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俺とまったく同じ顔で、同じ声で、同じ仕草で。
『どうしてッ! どうしてッ! クソッ、クソがッ!!』
何度何度もテーブルを叩き、ワインの満たされたコップを呷る、俺の知らない俺。いや、俺ではない、誰か。
『ご、ご主人さま、お酒はその位で……』
『あ゛?』
『ひっ……』
酒を止めさせようと進言する男を睨みつける俺のような奴。
『せ、政務もこなされないと……、それにご主人様、もう何日も朝の礼拝をしておりません。か、神への祈りを欠かすと、いつか天罰が……』
古くから家に仕えてくれている男だ。俺に対しても何だかんだと小言を言ってくる。五月蝿い奴ではあるが、彼がいるから俺はそれなりに自由にやってこれた。
『神だとッ!?』
だが、彼が不注意に放ったその言葉は、今のそいつに一番聞かせはいけない言葉だった。当然、男の逆鱗に触れる。
『神が何をしてくれたッ!?』
コップを床に叩きつけ、古くから家に仕えてくれている男に詰め寄り、彼の服の胸元を掴み上げて罵声を浴びせかける、男。
『神がジャンヌを助けたかッ!? 何もしない! 神の奴は何もしないッ! 全知全能なのに、何でも出来るのにっ、何もしてくれないではないか! ジャンヌは殺されるべき悪人だったか? あ? 遺骸まで焼かれて貶められるほどの悪事を為したとでも言うのか!? 違うだろ! 世の中にもっともっと裁かれるべき悪など、いくらでも溢れているっ! 神を信じて報われる事などあるかっ!? 何もしてくれないなら、もはや居ないのも同じだ! それなのに礼拝をしないだけで天罰だと! いい加減にしろっ! 何が神だッ! 神の愛だッ! 愛だの正義だのと、聖職者どもの言う事は口先だけ……嘘ばかりだろうがッ!』
彼を床に放り出して言い放つ。
『……出ていけ……二度と顔を見せるな』
『ご主人さま……』
『出ていけえッ!!! 今ここで殺されたいのかッ!?』
『ああ……ああ……』
瞳から溢れてくる涙、男も、彼も。
仕えてくれていた彼を視界から追いやって、再び酒を呷る。
いくらか冷静になったのか、つぶやく。
『奴め、追い出されたら野垂れ死にをするだけか、ふん、紹介状くらいは書いてやるか…………ああ、ジャンヌ、ジャンヌ……お前の魂は今、どこにいる? 神の御許に行けたのか? それとも地獄に落とされてしまったのか……教えてくれ……ジャンヌ……』
テーブルに突っ伏して頭を掻きむしり、酒を呷る。吐くまで飲んで、また飲む。それを繰り返す。何度も、何度も。
「なんだ……これは……」
零れ落ちる、力のない言葉。
俺は今、何を見せられている?
「おい、黒猫、これは一体、何だ、俺の過去ではない? いや、俺の過去、だ、が、いや、悪魔と呼ばれ? あの男、いや、俺は……」
「んー、そうねぇ、まぁ、深く考える必要は無いかなー。混乱するような話でもないわよ」
いかにも問題は無いとでも言いたげな、気楽な黒猫の返し。
ジャンヌの処刑が行われたルーアンを去り、ナントにある城に引きこもり、そこで酒を呷るだけの日々を送る男。惨めな男。哀れな姿。俺の過去に、こんなものは無い。
だが俺と同じ顔、姿をしている。そして俺の口から出そうな事を言う。
その姿は俺の心をかき乱す。奴から目を離せずに、黒猫に問いかける。黒猫の言うように、俺は今、混乱をしている。
「説明してくれ、わかりやすく、簡潔に、だ」
「あの時、私と出会わなければ、こういう世界もあったかもねー、こういう自分になる可能性もあったかもねー、みたいな話よ」
男から視線を外し、床にいる黒猫を見る。
じっと俺を見返してくる二つの金色の瞳、だがその金色の中にある黒に気がつく。猫の目など、まじまじと見た事など無い。俺はどちらかと言うと犬の方が好きなのだ。
金色の中に浮かぶ、闇の黒。黒猫が少女の姿をとる時の瞳の色でもある、深淵の黒。
猫は目をひそめて、軽い口調で言葉を発する。
「そーんな感じで、緩く、ね、ゆるーく、受け取っておいて」
「緩くとか……あの夜、俺たちが現れたせいで起きた、ルーアンでの混乱は……」
「ないわね、この世界では」
「この世界では……パリも?」
「パリも」
あの時、ルーアンからの帰り道で黒猫と出会わなければ、当然、俺は殺されることもなく、その後、骨の姿になって復活することもなく、その悍ましい姿でルーアンへ行くこともなかった。混乱は起きないし、続くパリでの混乱も起きない、そういうことらしい。そして。
「つまりアレは、黒猫と出会わなかった時の俺の姿なのか……信じたくない、こんな不様を晒す俺が俺だとは認めたくない」
神への恨み言、泣き言を繰り返しながら、薄暗い城の一室で酒を飲むことを止めない男の姿を、複雑な気持ちで見る。言葉にならない。
ただ、認めたくはないが、奴の心情、理解は出来る。
確かに、ジャンヌの処刑を見た俺が、あの時の感情のまま帰り、そして日々を自堕落に過ごしていたら、こうなるかもしれないという、謎の説得力がある。
だが、それにしても、こうまで不様を晒すものだろうか? 古くから仕えてくれていた男を放逐してまで何をしているのだと。
「ま、別人だけどね」
「別人……」
それがわからない。
黒猫と出会い、混乱への耐性もいくらか鍛えられてきた。が、まだまだ足りないらしい。あれも俺ではないのか?
