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死霊の黒騎士と黒猫のルル  作者: 鮭雑炊


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 眠い。とてつもなく眠い。

 普通に立っていることもままならない。

 体も、重い。

 自分の骨の躰が猛烈に睡眠を欲しているのだと気がついた。一度気がついてしまったからだろうか、今や手足を動かすのも面倒になる程、俺の躰は俺の意思を離れて、その自由を俺から奪っていく。


「く……」

「ど、どうしましたか!?」


 ジャンヌの偽物であるジャンヌが不安を宿した瞳で俺を見る。俺の知っているジャンヌに、とても良く似た姿だ。だがジャンヌが決してしないような瞳であり、表情……


 男の方も心配そうにしているが、それは周りの状況を見てのことだろう。

 悪魔教徒どもが迫っている。

 数が多い。

 月も姿を見せないような暗い夜とはいえ、すぐにここに居る者たちに気がつくだろう。


「あいつらが……もうそこまで、逃げないと」


 ジョフロワという名の青年がつぶやく。それを受けて偽ジャンヌが何か言っている。近くに居るのに、どこか遠くで話しているようだ。内容が入ってこない。思考が働かない。


 こいつ等、もうどうでもいいだろう?

 一度は助けてやった。

 出来ることはしたのではないか?

 悪魔教徒どもに再び捕まったこいつ等が、その後、どうなろうと、俺は知らない。違うか?

 神にでも聞け。

 置いて行こう。

 走ってこの場から立ち去って、身を隠せ。

 己の身を守るのが最優先だ。

 逃げろ。

 今すぐ。

 手遅れになる前に。


 そうした考えが、思考の鈍る俺の頭の中に、浮かんでは消える。頭の中は、まるで深い霧に包まれたかのようだ。


「……正解は、どれだ?」

「せ、正解?」


 正解。向かうべき方向。道。

 正しい答えとは、それを決める者がいて初めて生まれるもの。


 それを決める者は、誰だ?

 俺だ。

 いつか、未来の、俺は、ここで二人を放り出して逃げ出すという選択を良しとするだろうか?


 否。


 恥じる。きっと後悔する。ここで見捨てて偽ジャンヌらが死んだと知った時、いつか未来の俺は、今日という日を思い出して、嘆き、悩むだろう。

 縁もゆかりも……無いわけでないが、薄い奴ら。今知り合ったばかり。生きようが死のうが知らん奴ら。

 だが。

 本来なら助けられた者を、俺が本気で動かなかったせいで助けられなかったとなれば、未来の俺は今の俺を許さないだろう。ジャンヌの時と同じく。きっと頭に残り続けるに違いない。


『助けられたはずだ、俺にはそれが出来た』と。


 あの時ああしていれば、そうしていれば、と。

 知っている。

 俺は、そういう奴だ。


 ならば。


「たかが眠気なんぞに負けるものか……」


 ここは動くべき。

『どうにも眠気に勝てなかったもので、助けてやるとの約束を違えて途中で仕事を放り出しました』などと、情けない。

 敵からの逃亡も恥だが、ただの眠気を理由にして、やりかけた仕事を中途半端で諦めるのは恥の最上ではないか。

 怠惰、怠慢、その最たるもの。

 俺の体に流れる血を遡れば、かつて戦場にて勇名を鳴らした大ゲクラン将軍も、いるのだぞ。悪鬼と恐れられたイングランドの黒太子とも直接戦った英雄だ。死後の世界で先祖に会う機会があるのかどうかは知らないが、もし会ったなら、俺はかの英雄に顔を晒すことも出来ない。その時の俺は、死後の世界であっても死にたくなっているに違いない。


