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熱狂。あるいは狂乱。
個人個人がそれぞれの心に持つ信仰というものが、突如現れたレンズ豆畑と、盲目であった女僧侶の眼の癒しという二つの奇跡を得て、何かしらの形になったのだろう。それが表に出て、互いに影響しあっていく。合唱の様に響きあって、高めあっていく。このパリ郊外の狭い場所において、プリュエルを中心にした熱を持つ混沌の渦は、それ以外の全てを掻き消すようにしながら、強く強く増幅されていく。
飛び交う祈りの言葉と激しい動作、その荒波のような熱狂の中に入ることの出来ない俺は、一歩下がった所から冷めた目で全体を見ている。
「神の奇跡が聖女に降りたのだぁ!」
「見よ! 神はここに居る!」
「感謝を! 感謝を! 感謝を! 神に感謝を! 慈愛の聖女に感謝を!」
「祝福あれ!」
「奇跡の聖女プリュエル様に光あれ!」
「我らに愛を齎したもうた偉大なる神よ! 優しきレンズ豆の聖女に変わらぬ祝福を!」
「銀の聖女に栄光あれ!」
「おお、おお、おお、素晴らしきかな愛の聖女よ! 祝福されし銀の聖女よ! そして神の深き慈愛に、魂からの感謝を捧げん! ああ、これほどの感動がこの世にあるとは! 感謝をします、神よ! 私はここに永遠の信仰と、不変不滅の愛を捧げまああす! ふあああん! ふおおおん!」
とくにクレマン司祭が酷い。鉛入りワイン酒でも飲んでいるのか?
「神様ありがとう!」
チッ。
心の中だけで舌打ちをする。
人の口々に上る神に感謝を捧げる文言を聞く度、俺の心がささくれだっていくのを感じる。
神が何をした? クワの一回でも振っていないではないか。豆の一粒も撒いていない。居もしない神に祈るな。感謝をする相手が違うだろうが。
騒動の中心。当のプリュエルは絶賛混乱中のようだ。黒猫のルルに向かって何かを言いたげだが、周囲の熱波に当てられ何も出来ず、されるがままになっている。
そして俺と同じく一歩外れた所にいるリッシュモンも一人静かなもの。眉間にしわを寄せる神妙な表情で冷静に周囲を伺っている。俺とは違う感情だろうが、この異様な風景を見て感じることはあるようだ。
人々が熱狂するのもわかる。
奇跡を目にした者の気持ちも、わかる。
誰かを信じて熱狂する気持ちが、俺にはわかる。
ランスの戴冠式の日にジャンヌに捧げられた祝福も、こんな感じではなかったか。
あの場では俺は熱狂する側に回っていた。俺たちの窮地を救った奇跡の聖女ジャンヌに栄光あれ、と、声を張り上げる一団の中に俺もいた。
思い出される、聖堂内で騒ぐ俺らを見る王や取り巻き達のあの冷めた目。
あの日にシャルル王が抱いていた気持ちが、今なら少しわかる気がする。つまり、なんだこいつら、だ。
「か~みの~愛と~、聖女にささぐ~うう~」
「おおお!」
クレマン司祭が本格的に歌い出した。反応する人々。
ああ、ランスの戴冠式の日はここまでではないな。ここまでではない。
「凄いことが……凄いことが…………死者殿……どうして服が泥だらけなんです?」
「おお、泣き虫か。貴様だけだな、俺の姿の変化に気がついてくれるのは。大変だったのだ、あれから」
「? ええと?」
「ちょ~っとやり過ぎちゃったかも。なんか話が出来る状態じゃないわねぇ」
視線を下にやると俺の足元には喋る黒猫。今回の奇跡の演出者。魔法の使えない魔法使い。
尻尾の毛が濡れて細くなり、ずいぶんとみすぼらしくなっている。
「また失敗か?」
「どうかしらねぇ、ふふ」
いつもいつも、こいつが絡むと全てが大事になる。今回もこの騒動を始まりとして、何がどうなっていくのやら想像もつかない。
それも今更か。なるようになるだろう。たぶん。
「プリュエルさんとちょっとだけお話したかったけどしょうがない。落ち着くのも待ってられないし、一旦この場から離れることにしましょうか。このままランスの町に行く? 黒騎士さん」
「ランスか。そうだな」
疲れているから少しくらいは休みたいが、シャルル王に話を聞き、馬鹿な戦争を止めさせ、そして各地から集めたという自称聖女を解放してやらねば。
何も良い事をしようとしているのではない。正義の心とも違う。俺がそうしたい。プリュエルの眼を癒す事を決めた時と同じだ。俺は俺のやりたいようにやる。俺の選択によって世界や個人がどう変わろうと、そんなものはなるようになれ、だ。
……だいぶ黒猫のいい加減さがうつってしまっているな。今更か、それもまた、今更だった。
「黒猫よ、ランスに行く前に、ちょっと相談がある」
俺の心の中にあるアイツに対しての思いはまた整理も整頓もされていないが、そうせねば、そうしたいと思う所はある。これは俺にとって重要な事。
「ん? なあに、黒騎士さん」
「俺の体の事だ。それを……」
「ルル様! 黒様!」
強引に人を掻き分けて俺たちの前にやってきたプリュエル。その濁りのない銀の瞳は不安に揺れているが、確かに俺たちの姿を捉えている。
