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死霊の黒騎士と黒猫のルル  作者: 鮭雑炊


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「あれは~まだぁ~あたしが~ポアティエの町に~いた頃~主の恵みを得て~息づく木々~ほころび始めた花々と~飛び交う蝶々のぉ~……」

「普通に話せと言っているだろうがっ!」

「ええ!?」ポロロン。


 まったく話を聞こうとしない吟遊詩人の態度に、つい、机を叩いて大きな音を出してしまった。

 驚いた表情と同時に楽器を鳴らす姿にも腹が立つ。どこまでが本気なんだ。


 いかんいかん。衝動に任せて行動しても碌なことにならないと、俺は苦い思いと共に学んでいるだろうに。

 俺の癇癪じみた行動を気にした周囲にいる男たちが、過剰なくらいに怯え始めたのが伝わってくる。気にするな。俺がお前たちに何かすると思っているのか? そんなわけがないだろうが。

 そんな俺の怒気を向けられた当の吟遊詩人は、特に気にした風でも無い。お前は気にしろ。

 ゴウベルが「豪胆な男だ」などと言って、がはは、と笑っている。アレは豪胆なのではなく頭がアレなだけだ。

 いいから楽器から手を放せ。楽器から。


「調子が狂っちゃうなぁ……ええと……そうですねぇ、ポアティエから北上してトゥール、オルレアン、そしてシャルトルを通ってルーアンの町にやってくるまでに、あたしが実際に見聞きしたこと、仲間から聞いた話を、嘘や偽り無く」


 そう前置きして、若い吟遊詩人が言葉を続ける。


「一週間ほど前でしょうか、ルーアンの町に黒猫を連れた髑髏の黒騎士が現れたという話を聞いたのは」


 一週間。

 たった一週間。

 もっと時間は経っていると思ってしまうが、実際に俺が骨の躰になってルーアンの町に現れたのは、確かにその位なのだ。あまりにも濃い時間を過ごした。その間に、俺はどれほど変わり果てたことだろう。肉体ではなく、精神や考え方といったものが。前の自分を思い出せないほど、今の俺は違う。

 それにしても、翌日か翌々日には南の方にまで俺たちの噂話は届いていたのか。噂話の出回る速度は、休憩なしで走る早馬と同等と思っておいた方がいいな。そんな速さでもって噂は縦横に飛び散ったのだ。

 わずかな期間で変わり果てたのは、このフランスの地も、同じく。


「こりゃすごいことが起きたぞと、それから吟遊詩人仲間と共に噂話を集めておりました。あたしらの元に届く噂話は、天上にてキラリンキラキラと輝く星の数より多く、空を浮かぶ雲もかくやと言わんばかりに曖昧でフワフワ、フラフラとしたものでして、え、分かりにくい言葉を使うな? 簡潔に? ええ、はい……様々な噂話を耳に傾けておりますれば、どうも骨の騎士、そして人の言葉を喋る猫は実在するらしいぞと、皆が確信するまでになりましたわけでして……最初にその噂話が持ち上がって以降、南の地では死霊の黒騎士を見たという者が後を絶ちませんでした」


 吟遊詩人の言葉を聞いて、周りの男たちが一斉に俺を見る。

 だが知らん。パリから南には一歩たりとも足を踏み入れていない。そう申し開きをする気も起きない。勘違いをするのなら勝手にしろ。俺以外に俺のような存在がいるとも思えない。ならば嘘。誰かが言い出した嘘なのだ、そういうのは。この身をもって学習した。人はあまりにも簡単に、そして適当に、嘘を吐く生き物だ。


「続けろ」


 兜越しの視線をよこしてやって吟遊詩人に話の続きを促す。


「夜ですね、大抵夜です。黒騎士は夜に現れるんです。夜の闇に紛れて現れる黒騎士は、時に修道院を襲い撃退され、時に徳の高い聖職者によって撃退され、時に浮気現場に現れて、たまたま持っていた聖水をかけられて絶叫を上げながら撃退され、あるいは襲った村の小さな教会の中にまで立ち入れずに夜通し周りをうろつき、朝日を浴びて溶ける様に消えていったとか、あ、それぞれの話、すっごく面白いので、詳しく話をしましょうか?」

