32
「うおっ!? うぉおおぉおおぅお!?」
「わあ! わあ!」
「あははは、何これ、何これ、あはははっ!」
空の上。子供らの笑い声。
上がっては下がる。その度に子供らの嬌声がルーアンの町に響き渡る。
「もう空を飛ぶのに慣れたのか? 流石に子供は順応が早いものだな!」
「あははは、ぃいやぁ、あははは!」
「どうだ? 空を飛ぶのは楽しいだろう!? ふははっ!」
「あはは、あはは、あーははは!」
「おーい黒騎士さん、人は恐怖からでも笑いが出てくるものなんだよ? 実は彼女、泣いてない? どうしようかねぇ、私が止めるべきなのかなあ、これじゃあ黒騎士さんがここで一番の子供だよ。まあ、楽しそうは楽しそうだし、いっか!」
「良くないっ! 良くないですよっ! と、止めて! 止めてくださいっ! もう十分ですから、あわわ、わああああ」
「お、おろし、う? !? !? ぅうううおおおおお!?」
送り届けるついでとばかりに、子供らを乗せたまま屋敷を囲んでいたイングランドの兵士たちを空を駆ける馬で追いかけまわしてやった。脅すように空から奴らの頭をかすめるように襲ってやると、武器を放り投げて地面にしゃがみ込む奴ら、神に祈る奴ら、逃げようとして転ぶ奴ら。中にはロングボウを構えてくる者もいたが、激しく上へ下へ、右へ左へと自在に空を駆ける馬に届く矢は無い。
しばらく奴らの頭上に蹄の音を聞かせてやると、やがて総崩れを起こしたように屋敷を囲んでいた者たちが散り散りになって逃げていくのが見えた。
「よし、これくらい脅してやればいいだろう。子供らよ、ずいぶんと喜んでいる所を悪いが、そろそろ楽しい遊びは終わりだ! 降りるぞ」
「楽しんでいるのは黒騎士さんなんだよなぁ。でも意外と子供思いな人なんだねえ、サービス精神旺盛っていうの?」
「そ、それ、ち……ちが……う……」
「現実、夢、どっち、うう、気持ちが悪い……」
「お、おぅえ……」
笑いすぎて苦しくなったのか、ぐにゃりと倒れ込む女の後ろから馬の手綱を操作して屋敷の前の敷地の広い場所に静かに降り立つ。着地は完璧と言えるだろう。いいぞ、賢い馬だ。首元を十分に撫でてやる。
俺の視界の中には屋敷を守っていた側の兵士が、遠くから俺たちをとり囲むのが見えた。
武器を持つ手を震わせながらこちらを見る顔には、判で押したように同じような驚愕が張り付いている。襲ってくるなよ?
「…………こりゃあ、驚いたわい」
俺たちを取り囲んだ兵士の間から一人の老騎士が現れて近づいてくる。
「ジェルマン……様……」
馬上にて俺の後ろに乗っているアリセン少年が息も絶え絶えに老騎士の名を呼ぶ。
俺も前に会ったことのある老騎士だ。焚火を囲んだ時の、うまそうに酒を飲む姿は印象に残っている。老騎士は武器は武器こそ抜いていないが、周りの者よりかは幾分警戒している様子、だが驚愕の表情に違いはない。
「アリセン……ユーザス……それからサント家のお嬢様、こりゃあ、一体、どうして?」
そう問いかける老騎士の鋭い眼光はアリセン少年ではなく俺の髑髏の顔を見据えて離さないでいる。
何が何やらわからないので言うべき言葉も見つからない、そういう顔だ。
こいつらはこいつらでリュミエラというこの女を火刑から救出するために動いていたのだろう、だが力届かずここで足止めされていたという所か、そうこうしている間に俺たちが現れた。空を駆ける馬に乗って、自分らをとり囲む敵を蹴散らして、前に会ったことのある髑髏の騎士と、そいつに連れられた身内の少年らと、目的の女が空を飛ぶ馬に乗って目の前に現れた、と、ふ、どうだ? わけがわからないだろう? 俺の気持ちがわかるか? せいぜいお前たちも混乱するといい。