「だからっ! 俺は捨てただろうがっ!」

「何がですかっ!?」

「いきなり怒鳴って済まなかったな! 独り言だ! 気にするな!」


 名も、先祖も、すべて捨てた。

 きれいさっぱりと。

 何が俺の体に流れる血、だ、馬鹿か、一滴も無いわ。骨だからな。ち、駄目だ……本気で思考が駄目だ……


「あっ!?」

「ひ!?」


 思考は鈍っても躰は動く。

 いや、動かす。無理にでも。

 崖から飛んだ時のように、両手で二人を抱えて、走り出す。翼は無い。あっても邪魔だしな。


「あ、い、こ、ど、どう、どうし、どうして、づ!?」

「口を開くな! 舌を噛むぞ! それから手足を動かすな! 走りにくいだろうが!」

「もう、かみまひた……」


 涙目で口を押さえる偽ジャンヌを気にする余裕も無く、夜の草原を駆ける。

 俺の足が大地を蹴る度に、大きく上下に揺れる二人。走り方を工夫する余裕も無い。


 しばらくの全力疾走。

 明かりを持つ集団が見る間に遠ざかっていく。

 目指すべき場所は……パリ。

 誰でもいい。銀の聖女なんぞと呼ばれているらしいプリュエルでもいいし、他の誰でも。

 とにかく悪魔教徒ではない人の集団の中にこいつ等を放り込む。それで請け負った仕事の完遂だ。完璧にやり遂げることになる。こいつ等もパリを目指していたようだし、それで十分。

 不足なく仕事をやり終えた後の眠りは、さぞ心地が良いものになるだろう。

 いやそれにしても眠い。眠いぞ。正直な所を言えば、二人を放り出して寝たい。今すぐ。


「翼っ、羽、どうして、飛ばない、のです?」

「生憎と、羽を動かす係の者が出払っていてな! 空を飛んで逃げることは出来ない」

「は、羽を動かす係て……天使様……」

「しつっこいぞ! 偽ジャンヌ! 何度も言わせるな! 俺は天使では無い! 喋るな! いいから口を閉じていろ!」

「す、すみ、すみま、すみません」


 眠気を紛らすため、わざと大きく放った俺の声に、本気の怒気がこもる。冷静さはどこに行った? 見当たらない。


 走る。ただ走る。

 飛べたのなら。

 翼に変化させることの出来るローブ、他にも透明になれたり。

 とてつもなく有用な物であることは認めるが、あと少し、あと少しが、どうにかならなかったものか。

 自由に翼に姿を変えられるのならば、後は飛べるようにすることくらい、黒猫よ、お前ならば、なんとでもなったのではないか? 手抜きか? 手抜きの仕事なのか?

 この躰にしてもそうだ。

 両手に大人を二人抱えて、馬よりも早く走る、など、生前の体であれば到底不可能な事すら問題なくこなしてしまう強靭な骨の躰。喰わずとも平気で、どれほど激しく動こうとも疲れることもない。風呂に入らずとも臭くならず、どこで寝ようが虫に喰われて痒くなる心配も無い。素晴らしい躰。

 だが。

 こうまで眠くなるのは、本当にどうにかして欲しい。これは重大な欠陥ではないのか?

 おしい。実におしい。色々と、あと少し、あと少しなのだ。どうにかならなかったのか黒猫よ。


 ……いや、これは言いがかり、なのだろう。


 物を造る事の難しさを、俺は知らない。

 変化するローブを造る。骨の躰を、造る。難しさも、苦労も、その仕事の中身も、何も、何一つ、俺は知らんのだ。


 神は自分に似せて人を造った。

 神も、人を造る時に、色々と苦労したのだろうか……馬鹿か、俺は。全知全能の神が苦労するなど、どういう発想だ。

 ……だが、完璧な者が造る物には完璧を期待してしまう、それは駄目な事か? 何故人は不完全なのだ? そんな疑問を持つことは、罪なのか?

 人は不完全な形でこの世界に生まれて、そして死ぬ。人は何故、人なのだ? 人の生に何の意味がある? 死に何の意味がある? 俺の質問に答えろ、神。

 全知全能ならば、可能だろう? 出来るだろう?

 出来るのにやらないのは、怠慢というものではないのか?


