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ズガガッ、ガガッ。
存在しないはずの臓腑に重く圧力がかかり、身体は空へと上がっていく。馬が上へと駆け上がる度、ガガッ、ガガッと、何もない宙を蹴り上げる音がする。蹄の音だと? こんな空で?
「なんだ!? この音は!?」
「足場が無いと馬さんも不安だろうと思ってねえ! ちょっと馬さんの足場を作ってみました! 副作用として、いい感じにカッコよくなった気がしない?」
「ははっ、確かに!」
壁の外側を大きく円を描くようにして徐々に駆け上がっていく。俺と黒猫を乗せた馬は一旦は壁から離れ、そして再び戻ってきた時にはすでに壁の高さを越えた空の上。心が高揚する。だが自分で動かしているわけではないのが不満だ。
「黒猫よ、俺が馬を操縦して動かすことは出来るだろうか?」
「絶対に言うと思ったよ! 実はそんなこともあろうかと、実現可能なようにこっそり調整してたんだよ! ぶっつけ本番だけど、安全はそこそこ保障するから操縦して見るといいさ。普通に馬に乗るような感覚でいけるはずだよ。どう? 有能だって褒めてくれていーのよ?」
「そこそこというのが気になるが、褒めてやる!」
「ふふん!」
意識して手綱を握りしめて、前を向く。空を駆ける馬よ、さあ行け。
馬を蹴ると、何も無いはずの中空を足場にして、後ろ足で立ち上がり大きく嘶く。前足が下ろされると地面を蹴るようにして空を走る。体を傾け手綱を引くと、その動きに合わせて馬が俺の望む方向へ曲がり、進む。
パリの町の上空、蹄の音を響かせて上下左右へと馬を乗り回していく。空を駆ける馬の動きに砲台がついてこれるわけもなく、砲火の音はとっくに止んでいる。
「ハハハッ、きりもみ回転やループはどうやる!?」
「馬のストレスがマッハになるからやめてあげて! あと急な加速とか停止とか無理な動きとかには対応していないからねー! 安全運転!」
「ハハッ! ハハハッ! アハハハハハハハハハハハハ!!!!」
「また壊れた。うーん、これはあれだねえ、ええと、ハンドル握らせちゃいけない人!」
風を受け、空を駆ける。何も無い場所を蹴る蹄の音と振動が心地よい。
夕暮れのパリの町、城壁に囲まれた雑多な家々を見下ろす。セーヌ川により二つに分断されたようなその街並みは、長引く戦争と疫病で大勢が死んでいなくなったとはいえ、いまだに何万人も住んでいる大都市の様相。縦横無尽に好き勝手に成長した家々が規律も無く広がっている。今その町の住人が通りに出て、空を駆ける俺たちの姿を見上げている。
どんな気持ちだ? 何を思う?
夕暮れに染まる空を駆ける骸骨の騎士の姿を見て、この町の住人たちが何を思うのかを考えてみる。俺があの場所にいて、空を飛び回る骸骨の騎士を見上げていたら何を思う? やはり黙示録に書かれた終末を思い起こすに違いないだろう。子供の頃から聞かされていた世界の終わり、審判の時。
黒猫はそれすら物語だと言っていた。人が創った物語だと。すべてが作り物なのか? 本当に?
ふん、この正体不明の黒猫が言うことをどれだけ信用していいのかもわからん。そもそも悪魔というものは、あの手この手で神への信仰を失わせようとする邪悪なもの。保留だ、保留。
深く考えるのをやめて今は空を駆けることに集中する……いや、待て、ここにやって来た目的を思い出せ。
「くく、黒猫よ、そういえば貴様は観光どうのこうのと言っていたな? パリには大学や大舞台、巨大な浴場などもあるぞ」
「それは興味無いなあ、見学したいのは、ええと、あっちがルーブル宮でしょ、そしてあっちがノートルダム大聖堂」
空飛ぶ馬の上で、黒猫が視線で指し示す。
空の上からなら町の地形がよくわかる。特徴のある建物はすぐに見つかる。これが戦争に利用できていれば……いや、戦争はもう関係無いだろう。俺はどれほど未練たらしいのか。もう考えるな。
「ルーブル宮殿って完全に要塞なんだねー、壁の一部じゃないの。ちょっと感動」
「当たり前のことに何を感動するか。さて、どちらにも奴がいそうだな、どちらに突っ込む?」
「いや、建物そのものには突っ込まないでね? 壊しちゃ駄目よ?」
「ふん、そこはどうでもいいのではないのか?」
「こう見えて私は人にも、人が作り上げたものにも敬意を払っているのよ? 壊したり燃やしたりするのは簡単だけど、同じものを作れないのなら軽々しく扱うべきじゃないと思ってる」
「ふむ。半分ほどは信じよう」
「全部信じてよ」
ルーブル宮は王の住まう宮殿としても使われるが、外敵を防ぐための城塞でもある。今も兵士たちが大勢詰めているだろう。奴が庇護を求めて逃げ込むのは十分あり得そうだ。しかし聖職者の仲間を求めるなら大聖堂の方に行くだろう。
「どうせ、見つかるまで探すのみ、だ」
聖職者が多く逃げ込んだと聞いて勢いのまま訪れたが、実際に奴、ピエール・コーションがこの町にいるかどうかもわからないしな。
「くくくくく、時間をかけてでも必ず追い詰めてやる……」
「厄介なのに憑りつかれちゃったねえ、そのコーションって人」
「は、他人事の様に言う!」
「他人事なんだよなぁ」
目的地を決めて、手綱を握りなおす。さあ行け、天翔ける馬よ。目指すはノートルダム大聖堂、シテ島にそびえたつセーヌの川に囲まれた石造りの大聖堂。
前傾姿勢をとり、馬の進む速度を速める。速い! 地を駆けるよりずっと速く進む! もっと早くならないか? いいぞ、速く、もっと速く!
