29
黒騎士覚醒。
控えめな怒声が街道近くの夜の草原に響く。
巨大な鍋でスープを煮る男が怒声でもって、幼い子供らをしかりつけている。彼の作業の邪魔でしかないのに、何とか彼を手伝おうとして男に近づく幼い子供らを追い払う彼の怒声には、どこか子供らを気遣うような声色があった。
円座を組む老人たちには少年、少女らが付き添い、痛めたらしい老人たちの足を心配そうにしてさすっている。子供らの顔は暗いが、老人らは生まれたばかりの赤子をあやしつつ歌なども歌い、少年らを慰め、声を掛け、労いと感謝の言葉でもって応えている。
横では持っていた毛布などを集め、女たちが寝床の準備を始めている。彼女らの顔にも疲労の色は濃いが、何事かを喋りつつ、時々笑いなども起きていた。
獣除けとでも言いたいのか、周りでは男たちが石を積み上げて垣根を造っている。何処かから返ってきた男たちが皆に声をかけ、薪を積み上げる。彼らの顔に悲壮感はなく、ただ黙々と仕事をこなす職人のようであった。
(逞しいね、ここに新しい町でも作り上げるかのようだよ)
(ああ……)
念話にて喋りかけてくる黒猫の言葉にもまともな返しが出来ずに、俺は目に映る景色に見入る。
3つ、4つ、その程度だと思っていたかがり火は、近づいてみるともっと多く、何十もあると気がついた。彼らがどこの勢力のどういう集団かわからないので、うかつに近づくことに躊躇していると、黒猫がローブの透明モードを使いなよ、と言ってきた。
そこで理屈も何もさっぱりわからない俺から見たら魔法にしか思えない……俺から見たら完全なる魔法のローブの機能の一つ、透明モードとやらを思い出して、さっそく使ってみた。自分では透明になっているとは思えないのだが、しっかりと風景に溶け込んで? 隠れているらしい。
存在が消えるわけではないので音や、それから匂いといったものは誤魔化せないが、夜の闇の中に紛れれば見つかることはそうそう無いだろうとの説明だ。昼間に使うと何とも微妙な感じになるらしい。
それと気を付けなければ顔、髑髏の顔が宙に浮かんで見えるようだ。黒猫の奴に笑われた。
誰もが恐れおののく髑髏の顔が気に入り始めていたが、今だけは忌々しい。
黒猫は自前で透明になれるらしいが、馬だけはどうしようもないので俺たちがいた例の無人島で休んでいてもらうことになった。馬ごと透明には出来んのかと聞くと、黒猫の奴がそっけなく「出来るよ、作ればね」と返ってくる。作れば出来るらしい。馬を送りつけた黒猫が「今度は馬さん用の登場の演出を考えておくね」と言ったことが一つの気がかりになっているが、考えても仕方ない。また世界を愚弄するかのような、邪悪でおぞましい何かが黒猫によって作られ生まれるかもしれないが、知ったことかと。
果たして透明モードとやらはうまく機能しているのかと心配しつつ慎重に人々に近づくと、確かに俺たちの姿を気に留める者はいない。
それでもさほど彼らに近づくこともなく、遠くから観察する。集団はパリの町から逃れてきた住人たちで間違いなないようであった。1000人を軽く超えるような集団の中にいる者たちの多くは、職業や年齢も性別もまちまちであったが、ただの市民と思われた。ただし中には聖職者、あるいは貴族らしき者たちまでいる。街道から逸れた場所にはいくつかちらほらと大きな天幕が立てられているが、あのような天幕は市民などが持ち得まい。
そしてそんな全員が助け合っていた。
その景色に、見とれた。
年齢や立場などを越えて、死力を尽くし生きる人々の営みに、心を持っていかれた。
人が持つ生命力というものを見せられて、圧倒されていた。
彼らは神へ感謝の祈りを捧げ、互いに言葉をかけ合い、時に持ち物を都合し、あるいは食べ物を分け合い、動ける者は動き、怪我や老いで動けぬものとて言葉で働き、誰もが誰も、持てる力を尽くして働いていた。
(この期に及んで神へ祈るのは、私には理解できないわね。町から出る羽目になったのも宗教が原因ではないの?)
(宗教という物語によって争い合うのも人ならば、宗教という物語によって繋がり、助け合い、一つにまとまるのもまた人、なのだろう? なぁ黒猫よ?)