「いらんわ!」


 どれだけ撃退されるんだ、死霊の黒騎士。けして俺の事ではないが、情けない気持ちになるのはどういうことだ。せめて襲ったのなら成功させろ。雑魚か。


「それで、お前は実際に見たのか?」

「いえ、ぜひ見たいと思って探していたのですが、あたしは南では見てませんね、この場で貴方様を見たのが最初です。話は実際に見たと言う人たちから聞いたり、知り合いの知り合いが実際に襲われた、ということですが、中には黒騎士は私が育てた、とか言い出す人までいましたよ、笑えますね?」

「一切笑えない、続けろ」

「猫を連れた黒騎士の噂話は、すぐに一つの形に落ち着きました……すなわち、死の使い、死霊の黒騎士が現れると、その地に黒い死の病を振りまくのだ、と、不吉な猫はその先ぶれ……あちこちの町の住人たちが、一斉に猫を殺し始めるのに、それほど時間はかかりませんでした……魔女の手先、悪魔の片割れ……病を恐れる住人たちによって、そういう動きが自然と生まれて、爆発するように一気に広がっていきました。なんせ、そこらをうろつき歩いているはずの黒騎士には簡単には会えなくとも、猫はそこら中にいますので……」


 猫殺しの風習。死の使い。黒死病。

 病を恐れた人の行動。

 どれもこれも、俺のせいではない。関係無い。だが確実に、俺の登場をもって生まれた噂であり、人々の行動なのだ。人々の狂ったような行動にまで、俺の責任はあるか? あるならどこまで?

 兜を脱いで頭の髪の毛を掻きむしりたい衝動に駆られるが、今は髑髏だった。掻きむしる毛も無い。おのれ。


「死霊の黒騎士の正体とは、地獄から彷徨い出てきたイングランドの黒太子であるとか、そういう話もありました、フランスの南部は、かの黒太子によって酷い目にあわされていた過去があるのでして、あとは、そう、黒いという印象が、やはり、かの地を苦しめた黒死病を人々に思い起こさせるのですかね?」


 またエドワード黒太子と間違われる。黒い鎧の騎士と言えばそれしか出てこないのか。それから黒と言えば黒死病とか、安直すぎだ、人め。


「ん? 黒死病は、ただの噂か?」

「え? 実際にいますよ? そういう話もしていたでしょうが。話、聞いてました?」

「…………」


 どうしよう、コイツ、殴ってやりたい。


「積み上げられ放置されたままの猫たちの死骸も、そして体が腫れ、一部が黒ずみ始めた患者も見ました。耐えられません。普段は温厚な町の住人たちが狂気に染まっていく様を目にするのは。弱った病人を建物に閉じ込めて火を放つ、その火を放つのは病人の家族……しばらくして、その家族もまた体の一部が腫れあがり、苦しみだした……次は誰だ、次は誰だ、と……地獄が、地上に現れた」

「…………」


 関係ない。疫病には、俺は関係していない。


「し、死の病を振りまく死霊の黒騎士の噂話は……ただの噂ではなく、ほ、ほ、本当だったと?」


 医者のナゼルが、盗み見るような緩慢な動作で俺を見る。その目に宿るのは、隠しようもない恐怖。

 何故そんな目で俺を見る? 俺は疫病とは関係ないのに。


「あたしごときに、聞いただけの噂が本当かどうかを判別することなんて、出来ません。こちとら学の無い芸人ですよ。ですが、あたしが知る限り、噂が後で、黒死病と思われる患者が出てくるのが先なんです」

「う、噂が後?」

「ええ、実際に患者が出たのが先で、黒い死を振りまく黒騎士の噂が後です、黒騎士が目撃された、なんて場所では死病は出ていなかった。逆に、死病が出た所で先に黒騎士が出たという話も知らない。ま、あたしの知る限りで、ですけど。噂が広がり切った後は知りませんやね。死病が出た家の玄関の前に佇む黒騎士を俺は見た、なんて言う人も、結構いましたねぇ。それも、その家の者が死病に罹ってからです」


 若い吟遊詩人は楽器を鳴らそうとして、思いとどまって弦から手を放す。


「ポアティエから逃げ出す人に紛れて町を出て、トゥールに着いた時にはすでに猫殺しの風習は広まってました。猫が殺され、人が病に倒れる。ウワサが先か、ウワサが後か、どちらにせよ、死病は広がる。一人出たら、次は10人、10人出たら、次は100、100が出たら、その後は……」


 歌うように続ける言葉に力はない。だが聞きたく無くとも耳に入って来る。それは静かだが有無を言わせない旋律で、まるで俺にどうするのか? と聞いてくるようだった。

 俺にどうしろと?


