37
「だがしかし! だがしかーしっ! 貴様ら悪魔どもが笑っていられるのも今だけだっ!」
俺か? これは俺のせいか? 俺があの時、世界への復讐を望んだから、いま各地で無意味な殺し合いが起きているというのか? ルーアンのように、パリのように……
黒猫は、俺の知らぬ間にあの時の俺の願いを叶えているのか?
「今、北ではベッドフォード公が軍を結集させてくださっている!」
待て。
何かおかしい。
よく思い出せ。
確かにあの時、俺はこの世界への復讐を願い、黒猫にも伝えた、願いを叶えろと。だが、あの契約の話は曖昧なままに終わったのではなかったか? 場の勢いのままよく考えもせず交わそうとした悪魔との契約は、正式な契約にはなっていないはず……貢物も受け取ろうとしなかったし、なにより黒猫の奴は自身が悪魔であることを否定した。契約はなされていない。その後も黒猫が何かをした様子は無い……いや、わからん、転移……どこにでも自由に行けるような奴だ、起きている時はいつも近くに居たが、俺は寝ている時間も多い、知らぬ所で何かを行おうと思えばいくらでも可能なのだ……
「正義のイングランドの軍勢をな! 悪魔どもを打ち滅ぼす聖なる大軍勢だっ!」
思い出せ……
聖女ジャンヌを救おうとルーアンの町に向かい、気がつけば森の中、救えなかったと黒猫から聞き、世界の全てを焼き尽くしてしまってもいいと願ったのは紛れもない本心だ。あの時の俺の胸の内に確かにあった煮えたぎるような感情だ。だが時間が経ち、あの時の燃え盛るような復讐心が、今は、無い。なぜあれほどの怒りに支配されていたのかも思い出せない。少しは、ある。世の理不尽に対する怒りは心の内にくすぶり、残っているまま。それでも今の俺は世界の破滅などは……願っていない。
理不尽な裁判で彼女を魔女にした聖職者どもへの怒り、助けぬ王への怒り、ジャンヌ・ダルクを救えなかった俺自身への怒り……
……俺が死んだのは、彼女が火刑にかけられる前か? それとも後か?
「今すぐにも正義の大軍隊を率いて攻めて来られるのだあ! その時に貴様らの行った悪行は白日の下に晒され、俺たちイングランドを罪人などと言う悪辣なる嘘は、本物の神の意思によって駆逐され正されるのだっ!」
俺はずっと、俺が死んだのはジャンヌが火刑にかけられる前なのだと思っていた、そう、思い込んでいた。だが記憶がある、俺はジャンヌが火刑にかけられている姿を覚えている。思い出したのだ、妄想でも想像でもない確かに俺の目で見た記憶、掲げられた聖なる印を一心に見つめながら燃えていく彼女の姿を……
何故それを俺は知っている? 俺が死んだのは彼女の処刑の後だからだ、そして、俺を殺したのは……
……あの日の事を黒猫の口からは、はっきりとは聞いていない、聞いても、とぼけられた、のだ……なぜ俺に教えない、なぜ、口を濁す? そこに何がある?
「悪魔に騙され、踊らされて、利用された哀れで愚かな民衆も、それでようやく目を覚ますというもの! がはは」
俺は黒猫の奴に騙されているのか? 踊らされ、利用されている?
いや、何を騙されていようと、俺が世界への復讐を願い、それを口にしたのは揺るぎのない事実……
……今からでも世界を滅ぼすのは待ってくれとでも言うか? それは、あまりにも、情けない。
いや、待て。
そもそも、黒猫の奴が俺に内緒で世界を滅ぼすために動いているなどと、どうして思う? めんどうくさがりの奴だ、乞い願われても素直に従うなどとは思えない。奴は世界の事などどうでもいいという立場だ……いや……どうでもいいから、滅ぼしても、いい、のか……?
「どこを見ているっ!」
屋敷の屋根の上、俺を見ている黒猫は笑っている……
いや、笑っているのか? あれは。俺の目がそう見ているだけか?