(あれ? これはちょっと反論できないねぇ。君のいう通りだよ。どうしたの黒騎士さんたら、何かに目覚めちゃった? なんだか、ちょっと、楽しそうだし)
(ああ、楽しい)
近くに居るであろう黒猫に念話を返す。
俺がいるのに、俺がいないように振る舞う人々を見ることが出来て、純粋に楽しいと思った。
特に庶民の暮らしや営みなど、生前の俺では知らず、また知ろうともしなかったものだ。いいや、ある程度の知識としては知っていたが、実際に見るのと聞くのでは大違い。そういうことなのだ。
町から追われた者たちの営みなど、本来の営みとはまた違うのだろうが、嘘偽りない彼らの生を見ることができて、徐々に強張っていた心がほぐれ、晴れていくのを感じていた。
パリの町に戻り、そこで見た風景、受けた衝撃、溢れるような死体に囲まれてから始まった心の不安、不調、罪悪感や、何も考えずに行動した自分への羞恥心、俺は生きているのか死んでいるのか、俺は何者なのだという、考えないようにしていても頭がもたげてくる、未だ明確な疑問にすらなっていない、頭の中に発生した霞のようなモヤに疲れていた心が、ただありのままの景色として目に映る力強い生者の営みに打たれて、癒されていく。
彼らは、生きている。
(黒騎士さんには覗き魔の資質もあり、と。犯罪行為に走らないでよね、スケベ)
(何を言っているのだ貴様……)
違うわ。覗きではなく、これは、うむ、何だ?
(俺のはな、覗きなどではなく、そうだな、神が天から人々を見守るような、そんな感じだ)
(神目線!?)
黒猫の言う様に神が人によって創られた物語などではなく、実際に存在しているのなら今の俺の様に見ているのかもしれん。
「ウーッ、ワン!ワンッ!」
目指す場所などなく、あてもなく、ただ茫洋と人々の営みを見物しながら歩いていると、犬に吠えられた。
「どうしたのー? ペロ、何かいるの?」
子供たちの集団の中にいる幼い少女が犬に話しかけるが、犬は俺たちのいる方から視線を離さずに吠え続ける。
試しに少し横にずれてみるが、犬の視線は俺たちの動きに合わせてずれていく。
(これはロックオンされちゃったね)
(見えていないのだよな?)
(犬は人間なんかより、よっぽど感覚に優れるからね、目だけじゃなく、匂いや音なんかでも判断できるし、自分の感覚を信じるものなのさ。確実にここに何かいるってパレてるね)
犬の向いている方を見て、人の方は何もないと判断したのか、いつまでも吠えるのを止めない犬に少女はしきりに首をかしげている。
周りの子供らも俺たちのいる場所を見るが、そこには闇しかないのだろう。何事かと首をかしげ、怖がる。しばらくして、吠える犬を無理やり引きずって俺たちから遠ざかる。どうやら大人たちを呼びに行くようだ。
(確かに人には見えないようだな。騒動になるかもしれん、もう行くぞ)
速足でその場から遠ざかることにする。子供らが恐がって逃げてくれてよかった。本当に何も無いかどうかを確認しに近くに寄ってこられたら困っていた所だ。
集団の中を突き切るようにして道に出る。
(見えないものを信じることができるくせに、見えないから何も居ないと判断するのも人なんだよねえ、厄介な性質だよ)
(何が厄介だ?)
(実際の所はどうなのって考えるのを止めた時、そこに実在するものを拒否して自分好みの頓珍漢な答えを正解にしてしまうのさ。目に見えないような小さい生き物は目に見えないから居ないと断定するし居もしない神や悪魔を創造して信じ込む。考え続けることが出来る人というのは、どうやら希少な存在らしいよ? 大抵の人は何かと楽な道を行きがち。それで後でどれほど苦労する羽目になるのか、ありもしない神の炎の噂を信じて行動した結果、ここで苦労する人たちを見なよ)
黒猫の言葉に、何故か無性に苛立つ。
それは俺たちが現れた事で生まれたこの人々の苦難を、完全に自分のせいではないと切り離して話を進めることが故に腹を立てたのか、今を必死に生きる人々を余裕ぶった部外者が貶すことに対して腹を立てたのか、あるいは彼らが真摯に祈りを捧げる神をいないものとして扱う黒猫という存在そのものに対して苛立っているのか。黒猫に反論してやりたいが、何も出せそうにない俺自身に苛立っているのか。
とりあえず考えても言葉による良い反論が出てこないので、黒猫がいるであろう場所を踏む。
(ちょ? 何? 何で私を踏もうとしてるの?)
