16
マローと呼ばれていた老いた聖職者の裁判を求める声に応えたのは俺ではなく、俺たちを遠巻きにして取り囲む市民の一人だった。
「裁判なんて必要ないっ! マロー司教! 若い聖職者たちの告発を聞いたでしょう! コーション司教の罪は明らかで、裁判の余地は無い! 今すぐ磔にして処刑すべきだっ!」
「そうだ!」
「今すぐっ!」
「火あぶりにすべきですっ!」
「それが妥当だっ!」
「火あぶりっ! 火あぶりっ!」
いよいよもって過熱していく言動にマロ―司教は慌てて市民の方へと振り向き、声を上げる。
「待て! 待つのじゃ! 裁判は必要なことである。正しく裁かれねばならん。一つ一つの告発の真偽を明らかにして、被告人には弁明の機会も与えられ……」
市民たちを落ち着かせようとするマロ―司教をよそにして事態は動く。
それまで物を投げつけたり、怒声を発していたりしてはいたが、それでも直接コーションに手を出さなかった市民たちが、床に散らばった金貨を四つん這いで拾い集めるコーションを見て、耐えかねたとばかりに彼を突き飛ばす。
悲鳴と、それを掻き消す怒声が聖堂に満ちる。
「金がそれほど大切かっ!?」
「聖女をイングランドに売った金っ!」
「違う! 違うぅ……」
コーションは市民たちに引きずられ、殴られて、手に持つ金貨は再び床に散らばっていく。落ちた金貨を拾う者は、いない。この俺が見ているからだろうな。いくらかの市民たちは、俺と交互にちらちらと床の金貨を盗み見ている。俺が消えればすぐに金貨に飛びつくのだろう。
「暴言も暴力も今すぐやめよっ! 無法をやめよ、やめるのじゃ! 落ち着けっ! 冷静になれ! コーション司教から離れるのじゃ!」
「マロ―司教! あなたはコーション司教を助けようとしているのか!? あなたも聖女様を罠にかけたイングランドの手先なのか!?」
「そんなわけあるかっ! いいから落ち着くのじゃあああ!」
「イングランドは悪くないっ! これはアルマニャック派の陰謀だろう! アルマニャックの連中は聖女様を利用したんだ! そうに違いない! 本当に裁かれるべきはそいつらだっ!」
「聖女を捕まえたのはブルゴーニュだぞ! ブルゴーニュも裁かれるべきだ!」
「待て! 俺たちで争うなっ! 俺たちが争えばアルマニャック派の奴らが一番得をするぞ!」
「何をぉおお!? お前はどこの派閥のものかっ!?」
「俺の派閥なんて関係ないだろうっ!」
「派閥の話を始めたのはお前だろうがっ! ぶん殴るぞ!?」
「コーション司教っ! おなたが聖女様を処刑さえしなければ……っ!」
「悪魔だっ! 悪魔の策略だ! これは人間たちを陥れる悪魔の策略だっ! 悪魔の手先っ! 今騒いでいるのは悪魔の手先ぃ……っ!」
「お前だ、それはっ!」
「よせ……落ち着くのじゃ……駄目じゃ……こんな姿を天使様にお見せしては駄目なんじゃ……」
弾劾の声はコーションだけでなく、市民たちにも飛び火して、あちらこちらで市民同士や聖職者同士で好き勝手に論争と暴行を始める。議論にもならないような議論、幼稚な喧嘩、暴力を伴ったその争いの火は、やがて聖堂の外にまでも広がっていく。もはや事態は誰の手にも負えなくなっているのは明らか。
「こんな、堕落した、姿を見せたら、本当に、黙示録が……終末が……始まってしまう……うぅ……ううう……」
ついにマロ―司教が泣き出した。
司教の帽子から白髪がはみ出て垂れ落ちていて、哀愁を誘う。
立派な地位にある老人がさめざめと泣く姿は、見ていてどうにもいたたまれなくなる。マロ―司教はこの事態を真摯に思って言葉を喋っているのがわかる。彼の言葉を誰も聞かないが。
肩に手を置いて慰めてやろうかと思ったがやめておく。俺まで怒られそうだ。代わりに、コーションの首を落とそうとして抜き放ったのは良いものの、出番も無く俺の手に握られて遊んでいるだけの抜き身の剣に視線を落とす。