「オルレアンも酷い様でしたねぇ、あ、オルレアンを出てからは、噂の銀の聖女を見に北東のパリに行こうと思っていたんですが、ルーアンの町に渦中の黒騎士様ご本人がいらっしゃると噂で聞いて、急遽、一直線に北に向かうことにしたのですよ。いやぁ、急いで良かった。こうしてご本人様に会えるなんて、感謝感激で先ほどから涙が止まりません」


 少しも泣いていないだろうが。

 嬉しそうに俺を見る吟遊詩人の瞳には、周囲の男たちが向けるような恐怖混じりの色が混じっていないのが気にかかる。


「楽士よ、お前は俺を恐れないのか? 黒い死を振りまく死霊の黒騎士の本人なんだろう?」


 聞かなくてもいい事を聞いている。人が俺を恐れるのなら、恐れさせておけばいいのだ。その方が、ずっといい。だが……


「学の無いあたしでもわかることくらいあるんですよぅ。黒騎士様が黒死病をばら撒いているのなら、ルーアンの町は今ごろ黒ずんだ死者で埋め尽くされているでしょうから。それに、こうして会話が出来ているのだから、あなたは会話の出来る人ですよねぇ。会話の出来る死者? 会話の出来る、ええと、死霊? まぁ、学が無いんでよくわかりませんが、こうして、ご本人様と面と向かって話をしてみれば、噂話は噂でしかなかったと、そう感じるものですよ。こいつは噂話を生業にする者たちの間では、常々言われていることで、そう常識って奴です。汝、噂を信じるなかれってね。人は本当の事ではなく信じたい噂を信じるのだから、噂を撒く時には、心の底で人々がそうであれって願っているような噂を作れと、おっとー、これは誰にも言ってはいけない仲間内だけの秘技でした。どうかお忘れあれ」


 男は大げさに手を上げて、それから礼をする。

 そんな吟遊詩人に向かって男たちは「噂話を生業にするだと?」「噂を撒く? 作る?」「下賤な」「邪悪な芸人風情」などと言った言葉を浴びせかける。当の吟遊詩人には効いた風もない。


「この町の意外な平穏さにも驚いておりますよ。猫殺しなんて馬鹿げたことも起きていないし。これは噂の光の聖女さまのお力なのですかね?」

「しかりっ!」


 ゴウベルが俺の隣で大声を出す。うっせぇわ。

 その後は頭のやられたゴウベルによる光の聖女リュミエラの賛美が始まり、吟遊詩人は聞き手に回る。楽しそうに相槌を打って話を聞き出していく様は、確かに噂話を生業にする者だと感じる。歌や演奏は聞いていないから何とも言えないが、コイツの本業はこっちなのだろう。

 金で雇われ町に入り込み、噂を収集し、噂を撒く。民衆はそれに合わせて右へ左へ動かされる。時に政治や貴族の問題にも介入してくる、こいつら吟遊詩人といった人々が嫌われる職業である理由もよくわかる。下賤という言葉がこれほど合う職業もない。


 外はもう十分暗い。蠟燭の明かりで照らされる講堂の中に、ゴウベルの思慮の無い大声と、遠慮のない吟遊詩人の掛け合いが続いていく。明かりに照らされて壁に人々の影が写り込み、ゆらゆらと揺れ動く。今から行動を起こすことはない。オルレアンへ向かうのは明日の朝だ。そろそろ寝る事を考えなければ。

 ……寝るのが怖い。


 寝て、もう二度と目覚めないのかと考えると、恐ろしくて眠れない。だが、眠い。もうすでに、眠気は来ている。周りの奴らも信用ならない。俺を恐れる男たちの顔が浮かぶ。町の中とて安全ではない。だが今から町の外に出る気も起きない。町の外が安全である保障はない。

 俺はどうすればいい?

 考えろ。考えるのを止めるな。

 問題だらけだ。

 解決の出来ない問題ばかりが積み上がり、何にも手を付けられない。

 戦争、悪魔教、聖女、疫病、殺されていく猫……

 果たして俺に何が出来る? 動く骨、ということでしかない、まるで力のない俺に、この状況で何が出来る?