「ククク」
「何を一人で笑っているのさ?」
「何でもないぞ? くだらないことだ」
「そう? なんだか邪悪な事を考えている時の悪の幹部の笑い方をするんだもの」
「悪も邪悪も貴様だろうが、黒猫」
「ストレートに酷い」
「ね、猫が……猫が喋っている……」
「猫だ……黒猫だ……喋る黒猫、本当にいたんだ……」
「喋る黒猫を連れた髑髏の騎士……神よ……」
俺たちを遠巻きに囲む兵士たちから声が上がる。喋る猫も珍しかろう。混乱しろ。
「騎士殿……騎士殿……死せる騎士殿よ……」
おずおずと、俺に対してどう出ていいものかわからない、そういった態度で話しかけてくる老騎士。
「馬上におる子供らは……その……生きて? いや生きてはおるが、無事で?」
「おお、子供らか? そうであったな。おい、女、いつまでへばっている? 馬を降りろ、子供らもだ」
「こ、腰が抜けてしまって……」
「力が、力が……」
「動けんのなら首根っこを掴んで放り出してやろうか?」
「動けますぅ!」
しゃっきり、とはいかないまでも、自力で馬を降り地面に降り立つ少女と少年ら。地面に降りた後はふらふらと覚束ない足元だが、老騎士ジェルマン他、ここでようやく近づいてきた男たちから支えられる。
「リュミエラ!」
屋敷の扉が開き一人の男がこちらに駆けよってくる。途中で俺を見て立ち止まり、一瞬だけ呆然としながらも、すぐに女、リュミエラに強く抱き着いて泣き始める。
「おお、リュミエラ、リュミエラ、うおお、よく無事でっ……」
「お父様……」
どうやら女の父らしい。
武人とは言えない体形、娘に似た髪色と頼りなさげな風体。
老騎士はサントのお嬢様とか言っていたな。家名は俺の知らないものだ。
すぐ近くでは男たちも老騎士も少年らも、お互いの無事を確認し合い、抱擁をしあっている。
彼らが抱き合い、泣き合い、喜び合うのを見て、最近の俺の中に渦巻いていた感情にも何かしらの変化が起きているのを自覚する。あるいは死せる者の身になって、ようやく初めて生ある者の命の営みが、尊いものに感じてしまったという所だろうか。いや、黒猫が言うには俺は死せる者ではなく生きているのだと、まあいい、わからん。考えることに疲れた俺の心に、彼らの嘘も偽りも混じっていない素直な愛情が、すっと入って来る。
ちっ、世を憎んだり、命を尊いなどと思ったり、考えたり考えないようにしたり、我が心ながら、ふらふらといい加減な物だと思ってしまう。これでは黒猫の奴を笑えないではないか。
好き勝手、自由気ままに、考えることも止めて、ただ助けたいから助けた、その結末。
満足、そうだな、心地よい、そう感じた。
……いや、待て、待つんだ、俺よ、満足したらこの世を去ることになるのではないのか? 俺は満足していない、全く満足していないぞ。この世を去るほどの満足ではない、断じて無いぞ。
「しかと送り届けてやった。ではな」
まだまだこの世界に未練がある、わからないことだらけでは悔しい、このまま終われない、そう心の中で強く願ってから、空へと駆けようと馬の手綱を握る、すると、俺を必死に止める声がする、リュミエラの父だ。
「お待ち、お待ちくださいませ、どうか」
「何だ?」
リュミエラを抱きしめたまま、俺に懇願するように声を張る必死の形相の父親。
「天の使いの方よ……リュミエラの父のトムス=サントと申します。私めの言葉をお聞きくださいませ」
「天の使いではないがな」
「天の使いでは……ない……!?」
「俺の事はどうでもよかろう、用件は何だ?」
謝礼でもくれるというのか?
