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部屋と廊下を分ける仕切り、その一面の壁が扉ごと、音もなく消失する。
廊下の壁かけのカンテラの光と、使用人たちの手に持つカンテラからの光が部屋の中にいた俺たちの姿を浮かび上がらせる。
鎖に繋がれたままの状態で俺は、扉の外、廊下にいた人々らの姿を見た。
目に涙を貯めたリュミエラ、その少女の背に回り、片手で少女の首を掴んでいるイングランドの兵士ゴウベル、それに対峙する父親のトムス、細剣を抜いた状態のアンドレ、リュミエラの母親と、それを守るかのように立つ老騎士ジェルマン、少年たち、アリセンにユーザス。それと俺の知らない中年の男。
部屋、かつて部屋であった場所には、血まみれの黒猫を抱く黒衣の少女と、鎖に繋がれた骨の黒騎士。
突如として壁が消失したことで廊下と繋がった部屋の中にいた俺たちの姿を目にして、皆一様に事態の変化について行けず、驚愕の表情をしたまま固まっている。
「な!?」
「何が!?」
「なんだっ!?」
「あ、あれ?」
少し遅れて、皆がそれぞれの言葉で自身の驚愕を伝えてくる。
廊下に居た面々の状況は、大方は想像できる。ゴウベルが脱走して、リュミエラを人質にとって迫っている所だ。だが、俺たち、血まみれの黒猫とそれを抱く少女、何重もの鎖によって繋がれた身動きの取れない俺の置かれている状況は、廊下に居た面々からは、どうしてそうなったのか、少しも理解できないことだろう。俺にもわからない、いや、わかっている、これは俺が招いた事態だ。愚かな俺のしでかしたことにより生まれた状況……
「だ、誰っ!?」
「黒猫が!?」
「ルルさん!?」
次いで、見た事のない少女に抱かれる血まみれの猫に気がつき、声を上げる面々、猫を抱いている黒衣の少女こそがルル本人だとは知りもしない、考えもつかない事だろう。当然だが。
「何が起きた! 何だ? どんな状況だ、これは!」
「うぐっ」
「お嬢様!」
混乱し、手に力が入ったのだろう、ゴウベルに首元を掴まれたリュミエラから苦し気なうめき声が漏れる。
この混沌とした状況を作りだした少女の姿をした悪魔は、微かに笑っている。
どうする? どうするつもりだ?
(さーて、どうしたものかしら? ノープランだわ、困ったわねぇ)
俺に念話を送ってくる悪魔ルル。
まさかのノープランだと?
何かがしたくて壁を取り払ったのではないのか?
わけがわからない。こいつのやる事なす事。
実はその場その場で適当に動いているだけなのではないのか? 世界の滅亡など興味が無いと言ってのける黒猫、魔女ルルの言う事こそが真実の言葉だったのか? とにかく本当の事しか言葉にしていなかったのか? 裏も表も無く、最初から、最後まで。
認めがたい。
それを認めるのは、俺が利口ぶった考えすぎの愚か者である事の証明のようなものではないか。
判断が先で理由探しが後……
俺の頭の中で考えていたことすべては、黒猫を悪者に仕立て上げたいだけの屁理屈の可能性……
頭が痛い。もう考えたくない。
「黒騎士殿っ!?」
「繋がれて!? 鎖!? どこから!?」
「天使様!?」
天使じゃない、俺は天使じゃないんだ、馬鹿で愚かな哀れな骨だ。俺を見ないでくれ、アンドレ……
「骨の道化師!? 何故繋がれて……女! 貴様何者だっ!」
「私が何者か、か……お見合いをしていても埒が明かないからね、ここは彼に決めてもらいましょう……ねぇ、そこの体の大きな人、私は何に、見える?」
俺の近くに居た、血まみれの猫を抱く少女がゴウベルに向き直り、一歩、進む。
