22
深く細く呼吸をして、胸に手を当てる。心を平静に保ち、落ち着かせる。
こちらを見る黒猫の視線を無理にでも断ち切り、周囲に目配せをして、耳を澄ませ気配を探り、敵がいないかどうかを確認する。
ここは戦場ではないが、戦場に立っているかのように、振る舞う。
人の気配は無い。
よし落ち着いた。
改めて周囲を見渡す。
山積みにされた死体。
放り投げられ、打ち捨てられた死体たちは年齢も身分もバラバラだ。
頭を割られ、体を貫かれ、血を流したまま弔われることもなく積み重なる死体たちは、自分たちの身に何が起きたのかまるでわかっていない様子で横たわり、カラスや鼠に蹂躙されるままになっている。
戦場において兵たちの死体を何度も見たが、これは常軌を逸している。頭が理解を拒む。馬が低く嘶き、俺に怯えを伝えてくる。馬の怯えは、上に乗る主の動揺が伝わったのか。
石造りのノートルダム大聖堂が今は煤で黒ずんでいる。ここを去る時に火災にまでなった際、黒猫はすべての火という火を消してきたはずだ。燃え残っていたものがあったのか、それとも別の理由で後で燃えたのか。
「これは何事だ? 黒猫、何をした?」
「え、待って、何で私が何かしたようなこと言ってるの? 知らないよ、私に聞かないで」
「大聖堂が焼け落ちているぞ、それと、この死体の山は……」
「大聖堂で出た火災は、一度完全に消したはずだけどね、その周りで燃えていたものも全部。けど確認したわけじゃないし、消し残しがあったかもね。暗くなったし、新しく火をつけることもできたし、やっぱり知らないかな。死体についても知らないよ、酷いことをするねぇ」
「酷いことで……」
済ませられるか、と続けようとして言葉が詰まる。
これは俺のせいか? 俺と黒猫がこの町に来たせいで起きた虐殺。
わからない。何がどうなって、こんな風景が生まれるのかわからない。ただ、この町を去る際の上空から見た、一個の生物めいた動きをする人々の姿を思い出して、心が凍える。
理由も理屈もなく、眼前に唐突に叩きつけられた、夥しい数の死という現実を前にして、理由も理屈もなく、ただ確信に至る。
これは、俺の生み出した景色で間違いない。
俺の魂が震えている。子供のように怯えている。
お前は取り返しのつかない事をしでかしたのだと責める声と、それでも残る、仄暗い炎のような憎しみの残滓が俺と同じ声で哄笑するのを同時に聞いて、自分という存在が、わからなくなる。
「……これは……俺の……俺が……なんという……ことだ」
俺の口から零れ落ちる、かろうじて絞り出したようなつぶやきを受けて、黒猫が喋る。
「どっちがいいのかなぁ?」
「……どっち、が、とは?」
「黒騎士さんが何を思っているのか正確にはわからないけど、この町の惨状が自分のせいだって思っているのなら、ちょっと違うと言って慰めてあげようかな、それとも君のせいだねって言って笑ってあげようかなって。ねぇ、君はどっちがいいと思う?」
「何を、言い出す……」
前に座る黒猫がいたずらをしかける子供のような笑顔で俺に問いかけてくる。夥しい死体に囲まれている、この状況で。
今の俺を慰める? 笑う? この喋る黒猫という存在が、ますますわからなくなる。混乱していく俺を放っておいて黒猫は続ける。
「当然な事を言うけど、君が私の知らないうちにせっせと人を殺して積み上げたわけじゃないのでしょう? 誰かに殺せとか命令したわけでもない、それなら、この町の現状はこの町の人たちが生み出したものだよ。黒騎士さん、もし君の出現がこの事態を招くきっかけになったのだとしても、この惨状は君のせいじゃない。これを為した者のせいだから、君は悪くない」
それは、優しい言葉。許しの言葉。
救済の言葉を紡ぐ黒猫は金色の瞳を俺に向けてやさしい口調で続ける。
「それにね、誰が、何のためにこの凶行に及んだのかも私たちは知らないんだよ? 現段階では想像するしかないの……そうだねぇ、考えられるのは大聖堂に降り立った天使が世界の終末を告げに来たと勘違いして民衆が暴発してしまった、とかかなぁ? 神を本気で信じ、敬い、終末を恐れる人たちの前で、空から、落ちてきた動く骨……天使が、ぶふっ、ああ、うん、これは君のせいだね、君が悪い、あははは、笑える」