 ……これもまた言いがかり。

 意味の無い問いかけ。

 この手の問いかけは、これで何度目だ?

 思考は廻る、明確な答えの無い限り。


 俺が子供の頃から漠然と抱いていた疑問には、どうやら答えがあったらしい。黒猫がそれに答えた。その答えとは、神は実在しない、だ。神が居る場所は虚構の世界。必然、虚構の神から答えなど返ってくるわけもない。返ってきたとしたら、それは神の名を騙る、実在する何か、だ。


 虚構の中に居るとはいえ、俺程度の者にそこまで言われる神か。はは、全知全能な者は辛いな。さぞ生き辛かろう。ほら、想像すると笑えて来るではないか。無責任に非難してくる者に対して、あれやこれやと苦心する神という絵面。もし神に会うことがあれば労ってやらねばな、全知全能だと何でも出来ると思われて気苦労も多いことでしょう、とな。クク。眠い。


 俺が目指すべきは、黒猫だ。

 全知でも全能でもないが、大抵の不可能を可能にする存在。俺から見た奴という存在は、いつも適当に生きていて、遊んでいて、そして自由だった。あの黒猫程度の力が、俺は欲しい。その力があれば、惨めな鼠のように大地に縛られ、底辺を這いずって生きるようなことも無く、この骨の躰を本物の鳥の躰へと変えて、世界中、気の向くまま、自由に空を飛ぶことも、出来るようになるだろう。

 そういえば、俺の躰は何故骨なのだろう?

 姿には意味がある、何故その姿になったのかを考えるのは良い事だとか。これも黒猫の言葉だ。

 何故俺は骨の姿なのだ?

 俺の姿について、黒猫の奴が何か言っていたな。出会って最初の頃だ。たしか、意味など無い、ただカッコいいから、とか……


「おのれ黒猫! 許すまじ!」

「うー」


 八つ当たりで放った俺の怒声に驚いて、自分の口を手で覆っていた偽ジャンヌが反応を示す。

 いいや、これは八つ当たりでは無いな。無いはず。

 髑髏の見た目で苦労する羽目になったのは完全に黒猫のせいだ。何がカッコいいから、だ。おのれ。意味など無いではないか。カッコよさなど、どうでもいいわ。これが人と変わらぬ姿であれば、どれほど楽が出来ただろうか。……どれほど世界は、落ちついたものになっていただろうか。

 何もかも黒猫が悪い。

 ただ、眠気に関して、この状況になったのは、単純に俺が悪い。


 ルーアンの町を出たのは今朝の事、それからずっと動き回っていた。調子に乗っていた。抗いがたい睡魔が唐突に襲う躰であることを、十分に知っていただろうに。

 この状況は、必然。

 生まれるべくして生まれた状況。限界を見誤った俺の落ち度。

 馬ですら休憩を必要として、走る事を拒否していたというのに。

 俺の頭脳は馬以下か。


 いつも、そうだ。

 失敗してから気がつく。

 そういう性分。

 姿ではなく中身を変える魔法を、どこかで学べないだろうか?

 まぁ、あったとしても、詐欺には気を付けねばな。何せ魔法は難しい。魔法は存在しないと認めることから始めないと。本当に意味がわからない。


 そうこうしている間にも、俺を襲う睡魔の奴は強くなり、意識が途切れそうになる。兜の中を絶え間なく鈍器で殴られているようだ。吐き気までしてきた。これは、異常だ。


「おい、パリはこっちで合っているか? 合っているよな?」


 オルレアンの町とパリの町は、距離にしてそれほど離れていないはずだ。北上していけば辿り着く。ここに来る前にも相当な距離を進んできた。

 後、どれだけ走ればいい? 目的地は近いのか? それとも遠いのか?


