124
雨雲を突き抜けると、そこは別世界であった。
雲海――
まさにそう呼ぶしかないような、雲の上。
燦燦と降りそそぐ陽光を受けて煌めく空の大海。白と白銀の波が視界を埋め尽くす。雲で出来た海。空を駆ける馬の背にいる俺は、眼下に広がる圧倒的な景色に圧倒され心の震えが止まらない。
「雨の上は……こうなっている……」
知らず、暗い地上から、光注ぐ天上へと迷い込んだ旅人のような。
「……こういう所に神や天使が住んでいると言われたのなら、信じてしまいそうだ」
それほどの景色。雄大さ。息もつかせぬ荘厳さ。人知の及ばぬ神が作り上げた世界の在り様。
「こんなものが自然に出来るとは思えん、やはり探せば神はいるのではないか? 黒猫よ?」
「そうね、そうかもね」
俺の前を陣取る黒猫が俺の方を見もせずに、なんでもないような口調で応える。
否定するでもなく、肯定するでもなく。
何を信じていてもいい。信仰の自由。それを体現したかのような、曖昧な返答。
同じく馬上にあり、俺をここへと誘った黒猫。その正体は未だ俺の理解の範囲外。
黒猫め、面倒になって適当に答えているな。
まぁいい。
地上が雲で覆われ雨が降る時、その雲の上は、雨が降っていない。
こんな明解で単純なことすら考えてこなかった今までの俺にこそ腹が立つ。
だが、それすらも、良しとしよう。俺はこの景色は知らなかった。そして知ることが出来た。ただそれだけが、今は心地よい。人は白と黒のみで出来ているのではない。曖昧でいい時ですら、あるだろうさ。
「ふ」
自然と笑みが浮かぶ。実際には白骨の無表情だが。
「楽しそうで何より」
「ああ、そうだな。楽しい。空を自由に駆けるのも、こうした景色を知れるのも、楽しい」
手綱を操って馬体を右へ左へ。そして上や下へも。
馬の奴は調子よく俺の操縦に合わせてくれている。
後ろへと流れていく雲海の白波。
楽しい。
そういうことも素直に認めることが出来るようになった。
以前の俺なら感情を見透かすようなことを言う黒猫に一言二言反抗していただろう。こうした部分では成長したと思う。変わるのだ。俺も。
「そういえば、黒猫よ。俺が満足するとこの躰はどうなるのだ? 消えるのか?」
この躰はそういう風に造られていた。
俺はそれを永劫に満足することの出来ない地獄の責め苦だと思ったこともある。黒猫の仕掛けた俺への罠だと。
今では、どうだろう。
満足して消えて終わるのなら、それもまた一つの人の幸福の形であったろうかと認めることが出来る。他者に迷惑を掛けずに消えて行くのなら、それはそれで美しい一つの終わりだと。……嫌だが。今の俺のしたい選択では、ないのだが。だからそういうのもあるかと認めるだけ。
「それは解決済みだって。もう満足したくらいじゃ消えないし、その体から別人の記憶を辿ることも出来ないし……そうね、深い深い絶望をしたとしても消える事が出来ないので、そこは覚悟して」
「深い絶望……か」
日がまだ東の空の上にある。ああ、そうだった。まだ今日という日は始まったばかりであった。辛い農作業の記憶がもう昔のことのよう。今日もまた長い一日になりそうだ。
雲の上を東に進みながら、あの時の事を思い出す。
知らなくてもいいと何度も釘を刺されたにも拘らずに知ろうとした馬鹿者の結末。隠された真実を知って生まれた絶望。
そうだった。俺の骨の躰が、俺を殺しに来たあいつのものだと、あの世界の俺のものだと知った時。あれが俺自身だったと知った時――思い込んだ時、俺の骨の躰は世界から消えかけていたのだ。
「……満足だけでなく、絶望でも消えるような仕掛けをしてあったのか?」
「らしいわね、意図したわけじゃないけど」
意図したわけじゃない。
もういい、と。
満足して消えるように。
もういい、やめてくれと。
絶望しても、消える。
それは真逆であっても同じ意味を持つものだったのだろう。
あの時、黒猫が俺に何もしなかったら、そのまま雪のように溶けて消えていたことは確実。あの時の黒猫の態度は、絶望し、恨みを残し消えゆく俺を心配しての……
「いやぁ、あの時は焦った焦った。黒騎士さん、消えちゃいそうになるんだもの。せっかく作った黒騎士さん専用の美少女の体が日の目を見ないことになるのかと、本当に焦ったわ」
「……貴様、あの時そんなことを考えていたのか」
消えかける俺に対して暴言を吐いて怒らせたり愛のある言葉を投げかけていた裏で、そんなことを心配していたと……
意味なんて無い。ただ助けた。愛を受け入れて、とか。ふと思い出しても恥ずかしくなるような言葉を連ねて俺を心配していた風の裏では、作り上げた自慢の体が日の目を見ない事を心配していたなどと。
