6
地面に横たわる男に一瞥をくれてやり、馬がいる場所に戻る。黒猫は相変わらず馬の上にいるが、女もそのままだ。何をしていた? 首を掴んで放り投げてやろうと女に手を伸ばすと黒猫の悪魔が俺に声をかけてきた。
「見逃すんだ? 意外、殺すのかと思ったけど、イングランド兵を憎んでいたりしないの?」
「イングランドの兵であろうが勇敢な者は……いや、理由なんていらない、だったか、ふん、それこそなんとなく、だ」
「ふーん、なんとなく、ねえ」
猫が金色の瞳を細めて笑う。何が言いたい? 猫が笑う顔はこれほどまでに歪で不気味なものか。猫が不吉な生き物と言われる理由もわかるというもの。
「女! さっさと馬から降りろ」
「こ、腰がぬけまして、ひ」
背中と腰のあたりのドレスを掴んで女の身体ごと持ち上げて地面に置く。
「女の子の扱いが雑! もっと丁寧に!」
「十分に丁寧に扱っただろうが!」
「あぐ、あぐ」
女の代わりに猫が抗議する。放り投げなかったのだ、十分に丁寧に扱ったわ。
「やれやれ、フェミ勢との戦争待ったなしだよこれは」
「フェミ、なんだと? お前はちょくちょくとわからない事を言う。わかりやすく言え」
「まだ君に分からない言葉は、ほぼ戯言だと思って無視してくれていーのさ。気にしない、気にしない」
「……そうさせてもらう」
跳躍して馬に飛び乗る。馬が嘶く。動きやすく、とても軽い鎧だ。剣と同じく、この黒い鎧も最高の代物なのだろう。あとは兜があればな。
「して、黒猫のルルよ、この後どうする?」
「なんで私に聞くの!? いや、知らないよ。好きにやりなってば。このやりとり何回目?」
「…………」
取り囲んでいる民衆を見る。今ここに残っているのは、暴動にも参加せず、どこかへ逃げる当てもない奴らなのだろう。俺たちに恐怖する者たちはとっくに逃げた。あとは怖いもの見たさの見物といったところか。俺たちの一挙一動を見守っていて、ある種の静かさを保っている。遠くの喧騒は止まない。
「あの男の言うことが本当ならイングランドの兵は北へ、聖職者たちの多くは東へ逃げて行った」
どちらにも追いかける理由があるが、それでも今はイングランドの方ではなく聖職者どもだ。フランスの聖職者でありながらイングランドの走狗になってフランスの英雄を火あぶりにした男たち、奴らを追う。
馬の腹を蹴って東の門へ進ませる。するといくつかの出来事が同時に起きる。ひとつはヨロヨロと立ち上がった女に駆け寄る一団。「お嬢様」などと言っているので家の者だろう。もうひとつはイングランド兵に向かって民衆が罵倒しながら石を投げつけ始めたこと。こちらもヨロヨロと立ち上がった大柄な男を支えて、民衆を威嚇しながら広場を去っていく。
そして俺が乗る馬の進む先の民衆が割れるようにして引いていく中、一人の男がこちらまでやってきて膝をついて祈る。
「黒い骸の騎士様……どうか私の懺悔の言葉をお聞きください」
薄汚れた恰好をしているその男の顔は今や蒼白で、涙を流してくしゃくしゃにしている。
「……なんだ?」
「私は聖女さまを火あぶりにした処刑執行人の家族の者です。聖女様の遺体を……灰となった聖女様をセーヌ川に流した男の父親です。息子に代わり懺悔いたします……お許しください……」
祈る男は地面に額を擦りつけて俺に許しを乞う。
「その息子はどうした?」
「わかりません。地獄の亡者が現れたと聞いて、半狂乱になって家を出ていきました。その後はわかりません。息子も後悔をしておりました。遺灰を流す時、まるで地獄に落ちるかのようだったと……」
男の許しを乞う声は次第に大きくなっていき悲鳴のようになる。
「息子はただ言われたことをしただけなのです! それでもっ! 罪を犯したのですっ! 罪を犯した息子の代わりに私を殺してください! 私は呪われて地獄に落ちても構いません! 亡者の軍勢を率いてこの町を襲うのはどうかやめてください! この町を滅ぼすのはやめてください! ルーアンにはまだ家族がいるのです! どうか! どうか! 神の御慈悲をぉ!」
「亡者の軍勢なんぞ率いてないのだがな……」
「滅ぼしもしないし、神じゃないし……勘違いのすれ違いで滑稽で笑える話なはずなのに……なんだろう、まったく笑えないのは……」
黒猫の悪魔も困惑している。悲鳴のように泣きながら懇願する男を馬上にて見下ろしつつ、俺もまた困惑している。
さて、俺はどうする? 俺は何に怒っていた? 彼女を見殺しにしたこの町の住人を恨んでいたはずだ。復讐すらしてやりたいと……。今、俺の目の前にいるのは彼女の処刑を執行した者の家族、この町への恨みそのもの。俺にこの老人を、この老人の息子を裁く権利や理由はあるか?
