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アルテュール・ド・リッシュモン。
シャルル七世王の軍を任されている元帥の地位にある、王国の重鎮。
アルマニャック派の一員として、ジャンヌと共に肩を並べて戦場に立ったこともある。
野戦での敗北を続けていた王国軍の総大将となり、その直後の野戦にて大勝利をもたらした名将。
ジャンヌと同じく、戦いの流れを変えた者。
滅亡寸前のヴァロア王朝を助けた救国の英雄のひとり。
だが、その華々しい戦果とは裏腹に、救われたはずの当のシャルル王や、その側近たちからの受けは悪い。大勝利をもたらした戦いよりすぐ、宮廷から遠ざけられて、自分の領地に追いやられ、シャルル王の戴冠式にも呼ばれなかった。
とんでもない冷遇というやつだが。
理由は彼の性格にある。
正義の人。
彼を慕う者は敬意を込めて、そして彼を嫌う者は嘲りを込めて、そう呼ぶ。
何事にも規律と正義を重んじて行動し、発言する。
相手を選ばない苛烈な行動と舌鋒は、時に王、その人にまで及んだ。
賄賂や横領といった不正を正すための行動には血が伴い、王が信頼する側近たちを死に追いやって結果、味方からも嫌われる。
慣習的に行われている略奪行為すら嫌い、何かと制限をするため、一部の傭兵たちからも酷く疎まれていた。傭兵たちへの報酬は現地調達、なんて話も、そこいらには転がっているのに、だ。
規律と調和の為の制裁が、味方同士の不和の元となってしまっていた。
かく言う生前……前世の俺自身もまた、同じ陣営にいたにもかかわらず、嫌っていた。
だがどうだろう。
一歩も二歩も、後ろに下がって、冷静になって過去の俺を俯瞰し顧みるならば、悪を許さないその性格から彼を嫌っていたのではなく、戦場に置いて、ともすれば一番にも、ジャンヌが頼っていた人物だからなのだろうと、そう思う。
つまり、嫉妬だ。
何故俺ではないのだ、と。
醜い嫉妬の感情が、俺とジャンヌから、あの人物を遠ざけさせた。
政治の駆け引きの場にて、リッシュモン元帥をジャンヌから遠ざけるようにとの指示があり、俺はその指示にかこつけて、共にある事を望んでいたジャンヌから、かの人物を引き離した。
……酷い奴だ。俺は。神ですら救いようがないという奴だ。神など居ないらしいが。
今なら思う。
今更思う。
手遅れになって、ようやく、想う。
かの戦上手が、いつまでもジャンヌの横にあって兵の指揮を執り続けていたなら、ジャンヌの運命はどうなっていたのだろうか、と。
戦場にてジャンヌが捕虜になることも無く、当然、処刑されることも無く、今も健在でイングランドやブルゴーニュ相手に華々しい戦果を上げさせ続けることが出来ていたのだろうか、と。
ジャンヌは彼を信頼し、また彼もジャンヌと共に居る事を望んでいたはずだ。
王に嫌われていたとはいえ、相応の力を持っていたリッシュモン元帥ならば、王や家臣どもの言いなりになることもなく、我を通す事だって出来たはず……
……ちっ、捨てた。愚かな俺は自ら捨てたのだ。何もかもを捨てた俺が、誰かに何かを言う権利なんぞ無い。
過去に引きずられるのは、もうよせ。
これ以上の不様を晒すな。
あらゆる過去のしがらみは、名前と、この身の肉と共に捨て去った。
それは確かに、黒猫からの好意の贈り物であるのだ。
自分を取り巻く状況に押しつぶされそうな日々を送っていた俺は、責任を負う必要のない、ただの動く骨と変わり果てて、一気に楽になった。言いたいことは山ほどあるが、辛い思いをしていた俺の心が、神ではなく黒猫によって救われたのは、認めがたくとも認めるしかない、ひとつの事実である。
楽になったのなら、再び背負い込むこともない。問題は今だ。世を混沌に導く、地獄から蘇った死霊の黒騎士であるらしい俺が、今、彼の御仁から目を付けられた。ならば、どうするか、だ。
地獄も知らんし、世を混沌に導くのではなく、むしろ人の世のために秩序を取り戻そうと努力しているし、黒い鎧は着ているが、死霊呼ばわりされるのは、ちょっと違う、言葉にならない奇妙な状態で生きているだけの、無力な骨だが。
とにかく、リッシュモン元帥は何かと問題のある人物ではあるが、その能力に疑いはない。
南で兵を起こしたのなら、それに呼応する者もあるだろう。