場面が変わり、あったかもしれない可能性の俺は俺の祖父、ジャン・ド・クランの死を伝えられる。
ジャンヌの処刑からしばらくしての事。前々から体が弱っていたのを知っている。
『くたばるのが遅いんだッ! もう手遅れなんだッ!』
荒れた生活は続いている。むしろ、酷くなっている。
部屋にある物に当たり散らかし、喚いている。
『金や! 兵を! 今更自由に使えてどうする! それはあの時に欲しかったものだ! あの時に力があれば、捕らえられたジャンヌを救うことだって、出来たのに! ああ、クソが、こんなことなら、もっと早くあのジジイを殺しておくべきだったんだ! どうして、あの時の俺はそうしなかった!』
部屋中に飛び散る、家具の破片。
怯える使用人。だが俺を諫める者はいない。
『憎い! 憎い憎い憎い! ジャンヌを殺した奴らも! 見殺しにした奴も! イングランドもブルゴーニュもアルマニャックも、王だって! 憎い! 皆憎い! 神は何をしている!? お前の遣わした大事な聖女が殺されたのではないのか! 愛する者が殺されたのではないのか! 天罰はどうした!? 奴らは今も平然と生きているぞ!』
天に向かい、吠える。
ジャンヌを見殺しにしたのは、俺も同じだ。
目付として俺の動きを制限していたクソ爺だが、俺も無理をすれば相当の金や兵を集められたのだ。それをしなかったのは俺だ。俺の選択だ。誰かを責められないのだと、今の俺は知っている。
しかし、あの男は、知らない。まだそれに気がついていない。
人を責め、誰かを責め、荒れて、荒れ果てて。
「どうして、ここまで…………」
「……心に負った傷というのは」
酷くなったのか、と続けようとして言葉に詰まる俺に変わって、黒猫が囁くように言葉を紡ぐ。
「体の傷と同じように、時間の経過とともに薄れ、忘れ、気にならなくなっていくものよ。普通はね。けどそうじゃない場合もある。古い傷をなぞるように、新しく傷をつける場合よ。自分で、自分を、傷つける。何度も、何度も、同じ場所を、同じように」
視界の中。薄暗い部屋。男は床に跪き、手を組み、祈る。
『神よ、すべて見ているなら、聞け、俺の祈りを聞け、ジャンヌを殺して、大罪を犯しても知らぬ顔をして、今でものうのうと生きている奴らに罰を、奴らに罰を……』
酒が回ったのか、そのまま床に倒れ込み、意識を失う。
男はしばらく寝て、そして起きてまた酒を飲み、嘆き、喚くのだろう。哀れなこの男に救いの手を差し伸べる者はいない。声を掛ける者とていない。そういう人物は、自らの手で、すべて追い出したから。
場面が、変わる。
俺が男を睨みつけている。
『紹介したい男だと?』
『は、はい、閣下も気に入られるかと、何やらその男、悪魔の召喚に成功したと言っているようでして……』
素手で肉を掴み、齧り、酒を呷り、再び男を睨みつける、俺ではない俺。
頬はこけ、服も髪も碌に手入れをされていない。目の下には深い隈が出来ているが、目に宿る力は衰えず、増すばかり。
『本当の事だろうな? 俺を騙すと為にならんぞ?』
『めっそうもない! 閣下の為になる事だけを考えて生きておりますとも、はは』
手をさすり、調子よく俺に媚びを売る男に見覚えがある。悪魔や錬金術関連の書籍を集めるのに、何度か利用した男だ。
まだ繋がりがあるのか。
いや、この手の繋がりは、もっと深くなっているようだ。俺の身の回りにある本や何に使うのかもわからない道具に見覚えが無い。
『実は、こちらの近くに控えさせておりまして、閣下の許可が下りますればすぐに手配しましょう、もし日を指定して頂けるなら……』