「笑いごとでは無いわ、このっ、このっ……ええい、あ、悪魔めっ」
「悪魔じゃないですー」
「貴様という存在を表現するのに悪魔以外の言葉は無いわっ!」
「あはは、酷いねぇ」
手を伸ばして首根っこを掴んでやろうとするが、やはりすばやく逃げる。笑われるのは当然嫌いだが、それでも黒猫の笑い声と言葉で、ゆっくりと心が楽になっていき、まともな思考が戻ってくるのを自覚する。ちっ、黒猫め。素早いこいつを捕まえるには完全に油断した時を狙うしか無いな。突然歌い出した聖職者の男に驚いて黒猫が叫んだ際に、コーションが投げた金貨を頭にぶつけられた時の事を思い出す。あの時の黒猫はまさに油断していたのだろう。
「……コーションの奴はどうなった? 焼けた者の中にいるのか?」
「さあ?」
死体を全てひっくり返して確認するのは現実的ではない。焼かれたならば確認もとれまい。黒猫ならばわかるのではないかと思ったが、それは言わないでおく。言っても、それは便利屋としての仕事だと断られただろうが。
黒猫によって黒い装具を着けられた馬を歩かせて、この場を離れる。
死体と悪魔と骨、馬の奴も、生者のいないこの不吉な場所から一刻も早く離れたかったことだろう……悪魔と骨はどうしたってついてくるが。俺が骨だが。
「人を探すぞ。誰かに話を聞かねばならん」
「話になるといいけど」
「この骨の外見がいけないのだ。何故この姿なのだ」
「恰好いいと思って、つい」
「つい、何なのだ、兜をよこせ」
「やだ」
「おのれ」
頑なに兜をよこそうとしない黒猫。適当にその辺から顔を隠せるものを見繕えばいいという思いもあるが、それはそれで負けたような気がしてしまう。黒猫も似たようなことを言っていたな。
俺自身、この、誰からもわかりやすく恐れられる髑髏の外見というのが気に入り始めているというのは、認めたくないが、少しある。この黒く立派な鎧に見合うような兜もそこいらに落ちているとも思えない。これは美的感覚の話だな。黒騎士に黒猫、改めて、黒いな、馬もどちらかというと黒い毛並みだし。
一目見て怖い。
なるほど、誰とでもまともな話になるわけがない。さらに今は新品なのに何故か端がボロボロになっている黒いローブまで纏っているのだ、どこの死神の行進か、俺でも泣いて逃げる。
道を進むと打ち捨てられる死体は徐々に少なくなっていく。生きて動く人影は見えない。
「黒猫、貴様はもう少し、人が死ぬということに対して……なんというか、嫌悪感とでもいうのか、忌避する心を持っているのかと思っていたがな、やはりか」
「ええ、ちょっとやめてよ、何がやはりなの? 普通に死に対する嫌悪感は持ってるよ! 命は大事ですー、当たり前のこと」
「貴様のあたりまえや普通がわからんが……あの死体の山を見ても、まるで動揺していなかったろう。俺ですら言葉を失ったというのに……」
まるで動揺をしない黒猫が、何かおぞましいことをしたのではないかと、さしたる根拠もなく思った。今でも少し疑っている。それを口にはしないが。
「俺ですらって所が笑える。ああ、うん、それを言われると……そうねぇ、ああいう風景には慣れているから、とか、そんな感じ? なんとなく予想もしてたしね、と言っても何となく酷いことも起きてるかもねって予想だけで、実際には何が起きるかなんてのはわかりっこないんだけど」
「あの地獄の風景に慣れるているだと……やはり……」
「やはりとか言うのやめて。地獄の住人扱いしないで。普段から地獄に住んでる悪魔だから見慣れてるとかないから」
人によって創られる神と悪魔の話の時に見せられた、現実にしか思えないような映像を思い出す。黒猫の言うことを信じるのなら、あれは作り物。そこに過去の人々が戦争を繰り返していた映像もあった。あの世界に逆戻りしたのかと……すでに何が現実なのかすら危うくなっているらしい。今は現実、だよな?