「!? あの、その……我が娘は、神に選ばれたのでは……」
「いや、知らん」
「知らん……何が、何が、今、この世界で何が起きているのですか?」
「それも知らん」
「娘は、神の、天の使い……天使」
「天使ではない」
「あう、あう……」
言葉を失う男を見ながら思う。
だよな。
わかるぞ。
だが俺は何も知らない。俺という存在を勝手に天使と勘違いをして、そしてそれに助けられた娘は神に選ばれたのだと思っていたらしいな。それはそちらの勝手にしろというものだが、俺が否定してやると続ける言葉もないようだ。
だがこうして否定はするものの、俺は俺の存在自体も謎のまま知らないでいるのだ。天使か、悪魔か。黒猫はどちらでも無いという、いや、好きにしろ、だったか? どちらにも成れるのだのどうの、はぁ、わからん、俺には男の問いに対しての答えが無い。
俺にもわかるように説明しない黒猫が悪い。そうだな、黒猫が悪い、もうすべてこの言葉で片付けていいのではないだろうか?
「説明してやれ、黒猫よ」
「丸投げ!? 何を!? いや、説明とかしないわよ? というか世の中のことなんて私も知らないとしか答えられないし」
「だそうだ、ではな」
「お待ちをおおお!」
それでも俺の出立を止める父親。
ここで見捨てられたら後が無いとでも思っているのだろうか? いつかの俺を思い出してなんともいえない感情を持つ。最初の森で黒猫に見捨てられたらもう後がないと思っていた時の俺だ。この父親が何やら哀れに思えてきたぞ。悪魔との契約どうのと言い出さない分、この男の方が冷静なのだが。
「では、では、では、いえ、でも、あと」
「トムス殿、先ずは礼を言われてはどうかの?」
「ジェ、ジェルマン殿、これは何とした事、確かに言われる通りであったな、こほん、天使様」
「天使ではない、悪魔でもないが」
「あう」
老騎士の取りなしで立ち直りかけたが、俺が天使呼びに待ったをかけたので再び言葉に詰まる男。
こいつらの身分がどうなっているのか少しだけ気になったが、俺にはもう関係のないことだと思いなおす。身分からも、俺は自由だ。
「で、では貴殿の事は何とお呼びすればよいのでしょうか?」
俺は俺の事を知らない、ならば誰が俺の事を知っていようか。
「何とでも呼ぶがいい、骨野郎でもそこの黒いのでも骨の道化師でも…………天使や、悪魔でも、別に、いいのか」
ああ、そうか、そういうことか。
いつかした黒猫の奴との会話を思い出す。好きに呼べ、呼びたいように呼べばいい、私たちは私たち、大切なのは自分が自分であること、俺は俺であること、そこさえ押さえておけば、他者が俺をどう呼ぼうと、それはどうでもいいことなのだ。名前というものに拘っていたのは、過去の俺だ。縛られていた俺だ。目の前がいくらか明るくなった気がした。
「では、天使様と」
「やはり天使は無しだ、こそばゆい」
天使の柄じゃないと前に笑われた事、根に持っているからな黒猫よ。
「き、貴殿はいづれかの英霊様なのでしょうか? もしや我がサント家の先祖の……」
「いや、無いな、まったく知らん、英霊でもない。俺は名を捨てている、ゆえに俺の事は……黒騎士とでも呼べばよいだろう」
呼び方などどうでもいい、天使でさえなければ。
黒騎士だのは黒猫の奴が俺を呼ぶ時に多用するものだ、すでに前の名前よりしっくりくるほどになっている。俺は名も命も捨てた死霊の黒騎士、くく、悪くない。
「く、黒騎士殿、我が娘リュミエラを二度にわたり救っていただいたこと、心の底から感謝をしたします」
俺への感謝の言葉を述べる男、それに少女本人や少年らも加わり、何度も礼を言う。途中途中で神の導きなどという言葉が入るのが気に食わないが、それは黙っていることにする。ふん、引きこもりの神の奴めが何をしたと?