「ねえ! 通り過ぎたよ!」
「うははははははは! 通り過ぎたなっ!」
「テンション高い」
想像を超えた速さに一瞬で目的地の大聖堂の上空を通り越してしまう。ここで馬を上昇させる。空へ。壁を垂直に上るように。そのまま大きく曲線を描くようにして天へと至る。天地が逆さま。頭上に地が、足元は天、黒猫がループといった動きだ。
全てが逆転した世界の中で漂う。西の空には沈みかけた太陽と照らされる大地、東の大地は薄暗い。あの地ではすでに夜の帳が下りているのか。昼と夜の間。頭上の大地は曲線を描き、その先は霞の中へと消えていき果ても知れない。
凄い。なんという景色だ。こんな世界があるのか。これが世界の形か。
一瞬、忘我の境地に至り、思考を忘れる。
「はい、制御、制御やめないでねー」
「うおおお!?」
黒猫に促されて気を取り直した時には俺の手から馬の手綱が離れていた。慌てて握ろうとするが上手くいかずに両手は宙を掻き、バタバタと不様にもがくだけ。そうこうしている内に俺と黒猫を乗せた、いや、逆転している世界では馬の下は俺か? 混乱して乱れる思考。馬が大きく暴れ、その背から投げ出される。俺と馬と黒猫はバラバラになりながら流星のように夕日で赤く染まる大地へと突っ込んでいく。
その突っ込む先は、まさに目的地とした大聖堂。
「ああ! もう! とにかく馬の安全を優先! 馬ファースト! 馬ファーストぉ!」
ぐるぐると回転する世界の中で黒猫の慌て叫ぶ声が聞こえる。何だその馬ファーストとは。笑えるではないか。どうやら俺は完全に思考を放棄してしまったらしい。今更何もできんしな。一拍の後、体がかつてないほどの衝撃を受ける。
「がはぁ!?」
呼吸が出来ないほどの痛み。このおかしな体になってから初めて感じたと言っていい死の予感。
どうやらシテ島を囲む壁の上部にぶつかったらしい。馬も同じようにしてぶつかっている。叩きつけられた果実のようにひしゃげていないのは、馬と共にいる黒猫がしっかりと守っているからか。
俺たちの身体は壁の一部を壊しつつ、大きく跳ね返り、夕日に染まる大聖堂へと突っ込んでいく。
一度壁にぶつかったことで速度が落ちたとはいえ、それでも高速で弧を描くようにして大聖堂のステンドグラスを破壊して内部へと侵入する。時間がゆっくりと引き延ばされる感覚。粉々になり、キラキラと中空を舞い散るガラスの破片の中、馬と目が合った気がした。馬の奴は泣いていた。
「げふ」
建物の中の壁に俺と馬は同時にぶつかり、情けない声を上げる。そしてそのまま下へと落下。盛大な音を立てて物を壊しながら床に転がる。
目が回る。俺の身体は無事か?