ふと気になって、よく見える様に顔の前に掲げて、しげしげと剣の刃を観察してみる。
ここに来る前に敵の剣を正面から受け止めたはずだが、どこにも刃こぼれが無い。火花まで散ったような強い斬撃を受けていたので気になってはいたのだ。しかし何ともなっていない。この骨の身体、黒い鎧と同じく、この剣もまた尋常ではない。美しい剣はそれだけで芸術品と言える。欠けもなく磨き上げられた鏡面のような剣身は、聖堂に灯る蝋燭の明かりに照り返されて揺らぐ無表情で空虚な髑髏を曇りなく映し出していた。
汚したくないな。そう思った。
「うわっと、人が飛んできた。ねぇ、黒騎士さん、これはちょっと手に負えないよ。やることが無いならもう帰りましょう。騒々しいのは嫌いなのよー、苦手、特に人が酷く言い争う声は」
「帰るだと? どこに?」
押されたのか殴られたのか、吹き飛んできた男から飛びのいて黒猫は俺におかしなことを言う。この骨の身体になって、自分の名前と同時に故郷なども捨てている。住む屋敷もない、帰る場所などどこにも無いのだが。
帰る場所が無い……
幼少の頃の故郷のことを想い、胸の奥底に生まれる寂寥感を自覚する。両親がまだ生きていた頃の故郷。
……こんな骨の身体でも寂しいという感情は、持てるのか。
どうにも確かに存在していたはずの煮えたぎるような感情、憎悪と言っていいものが、あやふやで不確かなものになっているらしい。決して消えたりはしないが勢いは無くなっている。俺の胸の中を占めていた怒りの炎が小さくなり、その開いた隙間に入り込んでくるようにして、色々とおかしな感情が生まれてくるのだろうか。それは例えば知識に対する好奇心だったり、空を飛ぶことの楽しさだったり、故郷を想う寂寥感だったり……そんな俺の今一番強い感情は……寝たい。ああ、忘れていた。俺は眠いのだった。どうりでくだらないことを考える。
「そう言えば君には住む家も無かったね、馬さんを休ませるために送った場所に君も送ろう。それともここで別れようか? 満足していないんでしょう? 私は最後まで付き合う気は無いけど」
俺を見上げる黒猫にはすぐに答えず、コーションの方を見る。ピエール・コーション司教。フランスの聖職者でありながらイングランドと通じ、聖女ジャンヌ=ダルクを火刑に導いた男。今はコーション司教を攻撃する者と守る者の間で押され、引かれ、放られて、まるで玉遊びの玉のような扱いを受けている。鼻や口から血を流し、喚きながら泣いている哀れな男の姿を見る。
俺は俺の手で奴を断罪したかった。心の中を探せばもっともらしい断罪の理由はいくらでも出てくる。復讐、正義、信仰、不正への嫌悪、裏切り者への憎悪、法と権力を濫用して一人の少女を陥れる者たちへ向ける義憤、しかしどれも決め手に欠ける。俺にはその先が無いからだ。奴を断罪して、その後どうするというのだ。それでこの世界が良くなるというのか? そもそも世界を正しく導きたいとでも思っているのか? 俺の中にはそんな高尚で立派なものは無い。すべてのしがらみを捨てた結果、俺の中の怒りの炎にくべる燃料もまた消えた。結局のところ断罪したかったから断罪しようとしたというだけ。
ただ、なんとなく、だ。それを自覚をしてしまった。
……ちっ、これは何の呪いだ、黒猫のせいで色々と考えてしまうようになったではないか。俺らしくない、ああ、俺らしくない。
溜息を吐き、剣を鞘に納める。
「…………そうだな、ここは騒々しい。黒猫よ、俺も連れて行ってくれ。馬の奴も労ってやらんとな」
「じゃあ、もういいんだね?」
「ああ」
「そう、よかった」
「何がだ?」
「君が剣を抜いた時には、あ、この人、眠くなって適当に終わらせようとしてるなー、後先何も考えずに動いちゃってるなー、もうちょっと考えようよー、って思ったけど、ちゃんと色々と考えているようで、安心したよ。君ってそういう所あるじゃない? 脊髄反射で言ったり、やったりするでしょ? だから良かったなって。成長してるよ、うん」
