18
馬は鞍もあぶみも外されて裸馬の状態だ。のんびりと草を食んでいた馬は、俺たちの姿を見るなり逃げていった。
逃げだした馬は一度こちらを振り返り、やはり逃げた。
「逃げるか、追うぞ」
「おっと、待ちなさいな、逆効果よ」
追いかける体勢になっていた俺を黒猫は止める。
「ウマにトラウマ……心的外傷が残っちゃったのかな、いきなり空を飛ばされて、しかも酷い落ちかたをしたからね、これは当然のこと……」
「俺も同じだが?」
「ウマシカはウマより丈夫に出来ているのでしょう」
「何を言っているのかわからんぞ」
「いいのいいの、わからない時は無視してちょうだいな、君が知識を求め続けるなら、いつかわかる日が来るから」
必要な知識だろうか? どうにもくだらないことを言っている気がしてならない。
「馬さんは今、空を飛ぶ、落ちるという恐怖と、君の姿が直接頭の中で結びついている状態だわ。そんな状態で追いかけても、もっと嫌われるのがオチ。ただでさえ君の姿は恐怖を誘う姿なのだし」
「待て、何故貴様の姿を省く。喋る猫とて恐ろしいだろうが。いや俺の姿うんぬんは、そもそも貴様が作ったものだろうが」
「さーて、どーしようかしらー。……心の傷を癒す方法はいくつか思いつくけれど、馬さんには空を飛ぶという行為を楽しいものとして認識して欲しいし」
「……そうだな、空を飛ぶのは楽しい」
俺の抗議を無視して話を進める黒猫。こいつには聞きたいことも言ってやりたいことも山ほどあるのだが、すでに飽和していて、どれから手をつければいいかわからない。
「放っておくのが一番のやさしさなんだけどねえ。専用の蹄鉄作っちゃったし、どうしよっかなー」
「空を飛ぶことの楽しさに気付かせてやることが出来るなら馬の奴も俺たちを恐れなくなるだろう。あいつには世話になったしな、目をかけてやらねば。新しい蹄鉄? いいではないか、付けてやれ、馬の奴も喜ぶだろう。さて、あの怯えた哀れな馬のために俺には何が出来るか……」
「黒騎士さん、勘違いをしてはいけない。これから私たちがするのは余計なおせっかいと言われるものだからね。教育、調教という名前の価値観の押し付け。馬のため、でははなく、あくまで私たちの欲のため」
「……些細なことだ、やることが同じなら違いなどあるまい」
「そういう考えも、あるかもね」
相変わらず黒猫の言葉はわかりにくい。馬のためと思うのと俺たちのためと思うので何の違いが生まれるというのか。
「よし、先ずは追いかけて捕まえましょうか」
「結局追いかけるのか?」
「そーよ、信頼を取り戻すにしても接触しないと始まらない、ただし、慎重に、無駄に長引かせて怖がらせないようにしないとね」
◇
「よーしよし、よーしよし、いい子だねー、賢い子だねー、怖くないよー、愛してるよー」
「…………」
馬は簡単に捕まえることが出来た。黒猫の奴が持っている力で飛んできたからな。音もなく上から忍び寄られては、警戒心が強く、敏捷で足の速い馬とて逃げ切れるものではなかったようだ。
問題はその後。暴れる馬をなだめながら黒猫が取り出したのは大量の人参、それからモップだった。そのモップを渡されて馬に言葉をかけながらマッサージをしてやれと言うのだ。
「何やってるの、黒騎士さん、手が止まってるよ、口も、ほら、言葉をかけてあげて!」
「馬に言葉など通じるまい、何の意味がある……」
「意味は通じなくても意思は通じるものなの、ほら、照れてないで好きだと言ってあげなさい」
「…………」
口は閉じたまま、それでもモップだけは動かす。馬丁のするような仕事だが馬と言う生き物は嫌いではないし、その手入れも苦にはならない。騎士として馬と共に在った以上、ひと通りのことはできる。言葉までは出てこないが。
「言葉と言うのはね、誰かを呪うこともできるけど祝うことも出来るのよー。そしてその性質上、言葉の力は放った自分にも跳ね返ってくるものなの、当然よね、意味がわかって意味がわかる相手に使うのだから。誰かを呪えば自分にも呪いが、誰かを祝えば、その祝いもまた返ってくる。返ってくる分に関しては相手は何でもいいのよ、言葉の分からない相手でもいい。返ってくる祝いの力は君を強くするわ。いーい? 黒騎士さん、ここは気持ちを切り替えて馬のためじゃなく自分のために、ちゃんと好きだって言ってあげて。強くなるために」
「理解できん」
モップを動かしながら考えてみる。この得体の知れない黒猫と出会ってからのことを振り返り、自分の事を思う。
今の俺は、どうだ?
