正直、ここまで苦しいものだとは思わなかった……」
胸が苦しい。言葉にならない。
違う可能性の俺の姿を見るのは、苦痛だ。
俺はこれから生き続ける限り、記憶をし続ける限り、あの悍ましい行為に浸るようになった俺の姿を思い出すのか……
知る事が禁忌の罪ならば、知ったという、それ自体が罰。
忘れようと思っても忘れることなど出来ない。永遠に記憶に残り、いつまでも俺を苛むことだろう。それこそ、黒猫に記憶を消してもらわない限り。
場面が変わり、事態が動く。
口論をしている。
相手はアンドレ。
『……なんだと? もう一度言ってみろ』
『貴方が禁治産者になるように要請しました。シャルル王は受け入れて下さるでしょう。今後、貴方は勝手に領地を売ることは出来ません』
『何の……権限があって……』
『一族からの強い要請です。貴方は……気が狂われてしまった……』
それは起こるべくして起きた事態。
一族に相談も断りも無く領地や私財を放出してきた男は、当然のように、その一族によって権利を剥奪される。交渉の為、遠縁の親戚まで引っ張り出して、俺を、いや、あの男を排除しようとする。
浴びるように飲み続けた酒と、わずかばかりの肉だけで生きてきた男の顔は一層ひどくやつれ、足元は覚束ない。
『酷い噂が貴方の領地にあるようです。この地では、子供がすぐにいなくなる、と……』
『…………』
『根も葉もない噂、ですよね? ジル?』
『…………失せろ』
『っ! 貴方の弟のルネも心配しているのです! 良くない者共とつるむのはもうやめて、どうか昔のジルに戻ってください!』
やつれ、くぼんだ眼窩には、それでも衰えない光。
だがその光は、アンドレの顔を捕えてはいない。
『金だ……金がいる……金があれば……』
『ジル!』
『うるさい! 死ねッ!』
まるで交渉にならない。まったく言葉が通じない。誰がどう見ても狂いきっている。相手がアンドレだと認識しているかどうかも怪しい。
男は剣を取りに城の中に戻ろうとするが、足がもつれて倒れ込む。
こんな状態では例えアンドレといえども、相手にならないだろう。日々の鍛錬どころか、剣を握ることすらしていない。ここでアンドレが斬られて死ぬことは無い。だが貴族が貴族に斬りかかれば、ただでは済まなくなる。それを察したアンドレは、俺に一言だけ言葉を掛けてから去っていく。
『また来ますから!』
『二度と来るな! 俺の財産を狙う泥棒め! 詐欺師め!』
『神よ……どうかあの哀れな人に慈悲を……救いを……』
馬に乗り去っていくアンドレを地面に座ったまま見送る男が哄笑する。
『逃げたか臆病者! 何が昔のジルだ、そんな奴はもういない! そいつならもう死んだ! フハハハッ!』
「……酷過ぎる」
「これは、ちょっと、あれね、その、うん」
「黒猫よ、言葉に出来ないなら無理にするな……」
忘れたい。頭を抱えてうずくまって、すべてを忘れて眠りたい。
情報はただの情報。冷静に。
噴き出すような激しい怒りは必死に抑えているが、その分、心の底に行き場の無い怒りが溜まっていく。渦を巻いていく。
今の俺に涙を流すことが可能ならば、それはきっと血の色をしているに違いない。
「消す。殺す。殺す。殺す。殺す。消す。殺す。殺す」
「黒騎士さんや、怖いから……」
感情を押し殺しながら声を漏らす俺から一歩離れる黒猫。どうせ何も出来ないだろうが。
少年殺しは、いつ発覚する? もはや何人殺したのかもわからない。殺されていった少年たちの恨みが、この身を焼くようだ。
俺ではない。俺が犯した罪ではない。だが……
恐ろしい。自分がそうなっていたかもしれないと思うのは、恐ろしい。
「最後まで見ろ、だったか……アレは、しかるべき罰を、受けるのだろうな?」
少年殺しが白日の下に晒されて裁かれる、それはもう間違いないだろう。これほど重ねた悪行、もはや死刑になるのが妥当。それ以外はあり得ない。
自分が望んだ事とはいえ、この地獄のような苦痛の時間が一刻も早く終わることを、今の俺は望んでいる。
「アレはもはや誰にも救えない。神にもだ。せめて正しく罰を受けて死刑になるがいい、俺ではない俺よ」
「正しい罰かどうかは、どうなんでしょ?」
「……どういう意味だ?」
答えを得る前に場面が変わり、事態は急変する。
それは売り払った領地で起きた騒動が原因だった。
『何が聖職者か、偉そうにしていて、結局、誰も救えぬ、祈りは無駄だ! 祈っても無意味だ! 神などいないのだからな!』
『か、神の存在を疑うなど、ふ、不敬ですぞ!』
『何度でも言うぞ? 神はいない! 貴様らが言う事、すべてが嘘だ! なんだ貴様、まだ神なんぞを信じているのか? ハハハ』
『な、な、な、何たることを……』
領地の税を巡る騒動の仲介に出張って来た聖職者を拉致して監禁。そこで行われた会話。
『……問題になりますぞ。神の愛を受けておきながら』
『馬鹿か貴様。神が何をした? 何もしていない』
『神を愛さぬ者には酷い罰が落ちるのですぞ』
『愛? ああ、神を愛しているとも。俺の方はな。それはもう毎日毎日祈っている。ああ神様、どうぞ俺を愛してくださいってな。だがいつも神の奴は知らんぷりだ。どれほど俺たちが神を愛そうと、神は俺たちを愛してくれはしない。知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。聞いているかぁー? 神ぃー? ははは。応えは無いな! もしこれで本当に神がいるのなら、きっとそいつは俺たちの事など、心の底からどうでもいいと思っているのだろうよ! ふははは』
『救えぬ背教者めぇ……』
あの狂った男の少年殺しを止めたのは、
少年殺しの罪ではなく、神を侮辱し冒涜した罪。
神に背く者、異端者としての逮捕だった。
つ、次こそ、次こそ登場だから(黒猫)




