53
ベッドフォード公は、しばらく虚ろな目で俺を見て拳を震わせていたが、鎧兜を付けた騎士を素手で殴りつけても自分の拳を痛めるだけだと気がついたのか、肩で大きく息をしてから目を閉じる。
右腕で作った拳を、ゆっくりと降ろして、再び目を見開き、俺を睨みつける。
血色の良くない顔をしたイングランド軍の総指揮官は悔しさを隠しもしない口調で言い放つ。
「つくづく我らを馬鹿にしおって……使者よ、覚えておけ、いかなる神秘の魔術を使ったのか知らんが、偽りは全て暴かれ、白日に晒されるものとなるだろう……今はまだ、貴様らの為したことについて、何ひとつ手がかりもないが、イングランドはいつか必ず貴様らと同じ力を手に入れるぞ、その時を待っていろ……」
「ベッドフォード公は勘違いをしている。誤解だ。貴様ら貴様らと公は言うが、俺と、その書状の主たちとの間には直接の関係は無い。陣取り合戦にも……もはや興味は無い。俺が使者として働いたのも成り行きだ。同じ陣営にしないでくれ」
「そうだな、ああ、そういう体であったわ」
体であったも何も無いのだが。
自分の勘違いを正そうとしないベッドフォード公。すべてがシャルル王の作戦の内だとでも思い込んでいるのだろうか。
自分たちの知らない魔術で死者を蘇らせて使役し、ルーアンやパリを襲わせた、それはフランスの地からイングランドの勢力を駆逐するための作戦だったのだと? その作戦に嵌まりイングランドは敗北したのだと? 無理があるだろう。神算鬼謀にも程がある。そんな作戦を思いつき、かつ実行できる者など、それはもう人の領域を超えている。ベッドフォード公は考えすぎだ、人の事は言えないが。
ルルならば、どうだ? あの、人ならざる力を持つ黒猫ならば、これくらいの策略は思いつくのか?
それこそ考えすぎというものだ。
この地に生きる人のどうこうは、奴の関心事ではない。
すべては偶然と勘違いと成り行きで事態は動いている。今回、戦わずしてイングランド兵が引くという結果に繋がりそうなのも、様々な偶然が重なり合って、そうなっているだけだ。
『これで丸く収まるよ、たぶん』
空の上、黒い翼を持つ巨人に変化したルルが俺に言った言葉を思い出す。
……偶然だ、偶然。
口元に邪悪な笑いを浮かべる彼女の像を頭から追い出す。
「使者よ、どうにせよ単純な王位継承の争いに宗教を持ち込んだのは貴様ら……シャルル7世の方だからな? ジャンヌという少女を聖女として持ち出し、神の言葉を持ち出し、今回は死者まで蘇らせてきた……結果、世界中を混沌に導いた、その報いは、必ず受けることになるだろうな。いかに無関係を装おうと、だ。……ベッドフォードのジョンがそう言っていたとシャルルの奴に伝えるがいい」
「誤解だと言っているだろうが……」
俺が復活したのは黒猫の奴の思惑であって、シャルル王は関係無い。言われるシャルル王も困惑するだろう。
では、ジャンヌは?
聖女ジャンヌと、神の言葉にまつわる話は?
いつまでも逃げているわけにもいかないだろう。そろそろ俺も覚悟を決める必要がある。
刻々と変化を続ける夕暮れ。長居していられる時間も無さそうだ。
幸いにして争いごとになりそうな流れではないので、俺が帰ると言えばこのまま返してくれるだろう。眠くなる前に、どこか人の居ない所を探さねば。
俺のここでの役目は終えた。十分だ。いずれ正式な使者とやりとりはするのだろうが、そこまでの面倒は見ない。
別れの挨拶の言葉を探していると、ゴウベルの奴がベッドフォード公に話しかける。
「ベッドフォード公よ、そういう話ではありません。宗教を持ち出したも何もないのです。イングランドは本気でこの事態を考えねばなりませんぞ。このままでは神への反逆者です。聖女も魔女も、それから悪魔も実在したのです、俺が実際に目にしました。俺だけでなく大勢の人も目にしました、あの聖なる戦いを」
「おう、ゴウベルだったか? 良いな、貴様の頭の中は簡単に出来ていそうで……ちっ、まんまと踊らされおって」
「お、踊っていたのは骨の道化師の方で……」
黙れ。殺すぞ。
どうやらベッドフォード公は神も聖女も単純に信じてはいないらしい。
アレを実際に目にして、信じ切っているゴウベルと、目にはしていないものの、策略の一つとして受け入れるしかないベッドフォード公という図式。
混迷を深める世界ではあるが、ジャンヌは聖女であると信じている市民は、ことのほか多いということだった。さらにはイングランドの兵の中ですら、ジャンヌ・ダルクは真の聖女であったという考えになった者が多いということらしい。その声を無視できない程に。
このままジャンヌ・ダルクが魔女であるとの見解のままでは、イングランドの軍が崩壊に向かうのを止められない。
ジャンヌ・ダルクは聖女。人を操る魔女が居て、操られてしまったイングランドによって殺された、そういう筋書き。
