71
焼かれている。
轟轟と燃え盛る火の中にあるのは、かつて人であったもの、今は動くことも出来ぬもの、喋ることも出来なくなった、そういう、もの。
それが、焼かれている。
熱い。
焼かれているのは俺だ。
違う。
焼かれているのは俺じゃない。
彼女だ。
すでに息絶えた彼女の遺骸が焼かれている。
――いつか最後の審判の時にすべての人が蘇る。
その時に肉体が無いのでは困る。
だから――
罰なのだ。
二度と復活しないように。
世の禁忌を犯した罪人、神の掟に逆らった罪人に課す最大の罰として、その遺骸までを貶める。
終末の世を越えぬように。救世主によって裁かれることも出来ないように。
その罰を受けた者の魂の行き先は、天国でも地獄でもない。どこか、誰も知らぬ場所、聖職者によって語られることすらも無い、そんな場所。そこは。果たして。
木の焼ける匂い、人の焼ける匂い……
長い時間をかけて、彼女の肉体は灰になった。
神の為、王の為、信念の為にと、最後まで戦った少女の、その果ての姿。
俺は心の中で神に問いかける。
彼女の犯した罪は、それほどのものなのか? と。
ジャンヌの処刑を見ていた者たちが、一人一人と去っていく。珍しい魔女裁判を、人ひとりの死を、ただの娯楽として見物していた民衆たちの群れが、まばらになって、散っていく。ルーアンの町の住人たち。
笑っている。
楽し気に、何事かを語らいながら、どこかに消えて行く。その口に登るのは、満足したことの証明となる言葉たち。正義は為された、と。邪悪な魔女は滅びた、と。彼ら、彼女らは、笑顔のまま、散っていく。彼らはこれから、変わりの無い日常へと戻っていくのだろう。変わりなく日々を送るのだろう。今まさに、そこで恐ろしいことが行われたのだと、そう思っている人は、少ない。
いるには、いる。
たとえば彼女が灰になるまで聖句を唱えていた聖職者。懇願したジャンヌの目の前に掲げた聖印を、灰となった彼女を前にして、いつまでも降ろすこともしない。
青ざめて悲痛な表情のまま、柄を握りしめている。
他にも、両手で顔を隠して、静かに涙する者、うつむく者、嗚咽を上げる者。
灰となって燻る彼女から目を背け周囲を警戒するイングランドの騎士たち。それに……
ああ。
居た。
ジョフロワ。
お前か。
手を震わせながら彼女の灰を集める青年がいた。
血の気の失せた顔で、目を剥き、歯をカチカチと鳴らしながら。
思い出した。俺はあの男を見た事がある。この目で見ていた。ルーアンの町の処刑人。ジャンヌの処刑の場に、居て当然の男。
それを忘れていたのは、記憶を弄られて、いるから。
黒猫……貴様の所業だ……
吐き気がする。
記憶を弄られるのは、死体を冒涜されるよりも、なお一層、おぞましい。
それを為した黒猫に対して、俺は深い怒りを持ち、そして、畏れている。
怖い。
知りたくない。思い出したくない。思い出しては、いけない。
だが、思い出せ。もっと詳しく。あの恐ろしい存在と出会った時を、思い出せ。もっと深く。もっと鮮明に。黒猫は俺に、何をしたのか。
理由があるなら知らねばならん。どんなことでも。他ならぬ、俺の事を。
ルーアンの町でジャンヌの処刑を見とどけて、だが、たしか、最後までは居なかった。あの後、日暮れを待たずに町から出て行った。
記憶の中の俺はジャンヌが処刑された広場から静かに立ち去る。顔を隠すために被ったローブを、さらに深く被り直して、ゆっくりと、その場から立ち去る。
震えながら灰を集める処刑人を、気に留めることも無く。
処刑人は、ただの処刑人。
命令され、言われたことを遂行しただけの……ただの、人。
愚か者であろうが、罪人であろうが、彼女を牢から出し、鎖で柱に括った者であろうが、実際に火を着け彼女を殺した直接の者であろうが、それは、ただの、人。ジャンヌを殺した者、というのは、少し違う。
広場を後にする俺は復讐の相手を探していた。
誰だ? 誰が彼女を殺した?
彼女を死に追いやったもの、それは、また、そこにいる処刑人とは違うもの。それは別に居る。イングランド? ブルゴーニュ派? 見捨てた王?
それは人ですら無いのかも知れない。
思い。願い。人の、願望……
彼女は、そうであれと願う、その思いに、殺された。
この後、あの若い処刑人は、集めたジャンヌの灰をセーヌ川に流すのだろう。地獄に落ちたかのように、震えながら。知っている。俺はそれを後から聞いた。
誰に? 俺はそれを誰に聞いた?