少し前は、もっとこう、荒れていたはずだ。ジャンヌの事が一番の理由だが、ずっと無力感に苛まれていた。そして何それ構わず相手にして、常に怒っていたのではなかったか。それがどうだ、骨の身体を与えられ、身軽になり、自由に動き、今は少し、楽しいときている。
この黒猫は相変わらず得体が知れないが、それでも俺のためにはなっている。強くなるため、か。ここはひとつ、言われた通りにしてみるか。
しかし、何だな、改めて考えてみると、ただ好きという言葉を発するのにもこれほど覚悟がいるものだったろうか? これは黒猫のせいで言葉の力というものを意識したせいではないか、言葉の力というのもよくわかっていないが。好きという言葉も、昔はもっと気楽に口にしていたような気がする、いや、前からこんなものだったか。
馬にマッサージを続けながら、意を決し、口を開く。
「……………………好きだ」
「ぷっ」
「おのれ!」
持っていたモップを笑った黒猫に向けて振り下ろし、その先端が地面に叩きつけられる。黒猫の奴はすばしこい。やはり逃げられた。
モップが叩きつけられる音を聞き、馬が嘶き、暴れる。
「どう、どう。もう! 君ってやつは! また最初からだよ。馬さーん、君を傷つける悪い奴はここにはいないよー、はいどー、はいどー。ほら、そこの照れ屋さんも、人参あげて」
「くっ」
俺の目の前にフワフワと浮かぶ人参を乱暴に手に取り、馬の口元にまで持っていく。最初は嫌がった馬だが、やがて諦めたかのようにして大人しくなり、俺の手に持つ人参を食べ始める。ブラッシングと声かけを再開する。俺は黙っていたが。
しばらく続けた後、黒猫は俺に馬から離れるようにと指示を出す。
「ちょっと浮かすよー。恐くない、怖くない、浮くのは怖くない」
馬が体ごとフワリと浮き上がる。馬は最初は暴れたものの、すぐに大人しくなり黒猫のするがままにされている。
「ずいぶん簡単に大人しくなるものだな」
「鎮静剤入りの特製人参、おっと、ごくありふれた只の美味しい人参を沢山食べたからね」
「今何を……」
「さーて、馬さん、蹄鉄を付け替えましょうねー、何も痛く無いし、怖くもないよー、空を飛ぶ用に作った蹄鉄だよー」
「空を飛ぶ用?」
「そう、常に地面との距離を測り、重力に作用して水平と……えっとね、色々」
「説明を放棄するな」
「説明したって理解できないくせに。とにかくなんかすごい、どーよ、関心しなさい」
「その説明で何をどう関心できるのか……」
宙を浮かぶ馬の四肢に付けられていた蹄鉄が音もなく外れ、地面に落ちる、そしてどこからか現れた黒い蹄鉄が静かに装着されていく。馬は大人しいままだ。
ずいぶんと簡単に付け替えるものだと感心する。この技術ひとつで馬丁として食っていける、いや、無理か、喋る黒猫を馬丁として雇う者など、世界のどこを探してもいないだろうからな。
「実はね、君のそのローブとセットなんだよ」
「馬の蹄鉄と、このローブとか?」
「空を飛ぶときの補助として私の負担軽減用に作り始めたんだけどね、途中で色々思いついたから機能を付け足しちゃった、君の喜ぶ顔を想像してね、君のために、君のためにさ、おかげで徹夜仕事になってしまったよー。寝てないわー、いやー、寝てないわー」
「こちらをチラチラ見るな、俺に何を言わせたいのだ」
「べーつにー」
もしやこいつは俺に感謝されたかったのだろうか。内心では色々と感謝はしているぞ、黒猫。
恩着せがましい態度だったから口にはしない。
それからは黒猫の指示通りにする。やはり、どこかから現れた鞍を装着した馬にまたがり、ゆっくりと駆けるところから始める。ちょっとした溝や障害物を跳び越え、その度に褒めて労ってやり、徐々に大きな溝や障害物に挑戦していく。何度かの休憩を挟みつつ、気がつけば普通の馬では越えられない障害をも軽々と跳び越えていた。これはすでに飛んでいると言っていい状態だ。最初は俺に乗られることすら恐れ、嫌がっていた馬が、今は飛ぶことを嫌がらない、むしろ嬉々として飛んでいる。それに乗る俺もまた楽しい。
「いいぞ。よし。大したものだ。褒めてやる」
馬が機嫌よく嘶く。
(いいよいいよー、黒騎士さん、そこでマフラーモード)
(マフラーモード!)
