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まるで流れの早い川の水面に浮かぶ木の葉になった気分だ。
腕利きの道化師でもここまで滑稽に回れる者はいないだろう。
なんでもそうだが、世界は唐突に変化しすぎる。全ての理を知る事になれば、全ての事を予測することも出来るようになるのだろうか。そうなれば、こうして、いちいち驚く事も、騒ぐこともなくなるだろうに。
盗られた兜を追った先で、予期せぬ争いが始まっている。
その流れに飲み込まれた。
近くでは騎兵同士が、奪い合うようにして悪魔教徒を倒している。全ての騎兵が同じ勢力に属していないことは、あちらこちらの場所で騎兵同士の争いが起きていることからもわかる。
その片割れ、雪崩れ込んできたイングランドの男に声を掛ける。
「ゴウベルッ!」
「応よッ! 骨の道化師! 兜はどうした!? 剥き出しではないか!」
「どうでもいい! 後にしろ! お前たち、どうしてここに!? 何と戦っている!?」
「リッシュモンの兵だッ!」
「リッシュモン!」
リッシュモン元帥が兵を集めて行動を始めたという情報は聞いていたが、早い。いくら何でも早すぎる。
「ベッドフォード公が足の速い騎兵だけで編成した兵をよこしてくれたんです! それで……」
「泣き虫、お前も居るのか」
「ええ、死者殿、すぐに会えてよかった! 逃げられた時は、どうするかと……またベッドフォード公に酷く怒られるのかと……死者殿、髑髏のままだけど兜は?」
「兜はどうでもいい! いや、良くない! どこかに俺の兜を持って逃げたやつがいるはずだ! 探してくれ! 見失ってしまった!」
「それこそ後で良いではないか! 骨の道化師! とにかくこれを何とかしてくれ!」
「これを? 何をだ!?」
「死者殿、悪魔教徒を討伐をするのに足の速い騎兵を編成してきたのは、リッシュモン元帥も同じようで、同じく悪魔教徒を追っていた俺たちと、すぐそこでかち合って、突発的に戦闘になってしまったんだ」
「何をやっているんだ!? 争う必要などあるのか!?」
「望んで争っているのではいわッ!」
「死者殿、リッシュモン元帥の兵との争いを収めて欲しい。こちらの標的は悪魔教だけだから……」
戦闘は突発的な事態。
リッシュモン元帥の兵ならば、アルマニャック派の者で構成されているだろう。派閥が意味を為さないほどの混乱と聞いたが、それでも地域や血筋がいきなり変わることは無い。
イングランド側に争う意思はなくとも、いままで長らく敵としてあった者同士、かち合えば争いになるのも必然か。ましてや同じ悪魔教徒という獲物を狙う者同士。争うことになったのも、それはある意味では当然の流れ。
それを、止める?
出来るのか?
見たところ、イングランドの兵は騎兵同士の争いには消極的だが、それでも攻撃されたのなら反撃をしている。見渡す限りで、騎兵同士の争いは広い範囲にわたって起きている。互いに争いながら、その合間で、徒歩で動いていた悪魔教徒を馬上から倒している。攻撃する者、反撃を試みる者、逃げる者、追う者、入り乱れた戦場になってしまっている。戦場全体の統率をする者もいないようだ。リッシュモン元帥はどこにいる?
ここまで広範囲になった戦場で、すぐさま争いを止めさせる方法なんてあるのか?