「こ、こっちに来るなっ、そ、そ、その黒猫の本当の飼い主かっ? はっ!? さては魔女! 黒猫を使い魔にしている魔女! この地にはどれだけの魔女がいるのだっ、この地は呪われた土地か」
動揺したゴウベルが騒ぐ。恐ろしい魔女で、悪魔が正解だ。
「……最初に黒猫は魔女の使い魔だって言い始めたのは誰だろう? ひとこと言ってやりたいわ、ま、いいわ、今度調べておきましょう……で、私が魔女だとすると、この状況の、説明は?」
繋がれた俺と、血にまみれた黒猫を抱く魔女。
「じょ、状況? ……ど、どうして、骨の道化師と敵対を……猫を殺したのか? ま、ま、ま、まさか」
「まさか? 何?」
「骨の道化師は魔女の敵……ならば、奴の守るこの小娘は……本物の、聖女?」
「いいわね、それ」
自らの手で首を掴んでいる少女を上から見て、顔面を蒼白にしながら男は震える。何もかも間違っている。
黒衣の魔女はニヤリと邪悪な笑いを浮かべて一同を見渡す。
「いいわ、魔女ね。ピンポーン、正解、正解よ。私は魔女で、そこの骨と敵対していて、猫を殺し、あなたに捕まれている本物の聖女も、害しに来た、大正解、褒めてあげる」
「な、な」
違う。それは、違う。猫を殺そうとしたのは、俺で……
「改めまして、皆さん、私が本物の魔女でぇーす。あーあ、せっかくぅー、愚かな人間を操って聖女ジャンヌ・ダルクを殺したのにー、新しい聖女が生まれるなんてー、聞いてないわよー、てきな」
「な、何を言いだす、――!?」
何を言いだすルル、と言葉に出そうとして、口が動かなくなる。
「……吐く言葉は慎重に。言葉は力を持つ……吐いた言葉を取り消すのは、大変よ? だから、ちゃんと考えて口にするように」
赤い唇に一本の指を当て、俺に笑いかける魔女。
人間を操ってジャンヌを殺した? 違う、それはおそらく嘘、出鱈目、黒猫を殺したのも嘘、聖女も嘘だし、害しに来たのも嘘、嘘ばかりだ、この場の正解とは程遠い。だが。
正解や不正解は、それを決める者がいて……
「ところで先ほど、あなたたちがしている話が少し聞こえたのだけれど、そこのあなた、その聖女の首の骨を折るのでしょう? さっさとしてくれないかしら? 私の手間が省けて助かるわ、ご褒美もあげるわよ?」
「ま、まて、違う、違う」
少女の首を掴んでいた手をパッと離し、少女から離れるゴウベル。
「あら、役に立たない。ご褒美じゃなく、罰を与えないとね」
「何が罰だっ! 人間を操った、だと? ふざけるなぁ! 貧相な魔女めっ!」
「むかっ……あなた、お名前は?」
「邪悪な魔女に名など明かすかっ!」
「あ、そう、ゴウベルさんね」
「んなっ!?」
「魔女だから、当然、魔法も使う、ええと『ゴウベル、高い高ーい』」
「!? が、がふっ……」
ふざけた呪文を唱えながら魔女が指を振ると、ゴウベルの巨体がフワリと浮き上がり、天井へと向かっていく。そのまま天井にぶつかり、巨体をミシミシと音を立てて天井へとめり込ませ、うめき声を上げる。その下では、呆然と立ち尽くし、言葉もなく事態を見守るだけだった大人たちを差し置いてアリセンとユーザスが動く。
「お嬢様っ」
「こっちにっ」
「あ、あふ」
「いいわね、邪悪な魔女から美少女を守る健気な美少年が二人、絵になる、絵になるわぁ……」
床に倒れ込んだリュミエラと、彼女の体を支え、魔女から守るかのように立ちふさがる少年たち。そんな三人の子供らを、うっとりと見つめながら微笑む血まみれの魔女、ルル。
猫の姿の時にも同じような事を喋ってはいたが、これが人間になると、こうまで邪悪に感じるものか。この姿を見たら、誰もが、こいつが魔女であることを確信して疑わないことだろう。
(そこのボケーっと見ているだけの黒騎士さん? そろそろ君の出番じゃないかしら?)