それは黒猫だ。黒猫に違いない。本当に?
記憶が混濁する。
見つからぬよう、騒ぎにならぬよう、顔も身分も隠して侵入したルーアンの町。出る時も何事も無く出れたはずだ。
イングランドにとっての敵対者であった俺だが、門番に少しばかりの金を握らせておくだけで事は平穏に進む。顔を確かめられることもなく、剣を取り上げられることもない。不正や腐敗は、どこにでもあるものだ。
砕かれ断片になった記憶の中、俺は、どうやら、馬に乗っている。
今、どこぞではペガサス扱いされている馬とは違う馬。金で買った馬。
故郷に向けて帰る途中。ルーアンの町からは、それほど離れていない。その身を、ゆっくりと歩く馬に任せ、黙々と、静かに進む俺。
静かなのは、表面だけ。
心の中に吹き荒れる暴風は、何と言葉にしようか。
聖女が死んだ。ジャンヌが死んだ。殺された。神は現れなかった。奇跡が起きず、ただ死んだ。
何故だ。何故彼女は死んだのだ。何故神は、己が愛する神の乙女を見捨てた。こんなのは間違っている。どこで間違えた。何を間違えた。心の中、何度も繰り返し問いかけ、そのすべてに応えは無い。
神を呪っていた。
怒り、呪い、憎んで……
あの時の俺は、本気で聖職者に怒り、神を呪い、イングランドを憎んでいた。愚かな民を呪い、王を呪い、立場を呪い、そのどれよりも無力な自分を呪っていた。世界の全て、ありとあらゆるものを、呪っていた。
だから、だろうか。それは目の前に現れる。世界を呪った酬いを受けよと。
猫だ。
黒い猫が、一匹、道に佇み、俺が乗る馬の行く手を遮っている。
老いた猫ではない。子猫でもない。
馬が近づいても身じろぎ一つせずに俺を見上げている猫と、目が合った。夕暮れ時。世界が朱の色に染まった景色に浮かぶ、二粒の金色。
馬の歩みが止まる。
「どうした、ゆけ」
道に猫がいる程度が、なんだと言うのだ。
だが馬は俺の命令を聞かない。馬の四肢が、根が生えたかのように地面に繋ぎ留められている。ただ佇む黒い猫を前にして、怯えたかのように、立ちすくんでいる。
「行かないで欲しいな。ちょっと君に用事があってさ。うん。私はね、話し合いが必要なんじゃないかと、そう思っている」
「なんだ? 女の声だと? どこだ? どこに隠れている?」
一瞬、猫が喋ったかと、そう思った。すぐに否定する。ありえない。どこかの草むらにでも、女が隠れているのだと。そう、思った。
「目の前、目の前」
目の前の黒猫が、苦笑する。したように、見えた。
ぞわり、と鳥肌が立つ。
「どこだ!? ふざけるなっ! 質の悪い冗談はよせっ!! どこに隠れている!? 姿を見せよ! さもなくば即座に叩き切るッ!」
「あー、そうねえ、猫が喋るわけ、ないわよねえ、君たちの、常識では」
俺から視線を外さない黒猫を気にしつつ、腰の剣の柄に手をかけて最大の警戒をする。
周りに人影はない。近くに人が隠れることが出来そうな場所も、見当たらない。夕暮れの日を浴びて、血をぶちまけたかのような朱く染まった世界に、俺一人。
「まだこの世界に干渉を始めたばかりで安定しないのだけれど、そうねえ、人の姿の方になった方が、落ち着いて話も出来るでしょう」
音がする。不快な音だ。
まるで、耳の奥で何匹もの虫が羽音を立てているようだ。
額を伝って一筋、汗が垂れる。
息を殺し周囲の気配を探る俺の目の前で、黒猫の姿が、崩れ、揺らぐ。
黒い染みとなった、ソレ、は、人の形を、とる。
掴んだ剣の柄に手の汗が染みて滲んだのを、覚えている。
それを呆然と見ているだけの自分を、恐怖で動けなくなった自分を、覚えている。
大きく揺れ動く小さな黒い染みは、人と同じ大きさの黒い染みとなり、ひとつの、白い、顔を、生み出す。一人だけの顔、だが、その人の顔が、いくつも重なって見える。
まるで、下手くそな画家が、人の顔を塗っては消し、塗っては消すようにして……
前から、横から、上から、下から……いくつもの角度の、いくつもの表情。いくつもの顔が、揺らぐ人影の、人の顔があるべき場所に、浮かんで消え、浮かんで消えて……
「う、お、お……」
少女だ。