ここで大声を上げても全てに届くとは思えない。威圧も効果は無いだろう。
「くそがッ、こっちは光の戦士だぞ、ウラァ!」
ゴウベルや泣き虫が他の騎兵から攻撃を受けて争いの渦の中に消えて行く。
何故か俺の周囲だけ、誰も近づかない空白地域が生まれている。
「骨だ……骨が動いている……全部本当の事だった。恐ろしい」
何故も何も無いか、俺は動く骨だった。見た目だけならば、恐ろしいよな、近づきたくないのも当然だ。実際は、無意味に暴力を振るうような性格なわけでも無いのだが。
自分の目から見る景色、世界は今まで通りに普通なので、つい自分が骨のまま動く謎の存在であることを忘れそうになってしまう。
イングランド兵ではない側、リッシュモン元帥が率いているらしい兵から声が上がる。
「混沌の申し子め……」
「戦え! 恐れるな! 悪魔の兵を倒せ! この世界に再びの秩序を! 家族の為に! 仲間の為に!」
「おう!」
声だけは勇ましいが、俺に挑んでくる者はいない。皆尻込みしている。
「行くぞ! 全員でかかるぞ! 行くからな!? 一斉に行くぞ!」
「おう!」
「行くぞ! ……ッ行けよお!?」
「おうっ……」
なんの譲り合いか、一番最初に俺に飛び掛かる者を待って、誰もが動けないでいる。そのままで居てくれれば迎え撃つ必要も無いのだが……
駄目で元々と、声を掛ける。
「待て、待つがいい! フランスの地に住まう騎士たちよ。俺は、いや、イングランドの兵は争いを望んではいない! お前たちはリッシュモン元帥の兵だな? 剣を収めろ! 皆に伝えろ、騎兵同士で争う必要は無いのだと……」
「死霊の黒騎士が、何故イングランドの代弁者をしている?」
「!?」
尻込みする騎兵を割って、一人の男が姿を現す。
伸ばした背筋、鋭い眼光、血の気の薄い唇は硬く結ばれ、威厳を纏う。
馬上より俺を見下ろす男に、覚えがある。
「リッシュモン元帥……」
正義の人。良い意味でも、悪い意味でも。
「ここで会うか、いや、都合がよい、リッシュモン元帥! 今すぐ騎兵同士での争いを止めるのだ! 元帥の目的は悪魔教徒なのだろう? 敵は悪魔教なら、その頭領は向こうで転がって……」
「驚いたな……私の名を知るか……」
血の気の薄い唇が開かれ、驚愕を口にする。
かつての知り合い、戦場にて肩を並べて戦った同士。つい名を呼んでしまった。
「私と会った事があるのか? 悪魔であっても言葉が喋れるのならば、聞こう、どこで私の名を知った? 死霊の黒騎士よ」
「……いや、会った、ことは、無い。たまたま知っていただけで……」
「嘘を吐いているな? 歯切れが悪い。その態度も不思議なものだ。私に対して何を遠慮している? ずいぶんと人の振りが上手いではないか。それは演技か? それとも本当の困惑か? ……名乗るがいい、悪魔よ」
「悪魔ではない。名も、持ってはいない……」
「悪魔以外の何物か。名乗りもしない無礼な悪魔ならば、こちらも名乗りはしない。秩序の破壊者、世界の和を乱す混沌の申し子、死霊の黒騎士よ。貴様は、滅ぼさねばならない、悪だ」
馬上にて、腰の剣を抜き放ち、こちらに刃を向ける男。
リッシュモン元帥の鋭い眼光が俺を打ち据える。
「待て、誤解がある。話を聞け。先ずは剣を収めよ」
「名を持たぬ者は、何者でもない。信用出来ない。その言葉も聞くに値しない。私から剣を取り上げてどうするつもりだ? 悪魔であっても向けられる剣の刃は恐ろしいとみえる」
「恐ろしくは無い、剣で俺は殺せないからな、今は不要というだけで……」
「殺せない? 貴様はもう死んでいる。神の目をかいくぐって迷い出てきた者よ、死者は大人しく闇の中へと帰れ。人外の者、神の法に従え」
「俺は生きている。それから人外でもない。俺は、人、だ……」
「生きて? 人? 断固として否定する。貴様は人ではない。悪魔の力にて蘇った死者よ、ただそれだけで貴様は存在してはならない存在なのだ。いかなる理をもってこの世に彷徨い出てきた?」
「知らない。わからない。存在しては、ならない存在……俺は……」
「……死霊の黒騎士よ、貴様は悪魔教の手下を使って鼠を集めているそうだな?」
「は? 鼠だと?」
「鼠だ。オルレアンの町にいた悪魔教徒どもが、死霊の黒騎士に命令されて鼠を集めているのだと、そう証言した。それを邪悪な儀式に使うのだと、私はこの耳でしかと聞いたぞ? 信用ならない邪悪な骨の騎士よ」