(な、何を)
(はぁーーーーあ、私にクソでか溜息を吐かせないで欲しいわ。身体は動くはずよ、ちょっと私に斬りかかってごらんなさいな)
(何を言っている? いや、何をやっている? さっきから……)
(私なら大丈夫よ? もう油断しないから。今の黒騎士さん程度のへなちょこ剣法じゃ、どう頑張っても私に傷をつけられない、全力で斬りかかってきてもいいからね、どうぞ)
(な、だから、何を……)
(はぁーーーーーーーーあ)
大きなため息を感じるような最後の念話を俺に伝えて、魔女は子供らに話しかける。
「そこの不運な聖女さん? あなたのお名前は?」
「こほっ、こほっ、リュミエラですぅ」
「お嬢様ぁ!?」
「なんで魔女に名前を明かすんです!? 馬鹿なんですか!?」
「………………正直者なのは、いい事だわ、脳のリソースを嘘をつくことに回さなくてよくなるからね、その方が、楽。馬鹿正直なのは、いただけないけど……」
少女のその素直さに三人から呆れられ盛大に突っ込まれる。それをただ見ているだけの、大人たち。俺も含めて。
「じゃあ『リュミエラさん、こちらにおいで』次の展開は、あなたに決めさせてあげる」
「はえ?」
「んなっ!?」
「何っ!?」
そこには片腕に血まみれの猫を抱き、そしてもう片方の手で、少女を抱く魔女。
先ほどまで床にへたり込んでいた少女が気がついたら魔女に捕まっている。その過程が、無い。消えた。消された。そこに至るまでの過程が、隠されている。魔法、本物の魔法。名前を呼ぶことなどは関係あるまい。
「そうねぇ、その天井に張り付いている男をどうするか決めましょう、どうやって殺す? このまま押しつぶして天井のシミにする? それとも手足から順番にねじ切っていって、血を搾り取るようにして殺す? リュミエラさん、あなたが決めていいわよ、希望を叶えてあげるから、殺し方を決めて頂戴」
「あ、お、が?」
うめき声を上げる事しか出来ない天井に張り付いたゴウベルの処刑方法を少女に考えろと迫る魔女。
「殺しません! 離してっ! 聖女でもありません……誤解です……魔女様……」
「殺さないの? さっきまであなたを殺そうとしていた男よ?」
「それでも……殺しません……ああ、黒猫さん、黒猫さん……」
「敵でも?」
「敵でも、です。黒猫さんは……どうなってしまったの? 魔女様、なんて酷いことを……起きて、起きて喋ってよ……」
自分を殺そうとした男の処遇どころではなく、自分と同じようにして魔女に抱かれる血まみれの黒猫の方こそ気に掛けるリュミエラ。猫の瞳は閉じられて、動きは無い。その猫の首を斬り落とそうとしたのは俺だ。酷いことをしたのは俺だ。
「ふ、ふふ……ふふふふふふ、リュミエラさん、あなた、実は本当に、聖女になる資格があるんじゃない? ふふふ」
ドサリ、音を立てて床に落ちたゴウベルが、這いずるようにしてこの場から立ち去ろうとする。しかし、それを気に掛けるものはいない。この場の誰もが、機嫌よさそうに笑う、謎に満ちた魔女と、その腕に抱かれた少女を見ている。
「リュミエラを、娘を、離して下さい、魔女様、その子は聖女ではありません……」
リュミエラの母親が涙を流しながら魔女に乞う。
「あら? それを決めるのは、誰? 神ではなかったかしら? 神には会ったこと無いけれども、神といわれる存在が大多数の人の意識より生まれる存在なのだとしたら、大多数の人が彼女を聖女だと言えば、それってもう本物の聖女と言ってもいいのではないかしら? 望むのでもなく、選ばれるのでもなく、そう、なる、ただの普通の少女が、聖女に、成る」
「わかりません、魔女様、私にはわかりません、娘を離して下さい、どうか……」
魔女に抱かれた娘に近づこうとする母親と、それを止めるトムスとジェルマン。細剣を構えたまま事態の推移を慎重に見極めようとしているアンドレ、そして知らない中年。ひりつくような空気の流れる場で、こちらをチラチラと見てくる魔女。俺に動けと言っているのか? 少女を助けろと? 剣を自分に向けろと? そんなのは正義でもなんでもない……俺に何の資格があって……
(黒騎士さん、君については、私の見立ては外れてばかりだわ……ノリが悪いわねぇ。勇者ごっこが好きなんじゃないの? ウキウキで飛びつく場面でしょ、ここは)
(ごっこ……俺がやっているのは、ごっご遊びだと?)
(ええ、そうよ、私の見立てでは、君にはやりたい事が無い、目標が無い、どう、これは合ってる?)
(俺に、やりたい事が無い……)
復讐を願った。途中で捨てた。世界を守りたいと願った。それは本心か? わからない。最近になって、ふと湧いた考えだ。実はどうでもいいと思っているのか? そのことを見透かされているのか? 結局、俺は、何が、したい?