いくつもの表情を作っていた顔、それらは全て、一人の少女のものだ。
揺らぐ影は、やがて黒いドレスを着た一人の少女となって、安定する。
艶のある黒い髪。濡れたように光をたたえた黒い瞳。白い、抜けるほど白い肌。汚れ一つ無い、輝くような白い肌の中にあって、小さな唇だけが、赤い。
美しい、そういっていい造形だ。目、鼻、顔立ち、全てが美しい。ただ、夜の闇を切り取ったかのようなその瞳に浮かぶ色は、酷く暗く、深く、昏い……
赤い、小さな蕾のような唇が、ほころぶ、いや、ほころぶ、ではない。唇の端を上げて、笑う。嗤う。俺に笑いかけてくる。俺を嗤いながら。
「こんな感じ、かしらね? さて、話の続きを……」
「ああああああああああああああああああああああああああああああ」
「あらま」
不様に絶叫を上げる俺を、誰が責められようか。
「余計に話しづらくなった気もするけど、まぁいいわ。用事と言っても……」
俺の事など意に介さずに、俺と話をしようとする、正体不明の、存在。
理解不能の存在。
「用事があるのは私じゃないのよ。君に用事があるのは彼だからね、紹介するよ、ああ、紹介は必要ないかな」
黒い少女の後ろから、もう一つの影が生まれる。
新しく生まれた揺れ動く影も、すぐに、人に、なる。違う。人ではない。かつて、人であったもの……
所々が、焼け爛れ、人相すら判らなくなった死体。
まるでそれは動く死体。悍ましい死の形。世界への冒涜。
まるで、ではなく……
「ささ、どーぞ、先ずは話をしなさい」
「ナにヲ、話、する必要ガ、あル」
臓物を床に叩きつけたような不快な声。
「話せばわかってくれることも、あるのよ?」
「無意味ナ、ことダ。話、ナど、出来ルものカ」
邪悪な魔女が、邪悪な死体と、話をしている。再び絶叫を上げた俺は馬に命令する。
「踏み潰せええええ!!」
「うわあ」
大きく前足を上げた馬は、だが俺の命令を聞かずに、向きを変えて逃走を始める。いや、いい。逃げろ。この場は逃げるのが最優先だ。アレは人が戦える相手ではない。逃げるのは、恥ではない。今は町へ。人の居る方へ。
だが。
何か見えない物に、ぶつかって、馬から落ちる。
「何が?」
馬から落ちた俺は鼻から血を流している。口の中も盛大に切ったらしい。あの時の血の味を、思い出した。
理解の範疇を越えた出来事の連続。血の味、鉄の味、恐怖と混乱。
「あああ……いくな……戻ってこい……」
馬は無情にも、地面を這う俺を置いて走り去る。後ろから近づいてくるのは、死、そのもの。
「御免なさいねえ、力が安定しなくて……」
「ブザマ、いい気味ダ」
「ッ!!」
後ろの気配の元に向かって、振り向きざまに剣を抜いて薙ぎ払う。戦うしかない。
完全に不意打ちが決まったかと思ったが、動く死体は予想に反した機敏さで上半身をずらして、刃は空を切る。空を切った刃の力の流れをそのままに、体を一度回転させて強く踏み込む力に変える。位置を変え、勢いの増した剣先を、動く死体から少し離れていた少女の姿をした何かに向かって振り下ろす。
「死! ね! 邪悪な魔女っ!」
「なんでこっち? って、あ」
女に届く前に、剣が震え、歪み、弾けて、飛び散る。
鉄が砕けるような散り方ではなく、熟れた果実を地面に叩きつけたようにして周囲に飛び散る。
「いッああああああ゛ぁ!?」
砕けたのは剣だけでなく、剣を振った俺の腕までが、砕けている。肩の付け根からごっそりと失っている。
「結局、オ前ガ、殺す、ノカ」
「不安定な空間に手を突っ込むから……不可抗力よ。弁明の時間をくださいな。それと、彼の治療の時間を」
「イらん、無意味、ダ。ムしロ、手間ガ無くてイイ」
周囲に散って消えた俺の腕。痛みを越えた痛み。立ち込める血の匂い。恐怖。混乱。死の気配。
この時の俺には、もはやまともな思考など残っていない。
「魔女! 魔女ぉおおお!! 何だ! 何なんだ! お前たちはッ! どうして、どうして俺がこんな目に会わねばならん!? 痛い、痛い! 俺が何をした! 答えろ! 答えろ邪悪な悪魔どもッ!」
「それをね、話をしようと、ね……どーしてこうなったのかしらねえ」
「ドけアクマ、ヨ、終わラせル」