実際には策略でもなんでもないが、それを策略と知りつつも、信じたフリをして受け入れねばイングランドには未来が無いとは、ベッドフォード公の心が今どうなっているのか、想像も出来ない、いや、出来るな、顔と態度に出ている、すごく。
「……騙されているんだ……ゴウベル、お前が悪魔に騙されている、操られている……俺たちは……そんなに愚かじゃない……間違ってなんか……子供も大人も、大勢殺して……」
「ふん、もう、そんな話をする段階では無いわ。我々が間違っていたのは確定している。俺も悪魔に操られてなどおらん、だよな? 骨の道化師?」
「…………」
「肯定しろよぉ!」
ジャンヌの話は一旦置いておいて、今回の件だけならイングランドの泣き虫の発言の方こそ真実だし。
「我らイングランドの上層部もだなー、操られていたからなー。おお恐ろしいー。名前を知られるだけで人を操ってしまう魔女とかー、あまりに恐ろしいわー。信じたくないがー、信じるしかないよなあー。……黒檀のように輝く黒髪と、抜けるような白い肌を持つ、とてつもなく美しい、少女の姿をした魔女、だったか? よく覚えていないが、イングランドは魔女によって操られ、聖女ジャンヌ・ダルクを処刑してしまった。我らの間違いを、認めよう……」
「そんな……」
「うぬぅ、思い出しても恐ろしい力であった……」
耳を小指でほじりながら、投げやりに答えたベッドフォード公だが、最後は真面目だ。泣き虫が言葉を失う。事態の推移を見守る兵士たちも、また同じく。
魔女の風体についてはアンドレの書状に書いてあったものだろう、とてつもなく美しいという部分に言いたいことはあるが。
それがアンドレによってもたらされた、イングランドの逃げ道、受け入れるしかない、彼らも被害者という立場……
……そこまで、そこまで考えて行動していたのか? 黒猫よ。
あの時、見せつける様にして名前を使い、人を操っていたのは、ただ本人が遊んでいたという話ではなく、こうなる事を見通してのことか? 魔女は人を操るのだと、人を操ることなど簡単なのだと、その証明として?
それが俺やリュミエラ達を守るために、貴様がしてくれた事なのか? 自身が魔女扱いをされてまで?
そんなものは、あまりに……自己犠牲が過ぎるのではないか? ルルよ。
そんなことの出来る者を、俺は魔女だ悪魔だと言っていたのか?
俺の間違いは、どこにある?
ああ、駄目だ、考えると沼に嵌まりそうだ。
いつかわかればいい。いつか。
それにしてもベッドフォード公の態度は悪い。
ベッドフォード公は魔女に操られた中の一人ということにされてしまっているからな。言いたいこともあるだろうが、言えない立場。このまま自分も被害者であるとの立場を貫くしか道は無い。少し自暴自棄になっていないか? ああ、最初からか。こうなることがわかっていたのだな。
「悔い改めないと自滅しちゃうからなー。しょうがねぇよなあー、…………ああ、自滅と言えば、お前たちの自滅の方が早いのではないか?」
「ん? 何の話だ?」
曲がりなりにも使者として現れた俺に対して、もはやベッドフォード公は態度の悪さを改めようともしない。俺を睨みつけながら言葉を続ける。
「シャルルの元に居たマロー司教が、聖職者たちを大勢引きつれ、シャルルに反旗を翻したらしいではないか? ん? 使者殿は知らんのか? 滅びの町の銀の聖女のことは? 悪魔教とオルレアンの町の再来の聖女との戦いの結末は?」
「知らんが……」
マロー司教がシャルル王に反旗を翻しただと? 銀の聖女? 知らない。悪魔教とオルレアンの再来の聖女との戦いの結末? そもそも戦いがあったということすら知らない。
……何も知らんな、俺は。情報を集めていたベッドフォード公の方が、今、この世界で何が起きているのかを知っているのは当然といえば当然なのだが。
滅びの町の銀の聖女と言われて、一人の女が脳裏に浮かぶ。癒され、軟膏油を塗られて、輝くような銀髪を取り戻した盲目の僧侶。
ここで俺を見るベッドフォード公は血色の悪い唇の端を上げて「気になるか? 教えてやろうか?」と問いかけてくる。
初めて笑ったのではないか? 見て愉快になるような笑顔ではないが。
「教えてくれと言えば教えてくれるのか?」
「いいぞ、教えてやろう。その代わりに、死者よ、ここを離れる前に、ここに居る者たちは神の反逆者ではないと、死後に苦しむことは無いと、皆に宣言してから帰ってくれ、死者を代表して、生者である我らに」
「…………」
俺は死者の代表でもないし、こいつらの死後の事も知らないし、神の思惑も知らない。イングランドの兵たちが神の反逆者かどうかを、俺は知らない。
「ここが瀬戸際なのだ。一部はすでに暴走して言う事を聞かん。略奪を禁止する命令を聞かず勝手に村々を襲っている。不安が兵たちを苦しめている。我らの不安を取り除いてくれ、死者よ」
「…………」
適当な事は言えない。神の言葉を騙るのは罪。
だが、選択肢は、あるのだ。
ここで情報を得るためだけに、適当に、無責任な言葉を放つことが、俺には出来る。
俺の気持ちは、どこにある?