「おい、偽ジャンヌよ、何か言え」

「うー」


 俺の問いかけにも、偽ジャンヌは口を手で覆って話そうとしない。

 青い顔をして首を振るのみ。

 喋るな、そう怒鳴った時の俺の命令を馬鹿正直に守っているのか? 顔まで青ざめて、俺を恐れている。

 見ようによっては殊勝な態度だが、本当はただの馬鹿なのだろう。聞かれたのだから答えろ、そこは状況に応じて態度を変えてゆけ。


「先ほどは怒鳴って済まなかったな、もう喋っていいぞ。口を開いていい。ただし舌は噛まないように注意しろ」


 かなり距離を取れたはずだ。追っ手の姿は見えない。走る速度を少しだけ落としてやる。

 

「う、う、う、ゆれ、揺れが、……吐きそう、です」


 顔を青ざめさせていたのは違う理由からだったようだ。

 さらに走る速度を落としてやる。


「う、う、う、ゆれ、が、う、おえ」

「…………吐くなよ? 吐いたら捨てていくからな?」

「俺も、も、も、もう、無理そう、で、うぷ……」

「…………」


 青ざめた顔をしていた者がもう一人。

 普通の人間は、荷物のように脇に抱えられて走られることに、耐えられない。そうか。またひとつ賢くなった。

 ゆっくりと速度を落としていった俺は、ついに歩くようになって、立ち止まる。完全に立ち止まってから、抱えていた二人を地面に降ろす。


 何をしているんだろうな、俺は。


 解放された後、張り付いたように地面に横になって寝そべる二人を見ながら、考える。

 本当に、俺は、何がしたいのだろう。

 助けを求める者を際限なく助けていった先には何がある? 意味がある行為か? 自分の為になっているか? 駄目だ、ここで冷静になるな、物事を深く考えるな。冷静になったら二度と走れないぞ。俺も横になりたい。

 疲れが押し寄せてくる。肉体としての疲れではない。ただこれは、想像以上に厄介だ。休め、横になれ、と、何かが叫んでいる。戦火を知らせる早鐘の音のように、頭の奥でうるさく鳴り響いている。


「偽ジャンヌよ。貴様、パリに行くのだったな? 何をしに行くつもりだ?」


 少しでも眠気覚ましになれば、と、話を振る。


「はぁ、ひぃ……うう……それは、本物の聖女様に会って、謝罪し、断罪される、ため、です。偽物の聖女としての、最後を求めて……」

「ま、て、ジャン、ヌ……君に断罪は、必要、無いから……俺は、あんたを助けたいから、パリに行くんだ……」

「ジョフロワ、罪人は裁かれなければ……」

「ならば俺が先だな。俺はきっと地獄に行く。先に地獄に行って蓋をしてくるから、ジャンヌ、あんたは来れない」

「善人が間違って地獄に落ちてしまうのを天使様が黙って見過ごすはずがないでしょ、それでも地獄に行くなら二人で……」

「……ジャンヌ」

「ジョフロワ……」


 再び始まった二人の世界。

 何を見させられている? 鈍い痛みまで伴い始めた俺の頭の中では、今すぐ見捨てろ、という思いと、始めた仕事を最後までやり遂げろ、という思いがせめぎ合って火花を散らす。今の所、見捨てるのが優勢だ。


「パリの聖女か……銀の聖女、盲目のプリュエル、あれが本物の聖女だと?」

「え?」


 何かを思うことも無く、ただ何気なく呟いた俺の言葉を拾って、目を見開く偽ジャンヌ。


「本物……では……無いのですか?」


 本物かどうかで言えば、この世界に本物の聖女はいない。

 誰かによって望まれ、作られた、何人かの聖女扱いされる女がいるだけだ。プリュエルも例外ではない。ただ、それを上手に説明することが出来そうにない。本物では無いのだと、だからといって嘘だと断罪する気も無いのだと、悪意を込めずに、そう伝える手段がないのだ。

 瞳を揺らして俺を見上げる女にかける言葉を探す。


「……そう、不安そうな顔をするな。本物のジャンヌはそんな表情をしない。いいか? ジャンヌの偽物よ。本物のジャンヌ、本物の聖女というのはだな…………」

「天使様?」


 続く言葉が出てこない。

 本物の聖女とは、何だ。


 聖女。聖人。神の奇跡を宿した者。

 ジャンヌ・ダルクは本物の聖女だったか?