手探りで物を掴みながら壁にすがりつつ、かろうじて立ち上がる。足が震えるのは仕方がない。馬の奴は寝そべったまま。その横には馬を前足でつついている黒猫。どうやら馬も猫も無事か。馬の奴は口を開けて呆けていて立ち上がろうともしない。どうも目から光が消えているような気がするが、生きてはいる。
大聖堂の中には人がひしめいていた。聖職者の恰好をした者が多いが市民も多い。どうやら祈りの最中だったらしいな。そのさなか、俺たちは祭壇の真上に落ちてきた、と。祈りを中断させられた全員が全員、こちらを見て驚愕の表情のまま固まっている。
「ふむ、祈りの時間だったか? 邪魔をしてしまったな」
張り詰めた静寂の中、俺の声は聖堂の中によく響いた。
その一瞬後、誰かの大きな悲鳴を切っ掛けにして我先に逃げだす人々、聖職者も市民を押しのけて逃げ出そうとする。転び、踏まれ、飛び交う怒号と悲鳴は一層増していく。
「邪魔をしてしまったな、じゃないわよ! 何を格好つけているの? 馬鹿じゃないの? 建物に突っ込まないでねって言ったけど、振りじゃないから、それ振りじゃないからね」
「はは、事故だ」
「笑いながらさらっと言うわね……」
「黒猫よ、空を飛ぶというのはやはり難しいことなのだな」
「一番大変なのは私で、次に空を飛ぶことに慣れてないお馬さんなんだよねえ! 進む方向の制御をしていただけの君が一番簡単で楽をしていたのによく言うわ」
「ははは」
素晴らしい体験に我を忘れたのは事実だしな、言い訳はしない。
「馬さんは……ここでちょっとリタイアだね」
黒猫がそう言うと、床に寝そべり光の消えた目をしていた馬の姿が掻き消える。
「消したのか? あれは実に良い馬だった……」
「殺してないから。しんみりした空気感出さないでちょうだい。静かで心地よい場所に移しただけ、馬さんには心のケアが必要なの。次に会う時には元気な姿を見せてくれる、はず、たぶんね」
「いつもながら、いいかげんだな」
馬のことは黒猫に任せて置いておく。
周りを見渡すと、悲鳴を上げながら次々に逃げ出す人々の姿が目に映る。押され、転ばされ、泣きながら立ち上がり誰かに手を引かれて聖堂の中から消えていく人などもいる。それでも聖堂の中には人が大勢いたので全員が逃げ出すのにもしばらくは時間がかかるだろう。怒号と悲鳴が大聖堂の中を満たしている。ほとんどの人が大聖堂から逃げ出そうともがいている中、熱心に祈りを捧げている人物も少しは存在している。
ゆっくりと祭壇を下りて、一番近くにいた、膝立ちの姿で祈りを捧げる一人の老人の聖職者に声を掛ける。
「聞きたいことがある」
騒々しい中でも俺の声が届いたのだろう、俯き、祈りを捧げていた老人は肩を一度跳ね上げ、落とし、ゆっくりと顔を上げ俺を見て、そして小さな声で俺へ聞き返す。
「……何なりと。天使様、その前に、天使様、どうか貴方の御名をお聞かせ願いませ」
「……どうして俺を天使と?」
「神の御膝元であるこの聖堂にどうして悪魔が入れましょうか。なれば今ここに立たれる貴方様は天使に相違ありません……」
「…………」
俺を見て天使と言うか。今の俺の姿は死してなお動く死者、おぞましき悪魔そのもの……いや悪魔は黒猫の奴なので、俺はせいぜいが悪魔の使いといったところだろうに。善なるものによって断罪され滅ぼされるべき存在。だが聖堂に立っていられるからと、それだけの理由で俺を天使だと? この老人の理屈はわからないではないが、それは相当に無理がないか?
「俺は天使ではない。今の俺には名前も無い。聞きたいことがある。ピエール・コーションという男がここに来ていないか? 彼女を、聖女を、神の乙女ジャンヌ=ダルクという少女を燃やした男の名だ」
俺の言葉に雷に打たれたように身体を跳ねさせ、老人は再び俯き、幾度も喘ぎ、苦し気に声を絞り出す。
「その者は……その者が……た、た、大罪を犯した者の名でありましょうか?」
「いるのか、いないのか」
「………………おります。か、か、匿ったわけではないのです! どうか、どうか申し開きの機会を! 神の御慈悲を賜りませ!」
床に額を擦り付けて俺に許しを乞う老いた聖職者。何がどうなった?
「手勢を連れてやってきた彼の者は、大層興奮して混乱しておりました。それ故、それ故、放逐もせず隔離しておりましたのです。決して、決して罪人を匿うつもりはなかったのです!」
「そうか、知らんが」
「彼の者の罪は我らが必ず明らかにして裁きます故! 人の手によって裁きます故! 天使様、どうか、どうか今だけはお引き取り願います、この町に神の裁きを下すのをお待ちください! 今しばらくの猶予をくださいませ! 教会の不正も汚職もすべて明らかにして裁きにかけます!」
「知らんと言っているだろうが。聞け……」
「堕落する者たちもすべて放逐いたします! 黙示録のラッパを吹き鳴らすのを今しばらく、今しばらくだけお待ちください! この国の人々の安寧を願うだけの老人の言葉です、とうに神に命を捧げております! どうか、どうかぁ!」
「話が……できん」
「出来ている方だけどね。しばらくして、ちょっと落ち着いたら普通の会話も出来ると思うよ」
いつの間にか近くに来ていた黒猫が俺に話しかけてくる。しばらくというのはどれほどだ? そこまで付き合ってられん。
「いるのなら連れてこい、いや、俺が行こう。どこにいる?」
俺が老いた聖職者から離れ、動こうとした時、俺たちの会話……会話にもならない会話を壁際で聞いていた若い聖職者が何かに気がつき、声を出す。
「コーション司教が逃亡なされました!」
若い聖職者が指をさす方向にいるのは、何人もの武装した男や若い聖職者たちに囲まれて、今まさに聖堂から出ていこうとする小柄な聖職者の後ろ姿だった。
フィクションですよー(何度も確認)
ダークにするかダルクにするかで小一時間悩みました。
史実にも存在している登場人物は実は少ない作品です。
ジャンヌはダークの方がカッコいいと言う方は☆評価を、ダルクでいいじゃんと言う方も☆評価をくださりませ。