あいつらか。
奴らめ、邪悪な儀式なんぞと嘘を言いおって……
……俺か? 俺だ。最初に嘘を吐いたのは俺だ。あいつらを俺の望み通りに動かす為に適当に吐いた嘘が、今、跳ね返って俺に来ている。それで信用を失っている。動く骨になんの信用があるのかは置いておいて。
なんてことだ。こんなことになるのなら、不老不死になれるどうこうなんぞと言い出さなければ良かった。
「それも誤解だ。悪魔教は手下ではない。鼠は疫病の蔓延を防ぐために、奴らを騙して殺させていた。邪悪な儀式の為ではない」
「信じることは出来ない。悪魔教を追って悪魔に会えたのだ。関係があるのは明白……疫病を防ぐだと? 疫病……黒死病を広げるための儀式に使うのか? 鼠をそれで集めているのだな、死霊の黒騎士よ。貴様が南の地で行ったように、この地でも黒死病を広めるのか」
「なにもかもが誤解だ。俺は南の地には足を踏み入れてもいない」
「多くの者が貴様を見たと言っている。違うと言うのならば答えてみよ、鼠を集めて、どう疫病を防ぐことが出来るのか?」
「それは……」
何故、どうしてと聞かれると、困るしかない。鼠がどう疫病に関わっているのか、その理を、俺は知らない。
最初は、どういう話だった? 疫病の蔓延を防ぐには、鼠を殺す必要があり……
「そうだ、最初は猫だった……猫を殺したせいで、世界が滅びる……リッシュモン元帥、重要なのは、だな、猫だ、鼠を殺す猫が、だな」
「……鼠の次は猫か……猫が何だと言うのだ。もしや人々を混乱させるのが悪魔の目的か?」
「違う、とにかく聞け、猫は恐ろしいぞ、ただ道を歩いていただけの猫を殺した酬いで、今この地はこれほどまでの混乱に陥っているのだからな」
「……虚言に惑わされるくらいならば、いかなる情報とて無価値、むしろ悪材料……これ以上の悪魔との話は危険か……。神よ、照覧あれ、我に加護を」
「待て、会話を諦めるな。猫の件は聞き流してくれ。神の出番も無い。話を続けよう。俺を殺しても疫病の広がりは止まらないぞ」
「何が間違いで、何が正解なのか、今の私に判断はつかない。今の私の行いが正しいものならば神は認めて見守ってくださるだろう、私の行いが間違っているものならば、神よ、その力を示して止めてみせよ」
「とにかく、そのままでいい、剣を取り上げるつもりもないから……」
「聞けッ! 皆の者よ! 我らが同胞よ! 私が先に行こう! 一番に逝こう! 私が神の正義へ続く道を指し示す! そして、たとえ私の力が及ばず、あの悪魔を打ち滅ぼせないのだとしても! 続け! 屍を踏みしめてでも、ここで諸悪の根源たる死霊の黒騎士を倒すのだ! 悪を滅ぼせ! そして先に進めっ! 行くぞッ!」
「会話を!」
話を聞いてくれていたようで、聞いていない。会話になっていない。
話を聞かない、聞く気もない相手が、これほど厄介だとは。
リッシュモン元帥の乗る馬が嘶く。前足を軽く上げ、突進してくる。
考える時間は無い。
殺してはならない、それは絶対だ。
ここで彼を殺したら戦いを止める手段は失われるだろう。
殉教者としてリッシュモン元帥は讃えられ、多くの者がそれに続き、何もかもが手遅れになる。
自分の命すら掛けて正義を為そうとするのは本来ならば褒められた行動だろうが、今はひたすら迷惑だ。神も見ているなら止めてやれ。
俺の方が神に祈ってもしかたがない。振り下ろされた剣を、抜き放った剣で受け止める。飛び散る火花。
馬の勢いを利用した斬撃は、重く、正確なものだったが、俺を倒すには至らない。
そもそも、斬られても問題なく復活できる俺を剣でどうやって倒すというのか。それに加えて、俺が持っている剣も、着ている鎧も、どうやっても人の手では傷つける事すら出来ないとくれば……もし俺が敵として俺の前に立ちはだかったのだと想像したら、絶望しかない。
二合目。
それでも諦めようとしないリッシュモン元帥が再びの斬撃を放つ。それなりの年だろうが、悪くない動きをする男だ。兵を指揮する立場にあっても戦いの訓練は怠ることなくしているのだろう。他者に対して厳格なこの男を嫌いつつも認めているのは、この男は自分にも厳しいからだ。
だが。
足りない。
三合目とばかりに振り下ろされる剣を、真正面から受ける、と見せかけて横に流す。
「っつ!?」
俺の持つ剣に沿って滑る相手の剣。