馬の飛行訓練と同時に俺のローブの形態変化の練習もする。馬に乗らず、離れた所から念話で指示を出す黒猫に従い次々と変化させていく。顔と全身を隠せる通常のローブモード、剣を振るのに邪魔にならないマントモード、何の意味があるのか、首に巻かれた長い巻物の状態になるマフラーモード、人から見えにくくするという透明モード、どこに仕舞われるのか、収納モード。俺にとっては魔法にしか思えないローブの形態変化もまた楽しい。
(今度はちょっと高く飛んでみようかー)
「高く! もっと高く! そうだ、賢い奴だ、恐くない、怖くない!」
手綱を制御して、虚空を踏み込む馬の蹄の音と共に天高く駆け上がっていく。
噴煙を上げる火口、蒸気の煙、森におおわれた部分と草原、周りは見渡す限りの海。日が沈まんとしている太陽は弱弱しくも、海に囲まれた孤島を朱く染め上げている。
子供の頃から憧れ、想像し、それでも夢にも出てこなかったような、見た事のない光景が眼前に広がる。
「素晴らしい……」
(そこでパレードモード)
(? パ……パレードモード!)
パッパラッパラッパパーパッパラパパー
聞いていないモードだったが、とっさに黒猫の指示に従い、ローブを変化させるための念話を送る。すると、どこから聞こえるのか、出所の分からない金管楽器の音が空に響きわたり、ローブは形を変え、背中に回り、肩をグンと重くする。どうなっている? 今、俺の背中は?
変化はそれだけではなく、赤、青、白、黄色、緑、紫……色とりどりの光の粒が体中から発生して後ろに流れる線を描く、俺の身体だけでなく馬の身体からも。
空を踏み込む蹄の音に合わせて、これまた色とりどりの形をした、いくつもの図形が馬の蹄鉄より生まれ、先ほどから始まっている軽薄な音楽の中、空へと散っていく。後ろを見ると、全容は見えないが、どうやらローブは俺の背中で巨大な黒い羽らしきものへと変化したらしい。その黒い羽もピカピカと光っている。何なんだこれは?
(あははははっ! 天使! 天使のパレード! 一人パレード! あははははっ!)
犯人は貴様か、黒猫のルル。
当然すぎる推理でもって犯人を特定した俺は黒猫に念話を送りつつ徐々に高度を下げていく。軽薄な音楽を聴きながら、馬と共に全身をピカピカと光らせたまま。
(黒猫め! 何をしでかした? いや、それは後でいい、先ほどからローブに念話を送っているが、形態変化の指令が通じないぞ、どうやってこれを止める?)
(え? 一曲終わるまで終わらないよ? 曲が終われば自然に止まるからー)
(いつ終わる?)
(ええと30分くらい)
(長いわっ!)
