15
ああ、あいつか。
指を差し告発する若者の声に気がつき、こちらをふり向いた小柄な初老の男が、そうだ。
あの男に話が聞きたくて、ここまでやってきた。
俺と目が合うと顔を引きつらせつつ、周りにいる市民たちに向かって怒声を発する。
「どけえ! どくんだ! どきなさい! 私を通しなさい! 通すんだっ!」
何人かの大柄な男たちに囲まれているため姿が見え隠れする男、この聖堂から逃げ出そうとしていた小柄な男。俺は男がいる場所に向かってゆっくりと歩いていく。
目的の男。ピエール・コーション司教。異端裁判の責任者。
聖堂の中は未だに多くの人で溢れているため、コーションの一団は出口を塞がれて逃げられないでいるようだ。あちらこちらで飛び交う怒号のいくつかを聞き取るに、どうやら外にいる者たちの中には聖堂の中に入りたいという者たちもいて両者がぶつかり、そのせいで出るにも入るにも、どちら側にとっても動きようがなくなっているようである。今、この聖堂の中に入りたいという奴は、空から落ちてきた動く骨を見物でもしたいのか? 物好きなことだ。
「意外と簡単に見つかるものなんだね。あちこち探し回るのかと思っていた。適当に決めた一発目で当たりを引くとか、恐れ入るよ」
「俺も探し回るはめになるかと思っていたがな、なに、手間が無くていい」
「猫が、猫がしゃべっている……神よ……」
ゆっくりと歩く俺の横をついてくる黒猫が喋るのを聞いて、今更ながら驚いている者がいる。さんざん喋っていたと思うが、まぁそいつは初めて見たのだろうな。喋る猫、ふ、猫が喋るのが普通になってしまっていた。いつのまにか何の違和感もなく会話をしている。
「さて、奴に何を聞くか……」
「まさかのノープランだったの!?」
「いや、ある。どう聞こうかと考えているのだ」
飛び交う怒号、止まっている人の流れ、奴はどこにもいけない。俺が近づくとコーションは悲鳴を上げて別の出口を求めて建物の奥へと移動する。そちらも人で詰まっているがな。追う俺と黒猫。
「捕まえろっ! コーション司教を捕まえるのだ!」
先ほどまで俺と会話にならない会話をしていた老人の聖職者が若手に指示を出す。はっとした若手の聖職者たちがコーションの一団に近づき、もみ合い、取っ組み合いになり、やがて殴り合いとなる。
「あがっ……! 司教様! 部屋から出ないで頂きたいと言いました!」
「そのようなこと私に言われる筋合いはない! どけ! 邪魔をするな! どきなさい!」
老人がコーションに近づき声を上げる。
「コーション司教! 今は天使様が顕現なされておいでなのですぞ! あなたに逃げ場などないのです! どうか大人しくしていただきたい!」
「マロー司教! 狂ったか! あそこにいる地獄の死霊を見てそう言っているのか!? あれは悪魔である!」
「天より降りてこの大聖堂におられるのだから天使である」
「マロ―司教! あなたはその悪魔に騙されているっ! 何が天使か! 天使の証拠の光輪も天使の翼もないではないか!」
「天使様の下界でのお姿を、人間ごときが慮るなど、なんたる不敬か! それともコーション司教はこの聖なる祈りの場に悪魔が平然として存在していられると、そう言っているのか!?」
「あれは骨だぞ!?」
「骨だが天使様だ!」
「ええい! 頭が硬いその老人を黙らせろ!」
「あなたも老人ではないか!」
俺を天使と勘違いしている老人はコーションと同格らしい、そして不毛な舌戦を繰り広げている。騙すも何も、マロ―と呼ばれた司教が勝手にそう思い込んでいるだけだがな、否定もしたはずだが。
コーションの取り巻きたちの中には武装をしている者もいるが、相手は聖職者とあっては剣を抜いて切り払うことが戸惑われるようで、素手で組み合うだけに留めている。
「うーん大混乱。入っていかないの? 話題に上がっているよ? 骨の人」
「……さて、どうするか」
骨の俺ですらこの厳粛な大聖堂で刃傷沙汰に至るには戸惑いがある、この場の厳粛さは今は完全に失われてしまっているが。