道を歩む馬の振動を全身で確認しながら町を進む。
生きている人はまだ見かけない。死体は、いくつか。
俺たちは誰にも会うことなくシテ島の橋を渡り、東の門に向かって馬を進める。とても静かだ、かつては20万都市と言われ栄華を誇ったパリの町が静まり返っている。
「……どうでもいいってのもあるしね」
「……人の命がか?」
「どうしても私を悪魔にしたいようね……」
話の続きか、黒猫はつぶやき、続ける。
「君には最初から言ってなかったっけ? 私はこの世界の人間の事を基本どうでもいいと思っているよ。あー、いやぁ、それも正確じゃないのかなー? ええとね、この世界はこの世界の人でよろしくやっていけばいいと思っている。この世界の歴史を作るのはこの世界の人たちであり、お好きにどーぞって感じでさ」
「ならば、何故、誘拐された少女を助けたのだ? あの時、俺と貴様が会った最初の森での話だ」
「助けた? 助けたのは君でしょ? あの女の子を助けたのは君の意思と行動だよ、私はその手助けをしただけ」
「…………」
あの時の俺はひたすら混乱していたはずだ。理解の出来ない事態に巻き込まれ、暗い森の中、何一つわからずに、黒猫の言う通りに動いたのではなかったか? 黒猫の言う通りに少女を助けて、まるでそれが俺の使命であると、不思議な高揚感すらを伴って動いていた……いや、思い出してきたぞ。神に見捨てられ、寄る辺の無くなった弱い悪魔になってしまったと思い込んだ俺は、どこかに行こうとする黒猫を引き留めようと必死だったはずだ。
「あの時点では、そうやって動く以外に選択肢など無かったのだが」
「それでも、君の選択だもの、君が助けたのさ」
「そうか……」
どうにも腑に落ちかねるものが残るが、納得してみようか。あの時、俺が少女を助けに行く選択肢を取らねば黒猫はどこかに消えていたのだ、おそらくは、この世界ではない、どこか。
「貴様がこの世界のことをどうでもいいと言うのは理解した。俺が今ここにいるのは、俺の選択だ。ルーアンの町へ行ったのも、この町に来たのもな。あの死体で溢れた大聖堂前の惨状を俺の責任ではないと貴様は言ってくれたが、やはりあれは俺の選択の結果として、この町にもたらされた惨状なんだろう……」
「考えるのはいいことだけど、考えすぎも良くないことだったりするのさ。結論を急がないで、黒騎士さん」
先の事をよく考えずに動いていたという自覚はある。空を飛ぶことの楽しさを優先して、そうした行為が住人の心に何をもたらすのかをよく考えもしなかったことも認めよう。どういう流れでもって、あの惨状を生み出したのかなど少しもわからんが、少なくとも俺という存在がいなければ、この町のあの惨状は生まれなかっただろうというのは想像できる。
動く骨の騎士。黒猫が復活させた空を駆ける死霊の騎士……俺の存在自体が謎だが、黒猫の存在が謎すぎる……
そういえば、この町があれほどの狂乱に巻き込まれていったのも、黒猫がコーションに向けて放った言葉が切っ掛けではなかっただろうか。
「……黒猫、貴様が俺に責任が無い、悪くないと言って慰めてくるのは、自分の責任を追及されないようにするためではなかろうな?」
「ぎくぅ」
「黒猫よ……」
馬上にて固まる黒猫を見て絶句する。こやつ、今までの会話、すべて保身のためではなかろうか。自分に非が及ぶことを恐れて俺を追及しないのか?
「なるほど、そうか、俺は確かに考えすぎているようだ、なるほど、なるほど、黒猫、おおむね貴様が悪い。結論が出た」
「えー、黒騎士さん、もうちょっと考えようよ……」
馬上にて黒猫とそんなやりとりをしていると、ゴロゴロと台車を引く音がした。
生きている人がいた。
台車を引いて、こちらに向かっている。
女だ。
汚れた僧衣を着たボサボサの髪の女が、聖句らしきものを小声で唱えている。
俺は馬を止めて相手の様子を見る。
女は服装や髪だけでなく手足もボロボロで血にまみれている。
女が引く台車には物言わぬ死者が何体か乗せられている。
静かな町で台車の進む音と、聖句を刻む女の小声だけが響く。
女の歩みは遅い。
やがて台車を引く女は俺たちのすぐ近くまで来るが、そのまま俺たちが来た方へ進もうとする、が、馬が嘶き、女が聖句を止め、顔を上げる。俺と視線が合ったような気がしたが、相手は何の反応も示さない。
若くはない、老いてもいない。茫洋とした表情からは感情が読めない。その目は焦点が合わず、濁っている。
相手の出方を伺う。黒猫もまた、息を潜めて様子を見ている。
やがて女の方から声を発して俺たちに問いかけてくる。
「そこに、誰かおわしますのでしょうか?」
視線は合わない。俺の顔を見ていない。いや、見えていない。
今日初めて出会った生きた人は、目の見えぬ、女の僧侶だった。




