17
温泉に浸かっている。
「う゛ぃ~~~~~、骨身に染みるねえ」
そして緊張している。
「白濁する湯につかる白骨……、ふふ、シュール」
視界の中には湯に浸かる黒髪の少女。
同じく湯に浸かる俺の姿を見て笑っている。
「シュールとはどういう意味の言葉だ?」
「ええと……あれ、どういう意味の言葉だっけか? すごく変とか? いやちょっと違うか、ふふ、身近になり過ぎて意味がとっさに出て来なくなる言葉ってあるよね、ふふふ」
結局どういう意味だ。いや、どうでもいい。考えるべきことは他にある。
――神の前にてすべてを告白いたしました
彼女の伝言。ジャンヌから、コーションへ。
火あぶりにされた少女から、火あぶりにした男への。
黒猫に連れられて空を飛びながら、いや、吊り下げられたまま見たパリの町の光景を思い出す。
大聖堂の周りには多くの人が集まって来ていた。人が集まってきた理由を考えるなら、まぁ、俺のせいではあるのだろう。町の上空を馬に乗って駆け回る黒い髑髏の騎士が現れたのなら、救いを求めて聖堂に人が集まるのはおかしくない。
そんな集まった人たちが狂乱の渦に飲まれていくのを、俺は見た。
聖堂の中、崩れ落ちたコーションを中心とした狂乱の波が、聖堂を出て、あっという間に町中に広がっていくのを上から見下ろしていた。
泣き、叫び、うねり、うごめき、波打ちながら広がっていく人々の混乱した様子は、俺の目には一瞬、理解の出来ないものに映った。まるで、ひとつの生命体のように見えたのだ。鳴動する、おぞましい、何か。
もし、あの中に普通の人の身のままで俺が立っていたらと想像すると、あそこにいた人々と同じように狂い、喚き、戸惑っていたのだろうと、アレの一部となって騒ぎ出すのだろうと、それは理解できる。ならば、あれこそが人の姿。恐怖にかられた人の有様。
恐怖。そうだ、俺はあの時、心の底から怯えていた。
理解の出来ないものに触れて、宵闇の中、宙に吊られながら、震えていた。
たった一言、たったの一言だったはずだ。
黒猫が発した一言であれほどの狂乱が町に生まれた。魔法にしか思えないが魔法を黒猫は否定する、ならばあれこそが呪い……言葉の力、なのか。
それを為した黒猫は、今、少女の姿に変わって白濁する湯に浸かっている。
あの後すぐ、視界が暗転して、俺たちはどこかの草原に降り立った。襲い来る眠気は、もはや耐えようも無く強くなり、俺はその場で体を横たえて眠った。夢一つ見ない深い眠り。
起きたらすでに日が昇りきっており、近くにいた黒猫に鎧を脱いで温泉に入るように言われて、今に至る。……脱げるのだな、この鎧。
ここはパリの町から遠く離れた火山島であり、他の人間や気性の荒い動物もいない場所なのだとか。一足先に送られた馬もこの島のどこかにいるらしい。
「あ゛~~」
少女がだらしない声をあげる。少女の姿をした、ナニか。白い頬を上気させながら満足気にしている様子は無害で無力な普通の少女の姿だが……
猫と少女の姿を持ち、俺を蘇らせる力を持つ悪魔、いや、待て、本当に、こいつは、悪魔、なのか?
電流のような閃きが頭の中を駆け巡る。
……自分の中で至った考えに、怯える。
こいつを悪魔だと信じ込んでいるのは、ただ単に俺がそう思ったというだけだ、黒猫は自分の口で否定している、悪魔では、無いと。
――黒猫の言葉、ジャンヌの伝言、聖水や聖句すら無害で、神に祝福された聖堂の中に平然として存在していられる……それでは、まるで……ならば、こいつは……そして……俺は……
「減るものでもないけど、入浴中の女性をあんまりジロジロと見るものじゃないの、エロ助さん。私はあまり気にしないタイプだけど、気にする人もいるからねえ、一般常識として覚えておきなさい」
「……貴様に欲情などするか……何が一般常識か……それより、黒猫、いや、ルル、よ」
「んー? なあに? 黒騎士さん、おっと、今は骨だけだったね。改まって何かしら? 白骨さん?」
少女の瞳はまるで闇を纏っているかのように、深く、昏い。見つめられるだけで意味もなく怯えてしまう。
つい怖気そうになる気持ちを抑え込み、先ほど至った考えを少女の姿をした者に問い質す。
「…………………………俺は、天使、なのか?」
「…………」
返事は、無い。
少女は、普段は嘲笑を張り付けている小さな赤い唇をわずかに開き、大きな瞳をより大きくしてこちらを見ている。どっちだ? 何の表情だ、それは。
俺も、そしてこいつも天使であれば、すべてのつじつまが合う。
何と言うことだ、そんなことがあるのか? 俺やこいつは天使……待てよ、天使ならば俺が受けた神の使命は何だ? わからない。聞いていない。聖職者どもが言うように終末に現れて人々を断罪する者か? 俺は、俺たちは本当に黙示録の終末を告げる天使だったのか?
