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途中途中、ルーアンの町から逃げてきた集団の横を馬で走り抜く。
こちらからは何も手を出さずにただ通り過ぎていくだけだが、俺の姿を見た集団は大いに驚き、勝手に混乱の坩堝に落ちて行く。まだ聖職者の団体らしきものには出会っていない。
奴らめ、どれほどあわてて逃げて行ったのか。
「黒猫よ。例の遠くを見る魔法で聖職者どもがどこに行ったかわかるか?」
「え? あれは事前にカメラ……あー、魔法の準備をしておかないと見れないんだよ。だから知らないなー」
「ちっ、進む道を間違えたか?」
聖職者どもが東に逃げたと聞いて、真っ先に南東のパリの町を思い浮かべたが、ルーアンから真東といっていいボーヴェの町へ逃れた可能性もある。いや、しかしイングランドの走狗になり彼女を貶めたブルゴーニュ派の司教、ピエール・コーションという男はボーヴェから逃れてきたのではなかったか。
次に出会った者に話を聞いてみるか。話になるといいが、今の俺の姿を見てはな……
聖職者どもの行き先に確信が持てずに、それでもパリへと続く街道に沿って馬を進ませていくと、それまで軽快だった馬の足取りが悪くなる。従順であった馬はへそを曲げたかのようにやがて走らなくなる。
「馬が限界っぽいね。休ませてあげないと」
「さほど進んでいないぞ。俺はまるで疲れていない」
「骨だしねー、けど君だって疲れはちゃんと溜まるはずだよ、そうなってる、休養、大事」
少女の声で喋る黒猫の休養を提案する言葉に応えるかのように馬が嘶く。馬の泣き言を聞きながら背の上から周囲を見渡す。この骨の身体は都合がよく、暗がりでも視界が遮られることは無い。だが周囲を見渡しても馬を休ませ休憩できるような場所はなさそうだ。
「旅人のための修道院でもあればな。馬に水を飲ませ飼葉を食わせてやれるのだが……」
「そして巻き起こる大騒動、と」
当然か。こんな夜分に動く骸骨が訪問してこられたらな。迷惑どころの話ではないだろう。馬の鞍をまたいで地面に降り立つ。水場を求めて手綱を引き馬を歩ませる。揺られる馬上に器用に座っている黒猫に問いかける。
「ところで黒猫のルルよ、俺や貴様は修道院や聖堂の中に入ることはできるのか?」
「? おう、不意を突かれた質問、まぁそうか、神様を信じるなら当然の疑問だった。悪魔的なものは聖なるフィールドに進入禁止みたいな、そういう発想ね。うん、ま、問題なく入れるだろうね、入られる方にとっては嫌でしかないだろうけど、あと、さりげなく私まで悪魔扱いするのやめて」
「そうであったな、貴様は悪魔ではない、そう云い張る悪……猫であった」
「絶対納得してないよね!? あー、けど、もう悪魔でもいいかなって思い始めているよ。厳密に定義しようとしたって、どうせ最後は言葉遊びになっちゃうからねー」
「それも適当か?」
「適当適当。君も自分という存在がどういうものであるのか、あんまりこだわらない方がいいよ」
「…………」
月の明かりに照らされて、街道を進む骨の騎士と喋る黒猫、悪魔以外の何者でもない。俺たちを見た者に聞けば100人が100人、それは悪魔だと答えるはずだ。
「セーヌ川に沿って進めばよかったか? 案外聖職者どもはそちらの道を行ったのかもしれん。仕方ない、道を外れて川の方へ行こう、探すのは水場だ」
「あ、水なら出せるよ?」
「……水を出せるのか?」
「出せるよ、さすがに飼葉は用意してないけど、あ、人参はあったかな?」
「便利なものだ、それも魔法か?」
「そうね、魔法だね。どこでもいいので、どっか人目につかなさそうな場所に移動してちょーだいな。そこで休憩ね」