夕暮れを過ぎて外は暗闇に包まれようとしている時間。広い聖堂の中は幾本もの蝋燭の明かりが灯っていて、繊細で優美な内装を仄かに照らし出している。先ほど俺たちが落ちてきた場所には無残な有様の祭壇も見える。普段は荘厳で厳粛な祈りの場であろうが、今はただただ喧騒の中。何人か床に叩きつけて静かにさせてみせようか。
「ねぇ骨の黒騎士さんや、頭の上に光る輪っかとか、背中に羽とか付けて欲しかった? 今からでも付けられるけど?」
黒猫がくだらんことを言い出した。
「いらん。余計な事を考えるな」
「あれ? 君の事だから目をキラキラさせて欲しがると思ったのだけど」
「黒猫、貴様、俺をどういう風に見ているのだ」
「少年の心を持ち続ける大人?」
「俺は馬鹿にされているのだな? 絵画に描かれるような美しい天使の恰好を俺ごときが真似てどうするというのだ。柄ではないし……騙すのはよくないことだろう」
「そうね、騙すのはよくないこと、ふふ」
「何を笑うか」
「別に、何も」
俺たちまで意味のない会話を始めてしまった。舌戦を繰り広げる老人たちの所に向かうとしよう。
「前から何度も何度も言っている! 私のすることに口を出さないでもらいたい!」
「口うるさくするのはあなたのことを思っているからだ! コーション司教よ、聖職者たるものは清貧を心得よと! あなたは世俗に関わり過ぎる! しかも今回の件こそ何だ! 何でもかんでもイングランドの言いなりになりおってからに! いくら貰ってオルレアンの魔女……いや、いやいや、オルレアンの聖女を不当な裁判で貶めたのか! いくらで買収された?」
「な、な、な、何を言いだすっ! い、言っていい事ではない! 正当な裁判によってあの女は魔女と決まったのだ! 今さらっ!」
「興味深い話をしているな、コーション、お前はフランスの聖職者でありながらイングランドから金を貰っていたのか?」
「あ、あ、あ」
舌戦に集中するあまり俺の接近に気がつかなかったらしい。コーションは俺の顔を見て絶句する。奴の目は吸い込まれるようにして俺の髑髏の中の空洞を見ている。お前には何が見える?
「……悪魔」
「悪魔ではない……いや、よくわからん……俺のことはどうでもいい」
「司教っ!」
武装した男がコーションを守るように剣を抜き俺に飛び掛かってきた。高速で振り下ろされる剣の刃を片手で掴みとる。
「は?」
「は、ではない。引っ込んでいろ」
剣を引き寄せて相手の身体を崩し、よろける男の腕を掴み、そのまま力任せに相手の身体を床から引きはがし、床に叩きつける。聖堂に響き渡る叩きつけられる音。かなり大きな音が出た。聖堂の中が一瞬だけ静寂を取り戻す。
「おおおおお」
二人目も同じく床に叩きつけて転がす。三人目は、こない。
どうやら聖堂は完全に静寂を取り戻したようだ。逃げ出さんとしていた人々も、取っ組み合いをしていた聖職者たちも息を潜め、俺の動きを固唾を飲んで見守っている。
「さて、静かになった」
「司教様! これを!」
「……いや、まだだったか」
取り巻きの一人が素焼きの瓶をコーションに渡す。どこかで見た覚えがある瓶だ、具体的には、少し前。
「天使を騙る悪魔め! その正体を暴いてくれる! これは本物の聖水だ! 喰らえ!」
コーションの手によって投げられた素焼きの瓶を、割れないようにして掴み捕る。
「あ、あれ?」
「ふん、聖水か、効果など無いことはわかっているが……」
「も、もっと、もっとよこせ、よこしなさい!」
取り巻きに再びの聖水を催促するコーションに向かって大声で笑いかけてやる。
「ははは、コーション、よく見ていろ」
手の中の素焼きの瓶の中に入っている聖水を口を付けて飲む。喉など無いがゴクゴクと喉を鳴らして飲む。一滴も残さず飲み干して、見せつけるようにして瓶を逆さにして振る。ふむ、やはり、ただの水だ。
「そ、そんな……まさか、本物の……天使?」
「さあ、どうだろうな?」