規律に厳格すぎる性質は、それを嫌う者も多く生まれるとはえ、それを好む者もまた多く生まれるもの。実際に彼からの断罪を受けることのない貴族や民衆からの人気は高く、信奉者も多い。声を掛けるだけかけて、何も起きず、なんてことを期待するのは駄目だろう。
オルレアンの地で蠢く悪魔教諸共滅ぼされる予定の俺の問題は、良くはないが良いものとして、問題は他にもある。
「真の聖女にして光の聖女、リュミエラ様のことを自称聖女だとぉ!?」
いきり立つゴウベル。いわゆるリュミエラに脳をやられた男。
場所は変わらずにルーアンの町の講堂の中。報告にやって来たルーアンの兵士から詳しい話を聞いてからも、怒り収まらずといった様子で、大声を出している。
「パリに居る銀のなんちゃらだけならいざ知らず、リュミエラ様までを自称聖女などと貶めおって! 元帥だろうがなんだろうが、リッシュモンめ、すぐにでも戦場にて首を狩り取り、塩漬けにしてリュミエラ様の食卓に並べてくれるわっ!」
「やめろ、嫌われたいのか?」
生首を捧げられたリュミエラが叫び声を上げて逃げまどう姿が容易に想像できる。
生首を鑑賞しながらの食事など、無垢な者には刺激が強すぎる出し物だ。二度と口を聞いてもらえなくなるぞ。
「光の聖女は別として、銀の聖女の方は教会が認定したのだろうに、そっちも討伐の対象なのかね? その他の聖女を自称する者たちと一緒の扱いにするとは」
泣き虫が報告に来た兵士に確認を取る。
「奇術、魔術を用いて神の奇跡の真似事をする痴れ者共と、それに騙されて踊らされる愚か者ども、と、リッシュモン元帥は言っているようですが……」
「はっ! あの奇跡を見てもおらん奴が、知った風な口を聞きおって!」
奇術、魔術を用いて神の奇跡の真似事をする者共、か。
ふん、正義の人め、ぐぅの音も出ない。見てもいないのに簡単に事実を言い当ておって。だから嫌われるのだ。
「教会と言っても、このフランスの地にいる聖職者たちが公表したものですからな、未だローマにいる教皇からの動きは無い、はずです。あるいは水面下では動いて連絡を取り合っているのかもしれませんが……」
「そうなのか?」
ナゼルの言葉に、首を傾げる。
銀の聖女、プリュエルに関しての聖女認定は教皇が認めたものだと勝手に思い込んでいた。
教皇が関与していないとなると、話は少しばかり複雑になってくる。
今後、ローマに居る教皇が一声何かを言えば、それだけで事態がいくらか変わりうる。
静寂を保っているのは、ただ単に事態の推移についていけないだけなのかも知れない。動きも何も、正確な報告を受け取っているかどうかもわからないという話だ。ジャンヌの処刑と、その後の俺たちの登場は、ほんの少し前の出来事なのだ。それに嘘と噂が入り乱れて、この地に居て尚、全容の正しい情報など知り様もない。迂闊な事は言えない立場ならば、今は静観というのも、理解できる。
「どうにせよ、教会の権威も落ちたものだな」
プリュエルの聖女認定が教会支部の独断による暴走ならば、それは教皇が軽視されているということだし、正式に聖女認定されて尚、自称聖女などと言われるのも、教会への軽視から来るものだろう。
「一昔前の黒死病の時には、聖職者たちも大勢が倒れて死んでいきましたから」
医者の一言で、子供時代の記憶が蘇る。
昔は、教会は今よりももっともっと強い権力を持っていたのだ、と、老いた教師が言っていたのを思い出した。
祈れば救われると言っていた者たちが、祈っても次々に死んでいく。
その姿を実際に目にした人々が聖職者の言う事を聞かなくなるのは、ある意味で当然の流れだったのだろう。権威は落ちたとはいえ、今でもまだ、教会は十分に根強い権力と影響力を持っているのだが。
人々の祈りの行き先は、どこだ。
「む、そうだ、ナゼルよ。貴族や聖職者たちも、いくらか町に戻ってきているのだろう?」
「真っ先に逃げ出した人たちですな、ええ、はい、いくらかは戻って来ております。今は隠れるようにして息を潜めておりますな。黒騎士様を恐れているのですよ」
「そいつらから金をむしり取って……いや、援助を受けるとよい。研究と、それから噂を流す方もな。俺の名……存在を使っていい。断ったら夜中、黒騎士が寝室に忍び込んでベッドの横に立って、何故援助をしないのかと問い質しにやってくるぞ、と、そう言ってやれ」