くそっ、よく考えれば猫の表情などわからないのが当然だ。もともと笑っているような顔をしている。ちっ、黒猫の奴の心の中なんぞ、欠片もわからん……
……黒猫の奴自身にこの世界を滅ぼす意思があるならどうだ? 新しい神……俺たちの神によって追いやられ、捨てられ、歴史からも消された、力を持つ古い神が、悪魔となって俺たちの信じる神の創り上げたこの世界を滅ぼそうとする……
「骨の御仁っ!!」
「骨、の、道化師ぃいいいあああ!!」
寝そべっていた男が起き上がり、嬌声を上げて馬に乗る俺へ向かって抱き着いてくる、考え事に没頭していて、その動きの対応に完全に出遅れた俺の肩から金棒が、滑り落ちる。
ゴウン、という音がして、奴から取り上げた重い金棒は、奴の頭へと落ちた。
「あふぇ」
俺を馬から引きずり降ろそうと腰元に縋り付いていた男はズルズルと落ちて行き、地べたに伸びて、横たわる。
一応、金属の兜をしていたので頭は潰れてはいない様だが、これで完全に伸びた。
「すまん、いや、何がすまんだ、まったくもって俺が謝る必要は無いな、ふん、阿保が」
間抜け面を晒して寝そべる男に向かって吐き捨てる。今は静かだが先ほどまで何かを大声で言っていたようだ、よく聞いてなかった。
「骨の御仁、どうなされたのかの?」
「いや、何でもない、ただの考え事だ」
近くに来た老騎士ジェルマンが俺に話しかけてくる。
すべては黒猫の奴に問い質せば終わること、あの日の事も全て聞く、あの日の事だけでなくジャンヌを導いた声の主についてもだ、言い逃れは許さない。
それでも奴の口から真実が語られず、誤魔化され、とぼけられると言うのなら、その時は……その時だ。
「東門が破られた! シャルルの軍勢だ! こっちに来るぞ!」
「なんだと!? 門番は何をしていたっ!?」
「あいつら真っ先に逃げ出した!」
「ちっ! 撤退! 俺たちも撤退するぞ! 北だ! 北へ向かえ! イングランドの本隊と合流する! 撤退しろ!」
「ゴウベル殿が! ゴウベル殿が!」
「放っておけ! それどころでは無い!」
「勇士ゴウベル! あなたの悪魔を恐れない勇気を俺たちは忘れないっ!」
「あいつの死を無駄にするな!」
「撤退!」
何が起きた?
俺たちの一騎打ちを見ていた騎兵たちが一斉に慌ただしくなっていく。
それとゴウベルならまだ死んでないぞ。
頭を強く打って伸びただけのゴウベルを見捨てて撤退を始めたイングランドの騎兵たちと入れ替わるようにして、この場に別の勢力の騎兵たちが雪崩れ込んでくる。
「我らは正当なるフランスの王! シャルル7世王の貴下にある兵である! ルーアンの市民たちよ! 我々が争う理由は無い! ルーアンの地にて生まれた新たなる聖女を迎えに来た! 我々は争いに来たのではないっ!」
撤退するイングランド兵を追い立てる騎兵たちに交じって、その先頭に立つ男の大声が響き渡る。その声には聞き覚えがある。
「我らは聖女ジャンヌ・ダルクの意思を継ぐ者である! 王の命にてサント家の聖女を迎えに来た! 道を開けよ!」
アンドレ……アンドレ・ド・ラヴァル。
近しい親戚であり、友などほとんどいなかった生前の俺をして、かろうじて友とも言える者。生きていた頃の俺を知る者。
突然に現れた生前からの因縁に、頭が痛くなる。
次々と変化していく事態に俺の頭も限界に近い。
声を張り上げながらこちらに近づいてくる、かつての知人を見ながら、焦燥感に苛まれる。
マズいぞ、今の俺の体は動く骨……これはこれで良い躰ではあるが、それでも外道に落ちた身。この哀れな骨になってしまった事を奴に知られたくはない。呪われた俺を誰にも知られたくはない。かつての俺はもう死んだのだ。ここにいるのはその記憶を持つだけの骨でしかない。
「おお……」
「……本当にいた」
「あれが……」
「骨の騎士……」
アンドレと、それから奴に率いられた騎兵たちは俺の姿を見るなり停止して、驚愕の表情を浮かべ、口を開けたまま呆けている。もはや見慣れた反応。イングランドの騎兵はそこに伸びている男を除いて完全に撤退している。
しばらくの時間をおいてアンドレが単騎で俺に近づき話しかけてくる。いかにも恐れながら、恭しく。