『構わん。今すぐ連れてこい』
『は、はい、今すぐに』
そうして連れて来られた男は、ギリシャ絵画にでも描かれるような、若く美しい青年で。
『錬金術師プレラーティと申します。ああ、恋い焦がれ、身を焼く程の思いの果てに……運命の我が君……ようやく会えました……愛する方』
「プレラーティではないかっ!?」
「プレラーティさんだねぇ」
詐欺師プレラーティ。
整った顔、蜂蜜色の髪。琥珀の瞳に涙を貯めて。
居るのか、この世界にも。
この世界では悪魔教の教祖的な立場には祭り上げられていないようだ。
黒猫と出会わなければ、ここで奴と出会うのか。何やら最初の挨拶まで同じだ。詐欺師め。
『ふん、適当なおべっかを使いおって。悪魔を呼び出したと聞いた。本当か?』
『はい、愛しい方。確かに私は悪魔を呼び出した事がございます』
『……もう一度呼び出せるか?』
『しかるべき場所、しかるべき刻、正しい手順と道具、正確な魔法陣と呪文にて、再び呼び出すことが叶いましょう』
顔をしかめてその青年を見る俺。
「は、こんな程度の低い詐欺師に騙される阿呆がいるものか。この状態の俺でも流石に引っかからないだろう。見ていろ黒猫、この男、すぐに叩き出されるぞ」
「え、あ、うん」
口を濁す黒猫。
そういえば、この黒猫はどこまで知っているのだ?
あったかもしれない可能性の俺とやらの人生を、すべて知っているのなら……
『ジャンヌの……ルーアンで処刑されたジャンヌ・ダルクの魂を呼び出せるか?』
『可能です。悪魔の力を借りて行いましょう。ただ必要な物が多々ありますれば……』
『……何が必要だ? 俺に用意出来るものか?』
錬金術師を名乗った青年を見る俺は極めて真剣な表情だ。が。
「おい、俺よ……」
「秒で騙されたねぇ、というか、疑っていない、というか、藁にも縋るって感じかしら。笑う場面でもないんだけど、彼らの真剣な顔が、もう」
「言うな、それ以上、言うな」
穴があったら入りたい程には恥ずかしい。流石に無い、それは無いぞ、俺。もっと考えろ。俺。
『……神に頼れぬのなら、悪魔の力に頼るしかない。悪魔に力を借りるのは悪いことではない。俺は間違っていない。だろ? 神よ、聞いているか? もし違うというのならば、今すぐ俺の目の前に現れてみろ…………』
白でなくば黒。0か100、それ以外があることすら、頭に浮かばない。どちらか片方しか選べない男がする選択。
神でなくば悪魔を。
狭い世界しか知らない、視野の狭い、愚か者の、愚かな選択。
『いいだろう、プレラーティ、お前を信じる事にする。必要な物を揃えろ、金に糸目はつけない』
『はい、すべて私にお任せを、愛する我が君』
金の話を聞いて嬉しそうに微笑む青年。すでに涙は乾いている。
次々に場面が変わる。
『――どうやら供物とした臓物が新鮮では無かったようです、悪魔は現れません』
『――星の巡りが悪いですね、これでは悪魔が現れなかったのも当然です』
『――正確な魔法陣を描くために必要な宝石が足らないのです、どうか援助を』
『――そうか! 逆五芒星と魔の六芒星との違いか! 同じ過ちはもうしません、ええ、次は必ずや。差し当たって必要な物は金と銀の装飾品であり――』
俺の悪魔の召喚は出来たのかとの毎度の催促に、淀みなく次々に答えるプレラーティ。それを受けて、しぶしぶ引き下がる毎度毎度の俺。
「……なあ黒猫よ、俺は阿保か?」
「どう答えても遺恨が残りそうな質問ねえ」
この世界での俺は、何故かプレラーティの事を信じている。
信じられない。理解が出来ない。何がどうなればそうなる?