街道を逸れて小高い丘の反対側へ移動する。ちょうど木々が生い茂っていて街道を行く者からの視線は通らない。馬が食べそうな草も生えている。ここでいいだろう。
「よし、じゃあ先ずは水、水筒じゃ馬が飲みにくいよね、直接地面に出しちゃおう。んで人参、あと馬が食べられそうなのは、あ、角砂糖とか喜ぶよね」
「待て待て待て!」
「ん? なんぞ?」
休憩地に着くなり馬から飛び降りた黒猫は地面に視線を走らせる。その視線の先の、ちょうど窪みになっていた場所からふつふつと綺麗な水が湧き出る。次いで、新しく生まれた水場の横に何本もの人参がボトボトと落ちて来て積み上がった。
「何だそれは!?」
「いや何だと言われましても、水を出せるって言ったよね?」
「何でそんなに簡単に出せるのだ? 魔法の儀式とか供物とか、あとは呪文とか魔法陣とか……あの、その、あれだ」
「あ、そういうのに拘る人だった?」
「こだわるも何も……」
考えてみれば、本物の魔法について俺は何も知らない、そういうことも出来るのかと納得するしかないのだ。今、聞くべきことはそこじゃない。
「黒猫のルルよ、俺にも魔法が使えるか?」
「魔法が使えるか、ねぇ」
地面に湧き出た水を存分に飲み、人参を食み始めた馬を金色の瞳を細め満足気に見やりつつ黒猫の悪魔は続ける。
「魔法使いに憧れる、うん、男の子なら当然だよね」
「おい、俺を子供扱いするでない。憧れなどでもない。便利で使えるものならば使ってやろうというだけの話だ」
「恥ずかしがりなさんなってのー、もー、骨の騎士さんはクーデレですかー?」
「恥ず……、いや、くーでれが何かは知らんが、さっさと答えろ黒猫」
「結論から先に言うとさー、魔法は使えない、誰にもね。君にも私にも、神様にだって無理だろう」
「はあ? 貴様は何を言っている? つい先ほど、俺に見せたではないか、あれは魔法だろう。いや、この骨の身体とてそうだ。すべて魔法ではないか」
「うしし、ナイスなリアクション。そんなに開くと顎の骨が外れるよ?」
猫の表情など、今まで気にしたことも無いが、明らかに楽しんでいる。俺をからかっているのか?
「ルールがある」
「む」
黒猫と俺との間に、何もない空中から発生して落ちて来る木材たち。地面の上で組み上がっていく。
「水が高きから低きへ落ちて行くとか、木が燃えれば暖かいとか、そんな感じの簡単なルールさ。この世を支配する明確なルール」
組み上がった木材から火が生まれ、俺と黒猫を煌々と照らし出す。
「誰もその支配から逃れることはできない。神様ですら」
炎が踊る。炎は一部切り離されて夜の中空に一つの数式を生み出す。喋る黒猫と、外れんばかりに顎を開いている俺。黒猫が問う。
「数学は、お得意?」
1に1を加えたものは2と等しい。
「得意かどうかは知らん。だがそれくらいは知っている。子供の頃には数学なども習っていた」
「へぇ。じゃあ、この数式には疑問もないよね?」
「ああ」
「んで、この神様や悪魔にも疑問が差しはさめないような数式を、こうしちゃう」
「っうお!」
焚火の火が一気に燃え上がり人の手の形をとる。五本指の手首から先の手のひら。それが一度俺を脅かした後、数式の前へと移動する。おい、俺を驚かすのは必要か?
「これで、どうよ?」
手のひらが”1を加える”の部分を隠している。
「どう、とは何だ?」
「察しが悪いなあ。1は2と等しい。そういう数式になってるでしょ? 不思議だね? おかしいね? はい、これが魔法だよ」
「隠されているだけではないか!?」
「そうだよ。それが魔法ってやつの正体なの!」
「回りくどいっ! いや、それよりも、そんな当然なこと、炎の魔法まで使って仰々しくすることか、いや魔法とは……」
「はい、魔法タイム終了」
一度、俺を小馬鹿にするようにして指を一本立てて振った後、炎の手と数式は虚空へ消える。だから必要か? その動きは?