「感謝を……ただひたすらの感謝を捧げます。ルル様、黒様」
俺たちの前で再び両膝をついたプリュエルが雨に濡れる銀の頭を深く深く下げる。プリュエルの上等な聖衣も泥だらけだ。
「はいはい、プリュエルさん、話がしたかった。で、目の調子はどう?」
「見えます……見えるのです……子供の頃の、かすかな記憶にある通りに……なんと、なんとお答えすれば……」
「混乱中? いいのいいの。で、本題」
黒猫と聖女の邂逅に、周囲が少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「このレンズ豆畑は好きにしていいからね。けど心得ておいて。これは、ただの応急処置。あなたたちが手に入れたのは奇跡でも畑そのものでもなく時間的な猶予。根本的な問題解決はしていない。レンズ豆畑は大人数の長期間の食料にはならないし、次は無い。繰り返すわよ。こんなことは、もう無い」
「はい」
奇跡があるのなら奇跡に頼れ。
一度でも奇跡に頼った者は次の奇跡にも期待してしまうのだ。黒猫はそれに釘を刺す。
「今回の事でプリュエルさんの言葉の力は、もっともっとすごいものになるでしょう。その力を使いなさい」
「私の、言葉の、ちから……」
「言葉の力は人の意識と行動を変化させる力。自分の望みを人に伝えて、希望を現実に変えられる人を探して頼りなさい。聖職者のお仲間でも貴族の人たちでも市民の人たちでも、誰でもいいから話をして知恵を出し合えば、どんな困難も乗り越えることが出来るでしょう。あ、言い過ぎた。越えられない困難もある。無理なものは無理だから。時間の制約もあったりするしねぇ」
「おい」
プリュエルと黒猫の二人の会話だったが、しまらない黒猫に横からつっこみを入れてしまう。
越えられない困難なんかも普通にあるだろうが、この話の流れの中で必要な訂正か? 恰好が付かないぞ。言いきってもいい所だろう、そこは。
「コホン。今回は突発的で範囲も限定的な飢饉の危機。冷静になって周囲を見渡せば食べ物はあるところにはあるからね。たとえば今回、略奪なんかしてたら、ちょっとばかし大変な事になったかも」
馬から降りて祈っていた白髪交じりの騎士がこちらを見て恐れ入る。
プリュエルの必死の懇願を聞かなかった奴だ。
だがそいつも特別に悪い奴ではない。プリュエルやパリ市民のことを思ってのことでもあるし、物資の略奪は、今も尚この世界で横行する”当たり前”なのだから。
「略奪された者が略奪する側に回る。そんなこんなで手入れのされた畑が失われ、畑を手入れする人もいなくなり、それが原因で慢性的で広域に渡る飢饉になったかもしれない。わりかし簡単に解決できた問題から、ちょっとやそっとでは解決できない問題へと変わる。これは黒騎士さんが何もしなかったという選択をした時の、そうなったかもしれない未来の話ね」
「レンズ豆畑を作る作業が嫌で言った時の事か。本気にするな。あれは、まぁ冗談だ。本気で言ったのではないぞ」
「はいはい」
「本当だぞ」
笑う黒猫。信じていない。あの時は疲れ果てていたし、つい口から出てしまった類のものだ。本当に本気で言っていたのではないわ。
「争いは争いを生むもの。増えていく、倍々に。恐いのよ」
1が2に、2が4に。略奪者が倍々に増えていけば、世界の全てが混迷のただ中に落とされるのはあっという間だろうな。
倍に増えていくものの怖さは視覚情報でもってやられたからな。よく理解させられた。視界を埋め尽くす千匹の黒猫……夢に見そうだ。
「ということだから。今回はちょっとの時間の猶予が生まれたというお話でした。食料の問題はよくよく話し合って解決方法を探してね。黒騎士さんがみんなに貸してあげた時間を有効に使って」
「はい。ルル様。黒様から貸して頂いた時間を大切に使います」
雨の中でもわかる大粒の涙を流しながら、プリュエルは誓う。
「んじゃあ、そういうことで。これからちょっと行く所あるから」
「わかりません……わかりません……この身に余る大恩を、どうお返ししていいのかわかりません。借りたものならばお返しせねばなりません。何故、私、なのでありましょうか」
「たまたまよ、たまたま。じゃ……」
話を切り上げようとする黒猫に、プリュエルは重ねて問う。
「私が受けた巨大なる御恩に私の心は今にも押しつぶされそうです。何も持たない私は、どうすればこの受け止めきれないほどの恩恵に報いれましょうか?」
「あー、あの時のレンズ豆のお返しってことで納得出来ない?」
「あまりに吊り合いません……」
だろうな。手に収まる程度の豆のお返しが大量の食糧と眼の癒しの奇跡では、対価としてあまりに釣り合わない。それ以前にプリュエルは多くのものを手にしている。心苦しく思うのはプリュエルとしては当然なのだ。
どう物語的に取り繕おうが本人には納得されてないぞ、黒猫。
「さて、ではこう返しましょう。その身から溢れ出て受け止めきれなかった恩は、貴女の周囲にいる人たちと分けあいなさい、と」
