120
「俺が決めていい……」
最後の仕上げ。
この後の奇跡の演出の中、ついでにプリュエルの眼を治して見えるようにする。
そう、してもいい。
いきなり何を言い出すのか、などとは言わない。
これは続きだ。
これも続きだ。
パリでプリュエルに出会ったあの日の俺の言葉、気軽に、軽率に、たいした考えも無く黒猫に対して吐いた、彼女の眼を治してやれとの言葉。あの続き。
今頃か、とは思う。
正直、今の今まで忘れていたぐらいだ。
今頃になって言い出したのは、俺が奇跡の裏側について思いを馳せる事が出来るようになったからだろうか。眼を治すには、眼を治すだけの知識と技術がいる。そういう仕事をする者が。
ほとんど忘れていたが、これもこの世界に”やり残したこと”だったのだと思う。
それは俺の心の何処かの片隅に引っかかっていたやり残し。それとも、ルル、やり残しだと思ったのは貴様の方なのか。
灰の世界、佇む黒猫の金の瞳が俺を貫くように煌めく。冬の夜の月の光よりも尚、鋭く。
黒猫よ、貴様は今、何を思う。
治すか、治さぬか。
しかし、どうした事だ。
あの時は容易く吐けた彼女の眼を治してやれの言葉が、今では重く感じる。
俺と関わりの少ない他人であれば、たとえば敵対者であれば容易く剣を振って命を奪う事も出来る。出来ていた。また特に縁のない者でも、それが命を助ける行為であれ何であれ悩むこともなく造作もない行為だというのに、だ。
どうにも関係の深い人物に対して、俺は慎重になってしまう性格をしているらしい。
プリュエルに関わり過ぎた。
俺は俺の都合で近しい誰かの運命を捻じ曲げる行為に対して、尻込みをする。
それが大切なものであればあるほど、手を触れるのも憚るかのように、慎重に、臆病になる。
そういう者であることに、気がついてしまった。
――重要な選択に限って、小心者。
認めたくはない。直視もしたくない。
だがそれは、神に責任を放り投げてジャンヌを見捨てることになってしまった俺や、過去に戻ってやり直す機会を得ようがジャンヌを助ける願いを言わず俺自身を殺すことを決めた、あの世界の俺が考えるようなことであり……
「いや考えすぎぃ!」
黒猫の呆れた声で、思考が現実に戻される。
目の前の黒猫を睨みつける。
いつもよく考えろと言うのは貴様ではないか。
「考えろと言ったり考えるなと言ったり、どっちなんだ黒猫」
「適、度!」
短く答えて黒猫は首を振る。
「程よく考えて、程よく考えない。ま、その辺のベストなバランスは黒騎士さんには生涯かけて見つけてもらうとして、明解な答えの出る数学の試験問題でもなし、今回程度のことなら悩むこともないでしょ。気楽に決めればいいの。心の望むまま。自然に。楽に、ね。右に行くか左に進むか、悩みに悩んでどっちも正解、もしくは、どっちも不正解、なんて問題は、現実世界には山ほどあるのだから、ってこの話、二回目か三回目の気がする」
俺も聞いた気がするな。二回か三回。
「超越者め、人の運命を左右するような事を気楽になどと……」
考えるべきことは何で、考えなくてもよいこととは、何だ。
「黒猫よ、眼を治してやればプリュエルは幸せになれるか?」
「知らないわ」
そっけなく。どうでもよさげに。
「予測や予想は出来ても未来予知は出来ない。知らないわ。誰も知らない。それを知りたいのなら、それこそ、プリュエルさんの人生が終わった後にでもご本人の元を訪れて、根掘り葉掘り聞かない限りは、ね」
人生が終わった後に訪れて、か。
それが出来てしまうのがこの超越者たる黒猫だ。
人生どころか存在そのものが終わった奴の元に貴様が出てきて、なんだかんだとあって俺がここにいる。俺はフランスの救国の英雄のまま死んで冒涜の罪を犯さずに済んだ。歴史に汚点を残さないまま終わった。しかも生き返り、ここにこうして世界の秘奥に近い場所にいられるのだから、何が不幸になるか幸福になるかわからんな。
血豆の出来た手で濡れた髪をかき上げる。慣れない農作業で髪の奥まで泥だらけだ。……汚れたのは農作業というか、農作業をしたくないと駄々をこねた時だろうが。
「黒猫よ、俺は貴様の事をな、人全体となるとどうでもよくなるくせに、目の前にいる憐れな奴は放っておけない性質だと思っている」
「まーね、限度はあるけど」
「で、今、俺たちの目の前に目の見えぬ憐れな女がいる。助けたくば俺に決めさせずに勝手に治せば良かったのではないのか?」
「私が? 何で?」
「何でって……ああ、そうか、貴様は前から乗り気ではなかったか」
それは自分のやりたい事じゃないからとはっきりと言っていた。思い出した。
「今でもそうよ」
「今でもそうなのか?」
「目が見えない、という属性を持った人を無条件で憐れむのは違う」
黒猫は歌うように言葉を紡ぐ。
「幸と不幸は表裏一体、何かを得れば何かを失い、何かを失えば何かを得る……」
「祈りの呪文か?」
「違う。目が見えない、という状態の人には、目が見える人には手に入らない何かを得るものよ、それこそプリュエルさんご本人報告の、鼻が良くなったーとか、勘が良くなったーとか、そういうこともあるだろうし、それが技術的なものに限った話でもなく、精神的なものでも、ね。目が見えない事が不幸に直結しない」
「いや、目が見えないのは完全に不幸だろう。普通ではない。生きるのも不便だ」