「それは……さぞ震えあがるでしょうな」
見えぬもの見えるようにする研究、および、猫ではなく鼠を殺すように仕向ける工作の資金の目途が立った。
口の端を上げて笑う医者は悪人のようだ。
昼なお薄暗い講堂と相まって、どうにも悪事の相談をしている図式になっているが、何も悪いことをしようとしているわけでもない。
俺の姿も善か悪かと聞かれたら、悪かな、と答えるような姿をしているが、悪いのは見た目だけだ。俺の行動は世のため人のためになることだと信じている。
それにしてもナゼル。俺の口から直接、神の啓示を授かったからだろうか、医者の態度には、かつての自信の無さは見えず、表情からは逆に、今までには無かった強い意思を持ったことが知れる。
良い兆候、と言えるのだろうか。
俺の方は俺の方で、神の言葉を勝手に捏造してしまったと言う不徳の感情から、後ろめたい気持ちと同時に仄暗い快感を得ているのを自覚している。何もしないお前の代わりに善い事をしてやっているのだぞ、と。
……救えない。
救う神など居ないが。
「娘よ、俺が戻ってくるまでに研究を始めるための準備くらいはしておくのだ」
「はい、黒騎士さま、どれくらいで戻ってくるのですか?」
「知らんが、まあ数日といったところか」
「はい、黒騎士さま……け、研究の準備とは何をすればいいのですか?」
「知らん、医者に聞け」
「えっ!?」
「はい、黒騎士さま、目に見えぬものを見るために、何が必要なのです?」
「知らん、それも医者に聞け。それと医者よ、娘の件だけでなく噂の件もだが、万事任せた。ではな。俺たちは急がねばならん」
「えっ!? えっ!? ちょ!?」
ゴウベルと泣き虫を伴って講堂を出る。
リッシュモン元帥が行動を起こすならば、それは迅速かつ強烈なものになるだろう。ゆっくりとしていられる時間は無くなった。
子供たちと共に講堂に取り残された医者は目を丸くしていたが、その瞳の奥は使命感で燃えていた、と思う。そうに違いない。
迷える者は明確な使命を授かると、とにかく燃えるのだ。
俺が黒猫と違う点は、それだ。
救いあげて、後はお好きに、などと言って無責任に放り投げるなど、あってはならない。
正しいのは俺の方だ。だろう? 黒猫よ。
◇
「とはいえ、俺が急ぐ必要は無かった」
悪魔教を滅ぼすのがリッシュモン元帥の兵だろうが、イングランドの兵だろうが、俺にはさほど関係は無かったな。
悪魔教を打ち滅ぼした勢力には、いくらかの名声が得られようが、俺にしてみれば悪魔教が世から消えて、世界に秩序が戻るのならば、それが誰でも構わないのだ。リッシュモン元帥が俺やリュミエラたちを滅ぼそうとするのは、また別の話である。
それについても、誰にも邪魔されず、こっそりとリッシュモン元帥に会って話をしてみれば、なんとかなるのではないかと思っている。
誤解があるならば解けばいい。
言葉によって。会話によって。
互いに人の言葉を喋る者同士、話せばわかる、というのはルーアンにいた、あの吟遊詩人が言っていた言葉か、いや、それとも黒猫に聞かされた言葉か? それとも、最近になって俺が自然と思い始めていることだろうか。
人は意外と、人以外の存在にも寛容だ。
とにかく会って、俺や聖女にされた娘たちがシャルル王や世界に害をもたらす者ではないと説明する。その後は、その後の元帥の反応を見てからだ。
名将アルテュール・ド・リッシュモンが南からやってくると聞いて、いくらか焦ってしまったが、冷静になって考えてみれば、そういうことなのだ。
◇
「む、また村か」
ルーアンを出て、ひたすら南下。
途中、途中、パリにいるプリュエルや、ただの猫となった黒猫の様子を見に、つい東に向きを変えたくなるが、なんとか気持ちを抑えながら、オルレアンの町を目指して南下を続ける。
受けた仕事を責任をもって最後まで遂行する。これは気持ちの問題だ。未来の俺が今の俺を馬鹿にしないための。
ルーアンからオルレアンまで、人の足ならば2日か3日。訓練された早馬ならば半日で踏破出来る距離。装備込みの騎兵ならば、休憩しつつも2日といった所か。
エブルーを通過しドルーを通過し、次のシャルトルを目指して進む。シャルトルを越えて行けばオルレアンまで一息である。