ない……のだろう。
黒猫の悪魔の力によって動く骸となる以前であれば、神の名を以ってこの男を家族もろとも切り殺していた、おそらく、そうした。しかし、もうそれはできない。神の名を使い裁くことはできない。悪魔に身を落とした俺は、とうの昔に、この町への復讐の権利を失っていたのだ。なんということだ。
「黒猫よ。黒猫のルルよ。この男を、俺はどうすればいい?」
「知らんて。私が君の立場ならどうするか、なら、まぁ許してその後は放っておくかな。めちゃくちゃ誤解されてるけど、説明しても理解され無さそうだし。うん、放置で」
「頼りないな。所詮は猫か。聞いて損したわ」
「お、猫に喧嘩売るのか? 買うぞコラ」
軽口をたたく黒猫だが、視線は男の方を向いていて俺を見てはこない。俺の口から深い溜息がひとつ出て、驚く。この骨の身体はどうなっているのだ? あとで詳しく聞いてやる。
ルーアンの町そのものへの復讐は、もういい。だが、逃げた聖職者たち、お前たちは違うぞ。
許しを乞い続ける男に言葉のひとつもかけずに横を通り過ぎ馬を進ませる。許しの言葉もない代わりに断罪の言葉も出てこない。自分というものがわからなくなる。今の俺は、何だ?
俺の行く先で波が引くように逃げていくルーアンの住人たち。
東の門に近づくにつれ人も多くなる。馬や家財などを持って逃げ出そうとする者たち。やはり俺の姿を見るなり必死に逃げていく。
町の東の門も破壊されていて、そこから多くの人がこの町を見捨てて出て行こうとしている。ここでも同じく俺の姿を見るなり家財など放り捨てて悲鳴を上げながら逃げていく。
「いやぁ……恐怖を振りまいているねえ、さすが骨の黒騎士、さすほね」
「また戯言か? 骸骨の風体が良くないならば、いいから兜をよこせ」
「そっちの方がいいんだろうけどねー、今更感がねー、なんか、今出すと負けた気になっちゃう」
「わからん! さっぱりわからん!」
置き去りにされた家財をすり抜けて破壊された東の門から町を出る。逃げ出す人々。
北東に行けばイングランドの支配するカレーの港町、海を越えればイングランドの本拠地。今はいい。今は東だ。南東に進めばパリの町だ。その先にはランス、彼女の働きによりイングランド、ブルゴーニュの連合軍より取り戻すことができた王の戴冠式の行われた地。シャルル王もまだそこにいるはず。
聖職者どもめ、もしや今さら王に泣きつくつもりか?
町を出てしばらく進んだところで振り返る。
夜の闇の中、今もなお燃える明かりで町が赤く染まる。
「黒猫のルルよ。ルーアンの町がこうなることを知っていたか?」
「質問の意図がよくわからないけど、真剣に答えるなら、ここまで混乱するとかちょっと想像してなかった、だよ」
想像していなかった。
「この町の住人の中にも彼女の処刑に反対する人は多くいたはずで、それで緊張状態がずっと続いていたんだろうね。そんな中に、ふらりと飛び込んできた君の噂に過剰な反応しちゃったんだろうさ。少女を誘拐していた最初の男たちが騒ぎに騒いだんだろ。噂が噂を呼んで、どこかで暴動が起きて、それがまた次の暴動に繋がっていって、連鎖ドミノ的にこうなっちゃったんだね」
「イングランドの兵までいなくなるものか?」
「いなくなっちゃったというのが結論だから、そういうこともあるんじゃない、としか返せない。パニックで誰にも予想つかないことをしでかすのが人という生き物の習性さ」
人という生き物について語る、人ならざる黒猫の姿をした悪魔。
「地獄の亡者が復活して軍勢になって攻めて来るなんて突拍子の無い言葉にも、目で見て確認する前に信じちゃってる。実際は動く骨の騎士一人がふらりと姿を見せたってだけだけど。いや、ちょっとね、中世暗黒時代の人の信心深さってのを見くびっていた感ある」
「その中世暗黒時代というのも何だ?」
「ざれごと、ざれごと、無視してちょーだい」
「反応されたくなければ口をつぐんでいればいいだろう」
「正論で殴って来るの、やめてもらえる?」
”知らない””想像もしていなかった”……黒猫の悪魔よ。お前は俺を導く者ではないのか?
「この町への復讐は果たせたかい?」
黒猫は俺に問いかける。俺は少しだけ考えて答える。
「復讐も何もない。俺はただ道を通っただけで何もしていないからな。兵士は勝手に逃げて、町の住人は勝手に騒いでいるだけだ」
黒猫は何度も頷く。
「だよね。ちょっと通っただけ。この混乱の責任は私には無いのだ。うん」
「無責任か」
「同罪! どーざい!」
ルーアンの町にまたひとつ新たな火の手があがる。逃げ出すことが出来なかったあの町の住人たちは未だ混乱の渦中にあるらしい。この町の住人が犯した罪に対する、これは罰なのか?
彼女の事を想う。
はりつけにされ、火あぶりにされている最中、彼女は何を考えていたのだろう? 神にすがったか? それとも怒り、復讐の心で満たされていたのか?
赤に染まるこの町の今の姿は、神の怒りに触れて燃えているようでもあり……処刑された彼女の怒りが町を焼いているようでもあり……
とにかく、今は、東へ。