(見えんからな、踏んでしまっても事故だ)
(かすった! 今ちょっとかすったよ!? 理不尽! 見えないけど私はいるよ!? わざと踏むの止めて? 怒っていい? これ、怒っていいよね?)
何度かかすったような気がしたが手ごたえ、いや足ごたえがない。ちっ。
透明になるのをやめて姿を現した黒猫が非難するような眼で俺をみる。
「なんていう理不尽な暴力を振るう人なのかしらね、君という奴がさっぱりわからない、暴虐、意味不明、野蛮人」
「俺と貴様では世界が違うからな、わかりあえん」
「何の言い訳に使おうとしてるの!? わかりあえないなら言葉でつながろうよ? 私たちは会話ができるのよ?」
集団から相当に離れたから俺たちの会話も聞かれることはない。骨と猫の奇妙な会話を。
「それぞれが作り上げた虚構の世界は一つ一つ違っても、部分部分で重ねることはできるのよ? 会話という方法を使ってそれができるの、それが共有する世界。別々、けど重なる。宗教にしろ常識、道徳にしろ、時には場の空気とかいう言葉でも括られる共通認識こそが人が集団としてまとまるために磨き上げてきた特殊能力。言いたいことがあるなら言葉を使って頂戴」
「言葉、呪文、呪い、虚構、神、悪魔……もう沢山だ、聞きたくない」
「ええと、それは、ごめん?」
何故か黒猫の奴に謝られた。理不尽な事を言っている自覚があるのは俺の方なのだが。
「謝られることではない、元を辿れば、俺が貴様に色々と質問をしたせいだ、貴様はそれに答えただけなのだろう」
「ええっと、意外と冷静だし」
金色の瞳で俺を見ていぶかしむ黒猫。
聞いたら答えが返ってくる、完全に理解はできずとも。生前に抱えていたいくつもの疑問に対して何かしらの答えが返ってくることに、もう少し慎重になるべきであった。黒猫の言葉の真偽を確かめる方法が俺には無い。抱えすぎた。
「ここ数日だけで色々とあり過ぎて、考えることに少し疲れただけだ」
「それにつきましては、まぁ謝罪もするよ。我ながらしつこかったと思うわ。体も頭も休むのが重要、考えすぎも良くないっていうのは私の言葉なのにね、これからは控える。まともに会話できる人と話すのは久しぶりだったからねえ、ちょっとテンション上がってた部分あるよ」
「どんな生き方をしたら、いや、これは疑問ではない、答えなくていい」
人と話すのがどれだけぶりなのか知らんが、黒猫の人生など、どうせ長くなる上にわけがわからないという話になる。聞かなくていいものは聞かなくていい。
「頭を休ませたいなら温泉に入ってさっぱりするといいよ、私のお勧め。もう帰る?」
「いや、ルーアンには日が昇る前には到着していたい。あの女の処刑がいつになるのかわからん」
「馬を呼ぶ? それとも走る? 今の君は肉体的な疲れはほとんど感じないはずだから、暗がりの中の道を休み休み行く馬よりも案外早く着くかもね」
「馬よりも早く着くだと? この身体で? ふむ、走る、か……」
この不思議な身体の事も考えないようにしないと深みに陥る。しばらくの間、俺はもう考えないぞ。
◇
道を行く。
久しぶりに何も考えずに、走る。
走ることのみに集中する。
最初は走るのもぎこちなく、ガチャガチャと鳴る鎧の音も気になったが、一歩踏み出すたびに走り方を修正し、洗練させていく、すぐに地面の上をまるで飛んでいるかの様にして走れるようになった。
視界は月明かりだけで十分。
生前の全力疾走よりも尚速いスピードで風景が後ろに流れていく。しかも疲れない。これは……楽しい。
ただ走るのがこれほど楽しいものだとは。
俺の頭はまだ何かを考えようとするが、それらを一旦追い出して、手足に集中し、ただ早く走ることのみを優先させる。
愉快!