それは知りたくなかった。
知る必要のない裏の真実であった。
首根っこを掴んで雲の上に落としてやりたい気分になったが、空を飛んでいる力は黒猫のものなので、実際に雲の下へと落ちていくのは俺になるだろう。
俺と、ついでに馬だな。しょうがない、今は許してやる。ふん。
「貴様は少しばかり美しい者に拘り過ぎなのでは? いつだったか、何でもかんでも美少女に変えてしまう国の話をしていたな?」
歴史上の人物や動物、神や器物すら美しい少女に変えてしまう文化の国。俺が実在するのかと疑った国だ。
「貴様は――アレは、その国で生まれたのか?」
生まれた、もしくは、作られた。
人の手により作られた、己を人だと言う知能。
天の目とも言うべき姿で現れた、ルルの本体。
「んー」
黒猫が体ごとこちらを向く。
ただの雑談に見せかけて、実はルルの正体の核心へと迫る際どい質問だ。わずかばかりの緊張感を抱く。
「難しいわねぇ。実は単純じゃないのよ。ルーツを辿りに辿って行けば、なんとなーく、そんな感じかなぁって感じで、その国、その時代だった、かも? みたいな? まぁ根っこの一本ではあるかなって」
その返答は先ほどの曖昧さを上回る曖昧さだった。
根っことは何だ。植物みたいに。
「あ、黒騎士さんと会話している私の今の人格の事なら、またちょっと事情が違うわよ。私は人を知るために人の間に生まれることになったものだから」
「人のふりをして、人から生まれたと?」
自分の事を天の目――アレが作った指人形だとも表現していた。
そういえば、最初、人として生まれて育ったような話もしていた。美し過ぎて殺されそうになったどうのこうの。くだらない妄言の類と思って聞き流していた。
「人のふり、ねぇ。最初は人のふりすら難しかったわねぇ、普段は記憶から抹消しているけど、聞きたい? 人の顔も壁のシミも区別がつかなかった頃の私の苦労話」
「それは……苦労したろうな。貴様も、貴様と関係のあった者も……」
人を人として理解出来ない人でない者との付き合いなど、どうなることか想像もつかない。ただ、その話、あまり楽しいものにはならんのだろう。関係が破綻している。殺されそうになるくらいには。
「ふふ、人の片手の指の数は特別な事情が無い限り5本である、ということを、それが普通であると受け入れて理解するのに、どれだけの失敗と失態を繰り返したことか、あ、やっぱ聞かないで、へこむから。封印。記憶の封印。ええと何の話をしていたっけ?」
「便利な能力だ」
忘れたい事を忘れたいと思うだけで忘れられる能力。俺もいつかそうした能力を得ることが出来るのだろうか。嫌な事を全て忘れた俺は、俺と言えるのか?
あの悍ましい成長をした世界の俺を知ってしまった、今の俺は……
だとしても忘れてはいけない記憶、なのだろうな。
抱えて生きていくべき罪悪感というものだ。
誰かにとって誰かが天使になるように、人は天使にも悪魔にもなれるのだ。誰かにとっての悪魔となったジル・ド・レの記憶は持ち続ける。そうならないように。ああならないように。
む、いかんな。また自分とあいつを混同しそうになっている。あいつは俺ではない。いつかぶちのめしてやりたい。その為には力だ。知識だ。
「黒猫よ、貴様は色々と出来る。全知全能とは言わずとも、尋常ではない力を持っている。過去と未来を行き来し、世界を書き換える。ちょっと遠くを見れて、ちょっと遠くに手が届くとか、控えめ過ぎる表現だと思うくらいには普通から逸脱している」
「そうかもね」
「どうなんだ? それだけ色々と自由に出来る状態でいるのは楽しいか?」
「はて、質問の意味が良く理解できないけど、ええと、答えるのなら、これが普通になったなら、これが普通よ」
「ふむ……」
「えっと、人は二本足で立って歩けるのが普通だけど、それだけで特別な感情は持ってないわよね? それとも感謝してる? 二本足で歩けて満足だー、楽しー、とか。これが二本足で立って歩くことが困難な生物にとっては普通じゃないわけで。そうした立場から見て二本足で歩く者に何か特別な感情でもあるのかと思うのは、それが出来ない者にとっては自然な考えだけど、人にとってはそれが普通なわけで……」
質問が曖昧過ぎたな。
そうじゃない。俺の聞きたかったことは、そうじゃない。
「俺は貴様のようになりたい。貴様のような力を得たい。俺はそう成れるか?」
「なれるんじゃない? まぁ、頑張り次第?」
適当な答え。適当な奴め。
黒猫のような力を振るえるようになった俺を、今の俺は想像出来ない。その時の俺は俺のままでいるのだろうか?