(あははははっ)
馬はゆっくりと地上に降り立ち、軽い駆け足で進む。黒猫の近くで馬から飛び降りるが、背中の羽が重くてバランスが悪い、転びそうになるのを堪えて黒猫の元へと急ぐ。地上に降りても身体は光ったまま、軽薄な音楽も止まない。
「今すぐ止めろ! 貴様には出来るだろう?」
「お腹痛い! あははは!」
「遊んでいるのか貴様!?」
「全力で遊んでますけどぉー!?」
「そうだったな! 貴様はそういう奴だった!」
黒猫に止める気が無いなら俺にはもうどうしようもない。
馬の奴を見ると、足元から発生する光を嫌がって足踏みをしている、だが地面を蹴るその度に光る図形が発生して馬の近くを飛び回る……悪夢の光景か。
「いやぁ、温泉に入っている時に君が天使どうこう言い出したのには焦ったよー、あれ? 私の作ったパレード用天使の羽ローブの仕込みに気がついたのかなって」
「そんなわけあるかっ!」
黒猫の奴を踏み潰そうとするがひょいひょいと飛び回り目標も定まらない。ええい、羽が邪魔だ。
「酷いことしないでって、もう、本気で怒るよ? ぷっ、ピカピカ天使」
「怒っているのはこっちだ! とにかく止めろ!」
「まぁいいか、十分笑ったし」
音楽が止み、光も消える。背中の羽は残っている。放っておけばあの状態が30分も続いていたのか……頭痛がする。
「俺を玩具にしおって……何がしたいんだ貴様は……」
「君のため、とか言い出す相手を信用するなって教えたかったんだよ」
「あからさまに後付けだろうがっ!」
絶対に俺をからかって遊んでいるだけだ、きっとそれ以外に理由は無いのだろう。直感だが当たっている自信がある。
「あ、君のためを思って天使の輪っかを作ろうとしているんだけど、何か要望ある? 私としては目の奥が光ったら恰好いいと思うのだけど、色の指定は?」
「無いわっ! 何もするな! 俺で遊ぶな!」
天使と言う存在に憧れた。それも、今の教会が教義の流布のために生み出すような冊子に描かれる稚拙な天使像にではなく、古い時代に描かれた美術品、絵画に在るような力強く美しい天使の姿に、強く憧れた。それは、今も。だからこそ黒猫の奴に馬鹿にされたようで腹が立つのだ。信仰を馬鹿にしおって、何が天使のパレードだ、何が一人パレードだ、腹が立つ。まさに悪魔の所業だ。それはそれとして、首をひねり、背中に広がる黒い羽を見る。
「動かんのか? これは?」
「羽? その機能はまだ難しいかな、なんせ人は羽を持って生まれたわけじゃないからね、自然に動かすのには色々と越えなきゃいけないハードルがあるのよ」
「そうか」
「残念そうだねぇ。その状態でも頑丈ではあるから、滑空くらいは出来るよ。高い所から飛んで遊ぶのに使うといいと思う」
「遊ばん。馬鹿にするな」
この羽の形態にする度にあのトンチキな状態になるのだろうが。二度と使うことは無い。羽を通常形態のローブに戻して息をつく。
日が暮れた。
馬も落ち着きを取り戻し、薄暗がりの中、今はうとうととしている。わずかな時間で飛ぶことに慣れた。飛ぶことの恐怖を乗り越えた。賢い奴。大したものだ。
「遊んだ、遊んだ、温泉入ろー」
「……温泉か、それも聞いてやろうとしていたのだった。黒猫、言われた通りに温泉に入ったが、何の意味があるのだ?」
「え? え?」
「え、ではない、温泉に入るのは何の意味があるのかと聞いている」
「うわ、そこ? そう、そうなの、ふーん、なるほど」
馬を残して、温泉のある場所に向かって歩く。となりを行く黒猫は意味ありげな言葉を吐きながら少しだけ考えて、俺の質問に答える。
「私は温泉に入るのが好き。だから、機会を見つけては温泉を楽しむ。これが答えよ。答えのすべて」
「意味などないと?」
「意味はあるの。楽しいから、好きだから、それをする。それが温泉に入る意味」
「ただの娯楽ではないか」
「君はやるべきことと好き嫌いを分けるタイプなのかもしれないけど、それは本来の人の性分とはかけ離れた行為よ。その考え方を否定はしないけど、無理が生まれる考え方なのは認めて欲しい所ね。好きだからやる、嫌いだからやらない、遊びたいから遊ぶ、それが人の、生き物の基本設計。……好き、故に、好き。ふふ、身近になり過ぎて意味が分からなくなることって、あるよね」
暗がりに光る猫の瞳の金色が俺に向かう。
「君はもっと君の好きを認めてあげていいと思う」
俺の好きを認めろ、か。
結構、好き勝手に生きてきた自覚は、あるのだがな。