それなりに無理のないペースで馬を走らせているが、やはり、そろそろ限界が来る。途中の村々での交渉にも時間を取られた。シャルトルの町で一夜を明かすことになるだろう。
南下を続ける途中に立ち寄った村々の様子は、酷いものだった。
この辺りはつい最近までイングランドの支配地域であったが、ジャンヌの処刑と、その後の混乱において、今やどこの勢力のものともつかぬ混沌の場と化した。
盗賊が横行し、襲われた村の若者が盗賊となって近隣を襲う。そしてその近隣の村人も盗賊に身をやつし……
信仰を失った者たちによって蹂躙されていく弱き者たちの悲痛な叫びも聞いた。神を信じても奪われ、失っていく、これで何を信じればよいのですか、と。
人が大勢集まり秩序を保つには、神という虚構が必要だった、そういう話だ。そういう話を俺は黒猫から教わった。
個人や家族や集落が、それぞれ好き勝手に動けば、そこには暴力による蹂躙ばかりが横行する。それでは駄目だと、それが嫌だと、人は願った。
神は人に望まれて、生まれる存在。
聞いただけでは、あるいは映像付きで見せられてすら、理解しがたかった黒猫の言葉が、目の前の現実を前にして、俺なりの解釈をしながら、俺の中に収まっていく。
村の住人らと交渉を始めた泣き虫らの後ろにつき、話を聞く。
この村では黒死病での死者はまだはっきりと確認していないというのに、焼き殺された者がいたという。理由は、咳をしていた、それだけだ。
ルーアンの町の咳をしていた子供を思い出す。あの子供も、医者がその場に居なければ、殺されていたのだろうか。
ルーアンの町を平穏だと言った吟遊詩人の言葉の意味が、よくわかった。
リュミエラの存在が、大きいのだろう。
リュミエラというよりも、聖女という肩書を持たされた少女の存在が。
あの町の住人たちは一度は混沌の中に放り込まれても、聖女を精神的な支柱として前を向き、生きることを選択した。……混沌の中に叩き落とした当の本人が何を言うかと、ベッドフォード公に叱られた気がした。あの眉間にシワをよせた、不機嫌に目鼻をつけたような表情で。
リッシュモン元帥も、ひょっとして同じ気持ちだろうか?
自覚があるので強く出れない。
元帥に会っても俺の話を真面目に聞いてくれるだろうか、俺ごときが何も言うんじゃない、と、一蹴されたりはしないだろうか。言い訳をするなら、どんな言葉が良いだろうか、などと考える俺の横では、失われた信仰の隙間を縫うようにして、聖女リュミエラの布教に余念がないゴウベルの話が続く。
「なので、今後は光の聖女であらせられる慈愛の女神の化身リュミエラ様を信じ敬うとよい。しかれば、おのずと道が開けよう」
軍事行動の先駆けの仕事はいいのかゴウベル。
ゴウベルのリュミエラへの評価がだんだんと酷くなっている。あれから会ってもいないはずだよな。信仰とは恐ろしい。あっても失っても人を狂気に導く……
「もう、な、いい加減にしてくれよ馬鹿ゴウベル、光の聖女の話は我がイングランドと関係無いだろう」
「いや、関係はあるだろう、イングランドを陥れた闇の勢力を打ち払った光の聖女が、闇の勢力などとひとまとめにされてしまうのは、絶対に許せんことだろうが。こっちは光だぞ、光」
「だーかーらー、今はその悪魔教を打ち倒すための軍を、つつがなく運用するのが先決でな、光も闇もないって」
「だって」
「だってじゃないから……」
泣き虫とゴウベルの言い合いの狭間を縫って、村の代表の老人が言う。
「信じがたいことですじゃが……なんでも、火刑にあったはずの聖女が今、オルレアンにいるのじゃと、その姿は前に見た時と変わらず、本人で間違いは無いのじゃと、ジャンヌ様本人を見たことのある人間が断言していた、と、オルレアン町の様子を見て帰ってきた村のモンが言っとりますじゃ」
その話は、知っている。
再誕の聖女の噂。
似ている、とは聞いていたが、ジャンヌを見た人間が見間違う程のものか。
「ん? 老人、今、いる、と?」
ベッドフォード公の話では……そうか、戦いの結果、行方不明としか言われていない。
「ジャンヌという少女が、あんたらの言う悪魔教とかいう奴らの手によって囚われているらしいですのじゃ、聖女様であっても、囚われの身は哀れなもんじゃ。どうにか、救ってやってはあげられないものかのう?」
死んでなかったか。
再誕の聖女。