「あはははははははははははははははははははははは」
間を置いて返ってきたのは哄笑だった。少女は湯面をバシャバシャと波立たせて笑っている。
「おい……」
「あはははははははははははははははははははははは」
「……おい、おおい」
「あは、あは、あはははははははははははははははは」
少女の哄笑は止まらず、腹を抱えて笑っている。なんだ、これは、どういう反応なんだ?
「おいっ! ルルっ! 真剣に答えよ! 俺は、俺たちは天使なのだなっ!?」
「あはははは、お腹痛い、もうやめて、許して、あはははは」
「…………」
なんだ、この感情は。今すぐこいつの首を掴んで引っこ抜き、湯の外に放り投げてやりたい。
いつまでも続くかと思った少女の哄笑だが、さすがに笑い続けることはなかった。ようやく落ち着いた少女は、目に浮かべた涙を指で拭いながら俺に話しかけてくる。
「ふぅーーーっ、笑ったわ。これほど笑ったのは何年振りでしょうね。君には勲章を上げてもいいくらいよ、……天使、ぶふっ、似合わないのがすぎる」
「……否定はしないのか?」
「私たちは、私たちよ。ええ、君が自分の事を天使だと思うのなら、天使なんじゃない? ぶふーーーっ、あはははは」
再び笑い出した少女を白目で見る。骨の身体に白目なんか無いが。
「答えになっていないぞ。ルル、天使であれば神の使命があるはずだ、俺の使命は何だ」
「無い無い。使命なんて無い。君の言う神様と私たちはまったくの無関係、私たちは私たち、それが答えのすべてだから」
顔の前で手を振って神の使命を否定する。そういえば、こいつは前から俺に対しては俺の好きにしろとしか言っていない。
「天使とか、なんでそういう発想になるわけよ」
「ルルよ、貴様は前に自分は悪魔ではないと言ったな? 悪魔でないなら天使だろうが」
「二択! 一神教の人の特徴! いつも極端すぎるのよ、もうちょっと緩さというか遊びと言うかね、心の余裕を持った方がいいわよ? 0と100の間には沢山のものが詰まっているものよ。心は簡単には変えられないだろうけどね」
「彼女のっ!」
「あ、はい」
「か、彼女の言葉を伝えたではないか、伝言があると、神の前ですべて告白したと、貴様はそう言った、聖女ジャンヌの、オルレアンの乙女の言葉を伝えた、ならば……」
「ああ、あれね、あんなのただの口から出任せだから」
「なん……だと……」
ぐにゃり、景色が歪み、眩暈がした。口から、出任せ?
「私は神様にも会ったこと無いし、彼女が神様に会えたかどうかも知らない。ただ私は彼女が焼かれる最後の姿を見ていたからね、その時に彼女がコーションさんに向かって言った言葉を覚えていただけよ。神の前であなたの事を告白するからねとか、そんな事を言っていたから……」
少女は笑う。少女の形をしたナニかが笑う。
「それを使ったの。彼が一番嫌がるような言葉を、嫌がる場面で、方法で、使ったの。よく聞こえるように小細工はしたけどね、それ以外では特別な力を使っているわけじゃないわ、あれ自体は只の口から出任せ。後は彼がどう受け取るかの問題」
彼女の最期の言葉を、よりにもよって、口から出任せで使っただと?
「なんだかんだで、彼は神様の存在を信じていたようね、信心深い人、だからあれほど揺れた。人は世界を二つ持っているというのはこういうこと。私が揺らしたのは彼の信じる心から生まれた彼だけの世界、言葉による彼の虚構の世界への攻撃、言葉による呪い、その実践。ね、よく効いたでしょ? ちょっと効き過ぎた気もするけど」
一瞬でもこいつの事を天使かと疑うとか、俺もどうかしていた。悪だ、間違いなく悪。こいつは悪魔で間違いない。
「実際の所、彼が神様のことなんてどーでもいいと思っていたなら、なーんにも彼に作用しなかったでしょうね、鼻で笑われて終わり、言葉は所詮は只の言葉なのだから……ちょっと、え、何、何でこっちくるの? きゃあ!」
無意識に身体が動いていた。
「それはっ! 彼女の最期を汚すような真似だろうがっ! 口から出任せだと!? 神を信じる心を弄び、愚弄するのか!? 馬鹿にしおって!」
「ちょ、あれえ? 君ってそんなに信心深かったっけ? 秒で闇落ちするようなキャラでしょうが、ちょっと、追ってこないでえー」
首を絞めてやろうかと思っていたが、少女の姿をした悪魔はバシャバシャと湯の中を逃げ回り、追いつけない。少女はやがて湯から飛び出し、黒猫の姿に戻って岩場の上に飛び乗り、金色の瞳で俺を見下ろし、息をつく。俺もまた息をつき、冷静さを取り戻す。そうだった、こいつは恐ろしい力を持つ悪魔であり、怒らせてはいけない存在だった。つい我を忘れてしまった。