 ああ、おのれ、考えることも無く、ただ剣を振り回しているだけで良かった当時に戻りたい。

 剣を振り回すだけで倒されてくれる敵がいることの、なんと幸運なことよ。

 考え無しで動いて、周りに面倒事を振りまいていた当時の俺よ、お前がどれほど幸運な立場にいたのか、今の俺が得々と説教してやりたいくらいだ。眠い。すごく眠いぞ。今の俺は不幸だ。これほど不幸なら、きっと今すぐ消えることだけは無さそうだ。安心して寝られる。いや、安心してはいけないのだった、不幸でなければ……


 もう考えることも止めて、イングランド軍の到着を待たずに悪魔教とやらに突撃して、そこらにいる連中の首を刎ね散らかしてやろうかと考えていると、この場はお開きということになった。

 何も解決していないのはルーアンの町も同じ。町にとって疫病は頭を悩ます問題だが、有効な対策など、どこにも無さそうだ。唯一、イングランドによる襲撃は無いと知れたのが吉報と言えるだろう。ルーアンの町の住人にとっても望む所ではあったが、まったく混乱無く受け入れられたのは、俺がイングランド兵を先導していたという理由が一番大きい。

 それは俺が持っている影響力というものだ。

 他の何かに活かせないか? 疫病よ、消えて無くなれと言えば、疫病は消えて無くなるのか? そんなわけない。馬鹿か。思考が鈍る。眠い。

 力が欲しい。力だ。全ての問題を簡単に解決する、そんな魔法のような力……


「黒騎士様」

「む?」


 俺の傍に吟遊詩人の男がいる。講堂の中に、俺と、そいつだけ。


「いつの間に? 他の奴らは?」

「皆さま立ち去って行かれましたよぅ。ゴウベルさん? なんかは、肩を叩いてらしたのに……」


 自分の考えに没頭すると、外界の何もかもが気にならなくなる。これも由々しき問題だ。この躰になってから生まれた問題でもある。集中力はあった方だが昔はこれほどではなかった。もしや俺の魂は半分ほど、この世界に無いのかもしれない。消えた魂の半分は、どこにいる? 眠い。

 ……眠いのも、おかしい。眠さに抗えなくなったのはこの躰になってからではあるが、最近、異常に眠い。これも問題だ。というか、解決できる問題なのか? これ。


「悩みがあるようで」


 吟遊詩人が優し気に微笑んでくる。

 俺の悩みを聞いてどうする? 金でも取って皆に言いふらすのか? 下賤な吟遊詩人め、下心が見え透いているぞ?


「よければ聞きましょう。ええ、黒騎士様の悩み、すっごく興味がありますし、皆に自慢できる! 金にもなりそう! ああ、あたしはなんて幸運なんでしょう。神に感謝を!」


 隠せ。下心。少しくらい。


「……お前に聞かせてやれる悩みなどないが」


 吟遊詩人の相変わらずの物怖じしない態度にイラつきつつも、毒気を抜かれてしまったのだろう、ついコイツとの会話を続けてしまう。これがこういうやつらの手口なのかもしれない。詐欺師め。


「南部の猫殺しを止めさせるのは、どうすればいい?」


 俺が死霊の黒騎士として恐れられていくのは、別に構わない。むしろ望む所だ。大いに恐れていればいいのだ。だが猫は無関係だろうが。何で殺そうとするのか、噂に踊らされる阿保な民衆ども。神の罰はそういう輩にこそ下ればよい。

 悲しむ黒猫の顔を思い出そうとして、失敗する。アレはいつも笑っていたな、いたずらを仕掛ける時には特に。


「黒騎士様が南部に出向いて、猫殺しを止めろって言えば、止めたりしないですかね?」


 吟遊詩人は逆に俺に聞いてくる。

 それは、どうなんだ?