皆の注目を集める魔女は、再び俺の元へと近づいて、語りかける。
「重要な事を忘れていたわ、蛇だったわね、君の最初のリクエスト、蛇が必要、でしょ?」
蛇、リリス、最初の人類が楽園を追放される原因となった悪、原罪の大元、俺がルルをそうであると、言った。口にした。
ぞわり、魔女の髪の毛が逆立ち、渦巻き、一匹の巨大な黒い蛇を形作る。
魔女の黒い髪から別れ、生み出され、人の胴ほどもある太さをした黒い蛇が、シュルリと魔女の体に巻き付く。その目は血のように赤い。
「ひえ、ひええぇ……」
リュミエラと目が合った蛇は、口と両目を歪ませてシシシと笑う。
(非難しているわけじゃないのだけど、というか、黒騎士さんがそんな状態にある理由まで想像つくのだけど……そうねぇ、聞きたい? 先ほどまでしていた、お節介の続き)
聞きたくない、だが、聞かねばならない気がした。返答の余地もなく、蛇を纏った魔女による俺への弾劾は続く。
(記憶はどこまで残っているのかしら? ジャンヌを見殺しにしたと君は私に言ったよね? けど……見殺しにしたのは、君の方でしょ?)
「なっ!?」
反論をしてやりたい。だが残っている記憶には、焼かれる彼女を黙って見ていた俺がいる。その時、俺は何をしていた? 反論の為の言葉が引っかかって出てこない。
(君はねぇ、望んだんだよ、ジャンヌ、彼女が神の奇跡によって助かることを望んだ、自分や、他の誰かが動いて助けるのではなく、彼女の危機に際して現れる奇跡、神の顕現、天使の登場……そういった類の、超常の、神秘の力を見たいと願った)
「な、何を……」
(だから見殺しにした。ゆっくりと見物していた、その他大勢の見物客と同じようにして。……結局、最後まで奇跡は起きず、神秘も目にできず、君は心の底から落胆した、がっかりした)
「やめろ」
やめてくれ。あの時、あの場で、俺は何を思った? 思い出せない。消えている。俺の中から、その重要な過程が、抜けている。
鎖によって縛られている俺の目の前で、黒い蛇が、黒猫を、呑み込む。
「黒猫さぁん!?」
猫を飲み込まれたと思って、リュミエラが叫ぶ。
茶番だ、こんなものは、茶番だ。猫も魔女も蛇も、全部が茶番で出来ている。
「悪魔め……」
「私は結局、魔女なの? 悪魔なの? 悪魔は悪魔であって、悪魔と契約したのが魔女よね、ごちゃごちゃにしないで、そういう所よ?」
(今の君はふらふらで、芯が無い。だから行動も言葉も安定しないのよ。けど仕方がないのよね? 今の君は希望が叶って、満足してしまっているのだから)
(俺の、希望だと)
(神秘を願い、神秘を体験したいと願った。ジャンヌが聞いた神の声を、自分も聞きたいと願った。重要なのはそれだけ。神秘体験させてもらえるのなら、君たちの信じている神でもいいし、たとえ、それが、悪魔でも)
「シシシ、シシシ」
鎌首を持ち上げた蛇が、俺を見て笑う。邪悪に満ちた顔をして俺を嘲笑う。
(怒っていいのよ? 君は怒るべきなのよ、私は今、君を傷つけるために言葉を紡いでいるのだから……ねぇ、黒騎士さん?)
「骨になって、今、どういう気分?」
俺を骨の躰にして復活させた魔女が、俺の骨の顔を見て、笑う。邪悪な魔女。悪魔。
与えられた尋常ならざる骨の躰。超常の力。死からの復活。神秘の中の神秘。
かつてないほどの吹き荒れる感情が、俺を襲って、言葉にならない。目の前が、暗くなる。躰が、崩れ落ちて……
「骨の人!」
少年の叫び声で、我に返る。
見ると、少女の頭上、その少女を頭から丸のみにせんと、口を開けた蛇が迫っている。
俺に助けを求める、引きつった顔、顔、顔……
体が、自然に動く。
手から抜け落ちそうになっていた剣の柄を握りしめ、振る。身を縛る鎖が断ち切られて、いくつもの破片が宙を舞う。鎖を斬った。違う。逆だ。斬ったように、された。俺の剣の振りに合わせて、鎖が割れた。
「うおおおおお!」
考える間もなく、二撃目を放つ。
蛇の頭をかち割らんとした剣の刃、だが、それは口を閉じた蛇の頭によって防がれる。屋敷中にも響き渡るような硬質の音を出して弾かれた剣に伝わる力を利用して、身体を回転させて下からすくい上げるような横薙ぎの三撃目を振るう。
空振り。
そこに居るべき魔女はその場に存在しなかった。
壁が、消える。
外に、いた。
少女を片手に抱き、蛇を体に纏わせた魔女は、開いた方の手で俺に手招きをする。
「剣を振り回すには、ちょっと狭いからね、場所を変えましょう、こっちにおいで」
外には、暗くなっても尚、まだ多くの市民が残っていた。