聖水を両手に持ったまま驚愕の表情を浮かべるコーションにニヤリと笑いかける、いや、俺に表情なんてものはないが。
驚愕の表情を浮かべるのはコーションだけではなく、
「うわ、キショ……只の水だって判かっていても、そんなどこから汲んできたかもわからない水、普通飲むぅ? 聖水とか関係なく普通に嫌じゃない? 引くわぁ、一番引くわぁ。黒騎士さんは道端に落ちている物でも平気で食べられるタイプ? 正直キモくてキモいです」
「黒猫、貴様……」
「喋る黒猫だと……悪魔め、不吉な悪魔め……」
「うわっち、こっちに投げないで!」
黒猫に向かって投げられた素焼きの瓶は床に落ちて聖水をまき散らす。
「避けた……黒猫は避けた……悪魔、悪魔なのだ、悪魔でないと……」
「避けるからねえ! 物を投げつけられたら普通は避けるからねえ! コーションさん? 現実逃避やめて?」
虚ろな目をして悪魔、悪魔と連呼しながら黒猫に向かって聖水の瓶を投げつけるコーションと、避ける黒猫。くだらない。
「もういい、話を聞きたい、コーション、答えよ。何故だ、何故、お前は聖女を焼いた? 神託の聖女、オルレアンの乙女、神の声を聞く予言の少女に対してお前は魔女の烙印を押し、そして殺したな? ジャンヌ=ダルクという少女のことだ。コーション、お前は……」
コーション、お前は怖くはなかったのか?
神の使いを裁判で貶め、そして焼き殺すことを、お前は恐れなかったのか?
「あひいいい……」
顔面は蒼白であり、冷や汗を流す小柄な聖職者。少なくとも今は、十分に恐れているらしい。
「あ、あぐ、さい、ばんは、正当な、ものであり、ぐ、ぐ、……いたん、そうだ、異端者を見つけて、正しく裁いた! そうだ! 私には悪い事など一切無い! 無いのです!」
「やましいことは無いと? では何故、今、お前はそれほどまで恐れている? 何故ルーアンの町から逃げた?」
「そ、それはっ……地獄が……地獄から、死者の軍勢が蘇って、町を襲ってくるぞと聞いて……そうだ、そうなのだ! それこそジャンヌ=ダルクという少女が魔女である証明である! 悪魔と契約して地獄の軍勢を引き入れたのだ! 私はそれに対抗するために、い、急いであの町を出る必要があったのです! 聖なる軍隊を編成して、地獄から蘇った死者の軍勢を打ち滅ぼすために!」
「適当な事を言うな。死者の軍勢など、どこにもいない。軍勢どころか、お前は俺を見てもいないだろうが? お前は恐れた、ただただ恐れたから逃げた、自分の犯した間違いに気がついたからだ、違うか?」
「そ、それは……ちがう……違うのです……私は、ただ、ひたすら神の命に従い、正義を遂行したのです……神の言葉を違えるはずがありません……」
神の命。正義の遂行。聖職者たちのいつも使う言葉。自己正当化の言葉。
「告発します!」
突如として割り込んでくる若い男。コーションの取り巻きのひとりだ。
「コーション司教の罪を告発いたします! 司教は何度も規則違反をされています。あの裁判は正当なものではありません!」
「な、な、何を言う!? 貴様!」
「コーション司教はそもそもルーアンでの判事資格はありません! 無理やり押し通したのです!」
「貴様ぁああ」
「告発します……」
また違う者が発言をする。額を床に擦りつけて、涙ながらに。
「コーション司教は陪審たちの意見を何度も無視されました……。文字の読めないせ、せ、聖女様のために、文書ではなく口頭で伝えるべきことを伝えよという陪審員の意見を、一切聞きませんでした……聖女様は、わけもわからずに自身の処刑に同意をされてしまったのです……うう」
「き、き、き、ききき……」
「告発します!」
「な」
「コーション司教が聖女様に男の服しか与えなかったことを告発します! これから生涯、男の服を着ないと契約させておきながら、聖女様から女の服を取り上げて男物の服を着させたのです! 異端と改悛だけなら火刑にかけられないのです、だから聖女様に罠をしかけて、彼女を再び異端になったと、戻り異端だとして火刑にかけるため、」