「ルル様……」
「空から降ってくる雨粒を全て独り占めにして受けちゃったら、そりゃあ押しつぶされちゃうでしょうね。けど、そうじゃない。雨というのは、そうじゃない。人というのは、そうじゃない。人に手に入るのは人に手に入る分だけ。勝手に、自然と、人はその身に受け止められるだけの量しか受け止めていない。でしょ? ほら、こんなんじゃ潰されようがない。雨でその身が潰されないように」
空を見る黒猫に引きずられて、プリュエルもまた空を見る。
プリュエルが雨を見たのは、記憶にも無いくらい昔のことなのだ。
よく見ておけ、プリュエル。雨粒の本当の形ってな、細長いんじゃないぞ。つぶれた丸パンのようなんだ。
気に病む問題じゃないと続ける黒猫。どう、楽になった? とさらに続けた。
「それに、貸し借りについても、もう問題は無いわよ。解決済み。取り立てる予定も無い」
「それは、どういう……」
俺から取り立てるからだ、とか言いそうだ。
いや、それでも構わない。貸し借りの関係がある内は俺と黒猫の繋がりは切れないわけだからな。いつ切り捨てられるかわからない不安定な関係よりは安心できる。
「情けは人の為ならずってね。ふふ、私の好きな言葉の一つ」
黒猫がプリュエルに笑いかける。
「情けは人の為ならず、ですか?」
「情けを掛けると人が甘えて駄目になるとか、そういう話じゃないわよ。これはね、恩も恨みも、すべてが一つの輪の中にあるという意味を持つ言葉なの」
食べて食べられての輪の中に人もいる、そういう話なのだろうか。
植物の栄養の話も、そうだ。生き物の死骸や糞ですら、形を変えながら循環していくものなのだと教わった。
「恩を受けたのなら、与えてくれた人だけに返すのが報いる方法の全てじゃないの。優しくされた人が他の誰かに優しくする。その優しくされた人も他の人に優しくして……そうして巡り巡り、いつか自分に誰かが優しくしてくれる、そういうお話」
繋がる輪のように。循環していく。
「私たちはもうすぐここを去るわ。次にこの世界に姿を見せるのはいつかわからない。何十年か、何百年か、あるいは何千年……恩を返すために私たちを探す必要はない。身に余る恩を受けたというのなら、その分、別の誰かに優しくしてあげて。それでいい。ゆっくりと、少しずつ、出来る分だけで構わない。プリュエルさんが誰かにしてくれたその優しさが、時代を越えて、人を越えて、海を、空を、大地を越えて巡り巡って返ってくる、その時を楽しみにしているから」
燃やせば燃やされ、憎めば憎まれ、殺せば殺される。それがこの世界の真のルールなのだとしたら、親切にすれば親切にされ返されるのも、また真なのだ。人はすべて、逃れられない輪の中にいる。
「……うく、必ず。必ず。はい。誓います」
嗚咽と共に、地に跪いた女僧侶は眼前の黒猫に誓う。
「取りっぱぐれのない、いい方法でしょ?」
ここで黒猫は俺を見上げて口の端を上げる。
こいつらに時間を貸してやれとの俺の言葉に、返して貰うのが手間だ、もっといい方法があると返した黒猫の言葉の裏にあった思考が、それ。
「貸すのではなく与える。それも巡り巡って自分に返ってくるから気にしないとか、なんとも遠大な計画で恐れ入る……」
寿命の無い者にしか言えないような事ではないのか。
そうした考えが”当たり前”になった世界とは、どういうものなんだろうな。
「雨のごとくに降り注ぐ神の慈愛に感謝を!」
「ああ、神よ! 偉大なる神よ!」
外野がまた神を讃える言葉を吐く。この心に渦巻く感情を何と名付けよう。
俺が神に救いを求めても、着物の裾の端すら見せなかったくせにこいつらは……
「プリュエルよ」
心を落ち着かせてプリュエルに話しかける。
「はい、黒様」
「目が見えるようになって、嬉しいか?」
泥だらけの俺を見上げるプリュエルの顔に、ようやく笑みが浮かぶ。
「はい、とても。言葉では、言い尽くせぬ程に」
「そうか」
ならいい。それでいい。感謝はなくとも、俺の心は満たされて……
「神に感謝を」
「プリュエル。居もしない神などに感謝をするな」
「!?」
自分で吐いた言葉に、自分で驚く。
それは言うべきでない言葉。口にすべきでない言葉。
つい口から出てしまった、負の力を持つ、言葉。
わかっている。それがここで言うべき言葉ではないことを、ましてやプリュエル相手に言うような言葉ではないことを、俺は理解している。
しかし出てしまった言葉は取り消せない。
周囲の人々が息を呑み、次の俺の発言を聞こうと静まり返る。
「……神など居ない。どこにもいない。そんなものは作り物だ。作り話だ」
言ってしまった後悔と、まだ引き下がれると言う勘と、引き下がってたまるかと言う俺の頑固な意思が頭の中でぶつかり、熱を帯びていく。
「黒様、それ、は」
「神なんてものは人が創った物語でしかない。嘘の作り話で、だから、そんなものに祈るな。縋るな。頼るな……感謝をするな」
俺は今、何を言っている?