「なかなかの乗り心地よ! 黒騎士さん!」
……愉快でない点があるとすれば、肩の上に乗る黒猫の存在。
走るのにも邪魔だが、時々喋りかけてくるのも邪魔。振り落とさんとばかりに速度を増してやるが、黒猫は肩にしがみ付いて離れない。肩を上下させると速さが出ないので、全速で走る俺の肩の上は乗りやすいのだろう。おのれ。
「ここでマフラーモードの出番でしょ? ほら、ニンジャの修行でお馴染みのアレよ」
「なんだそれ! 知らんわ!」
意味不明だと騒ぎたいのはこちらの方だ。黒猫の言うことはいちいち意味不明なので無視をする、ローブは走りやすいように何処かに収納されている。収納モードというやつだ。いったい何処に仕舞われるのか、いや、考えるな、走るんだ。手足に集中しろ。
もっと早い走り方は出来ないかと工夫をしていると、なにやら前方に明かりが見えたので速度を落とす。また避難してきた市民か? ローブを取り出して透明になる。騒がれたくないからな。普段はずっと透明でいいのではないか?
慎重にローブを頭から被り、息を潜めて無難に、何事もなく横を通り過ぎてやろうと一団に近づく。
「……なんでこんなことに」
「なんでだろうなぁ。わからん。神のみぞ知るだ。けど、俺たちが今からやることは知っている」
「ああ、いいか? 誰一人としてルーアンに入れるなよ、全員殺すのは無理でもいくらか蹴散らしておかないと……」
「門だって急ごしらえで修理しただけだしな、大勢で来られたら持たない。あの町ももう限界だ」
「おやっさん、いくらなんでも逃げてくる人を殺すのは、どうなのです? 追い払うだけでは……」
「あ? 何を言う? もしや貴様、貴様は悪徳の町の住人の肩を持つのか? 神に逆らう行為だぞ? あの町は悪魔に魅入られた末、神の裁きにより滅ぶ、そしてその住人は神に見放された悪徳の輩、全員殺しても構わない、それが神の意思なのだ。それに逆らうなら貴様を先に殺すぞ? あ?」
「わ、わかりま、した」
「ああ、一度だけ許してやる。めったなことを言うんじゃないぞ?」
「ルーアンの町には彼らを受け入れる力は無いんだ……あきらめてくれ……あらめて……」
「……神のなされることに間違いは無い。奴等は神の裁きを受け入れて殺されるべきなんだ。そうだ、俺は悪くない。ちくしょう、もっと人出があれば悪徳の住人らを殺しつくせるのに……皆殺し……」
「ああ、神よ……なんでこんなことに……」
「もうしゃべるな、進むぞ」
20人からの武装した集団は、どうやらパリの町から避難してきた住人を殺すためにルーアンから派遣された集団のようだ。馬に乗る者は一人のみ、ぶつぶつと下を向いて神に祈っている。祈りというか、悪態をつきながら皆殺しだどうのとつぶやいている。誰もが皆一様に疲れ切り、そして悲痛な顔をしたままの哀れな行進をする者たちだが、見過ごすことが出来なくなった。
あの、命の限り生きようとする人らを、俺の心を動かしたあの風景を壊す輩には、罰を。
こ奴らにはこ奴らの事情があるのだろうが、知ったことか。ローブに隠れた腰の剣に手をやり、やめる。
ここで殺したら、また色々と考えることになりそうだ、それは、きっと楽しくない。そうなる予感がした。そう思った。だから、
『お゛、お゛、お゛、汝らよ、罪無き者を殺してはならん。悪徳の住人などどこにもいない。死を弄ぶ者よ、汝らの犯す罪を、神は見ているぞ?』
せいぜい恐ろしい声を響かせて、驚かしてやろう。
声色を変えたのは、まぁ演出というやつだ、黒猫の奴の悪い所が移ってしまった、後で文句を言ってやる。
俺の言葉による”呪い”が生み出した効果はとてつもないものだった。
大きな体をした兵士たちが俺の言葉を聞いただけで腰を抜かし、地面に這いつくばって神に祈る。口から泡を吹いてひっくり返る者もいる。それぞれが、それぞれ勝手に懺悔を始めて、夜の街道は喧騒に包まれる。
「髑髏っ! 髑髏が宙に浮かんでいるぅ! あひぃいいいいい!」
馬に乗っていた者が一目散に逃げだしたので、走って追いかける。
何故逃げる? 責任者だろうが、貴様。
「付いてくりゅ!? 付いてくりゅぅううう!? いやああああああ!!!!」
大の大人が泣きべそをかきながら馬を走らせているのを、走りながらピタリと横につき、笑ってやる。
『泣き虫め、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は』
ふはは、愉快。
「黒騎士さんはいつも考えていた方がいいよ、たぶん、うん、きっと」
呆れたような声が肩から聞こえてくるが、考えないぞ。
ふっきれたようです。