「でたらめっ! でたらめ言うな……っ!!」
「告発します!」
「告発します!」
「お、あ、お……」
次々と俺の前に跪いてコーションへの告発を続ける若い聖職者たち。俺に言われても、どうしろというのだ。
「うわぁ……コーションさん、嫌われているねぇ。普段どういう生き方をしていたのかが垣間見えるよ……」
揉み合いを始めたコーションと若手の聖職者。掴まれたコーションの聖職者の服から袋が零れ落ちて中身が聖堂の床に転がり、硬質な音を響かせる。結構な数の金貨だ。
マロ―司教が震えながら散らばる金貨を指をさしてコーションへ問いただす。
「そ、そ、そ、それが聖女をイングランドに売り渡して処刑した対価か? 答えるのだ、コーション司教!」
「ち、違うぞ! これはっ、これは、信仰厚い市民たちからのっ、善意の寄付のっ、違うのだ、違うのです!」
唖然とする教会関係者たち。
やがて一連の話を黙って聞いていた市民からも声が上がる。「それが本当なら酷い話だ!」「魔女と言うのは司教の言いがかりだったのか!」「信仰を金で売った!」「悪徳だ!」「司教の都合で少女が火あぶりにされたってこと!?」「卑劣!」「コーション司教こそが火あぶりにされるべきだ!」「そうだそうだ!」……
俺を警戒してか近づいてはこないものの市民たちの顔は怒りに震えている。散らばる金貨を拾おうとする者もいない。その怒りの理由は、何だ? 誰かが一人、コーション司教に物を投げつけて、それを切っ掛けにして、いよいよ事態は収拾がつかなくなる。聖堂の中は再び喧騒に中に飲まれていく。
「黒猫よ、何が起きている? 答えよ、俺をここまで連れてきた黒猫よ……」
「なんで私に説明させようとするの? というか一切合切君の意思だからね、ここに来ているのもさ」「そうだな……」
「頭がこんがらがってよくわからなくなったらさ、基本に戻るのが一番だよ。で、どう? 一人の少女をよってたかって弾劾して火あぶりで処刑した男が、これから逆に火あぶりで処刑されそうな流れだよ。これが君のやりたかったこと、それでいいの?」
「……俺は……何がやりたかったのだろうな」
「うわあ、君は私のいいかげんさを笑えないよ」
「……正義も復讐も神への信仰もわからなくなってきた。俺はあの男と話がしたかったというだけ、なのかもしれん。ああ、これは確かに貴様のことを笑えないな」
考える。黒猫は宗教とは虚構の中にある物語だと言った。宗教だけでなく常識などというものも虚構の中であったか? 俺も、誰も彼もがそれに支配されて動いていると。
幼い頃から正しく生きなさいと言われてきた。成長した後は正しさなど何かとは考えなくなってしまったが、それでも心の中にはあったはずだ。ゆっくりと時間をかけて形作られたものが。
俺の心の中の正義が声を上げている。理不尽を許すなと。悪を許すなと。
宗教の正しさを掲げて一人の少女を燃やした者が、大勢の正義によって燃やされそうとしている。
それすら虚構。そういう物語。
本当に?
わからなくなってきた。思考がまとまらない。これは、あれだ、つまり。
「眠い」
眠くなってきた。駄目だ、この骨の身体は強靭極まりなく作られているが、眠さだけはどうにもならん。さっさと終わらせよう。コーションの首を斬り落として終わらせよう。聖堂の中とて構うものか。
腰の剣を抜き放つ。
「お待ちください! 天使様! お待ちください! 裁判を! 人の手で、人の手で裁かせてください!」
目の前に飛び出してきたのは、話の通じない老人の聖職者だった。
燃やすものはいずれ燃やされる……
colabo ……いや、何でもないです。あの、便乗とかじゃなくてですね、このパートのテーマと言いますか、流れと言いますか……いえ、何でもないです。
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怖い怖い、とずまりすとこ。