 人々に恐れられている黒騎士がそんなことを言えば、むしろ我が意を得たりとばかりに猫殺しが盛んになるのでは? 敵の嫌がることをやれというのは兵法の基本だ。

 何より南部で蛇蝎のごとく嫌われている黒騎士姿の俺がふらりと姿を現せば、ただでは済まないだろう、その地の住人が、という意味で。


「で、あれば、あたしどもを雇えばいいのですよ!」


 吟遊詩人が姿勢よく立ち、楽器を持たない方の手で胸を叩く。

 名案が浮かんだ、みたいに言ってるが、最初からそれが目的ではなかろうか。


「あたしどもが徒党を組んで黒騎士様のあることないこと、あ、いや、あることをですねぇ、こう、話の分かる御仁であるとか、神々しい様子であるとか、いえね、南部にはそういう噂もあるにはあるのですよ、黒騎士は天よりの使い、神の使いであり、善なる者、正しき者の味方であるとか、そんな感じの噂も」


 それは、そうだろうな。実際にこの町では、そういう扱いをされることが多い、悪魔呼ばわりされるよりも、ずっと。

 いつからだ?

 最初は間違いなく悪魔だと言われていた。当の俺自身すら自分の事は悪魔だと……

 黒猫か……

 誘拐された娘を助けることから始まって、あの最後の茶番まで。

 奴の為した奇跡、それらの全てで、俺が理性ある存在であると、善なる存在であると、周りの人間に印象付けられていっている。俺自身の意識すら、気がつかぬうちに。

 すべての俺の行動は俺が自分で決めた、はずだ。だが、誘導はしたと、そう言ったこともある。俺はそうなるように動かされたのか? 俺は悪魔なんぞではないと。


 ――好きに生きて。満足するまで。


 薄れる記憶の中、黒猫が俺に微笑みかける。

 ちっ、どこからどこまでが計算だ、あいつめ。


「そういうことですのでー、ええ、黒騎士様、ひいては使い魔の黒猫様のことをー、善なる存在であるという噂を流すのはー、まー難しい事とはいえ、可能であるとー、思いますねぇ。そうなったら猫殺しは自然と納まるかとー。あとは軍資金の問題だけですねー。ずばり言いましょう、今ならお得な300リーブルで、あたしは皆に声を掛けて噂を流していきましょう、疫病の広がる中、とっても危険な仕事ですが、たったの300リーブルで、黒騎士様の尊厳が守られるのならば、お安いものかと」


 何者にも媚びたりしない奴だと思っていたが、金の話になると相応に卑しい表情をするな、こいつ。


「金は無い」

「はい?」

「困ったことに、いや困っていないのだが。今の俺は金貨どころか、銀貨の一枚も持ち合わせてはいない」


 ブルゴーニュからイングランドへの、捕虜となったジャンヌの身柄の引き渡しで動いた金が一万リーブルだという話を聞いたことがある。大金だ。それに比べれば300リーブルというのは微々たる金額ではあるが、持っていない。故に払い様も無い。


「……さて、と、身体を休めたら北に行こう、そうだ、いっそ海を渡ってイングランドの地を踏んでみるのもいいかもしれない。疫病もそこまでは追ってこないでしょうや。イングランドの地に吹く風は、あたしに何をもたらしてくれるんでしょうか、楽しみだなぁ」


 俺から離れかけた吟遊詩人の服の端を掴む。


「は、放してください、あたしは一文無しに用事は無いんですよ」

「まぁ、待て、金は持っていないが、面白い話はしてやれるぞ? 不思議で理不尽な人の言葉を喋る黒猫の話だ。面白そうだろう? 300リーブルの代わりにならんか」

「すっごく面白そうですね! けど、なりません。話を聞かせて金を取るのが吟遊詩人という職業ですから、これじゃあべこべですから、300リーブルの代わりにはなりません。話の続きは300リーブルきっかりをあたしの目の前に持ってきてからです!」

「たった300リーブル程度のはした金で、つべこべ言うな」

「そのたった300リーブルを用意できない人が何言ってるんですか! たった300リーブルて、大金ですよ、300リーブル! どんな金銭感覚してるんですか!?」


 いちいち金勘定をして生きていたわけではないからな、生前の俺は。

 生前という言い方もおかしいのか。俺は数日前に生まれたというのを信じるのなら、この頭の中に残る記憶の事をなんと呼べばいい? 前世、とでも言えばいいのだろうか。


 眠い。

 軽く服の端を掴んでいるだけなのに、必死な詩人はもがいているだけで振りほどけない。

 肉体の強度とか、そういうのは調子がいいんだ、この躰。






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