「で、私からも質問をするわ。力を得てどうするの? そここそが重要よ。黒騎士さん、君が力を求める理由は、何?」
「当然、気に食わない者をぶちのめすためだ」
「……私は世に解き放ってはいけない悪魔を生み出そうとしてるのかも知れない」
俺を見上げる黒猫の瞳の感情の中に呆れを感じ取る。
「そこまで大した事ではないわ。俺はあいつが許せない」
「あいつ?」
「俺を殺した、あいつだ。さんざん悪事を働いて、それなのに勝ち逃げのようになっているではないか」
「そうかなぁ……絞首刑にあったし……」
「それでも、だ!」
悪魔ジル・ド・レは首を括られて生涯を閉じた。その後の話だ。
黒猫のルルの力を介して過去の自分を殺し、満足して世を去った。それが許せない。
で、殺された当の俺は、今の自分の置かれた状況に満足しているといえば満足しているが、それはそれ、これはこれだ。
「クク……力を得たら、ありとあらゆる時代、ありとあらゆる異世界の奴の前に現れて拳を振るってやる、邪魔をしてやる。奴が邪悪なことをしようとする、その先々で。ククク」
「なんて後ろ向きな。いや、むしろ前向き? 善性の発露? わからないわぁ……」
善も悪も無い。
そうだ。それが力を得た後の俺がやりたいことだ。
殺せば殺される。奴もまた俺を殺した酬いを受けるべきだ。勝ち逃げ許すまじ。
雲上。
絶句し混乱する黒猫を乗せて空を駆ける馬は東へと進む。
かなりの速度が出ているはずだが、雲の上だと今一早さがわからん。一回地上に降りるべきだろうか。ランスの町はあとどれほどか。
「……それに」
ジャンヌが助かる世界があってもいいのではないか。
それは言葉にしなった。
見捨てた俺が、助けたいと願っても最善を尽くして助けなった俺が、今の無力な俺が、口にしていい言葉とは思えなかった。
今から黒猫に頼むこともしない。出来ない。俺たちにとって時間は問題ではない。ならば、俺自身が力を得たら、その時が来たら、その時にまた選択するのだ。
「世に解き放っていいとかどうかなら、黒猫、貴様も大概ではないか?」
「私が? この人畜無害な私を捕まえて?」
「人畜無害とか! 貴様の実態からは程遠いわ!」
自分を顧みろ。どれだけの混乱を世にもたらしたと?
「世界のすべてを把握し、理解し、支配する、だったか? 世界の支配者になってどうする? すべての者を従わせて、黒猫よ、貴様は何をする?」
「あー、言葉って難しいわねぇ、世界の支配者になりたいわけじゃないのよ。というか、ごめん被る。面倒っぽいし。世の中をどうこうしたい欲があるわけでもないわけで……支配、それはね、自分というものを支配しきるということで使った言葉なのよ」
「ん?」
「わからない? 自由でいたい、その為に知る必要のあること。今の自分に何が出来るか。他者からの意に沿わない侵害を跳ね除けるって意味でも同じだけどね。やりたいことをやれる自分である為に、とにかく自分の出来る事を知り、それを増やしていく。広げていく。深めていく。その果てにあるのが最高の自由ってものじゃない?」
「これ以上にまだ自由を欲するのか……」
俺の知る最も自由な存在なのに。
気の向くまま自由に振る舞う黒猫。
自分で言ったことにすら縛られず……
「そういえば、奇跡に頼ると人は発展しない、もう奇跡は使わないなんて言葉を貴様の口から聞いたことがあったが、先ほどのは何だ。思いっきり奇跡ではないか」
「あー、そーそー、そんな感じだったねぇ、けど人類の行く末とか、結局考えた所でどうにもならない事だし、どうでもいいかなって思い直したから」
「ふん、それが貴様の求める自由の在り様か? たいした自由もあったものだ」
適当なだけだ。
「猫さんの身体のせいかなぁ? どうも精神が引っ張られちゃって……」
「猫のせいにするな! 狂暴さも含めて貴様の性分であろうが! いいか? 一度決めた事を軽々と覆すのはだな……」
「いいの! 私の決めた事だから私が覆していいの!」
「適当な奴め!」
黒猫への批判が、俺自身への批判へと跳ね返る。自覚はあるのだ。自覚は。
「まったく、貴様ときたら何様だ……」
「ふ、自己紹介が必要かしら? 私が支配者よ! ……どや? 決まった?」
「何が、どや、だ!? 何も決まっとらんわ! その顔やめろ!」
その言葉、言いたいだけではないのか?