 神の声を聞き、神に従い、行動を起こした。

 教会によって聖女と認められ、魔女として断罪された、あのジャンヌだけが本物の聖女だと?

 ジャンヌが間違いなく本物の聖女だと言うのならば、今、俺の目の前にいる偽物の聖女とは、何が違うのだろう。


 神の声を聞いたか否か……違う。

 それを他者が証明することは出来ない。本当に神の声を聞いたのかどうかなど、本人以外には知りえない。そもそも、どんな存在、理由であれ、本人が神の声を聞いたのだと信じ込んでいるのならば、その本人の虚構の世界において、それは本物の神の声なのだ。だから、違う。神の声を聞いたかどうかは重要ではない。

 何を思って行動したか……それも違うだろう。

 神の声と同じく、何を思って行動していたかなど、本人以外に知りえない。なにより、人のためを思って行動した者が聖女ならば、そうした者の全員が本物の聖女と呼ばれてしまうではないか。だから、違う。


 何を為したか。


 そうだ。それだ。

 聖女が聖女である理由。人の為に、神の為に、世の為に、何を、為したか。

 何かしらの偉業を為す姿を多くの人が見て、そして認めれば、それを為した人物は本物の聖女と呼ばれる。

 只の、どこにでもいるような少女が、聖女に、成る。


「ああ……」


 見誤っていた。

 俺は、ここ、この場に至るまで、ジャンヌ・ダルクという少女を、その価値を、見誤っていた。

 神の声に拘り、神の奇跡に拘り、何も見えていなかった。


 ジャンヌ、彼女の声で、言葉で、行動で、多くの兵士たちは奮い立ち、あの劣勢を覆して俺たちに勝利をもたらしたのではなかったか。


 あと一手、ほんの少しで、この地はイングランドに支配されていた。あの当時を振り返って見れば、シャルル王太子が王になる目なんてものは、存在しなかったのだ。それほどの劣勢を跳ね返してシャルル王太子をランスの地に導き、その頭上に王冠を被せさせた。それは奇跡そのものだったのではないのか。


 なんということだ。

 奇跡ならば見続けていた。彼女のすぐ近くで。


 神の恩恵があったから、奇跡は起きた? 違う、実際に動いて、為した者たちがいたから、奇跡は起きた。


 重要な戦いでイングランドに勝利し、その勢いを殺し、反撃まで出来るようになった、その要因は様々。多くの者が協力し、努力し、幸運まで味方につけて、勝利した。彼女一人だけで為した偉業ではない。だがその中心、流れの大元には、神の声を聞いた少女がいた。

 そこにいたのは少女だ。

 神ではない。

 俺が認めていたのは、戦う少女、ジャンヌであって、神ではなかった。


 神の奇跡が見たいから、彼女を見殺しにした、だと? あ? ふざけるな、あの時の俺よ。何が本物の聖女であれば神の奇跡で助かるだろう、だ。何も理解していない愚か者よ。あの時の俺が最も大切にすべきはジャンヌという少女そのものだったはずだ。彼女の命であったはずだ。俺がその節穴のような眼を真摯に向けるべきは、彼女そのものだったはずだ。……奇跡に目が眩んだ盲目の愚者。人の真の価値に気付かぬ愚図。もはや過去の俺を殴る程度では済まさぬ、その間抜け面を踏み潰して二目と見れぬ顔にしてくれる。

 誰か教えてくれ。

 どうすれば過去の俺を裁ける?