感謝の言葉はやがて俺への謝礼の話になっていく。
「黒騎士殿に何をもって報いればよいのかと考えておりまして、どうにも……」
「たまたま目についた、故に助けた、それだけのこと、助けた理由などは本当に無いのだぞ? 神も悪魔も関係は無い。なんとなく、だ。なんとなく俺が助けたいから助けた、そういうものだ。謝礼もいらん、ふ、貴様らはただ助かった幸運を噛みしめていればよい」
何か言いたげな黒猫が口を開けて俺を見ているが、知らん。悪くない気分だ。
「骨の御仁よ、貴殿とは焚き火を囲んで以来であるな。あの時は世話になった」
いくぶん緊張も取れた様子で老騎士が俺に話しかけてくる。
「何もしていない」
「いやいや、ルーアンの町の治安について儂らに忠告をくれたではないか、確かに貴殿の言う通り復活した魔女も、それから死者の軍勢もいなかった、軍勢はいなくとも骨の騎士は、一人、いたようだがの」
にやりと笑う老騎士に応じて、俺もにやりと笑って返す。いや笑えないな、この顔では。
「あの別れの時も驚いたものだが、ここのサント家のお嬢さまを誘拐犯どもから助けたのも御仁であると後で知った時は心底驚いたのじゃよ。あの焚き火の時、出来の良い自慢のワインを飲んで頂けなかったのが悲しくもあった。知らぬとはいえ勧めたのは儂の方じゃが、その骨の身体ではワインは飲めなかったのう」
「いや、飲めるぞ? 普通に飲食は出来る」
「え!? 出来るの!? いや、出来るのじゃろうか? その身体で?」
「ああ、問題なく出来る」
「でたらめだな……」
割って入ったのはアリセン少年。別れの時の間抜け面には笑わせてもらったぞ?
「くくく、少年よ、どうだ? 俺は意味不明な存在だろう?」
「なんで骨の人が誇らしげなんだよ?」
「こりゃ、アリセン」
老騎士がアリセン少年の物言いを窘めるが、俺は気にしていない。もっとだ、もっと混乱しろ。
「い、飲食が可能ならば、ぜひとも我が家のもてなしを受けては頂けないでしょうか、それこそ、ワインでも飲んでいかれては?」
出来の良いワインは前から少し気になっていたが、ずっとかしこまれているのも気分が良くない。トムスと名乗った男も俺を扱いかねている。それなりの身分でありながら俺を上に見ているのか。こちらなどは只の……動いて喋る骨と喋る黒猫だしな、今まで会ったこともない代物、彼の心中を察する。
これ以上彼の心労を増やす必要も無し、もう話は終わりで良いだろう。ランスの町に行かねば。次こそ目立たずにいくぞ。
「どうか、何も知らぬ我らに貴殿のお知恵を賜りませ……オルレアンにいる聖女は貴殿らとどういった関係があるのでしょうか?」
「ん? 何だ、その話は? 本当の話か?」
聞き捨てのならない地名を聞いてトムスを睨みつける。俺に目はないが。
オルレアンの地、オルレアンの聖女、つまりはジャンヌ・ダルクの事、それに関する話。
彼女は燃やされ、灰になり、復活はしていない、はずだ。
「情報などは、今は何が本当で、本当でないのか……」
「どうでもいい、知っていることを話せ」
「オルレアンの町で神の声を聞いたという聖女が現れたらしいのです。自分こそジャンヌ・ダルクの後継者だと、再来の聖女であると名乗って。そしてその再来の聖女を中心にして民衆が纏まり、オルレアンの町では武装蜂起して、今あの町は内乱状態であると……いえ、オルレアンだけではございません、今、あちこちの町で、神の声を聞いたという乙女たちが大勢、名乗り出ております」
なんだ、それは。
「黒猫? 貴様か?」
「ぅおい、待ってよ、私に何ができるの? ずっと黒騎士さんと一緒にいたよ? 無関係! 私は何もしてません!」
「…………」
本当か? 黒猫ならばいくらでも俺の知らない方法で何事も出来そうだ。
馬の上で俺を見上げる黒猫の様子は普段と変わらない。
ルルと名乗る黒猫、いや少女にもなる存在。俺の未だおぼろげな記憶の中にある黒衣の少女の姿が、俺の心をざわつかせる。
魔女。
本物の魔女。力を持つ悪魔を使役する魔女。物語でも虚構でもなく、ここに実在して人をも殺せる恐怖の存在。
知りたい。全てを知りたい。
聞けば大抵のことに答えてくれる黒猫だが、一度知らないと言われれば問い詰めても知らない以外の答えは返ってこないだろう。
今の俺に出来ること……ここにいる人らから、まだ少し詳しく話を聞く必要がありそうだ。