「も、もし……高貴なるお方、無作法にも声掛けを失礼いたします……」
考えろ、考えろ。
俺が奴の知り合いだと気づかれるのは駄目だ。そこから親類にまで知れ渡ってしまう。それだけはなんとしても避けなければならない。
奴は緊張をしているが、俺もまた緊張していく。
今からは少しの隙も見せてはいけない。
「髑髏の騎士様、貴方様はルーアンの聖女を守護せし天の使いのお方であられるか?」
「…………」
「パリの町のノートルダムの大聖堂に顕現なされて、王に新たなる聖女の誕生を伝え、王の名の元に守護せよとの神託を下された天使であると……」
「……ふん、何だそれは、確かにパリには行ったが神託などしていない。王とはシャルル王のことだな? そんな与太話、誰に聞いた?」
「!?」
また身に覚えのない話が降って湧いてきた。
いい加減にしろ。
今度の話は俺がノートルダムで王に対して神託を下した、だと? 誰の言葉だ、それは、知らん。
絶句するアンドレを見る。
色白で線が細く頼りなげ、いくらか年下だが、何故か俺に懐いてきたので時々酒を酌み交わしたり武術の手ほどきをしてやったこともある。思慮深く控えめな性格をしている奴だが請け負った仕事の責任から逃げるような奴ではない。王命を受けて聖女を迎えに来たと言っていたな? 俺の口から神託を否定されて戸惑っているのだろう。
だがどうも様子がおかしい。訝しむようにこちらを伺う視線は何かを言いたげだ。これは神託を否定されたから絶句しているのではなく……
「どうした?」
「いえ……名乗り遅れました、私はアンドレ・ド・ラヴァル。シャルル王の元で新たなる聖女をお迎えにあがった者です。その……貴方様の声や話し方が知り合いとそっくりであったもので……」
「!」
しまった! 喋り方か!
見かけは完全に変わりは果てており、一見して見破れるものでもないだろうと高をくくっていたが、声? 話し方だと? 俺に考えが足らなかった。
「その人物は私と同じく貴族でありルーアンの町を最後に消息を絶っているのです、何か心当たりなど……」
「ソウカー、まったく知らないナー」
「急に、口調が……」
ちっ、わざとらし過ぎたか?
思いなおす。そもそも俺が俺であると疑われても否定をし続けていればいいだけの話。取り繕うのはやめだ。
「俺にはどうでもいいことだ。知らん。それより、貴様の用事は俺ではなく聖女にあるのだろう? ふん、本人は聖女の自覚など無いようだがな、さっさと迎えに行ってやれ」
「………………はい、その通りですね」
未だに俺を訝しがりジロジロと見てくるアンドレの奴に別の生贄を捧げる。どうやらリュミエラよ、貴様の出番のようだぞ。本人は嫌がるだろうが。
後ろを振り返り、屋敷の方向を指し示してやる。
!?
どうにも静かだと思ったが、市民たちは皆一様に跪き、一心に祈っている。
何に対して?
俺の方を向いて祈っている。
俺に向けて祈りを捧げている。
「新たなる聖女……」
「聖女の守護天使……」
「神の救いを……」
「我らに導きを……」
救いを求めて俺に祈る市民の姿に圧倒されて、言葉を失う。
やめろ。
俺に対して祈るな。
俺はお前らを救いもしないし、導きもしない。
神でも天使でもない、ただの名もなき動く骨だ、お前らに何もしてやれない。それどころか、お前らを救うのではなく、むしろお前らを苦しめるているような存在だ。一時とはいえ、本気で世界の破滅を願ったような愚かな男だ。そんな者を相手に祈りなど捧げるんじゃない。
「骨の御仁? 儂らも屋敷に戻らねば」
「あ、ああ、そうだな」
ジェルマンに促されて、先行するアンドレの後に馬を進ませる。
市民は大勢いるが、俺が最初に馬で突っ切った道が広がり、俺たちと屋敷を繋ぐ一本の大きな道が出来ている。そこを進む。アンドレが率いていた騎兵たちは全員が付いてくるわけでは無く、多くの騎兵たちを後ろに残している。俺に表情があれば、さぞ困惑した顔を拝めるだろうが、残される彼らの顔も似たようなものだ。
「市民たちが……静かにしている……」
「この町では市民の暴動が起きていないだと……」
「見ろよ、奴ら、俺たちを見ても襲ってこない……」
「これは聖女の力なのか……」
「神威……神よ……」