 手が出せない。裁く方法が無い。過去に己が為した事が、現在の俺を苛む。

 神でも悪魔でもいい、どんな存在でもいいから、俺を過去へと連れて行ってくれ。黒猫か? 黒猫ならば可能か? 出てこい黒猫! あいつに頼めば……ちっ。

 ああ、それを放棄したのも俺だ。愚か者だ。俺ほどの愚か者を俺は知らない。

 上手くいかない。何もかもが。

 憎い。俺は俺が憎い。何も出来ない俺が憎い。不様な俺を生んだ世界が憎い。


「……あ、あの……天使、ではないというのなら……どう、お呼びすれば……」


 気がつけば。

 地面に座り込んで震える女と、それを庇うようにしている男。男もまた、女と同じように震えている。


「お怒りを、お納め、ください、二度と天使とは呼びません……さ、寒い、震えが……」


 また考え事に集中していて会話を聞いていなかった。


「罪人は俺なんです。裁くなら俺だけを。彼女にはどうか慈悲を。神の慈悲を哀れなる者に……」

「何の話をしていた……?」


 俺が考え事に没頭し始めた後、何があった?

 男と女は肩を寄せ合って震えている。ジャンヌから離れろ、ジャンヌではないが、いや、ジャンヌだが。


「わ、わたしが、何度言われても、天使様と呼んじゃったから……怒りを買って」

「貴方の怒りで、空気が震えて……」


 念話か? 知らずに念話を発していたのだろうか。それとも別の要因か? 寒いだと? わからない。

 まぁいい。今はこいつ等だ。呼ぶなと言われた天使呼びをされて俺が怒っているのだと、そう誤解をしている。怒っていない。そこには全く怒っていない。


「俺が少々苛立っていたのは、お前たちには関係ない事によるものだ、気にするな。天使呼びならば別に怒ってはいない。そうだな、発言を撤回しよう。好きに呼べ、天使でも悪魔でも」


 呼び名など、どうでもいい。今の俺を一言で正しく言い表せる呼び名など存在しない。適当な名で呼ばれたくは無い。ただ、見た目だけならば……


「何も思い浮かばないのならば……黒騎士、そう呼べ。生憎今は馬の奴も出払っているから騎士の面目も何も無いが、な」


 ――黒騎士さん。


 親し気に呼びかけてくれる者は、もういない。


 しかし、どうしたものか、俺を表す名、今まで聞いた中では死霊の黒騎士というのが、今の俺に一番近いのではなかろうか。いつまでも過去に囚われている亡霊がごとき存在。過去を見て、現在を生きていない。過去の愚かな俺をどうこうして、今の俺が賢くなるわけでもないだろうが。愚かさ、ここに極まれり、だ、いい加減にしろ。


 こいつ等を安全な場所に放り出す。寝る。その後、最優先で馬の回収。今はこれ以上は頭が働かない。吐き気がする。これは限界かもしれない。


「守ってくれて、ありがとう、ジョフロワ」

「ジャンヌ、君を守る事だけが、罪人である俺の贖罪。使命なんだ」

「ジョフロワ」


 何故だろうな。踏み潰したい。呪うぞ、貴様ら。


「……先ほどから罪人罪人言っているが、ジョフロワとやら、お前は何をしたというのだ?」


 気になった、というわけでもない。

 ただ、聞いた。

 だが。


「……俺はジョフロワ・セラージュといいます。数日前までルーアンの町の住人、でした。俺こそが大罪人……イングランドに命じられて聖女ジャンヌを処刑した……処刑人。俺なんです、ほんの数日前、彼女を処刑台に上げて、火をつけて、灰を川に流した……世界に地獄を招いたのは……俺なんです……俺は……許されざる者、なんです」


 なんだと……


 俺は今、何を聞いた?

 混乱。もう何も考えたくない。思考を放棄しろ。もう限界だ。眠い。寝ろ。

 眠気は、もはや物理的な圧力でもって、俺の頭蓋の中を乱暴に叩く。


 処刑人。

 ジャンヌ・ダルクを処刑した、男。


 ひび割れた壷からゆっくりと水が染み出るように、失われたはずの記憶が零れ落ちて、染みの断片を作る。


 世界は、深い闇へと。




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