「……」
この黒猫はなに目線でものを言うのか? 貴様は俺の親か何かか? おのれ。剣は鞘に納めずにこの不愉快なことを言う黒猫に叩きつけてやるべきだった。
根拠のない妄想と決めつけで俺を貶めようとする黒猫への反論を頭の中で考えていると聖堂の外からやってきた男が朗々と声を出す。
「コーション司教! コーション司教はおられるか!? 司祭クレマン、只今帰還いたしました! 何事が起きているのですか!? ここでも大混乱ではないですか! 町中だって大混乱です! 門からパリの町に入るのも苦労するほどに! コーション司教! コーション司教ぉ! 報告がありまぁす!」
「腹の底から声が出てるね、よく響く、いい声だわ」
「何の評価だ、くだらん」
「いい声の勝負なら黒騎士さんも負けていないよ、自信をもって」
「なんの勝負もしていないだろうが」
聞き覚えのある声、そして見覚えのある顔。
昼間、俺たちを前にして大声で聖句を唱えるだけという奇抜な行動をとった聖職者。いや、聖水も投げつけて来たな。そういえば。
短髪でヒゲを蓄えた壮年の聖職者は強引に人を掻き分けて聖堂の中を進み、俺たちのいる場所に近づいてくる。
「おお、コーション司教、って、どうなされたァ!? 血まみれではないですか!? お前たちっ! 何をやっているのかっ!」
コーションを見つけて驚愕し、市民たちの手から取り上げて保護をする聖職者。クレマンというらしい。市民の一人が声をあげる。
「そこにいるコーション司教は町、いやこの国、いや、もっとだ、すべての人にとっての裏切り者ですっ! 裁かれねばならない男なのです! クレマン司祭、その男をこちらに引き渡してください!」
「何を言いだすっ!」
だが、たちまち市民に取り囲まれて全方位から非難を浴び始めてしまう。
「話にならん! おお、マロー司教! そこにおられるか! マロー司教、コーション司教がおっしゃられることは本当でした! 死者が蘇っております! 私も実際に遭遇しました! 人の言葉を操る不気味な黒猫の姿をした悪魔も一緒でした! 私どもが神に祈り、聖句を唱えた所、そ奴らは立ちどころに逃げて行きましたが、実に危うい所でした。悪魔との戦いで怪我をした者も一人おります。幸いにして私たちが遭遇したのは骨の騎士と黒猫の一体ずつだけでしたが、急がねばなりません、地獄の軍勢がやってきます! 急いで聖戦の準備をせねばなりません!」
「……地獄の軍勢が、やってくるのか? それを、見たのじゃろうか?」
疲れ切った様子のマロー司教がクレマン司祭に問いかける。
「見てはおりませんが間違いありません! ルーアンから逃げてきた人とも話をしましたが、彼らも地獄の軍勢がやってくると言っておりました。地獄の、軍勢は、必ずやって来ます!!!」
「ええい、声が大きい……」
「マロー司教! やって来てから準備しては遅いのです! ここに来るすがら聞きましたが、何でもパリの町にも空を駆け廻る黒い騎士が現れたとか、それはあるいは私どもが逃した悪魔かもしれませんな、何せ空を飛んで逃げましたからな、黒いし、もしそいつらが……」
マロー司教は何も言わずに身体を横にずらす。司教の身体でちょうど死角になっていた俺と目が合い、絶句するクレマン司祭。
さて、どうする? 特に何も思い浮かばなかったので片手を上げて挨拶をする。クレマン司祭は絶句したまま動かない。俺は手を下ろす。司祭は動かない。目と口を見開いた彫像のよう。
クレマン司祭は腕にコーション司教を抱いたままであり、コーション司教はゼイゼイと息をつきながらこちらを睨んでいる。
黒猫が前に出てクレマン司祭に話しかける。
「ふふ、硬直時間、長い。やあ、昼以来だね、えっと、もう私たちは出ていくんだけど……」
「…………………………神ぃいのぉ子はぁああ」
「歌いだしたっ!?」