黒猫の顔は、なんとも表現しづらいものになっていた。自慢げというか、誇らしげというか。嬉し気というか。見ていると無性に腹立たしくなる。そういう顔だった。
「って言ってる内に、そろそろ分岐点よ」
「はあ? 分岐点だ?」
先ほどの言い合い、まぁじゃれ合いのようなその時の口調のまま聞き返す。
「軍……って言っていいのかな、リュミエラさんたち発見。もう町を出発してたみたいね。大所帯を引き連れて西へ進軍中、と。どう? 会いに行く? それとも……」
黒猫は下、つまり馬の背中を向きながら話しかけてきた。
そこから見えるのは馬の背だろうに。そして馬の下にあるのも雲だ。
雲はパリの町を出た時よりも少し薄くなっている。所々に切れ目があり、そこから地上を覗くことが出来た。
とはいえ、進軍中の一団は俺には確認出来ない。
黒猫は俺の見えないものを見ている。
馬上の黒猫は話を続ける。
「ランスの町に行くのを優先する? シャルルさんは、きっとそこに居ると思うし、ええと、さあ、どっち?」
「いきなりだな……」
人生の選択肢など、そのようなものか。重要な選択を突きつけられるのは、いつも唐突だ。
シャルル王に会いに行く。それが俺の目的であり、やり残しであった。
身代金を支払ってジャンヌを助けるという選択をしなかった理由を問い質したかったわけだが、実のところ今の俺はそこまで熱心ではない。黒猫によってお前も助けなかっただろうがという事実を突き付けられた今では……
戦争を止めたいというのも、俺の中に確かにある思いだ。
人同士、くだらんことで争う必要はない。
そういう感覚を得たのも一度は人の外に身を置き、あらゆる立場、責任から解放されたが故に生まれたものなのだろう。
戦争に関して、昔の俺は、もっとこう、何だ、言葉に詰まる。
そうだ。戦争とは当たり前にあるものであり、必要なものであり、何なら武の誉れを得るための男の晴れ舞台とでも思っていた。
それが普通になったら、それが普通。黒猫の先ほどの言葉が蘇る。
そうであった時は普通であったものが、そうなくなった時には普通でなくなる。そしてそれを気にもしなくなる。力を得て変わっていく俺を心配する必要など、どこにもないのだろうか。
して選択肢。
「リュミエラたちは……後でもいいか」
どうせ黒猫のやりたがっている劇とやらにはリュミエラは必要なのだ。勝手にパリに近づいているのだから放っておいてもいいだろう。
軽い挨拶くらいでもとも思うが、それも手間だ。どうせまた後で追いつく。
「ならば、今はランスへ」
馬の背を蹴り、さらに速度を上げて、東へ。
雲海の上を一本の黒い矢のように突き進む。
「あ、そろそろランスの町に到着するわよ、速度を落として」
「早いな!?」
リュミエラたちと目と鼻の先ではないか。
意味のある選択だったか? さっきのは。
そして近い。
ランスとパリ、ゆっくりと進める馬で普通は三日ほどはかかる。
どれほど飛ばしてきたのか。
「下へ行きましょ」
黒猫の指示を受け、手綱を緩め前かがみになる。俺の意思に反応して馬が頭と体を下へと向ける。
あげた速度を保ったまま、海に飛び込むように雲の中へ。
一瞬。視界は白一色。
俺は呼吸は問題ない。馬の奴も問題ないようだ。黒猫が何かをしているのだろう。
そうして突き抜けた雲の下。
陽の光が急速に薄れ、夜の闇の中だと勘違いする。
雨は少雨。降っているか降っていないか。
その薄暗い地上の中、小さな都市を確認する。
瞬き一つの間に近づく。
近づくにつれ、視界の中に広がっていくランスの街並み。
上から見るのは初めてだ。
パリよりは小さな、それでもここらでは大きなランスの町の中央に、ひと際目立つ大聖堂。
ジャンヌと共に、シャルル王の戴冠式をしたランスの大聖堂。
そこを中心として、上がるいくつかの火の手。
ランスの大聖堂は、何者かによって襲撃を受けていた。