『プレラーティ、俺は部屋に入れないのか?』
『何度も言いました通り、悪魔召喚の儀式は恐ろしく危険で繊細なもの、私一人で行います、そうすれば、万一の事があっても死ぬのは私ひとりだけ……肉体だけでなく、魂すら永劫の苦しみに囚われることになります、怒り狂った悪魔は、手が付けられません……そう……誰にも』
『……呼び出す悪魔にはよくよく言い聞かせてくれ。絶対に俺を殺そうとするなと』
『はい、私の命に変えましても。つきましては悪魔からの攻撃を防ぐ為に必要な物がいくつか――』
そして。
『はぁっ、はぁっ、我が君、とうとう悪魔の召喚に成功しました。はぁっ、はぁっ』
『何だとっ!? ついにか!?』
部屋から息も絶え絶えになったプレラーティが出て来て俺に告げる。
嘘臭い。あまりにも嘘臭いのに、この世界の俺は疑問に思わない。
『ただ、ジャンヌ・ダルク様の魂を呼び出すには至らず……ああ、せめてあの方の遺骸が残っていれば……』
『遺骸……』
『遺灰の一つまみでもいいのに……何も残っていないなんて。なんて悲劇でしょうか。ああ、せめて、何か、ジャンヌ・ダルク様と近しいものでも……』
『近しいもの、か?』
瞳の奥が妖しく光り、この世界の俺が狂相を示す。
『それがあれば、ジャンヌの魂は呼べるのだな? 信じていいのか? プレラーティ』
『我が君、愛するご主人さま、ああ、貴方の痛みを知るのは私だけ。愛しい方。私の全てを貴方様に捧げます。どうか信じて下さい。愛しております』
俺に近寄り、胸に飛び込み、体を預けてくるプレラーティ。それを目を細めて受け入れる俺。
「嘘だろっ! 嘘だと言ってくれ、何なんだ、この俺は! プレラーティと、どういう関係になってんだ!? ふざけるな! 冗談じゃない!」
「孤独というのは、意外なほど人を狂わすものよ。耐えられるのは、ほんの少数。寂しかったんでしょ」
「納得できん!」
「本来なら子作りの為にある他人を愛するという感情だけど、別に愛だけ抜き取ってみれば、そこに性別やら年齢やら身分やら、種族や次元の違いすら、障害らしい障害にならないわけだし。むしろそういう邪魔や障害がある方が燃え上がる場合すらあるわけで。禁止されているほどに興味が湧いたりとか」
「納得しない! 納得しないぞ!」
「うるさいなぁ。黒騎士さん、こういう考えをしたことはない? 人の心の中には、枠がある、と」
「枠ぅ?」
「そ、枠、囲い、あるいは額縁」
場面が変わる。
フードを深く被り、城から出て町に出る、この世界の俺。
「愛すべき相手、憎むべき相手、信じられる味方、滅ぼすべき敵……そういったものを入れる額縁。枠だけが決まっていて、中は空白の状態。人にとっては、その状態でないと、むしろ不都合なのよ」
「何が不都合だ」
「特定の相手でしか駄目、それこそ、運命の相手でないと恋が出来ないとかだと、ちょっとした手違いでその運命の相手に会えなかったら子作りも出来ないでしょ? 種族滅んじゃう。だから自由に何でも入れられるように、枠だけ決めて空白の状態でいるの」
町を進む俺を止める者はいない。
なんとなく、俺たちは歩いて付いていく。
身体を動かすといくらか気が楽になる。
「敵にしても、そう。特定の相手を決めない。どこの何にでも対応して行動が出来るように、その時々で必要なものを嵌め込むことが出来るように。だからこそ人はどんな環境の変化にも適応できる。それが出来る人が子孫を残し、広がっていった」
黒猫の言葉を聞きながら町を歩いていると、これが映像の中だという事を忘れそうになる。
「同性愛だの、異種族愛だの、絵に恋するとかも、人がそういう便利な特性を持ったから出て来た弊害よ。愛する相手と書かれた額縁の中に、入っちゃうのよね、これが、結構何でも。ふふ、面白いと思わない? 子孫を残すのに不必要な機能を持った集団の方が、子孫を残すのに有利だなんて。ま、狭い世界に閉じこもって自分の近くにいる人間を彼だけにしたのが、あの人の間違いね。てか他人よ、他人事、冷静になりなさいな」
「冷静になれるか!」
黒猫から見れば完全に他人事だろうが、俺から見れば深刻な問題だ。俺は断じて男色家ではない。
「それより、ほら、彼は見つけたようよ?」
「見つけた? 何を?」
視界の中、建物の陰に潜み、ある一点を見つめる男。この世界の俺。
その男の視線の先を辿ると、一人の少年に行きつく。
くすんだ金髪を短く切り揃えた少年。
体格や、身長も、それに顔立ちもどことなく、ジャンヌに似た、一人の少年。
「……何をする気だ?」
黒猫はおそらく答えを知っているのだろう。
フードを目深に被り直して少年に近づく俺を、目を細めて見ながら、そっと、つぶやく。
「良くない、ことよ」
具体的描写? しないよ?(当然)
あとおまじないも置いときます。
ポリコレ配慮! ポリコレ配慮!
男色どうこうはキャラクターの発言であり、作者の思想信条とは関係ありません。この作品はポリコレに配慮された作品です(から攻撃しないでえ)