黒猫と出会ってから聞かされた話の数々が俺の中で神に対する新しい考えを生んだ。未だ確たる形もないそれが、俺の口を通して勝手に飛び出していく。俺は今、何を言っている?
「おお……天使様……どうして我らの信仰を試すような事を言われるのです……?」
「マロー司教」
老いた司教が雨に打たれながら泣きそうな顔をしている。そんな顔にさせたのは、俺だ。
「何度言わせる。俺は天使ではない」
引き下がれない。引き下がる場所がわからない。
確かなのは、俺が今、冷静ではないという事だけ。
「天使もいない。悪魔もだ。それらは人が頭の中で都合よく考えた虚構の存在でしかない」
俺がしたことは大したことではない。何かをしたのはほぼ黒猫で、俺はそれに少し口を出しただけ。畑にしろプリュエルの眼を治す決断をしたのも、俺が感謝されたくて決めたわけじゃない。黒猫もそうなのだろう。そういうわけじゃないのに、感謝の対象がそれを為した黒猫ではなく何もしない神に捧げられていくのを見て、どうにも居心地が悪くて仕方がなかった。
――あまりに黒猫がないがしろにされている。
無性に苛立って、腹が立った。
言葉にならない感情が胸に渦巻き行き場を失う。
「神が人を創ったのではないのだ。人が、神が居るという物語を、創った。だから、神など最初から、存在しない」
「!」
言葉は力を持つらしい。
その発言者によっても、その力は増したり減ったりもするようだ。神の存在を真っ向から否定する俺の言葉受けて大いに戸惑う人々。驚愕。困惑。悲壮。様々。
頭の片隅の一部だけ冷静さを取り戻した俺が思う。
こんな発言をして、武器を持って追われないだけ、今の俺は恵まれている。
宗教に関する発言、特に否定をするような発言は、恐ろしい結果を生むのだ。
未だにこんな俺の事を天使だと思い込んでいるのだろうか。
「う……あ……それは……天使様方が、異教の……神々、とか……」
「そういう話ではない、マロー司教。すべてだ。神、そのものが居ない」
「居ない……」
八つ当たりだ。八つ当たりにも似た感情だ。
奇跡と祝福の場から転じて、信仰の根幹を揺らされることになった人々の恐怖が伝わってくる。
だがそれがどうした。
俺もそうやって壊された。常識を。宗教観を。聖なる神への信仰を。
そうだ。だからお前たちもそろそろ本当の事に気がつくべきで……
「いいか? 聞け。神は、神など……」
「やーれやれ、黒騎士さん、黒騎士さん」
この場をうまく収める方法も、この会話が向かうべき最終地点も思い浮かばない俺に、助け船とばかりに黒猫が語りかける。
「良くないねぇ。良くない事をしようとしているよ。それは後になって思い出して笑えること?」
「…………黒猫よ。俺は貴様から学んだことを、こいつらにも言って聞かせているだけだ。すなわち、この世に神などという都合の良い存在は実在しないのだと」
俺を見上げる金の瞳が鋭さを増す。だが裏腹に口から出る言葉は穏やかに。
「私がいつ、神様の実在を否定したって?」
俺の常識をぶち壊した当の黒猫は、そんなことを言うのであった。
今更ながら、この作品の主人公は、アレですね(他人事風)
ブックマーク、評価、ありがとうございます。感謝感謝です。
こういう作品を書いていても迫害も攻撃もされない今の世の中にも感謝を。