「悪魔じゃないから……」
うずくまる俺に、悠々と近づいてくる動く死体。肩口から溢れ出る血。逃れられない死が。迫ってくる。命の終わりが、やってくる。
「話、ニ、ナど、ならなかっタだろウ? だから……」
「ひ、わかった、話、話だな!? 何でも言う事を聞いてやる! 聞くから、助け、助けてくれ、死にたく、ない。神よ、神様っ!!!」
「……死ネ。ただ死ネ。ソれが、お前ノ、為ダ、お前は、ここで、死ね」
「嫌だ! 何故、何故、何故、何故……」
「あーあ」
そうして悍ましい動く死体が、俺の首に、手をかけて……
「わからないわ。わからない事だらけ。君の事がわからない。君の考えがわからない。君の選択が理解できない。それは価値観が違うから。常識が違うから。どうして逃げたの? どうして向かってきたの? ……どうしてそうすぐに殺そうとするの? 私には君の考えが、わからない」
「…………」
喜怒哀楽の抜け落ちた声で、黒い少女の姿をした何かは俺に語りかけてくる。死に向かう俺を、物を見るかのような瞳で見る、恐ろしく、悍ましい、悪魔のような、魔女。俺にはもう、その質問に答えるだけの力など無い。
そこで視界は黒の一色に染まり。
「だからこそ……」
少女の無機質な声だけが、耳に残る。
「……価値がある」
……
…………
………………
「……ぁぁぁ……あああああ悪魔あああああ!!!!」
色々と思い出してみれば、悪魔ではないか。黒猫め。あれは悪魔そのものだ。よくもまぁ自分は悪魔じゃないなどと言えたものだ。
あいつ……あいつら。
黒猫の魔女と、動く死体。
死霊。悪霊。何と言えば正確な名称になるのか、わからない。だが……
「やってることは悪魔だッ!」
いきなり人の前に現れて命も尊厳も何もかもを奪っていく、それを悪魔の所業と言わずして何と言うのか。記憶の中の俺は、悪魔に目を付けられた無力で哀れな犠牲者だった。不様な命乞いまでして……おのれ、おのれ……
善良……ではないにしろ、俺はあそこまでの罰を受けねばならないことなどしていない。悪魔に恨みを買うようなことも無い。召喚してもいない悪魔に目を付けられる由縁はない。
神か? あれは、強く神を呪った罪か? だったら神が裁きに来い。悪魔の出番ではないわ。
思い出したことで、あの時に受けた恐怖までもが、まざまざと蘇る。
恐ろしい死の体験……魂まで凍えてしまいそうな、前の俺の生の、惨めな最期。黒猫によって封じられていた過去の記憶。
アレが消えた記憶の全てか? わからない、わからないが、思い出したことの全てだ。しかし、思い出したはいいものの、重要な事は結局わからないままだ。あれでは何もわからない。ただ道を歩いていたら、殺された、そういう結末。話にもならない。
何故、俺は、殺されねばならなかったのか? そして動く骨となって復活したのか?
それと、あいつ。
わけのわからない事ほざいていた動く死体。俺の為に俺が死ねだと? 気が狂っている。正気ではない。
それらは、何としてでも黒猫本人に会って、奴の口から聞かねばならん。
相手がどれほど強大で恐ろしいものたちであろうと、立ち向かってくれる。それが俺の権利で、義務。全てを知らねばならない。理屈ではないのだ。
黒猫を呼び出す。
どんな犠牲を払ってでも召喚してやる。
知識が身に付いてからなどと、悠長なことは言っていられない。最優先だ、それが。
決意も新たに、立ち上がろうとして、今、自分がどういう状況になっているのか、わからなくなる。
躰が動かない。
俺は今、横になっているのか? それとも……
「な」
眠っていたのか、それとも気絶した状態でもあったのか。鈍い痛みの残る頭が、ゆっくりと覚醒していく。そして俺の目に映ったものは。
柱に括られた偽ジャンヌ、処刑人ジョフロワ、それと……
「ああ、目が覚めたのですね……はは……助けて」
詐欺師プレラーティ。
偽ジャンヌらと同じようにして柱に括りつけらている青年と目が合った。柱に括りつけられているのは、俺も、同じく。
空は曇っているが、今は昼だ。
俺が寝ている間に、何があった?
夏だけにホラー展開かな?