「君の怒りのポイントはいまいちわからないのだけれど、そうね、君の中の大事なものに触れたのでしょう。私を追いかけまわしたのは許してあげる。さっき笑わせてもらったしね、俺は天使……ぶふっ」
「悪魔め」
「私は悪魔でも天使でもないけど、まぁ、好きに言うだけなら好きに言えばいいし、君は君で自分の事を好きに定義するといいわ。重要なのは私たちは私たちであるということ。あまり深く考えすぎない事ね、自分が何者かなんて考えこむのは、くだらないことだから」
「重要なことだろうが」
「自分が何者になりたいのかという事なら重要かもねー。そうじゃないなら時間の無駄」
「どういう意味だ? わかりやすく言え」
「私たちは、いいえ、私たちだけでなく誰でも、人は誰でも何者にもなれるのよ、それこそ天使にも悪魔にも」
「人ではないだろうが、俺も貴様も」
「人でいいと思うよ、普通の人よりほんの少しばかり遠くが見れて、ちょっとだけ遠くのものに手が届く、そういう者」
「…………」
「君は特別な存在になりたかったのね? 俺は普通の人間じゃない、く、俺の右腕に封印されし地獄の炎がうずくぜえ、とか、そんな感じの」
「待て、なんだそれは」
「いいの、安心して、君は問題なく普通だわ、普通の人、たとえ実際に地獄の炎が君の右腕に封印されてしまっていてもそれは変わらない、普通の人だから」
「待て、なんだ、その頭の悪そうな奴は。俺は子供じゃないぞ。勝手に俺の人物像を決めるな。俺はそんなことは思わない」
「俺は天使……ぷ」
「くっ!」
思いついても言うんじゃなかったと、今更ながらに後悔をする。時すでに遅し。もう手遅れだ。
「さあ、君も温泉からあがるといい。ご飯にしましょう」
「……いらん」
「何を拗ねているの、子供じゃないのでしょう。それからプレゼントもあるのよ、ニューコスチューム、昨日完成したのよ」
「コスチューム? 兜か?」
「いえ、ただのローブだけど」
「何故、頑なに兜をよこさないのだ……」
◇
「おお、似合うねえ」
食事の後、黒猫から渡されたのは、ただのローブという言葉の通りの、ただのローブだった。フード付きの黒いローブ。前開き。しかも新品なはずなのに、所々が破けている。何故だ。
「ちょっとフードを深くかぶってみて。いいねぇ、死神って感じが出てる。こうなると大きな鎌も欲しくなるよね、職人魂に火が付きそう」
「なんの職人だ」
鎧の上から着こんだローブを目深にかぶり、黒猫がどこかから生み出した全身鏡で自分の姿を確認する。
光を吸い込むような黒い色をした生地は質の良い物を使ったのだろうと思われる。すでに所々破れているが生地自体は丈夫そうだ。
これで髑髏の顔は一応隠せる、隠せるが、そうじゃないだろう。
完全に隠れているわけでは無いので下からのぞき込めば普通に髑髏の顔が見える。新品なのにボロの出で立ちと相まってその姿はまさに絵画などに描かれる死神そのもの。子供が暗がりで見れば泣くこと間違いなしだ。屈強な大人だって泣いて腰を抜かすかもしれん。
しかし、なんだ、俺のこの気持ちは。悪くないと思ってしまっている……おのれ悪魔め、人の心の隙をつくようなことをしおって……
「ふふ、気に入ってくれて何よりだね、夜なべをして縫った甲斐があったよ」
「本当に自分で縫ったのか? いや、それより、何だ、貴様、俺の事を馬鹿にしておいて、この、なんだ」
「言葉にならないくらい感動したんだね。うん、君の感謝の気持ちは受けとったよ」
「いや、違う、違わないが、違う、感謝はしているが」
今の俺の感情を表現する言葉が思い浮かばない。
「さて、そろそろ馬に会いに行こうか、この近くに居るようだから」
すっかり馬の事を忘れていた。整理の付かない感情を押し殺して先導する黒猫についていく。
「そのローブには変形機能があってね、スイッチをどうしようかと考えたのだけど、結局念話の要領で切り替えることにしたよ、どうせ君のことだもの、すぐに使いこなせるでしょう」
何? 変形機能だと? 形が変わるのか? それは、凄いな。本当なら只のローブどころではない。
「ええとね、基本の通常形態にマント形態、マフラー形態、それから透明形態、ああ、それから着ていないという状態にもできる」
黒猫から変形機能とやらの説明を受けながら歩いていると馬が見えた。のんびりと草を食んでいて元気な様子だ。別れた時の事を思い出して心配したが、何事もなく無事なようだ。
「あ、いたいた。やーい、馬さーん。会いに来たよー」
馬はこちらに気がつくと、後ずさりして、逃げた。
しっかり心に傷を負っていたようだ。