後ろから聞こえる残された騎兵たちの何やら不穏な内容の話声を無視して進む。
大勢の祈りを捧げる市民の間をゆっくりと進む。
「おお……我らを救うために神は示したもうた……」
「もう間違いを起こしません……」
「今度こそ聖女様を信じます……」
「俺たちは救われる……神よ……感謝を……」
どうにも居たたまれない……これなら悪魔だと恐れられ罵られていた方がまだマシだった。
俺には神の力など無い、持っていない、だから何もしてやれない。
だから、祈らないでくれ。
すぐに屋敷に辿り着く。
屋敷の屋根に俺の視線がいく。いってしまう。
黒猫の奴は……いない。
「お疲れさん、好きに暴れていたねぇ」
「!?」
危うく不様な叫び声を上げる所だった。
肩だ。
俺の左肩に乗っている。
黒猫。猫の姿をした、何か。
俺には無いはずの心臓が跳ね上がり、無いはずの鼓膜がジンジンと脈打つのを感じる。
「ん? どうしたの? 黒騎士さん? もしかして疲れたとか?」
耳元で囁かれる黒猫の言葉に、とっさに返事を返してやることが出来ない。
聞きたいこと、問い詰めてやることが山ほどある。いま聞くか? いや、ここでは聞けない。もっと静かな場所で。俺はこいつを恐れている。恐るべき相手だ、話すにも相応の覚悟が……いる。
「いきなり肩に乗って来るな、叩き落とされても文句は言えんぞ、黒猫」
「ひどい扱いだねぇ……後ろ、なんか、すごい事になってるねえ」
俺の肩の上で後ろを振り向いたらしい黒猫が興味深いとばかりに少し興奮しながらつぶやく。声は楽し気であり、黒猫を相手に緊張をしている俺を気にした風でもない。いつも通り、いつもと同じ。
「市民どもか?」
「新たな宗教が生まれる勢いだよ、これは」
新たな宗教、追いやられる古い神……黒猫よ、何が言いたいことがるのか? それとも俺の考えすぎなのか?
「ところで彼、いいの?」
「彼? 誰のことだ?」
「えぇ? さっきまで君と戦っていた人だよ、今、あそこで伸びてる」
「ああ……すっかり忘れていた」
「可哀そう過ぎないかしら? 引くわぁ……」
言われて俺も後ろを振り返ると、祈りを続ける市民たちの合間に男が伸びたまま地面に放置されているのが見えた。知らないふりをしているのか、市民たちもアレに対して何もしていない。
「どうでも良すぎて、な」
あのまま放置で問題なし。
誰かがとどめを刺すなら刺すで構わないし、違うというのならそれでもいい。誰かが回収するだろう。心底どうでもいい。
俺には他に考えることが沢山あるのだ。主に貴様のことでな。だから黒猫が悪い。ゴウベルよ、恨むのなら黒猫を恨め。
屋敷の前ではリュミエラの父トムスとアンドレの問答が続いている。
「本人は聖女では無いと言っておりまして……」
「ここで引き下がるわけにはいかんのです。どうか、どうか我々の話を……」
貴族にしては物腰の柔らかいトムスと、同じく貴族として物腰の柔らかいアンドレが、静かに言い争っている。お互い相手を立ててはいるようだが、自分の意見を曲げようとはしない。両者一歩も引かずといった様子で事態は膠着している。
「これじゃ、いつまでたっても屋敷には入れそうにないわい、骨の御仁、何か言ってやってくれはせんじゃろうか?」
ジェルマンが近づいてきて耳打ちをして俺に調停を頼んでくる。
何故俺が、とも思ったが、町の騒ぎについても、今回の聖女騒ぎについても確かに俺が当事者に近かったな。おのれ黒猫め。
「トムスよ、話くらいは聞いてやれ。どういう結果になるにしろ屋敷に入れるくらいは構わないだろう。アンドレもそれでいいな?」
強引に二人の会話に割って入る。
普通ならば貴族の間どうしの会話に割り込むなど考えられないが、俺はそうしたことを超越している存在になった。貴族の常識など知らないし、考える必要も無い。
「え、あ、はい……」
歯切れも悪くアンドレは俺に答えるが、俺を見る奴の目が怖い。俺は何か余計な事を言ってしまったか? いや何もおかしなことは言っていない。それでも奴は俺の事を疑っている目で見る。奴と目を合わせられない。俺に目玉など、無いのだがな。
「アンドレさんて美男子ね? なんか貴公子って感じ。目の保養になるわぁ」
黙れ黒猫。目玉を引っこ抜くぞ。