イングランドは敵だ。敵だった。今も尚、この地に生きる者を苦しめている。むしろ地獄に叩き落としてやるくらいで、丁度よいのではないのか?
ここで、お前たちは神の反逆者であり、死して後、地獄に落ちて苦しむのだと、そう言うことも出来る。その言葉を叩きつけてやるだけで、奴らは大いに苦しむだろう。混乱し、暴走を始めるのだろう。
かつて、最初に黒猫に望んだこと、悪魔だと思い込んでいた黒猫に願った、ジャンヌを殺した者たちへの復讐。それが叶う。
俺は今まさに、絶好の復讐の機会を手に入れている。
聖女であろうとしたリュミエラの覚悟を決めた顔を思い出す。
自分が間違った事を言っていたのなら、神が間違っているぞと言いに来てくれるのだと、あの少女は言っていたな。
ベッドフォード公の望む通りの言葉を放てば、どうなる?
俺の言葉を受けてイングランドの兵たちが大人しくなるのなら、この地に平和をもたらすというのなら、その為ならば、心にもない適当な事を言っても許されるのではないのか?
許す? 誰が? 神ではない。俺だ。未来の俺。
黒猫が俺にかけた呪いの言葉だ。俺を裁けるのは、俺の罪を覚えている未来の俺だけなのだから。
自由だ。何を言ってもいい。
会ったことも無い、居るかどうかもわからない神の言葉を勝手に騙っても、俺の元に神が裁きにやってくることは無い。誰の元にも。
自由とは、そういうもの、なのか。
俺の言葉で、行動で、世界の何かが変わる。
自由とは、震えるほどに、恐ろしい。
「……責任は、持てんぞ?」
「責任は俺が取ろう。死んだ後、神の御許でな」
この男も、覚悟を決めている。言葉を知り、言葉の重みを知り、自分の為に利用しようとしている。
「いいだろう……」
兜を脱ぎ、髑髏の顔をあらわにする。
天を指さし、宣言する。時はすでに夜の始まり。雲が月を覆い隠している。
「神よ、今から俺が言うことが間違っていたのなら、雷鳴を持って知らしめよ、死者である俺が宣言する。今ここに居る生者たちに罪は無く、死後、地獄に落ちることもない。彼らは魔女によって操られた、哀れな被害者なのだから」
すまん。ルルよ。貴様を魔女にしてしまった。さんざん、魔女だ、悪魔だと言ってしまったが、貴様は魔女でも、悪魔でもなかった。黒猫よ、貴様はただの……ただの……何だ? いや、わからん。
わからんが、許せ。それでも、俺を許せ。お前の作ったこの状況を利用させてもらう。
しばし、待つ。
今、この場に、あのいたずら者の黒猫がいれば、冗談で雷鳴を響かせそうだ、などと思いながら。
「…………お前たちは許された。神への反逆の罪は無い。死後、苦しむことはないだろう」
「おお……」
「神よ……」
かがり火が、焚かれ始める。
イングランドの兵たちに、目に見える変わった動きは無い。だが確実に、彼らの世界の何かが変わった。
俺の中でも、何かが変わった。
それが何かを言い表すのは、しばらく時間がかかりそうだ。
「礼を言う、死者よ」
変わったのは、ここにもいる。かがり火に照らされるベッドフォード公の顔色は、いくらか血色を取り戻している様だった。
「では、使者殿よ、話してやろう」
「すまん、ベッドフォード公。眠くなりそうだ、話は明日の朝で良いか?」
「き、さ、ま、は……」
怒っても仕方がないだろう。
まだ眠くはないが、安全確保は第一に考えねばならんのだ。
いまからここを離れて、他人の気配の無い、馬の安全も確保された場所を探さねばならん。ベッドフォード公もしっかりと寝た方がいいのではないか?
血色を取り戻したのを通り越して、顔が赤くなっているぞ?