突如歌い上げるように聖句を唱え始めたクレマン司祭に驚いた黒猫の頭に何かがぶつかる。
「あいたっ!」
それは金色の光であり、コーションの手から投げられた金貨だった。
「悪魔めっ! 悪魔めっ! あの売女の呼び出した悪魔っ! 地獄に帰れ、滅びろ悪魔っ! 妄言を垂れ流す悪魔! 人の言葉は人だけが喋るのだ! 口を開くな!」
「むかあああ!」
クレマン司祭の腕から離れ、黒猫に向かって指を差し罵倒するコーションと、珍しく、いや初めてだ、初めて本気で怒っているのを見た。毛を逆立てて怒りをあらわにする黒猫。
コーション、貴様の勇気だけは認めないとならない。よくそんな得体の知れないモノを怒らせられるものだ。恐くないのか? だから聖女を処刑できたのか、恐ろしい。俺がコーションへ抱いた疑問の答えは理解する必要のない勇気、蛮勇と表すべきものだったらしい。
「わりかしどうでもいいと思って何も言わずに黙っていたけれど、もう許さない、だから伝える。言葉を伝える。よく聞きなさいピエール・コーション」
どういうわけか、黒猫が喋り始めると喧騒が掻き消えて静寂が訪れる。声を出そうとしても出せなくなった人々は、何事がおきたのかもわからず、黒猫を見る。
静かになった世界で、黒猫の言葉だけが聖堂の中に響く。
「”彼女”から”君”への伝言。『神の前にてすべてを告白いたしました』と」
それだけ、それだけだった。
それだけのことで、コーションは膝から崩れ落ち、顔面を蒼白にさせてガタガタと震え出す。尋常ではない汗が噴き出し息も絶え絶えとなり、目からは涙を流し始める。
震える口が動くが、言葉にはならない。
ただ、震える。ガタガタ、ガタガタと。
「断罪が始まる……」
「地獄の軍勢がやってくる……」
「終末がやってくる……」
いつの間にか再び声は出せるようになっていたらしい。
最初は小さい声で、やがてそれは怒涛のうねりとなって聖堂を埋め尽くし、水面に石を投げ込まれて生まれた波紋のように、外へ外へと広がっていく。
「断罪が始まるぞおお!!!!」
「逃げろ!!!! 巻き込まれる!!!」
「ここから逃げ出すんだ!!!!」
「どこへだ!! どこに逃げるんだ!」
「とにかく、ここ以外だ! この町にいたらだめだ!」
「始まった! 終末が始まった!!」
「地獄から死者が溢れてくる! あああ神様! 助けて!!」
騒動によって聖堂の燭台が倒れ落ち、そこから火が燃え始める。ごくわずかな時間で炎は壁を伝い広がっていき、混乱は一層増していく。
「聖堂が……ノートルダムの大聖堂が……燃える……」
マロー司教もまた崩れ落ち、嗚咽を漏らす。
「こんなに効くとは……ふー、よし、黒騎士さん、逃げよう。しーらない」
「黒猫、貴様……」
俺の肩に飛び乗った黒猫を掴もうとして何かの力で阻まれる。
「さすがにちょっと気が引けるよね、火だけは消してから逃げよう」
「うおっ!?」
俺の体が何かの力によって持ち上げられていく。唐突な浮遊に慌てて手足をバタつかせるが、不様に宙をもがくだけに終わる。突然空を飛ばされる馬の気持ちが少しわかった。次に会ったら優しくしてやろう。
「消火開始」
黒猫の言葉で、聖堂内に暴風が生まれる。俺たちを中心とした暴風は人をなぎ倒し、燭台をなぎ倒し、炎を消し飛ばす。聖堂の中は何度目かの静寂を取り戻す、ただし暗闇に包まれた静寂。
黒猫よ、火災だけ消すのではなく、とにかくすべて消したな?
何かの力によって宙に吊られる俺は、入って来る際に突き破った窓から出ていく。
「さようなら、ノートルダム大聖堂……はぁ、黒騎士さん、私は一つ学んだよ」
フワフワと宙を浮く俺の身体の上に乗る黒猫からため息が漏れる。
「君と一緒じゃ、ゆっくりと観光は出来ない、と」
”貴様が言うな”
出かかった声はかろうじて喉の奥で留まり、言葉にはならなかった。
怒らせて地上に放り投げられては、たまらんからな。