態勢を崩した男の、剣を持つ方の手首を、剣を握っていない方の手で掴む。
力はいらない。捻り上げることもしない。相手の打ち下ろしの動きの延長として、そっと地面に向けて引っ張ってやる。それだけで男の体は馬から離れて、すべるように落ちてくる。人の手首は体と繋がっているからな。俺は、まぁ。
変な落ち方をしないように体を誘導してやるのも忘れない。掴んでいた手首を壊さないように、慎重に、今度は上へと引っ張り上げて、男の頭が地面に衝突しないようにする。
結果、リッシュモン元帥の体は一回転して、わずかな音を立てて地面へと。
地面に座った形で残されたリッシュモン元帥の顔は呆然自失で蒼白。何が自分の身に起きたのかもわかっていない様子。人は痛みや衝撃には構えることが出来ても、痛みもなく動かされると、一瞬自分がどこにいるのかもわからなくなるからな。回転もよくない。人の頭は激しい回転に追いつかない。まぁ怪我が無いようなので良かった。さて、これからどうやって穏便な会話に持ち込むか……
手首は離さないまま繋がれている。次の出方に迷う。
「元帥!」
「この動き……はっ、つ、続けッ! 俺に続けえ! 何としてでもここで黒騎士を倒せ! ここが命の賭けどきだぞ! 私に構うな!」
「く、倒せ! 黒騎士を倒せええ! クロスボウを構えよ! 射てぇ!」
「こんの愚か者どもがあっ!!!!!」
一瞬の戸惑いこそはあったものの、元帥の安全も考えずにクロスボウの矢を射かけてきた男たちに対して怒声を放つ。
リッシュモン元帥を掴んでいた手を放し、向かってきた数本の矢を剣で打ち払う。矢は一本たりとも、俺の体にも、リッシュモン元帥の体にも届かない。
「愚か者どもッ! 無駄だと、何故わからんのかっ!! 首から上に乗っている物は飾り物かッ!? 飾り物ならば俺に言えッ! さぞ動くのに邪魔だろうから俺が綺麗に切り離してくれる!!」
本気の怒りを込めて、一喝する。
リッシュモン元帥に続いて突進しようとしていた騎士たちが慌てて立ち止まり、その場で氷の彫像になったかのように固まる。
射かけられた矢に関しては、本気で怒っている。
味方ごと射殺す正義の騎士がどこにいる。勢いに流されて思考放棄をするな。正解を求め続けろ。
そもそも矢が効果的でない事くらい察しろ。骨だぞ? こっちは骨の状態で動いているのだぞ? 俺に効果的なのは……無いな、斬撃も効かない、神の祝福も聖水も効果はない。おそらく火も効かない。衝撃にも強い。水や土の中で苦しむことは、無いだろう、無い気がする。そもそも埋められるまで大人しくしている気も無い。つまり今の俺に弱点は無い。戦いの場に限り、だがな。
睡眠。
忘れていた。昼だが、今、俺は猛烈に眠い。疲れきっているのだった。いつまた意識を失うのかわからない。何とかしなければ。何とか……
「その声、その口調、その戦い方、動き……知っている……私はお前を知っている……」
眠気を思い出したことで、手に持つ剣が何割も重くなった気がした。
そして、思考も身体の動きも鈍くなった俺の背中に、リッシュモン元帥の打ち震える声が、叩きつけられる。
「何をしているッ!? ジル・ド・レ!」
その名は。
「ジル・ド・レ!」
俺が。
「ロワール川に広がる大領地を治める者、ブルターニュに連なる高貴な血、ジャン・ド・クランの孫、ジル・ド・レ」
俺が捨てた名。
生きていた頃の名前。
ジル。
「ナントの地の誇り高き英雄がッ! ジャンヌ・ダルクと共にシャルル王を助けた救国の英雄がッ! 骸の体となって彷徨って、何を、しているッ!? 答えよ! ジル・ド・レ!!」
体の肉と共に、背に負った責任と共に、どこかに流して捨てたはずの名で、俺を呼ぶ男の声は、酷く震えている。
まるで祈るように。まるで断罪するように。
……リッシュモン元帥は今、どんな顔をしているのだろう。後ろを振り返るのが、怖い。
ジルの記憶を持つ俺は、ここで、何をしている?
知らない。わからない。
俺が激流の中の木の葉のように不様に回り続けようが、世界は動き続ける。
死者の記憶を持つ者。過去に取り残された者。船から降りた者。
名前すら捨て去った後に残る俺は、何者なのだろう。
俺は今、どんな顔をしているのだろう。
検索してはいけない人物名「ジル・ド・レ」
いけませんよ。検索してはいけませんよ。言いましたからね。