考える俺の前に残されたのは魔法で生まれた焚き火、魔法で、生んだ? 黒猫の悪魔が魔法を取りやめれば、この焚き火は煙のように消えて無くなるものか? 終了を宣言した後、空中の手と数式は消えたが焚き火は残っている。
「察してくれたかな? 今、君の目の前で燃えている焚き火は、もう魔法とは関係ない状態で燃えているんだ。自然の法に則ってね。木を集めて頑張って火を付ければ、誰にだってこの状態に出来る。色々と省いている、いや隠している。魔法使いに魔法は使えない。君からは魔法に見えたそれは、私にとっては魔法ではなく出来て当然な原理で持ってやったことなんだよ」
「その原理とは何だ? さっきのはどうやった?」
「別の場所に保存していた木を取り出して、しかるべき方法で燃やした。炎の手の操作も手動さ。詳しくは説明しないよ、物理化学……理解してもらうための前提を、君は知らなさすぎるもの」
「俺は知らなさすぎる、か……いや、十分だ。わかった。黒猫のルルよ、俺も魔法が使えるようにしてくれ。魔導書なんかは無いのか?」
「わかってないっぽいよ!?」
黒猫よ、そんなに口を開くと顎が外れるぞ?
そしてわかった。つまりは知識なのだ。この黒猫が持っていて、俺が持っていないものはその手のもの。魔法使いは魔法が使えない、それは言い換えれば、魔法は誰にでも使えるということ。ならば俺も当然使えるようになるはず。そのための知識。その為の魔導書。
「対価を言え、俺に支払えるものは何だ? 金銀財宝ならばいくらでも集めてきてやろう」
「まーだ言ってるよ。適当にでたらめ書いた本でも高値で買いそうだなあ。君はいずれ詐欺にでも引っかかって泣く羽目になる。うん、断言できるね」
「これでも俺は慎重に動く方だ。無用の心配をするな。とにかく何でもいい、何か無いのか?」
「嘘だぞ。クレジットカードの仕組みも知らずにゲーム課金しまくる子供のような幼稚さがあるぞ。……あ、いいこと思いついたかも。魔法の肩代わりサービスとか。それこそ魔導書みたいなのを渡しておいて、使った分、後で対価をたっぷりと請求する、的な?」
何やらうにゃうにゃと言い出した黒猫、だがすぐに耳をピンと立てて警戒をする。
「お客さんが来た」
「っつ?」
俺の剥き出しの頭蓋骨の上にふわりと何かが降ってくる。手で持つと、それはきめ細かく高級そうな茶色の毛布。
「隠して隠して。私は、ええと、どうしようかな」
「貴様、木材といい、どこから物を出す? 兜も出せるのではないか?」
「ふふーん、黒騎士さんの膝の上にでもお邪魔しようかね、ほら、焚火の前で座って座って」
黒猫にせっつかれて焚火の前に陣取り胡坐を組んで座る。毛布を頭から被ると黒猫が飛び乗り、毛布の隙間から入り込んでくる。
すぐに人がやって来る。人参をしっかりと全部食べ終えてうとうととしていた馬が首をあげて静かにひとつ嘶く。
「やあ、やあ、やあ、申し訳ない、楽しそうな人の話し声と焚火の明かりが見えたので、邪魔であると知りつつもやってまいりました。どうか一緒に焚き火を囲ませてはくれませんかな? 5月も終わるというのにまだまだ夜は冷える」
目深にかぶった毛布の隙間から覗き見ると、それは馬を連れ、従者らしき二人の子供を引き連れた一人の老いた騎士だった。
ちょうどいい。こいつらから話を聞いてやろう。