「それは社会が目が見える人が暮らしていく様にという前提で作られているからよ。この話を続ける気は無いわ、多数の人と違う、普通から外れるという要素は、それだけで不幸に直結しやすい要素でもある」
前足を舐めようとした黒猫は、直前で辞めて足を降ろす。黒猫の足も泥だらけだ。
「黒騎士さん、ひっとして、良い事しようとしている?」
二つぶの金の瞳は、欺瞞を許さないとでもいうように俺の心の奥底を照らそうとする。
良い事、か。
それはそうだろうと追従しかける俺がいる。違うと反論したがる俺がいる。
「どうなんだろうな」
どんな善行も、それを為す者の為にする事。
黒猫にさんざん揺らされ完膚なきまで壊された俺という存在は、今や確かな軸すらなく、曖昧で不安定だ。俺は俺という存在がわからない。わからなくされた。
「祝福には必ず呪いが伴う」
「ん?」
「たとえば、そうねえ……挨拶のない世界って想像出来る?」
「挨拶の無い世界か?」
「そう、朝起きて誰かと会っても、道で誰かと会っても、誰も何もしない、そんな世界」
「なんともそれは、難しい想像だな」
どんな立場の者であれ、ただすれ違うだけの関係。もし存在したならなんて辛気臭い世界だろうか。
「挨拶しない人しかいない世界。挨拶しないのが普通だから、それは普通の状態。けど、ある時、その世界に歴史の転換点が訪れる……ふと、誰でもない誰かが挨拶を始めたのよ。こんにちはーって」
「うむ」
静かな世界に響く、どこか透き通った音色を持つ少女の声。
物語を喋る黒猫の声を聞いていると眠くなっていく。思い出した。俺は疲れ果てている。どこかで休憩せねば。
「笑顔で、気持ちよく、元気よく挨拶する人の真似を、誰もがし始めた。気持ちいい挨拶は、気持ちいいからね。他人が気持ち良くなってくれると、自分も気持ちいい」
「ああ、わかる」
「やがて訪れるのは誰もが気持ちよく挨拶するのが普通になった世界。誰もが楽しくなる世界。前と違う、祝福に満ちたような世界」
普通の世界だがな。
「その結果として何が起きたかと言うと、気持ち良く挨拶しない人に対する攻撃、よ」
「ん?」
「かつての世界では普通であった挨拶しない人は、碌な挨拶も出来ない奴、皆の気分を害す奴、普通でない奴、そんな感じで、攻撃される。そこに争いや憎しみといった不幸が生まれる。無かったはずの呪いが生まれる。これが祝福の裏側。対価。反発。反作用」
貴族であった俺を無視する者はまずいなかったが、それは無視などしたら酷い仕打ちが待っているとの裏返しでもある。廊下ですれ違う貴族を無視する使用人など、打ち首ものの不敬者だ。
「ええと、何の話してたかしら?」
「おい」
ルルの奴め、猫の体を使っていると少し馬鹿になるんじゃないのか? それと凶悪にもなる。
首を傾げる黒猫。睨みつけてやろう。
ええと、俺たちは今、何の話をしていた?
「そうそう、私がプリュエルさんの目を治すのに乗り気じゃない理由。けどどっちでもいいという理由。つまりね、奇跡や祝福がそのまま誰にとってもの幸福になるわけじゃないって話。目が見えないのは普通じゃないけど、普通が良いってことでもない。良いことをやったつもりになっても、悪い結果になっちゃうことだってある。さじ加減が難しいのよ、こういうのは」
「奇跡については今更だろうが」
「今更よね」
プリュエルも、リュミエラや偽ジャンヌについても、もう奇跡の聖女にされてしまっている。本当に何を今更だろう。だが、祝福される、奇跡をその身に受ける、それが自体が原因で不幸になることもあるか。
実際問題、色々と巻き込まれているしな。彼女らの人生はもう普通のものにはならんだろう。つくづく迷惑な黒猫め。
「そうだ、黒猫よ。あの世界の歴史ではプリュエルはどうなっている?」
「あの世界の歴史、ね。朝から本当に拘るわねぇ……」
どうしても気になってしまう。あの歴史。俺が邪悪に染まり処刑された世界、その後の歴史。ルルは嫌がるが未来を覗くようでいて楽しくもあるのだ。
「プリュエルさんは歴史に名前を残さないわよ」
「そうなのか?」
それもやはり俺たちが歴史を捻じ曲げた影響。
ただ、まぁ、そうか。考えるまでも無かった。あの世界ではパリの混乱も無かったのだ。一人残されたプリュエルが弔う死体も生まれない。つまりプリュエルが神聖や善性を発揮させる場もない。
「プリュエルさんだけじゃなく、リュミエラさんも、マローさんやゴウベルさん、他にもいっぱい」
誰かにとってどうでもいい記録というのは、やすやすと失われいくものなのだと、そう続ける黒猫。
この世界ではもう歴史の重要人物になって後世に残ることが確定しているようなプリュエルらも、少し違う世界では歴史に埋もれていくだけの評価しかされなかった。人の運命とはわからないもの。
「ならば……そのままにしておくか?」
目が見えるようになったプリュエルは、性格なんかも変わってしまうだろうか。献身と慈愛を体現したかのような今のプリュエルであり続けるだろうか。
「わからない……」
「だから! もう! 考えすぎだって言うの! パッっと決めなさい、パッっと」
「くっ、いつもいつも俺を悩ます難問を出しおって……」
「そんなに引っかかるとは思わなかったわ……」
俺もだ。
「プリュエルさんの目が見えていたら、最初の出会いで逃げられたでしょうねえ」
悩むような事ではないと悩む俺に、黒猫がボソっと言う。
それは、そうだ。
骨の姿だった俺を見て逃げるなり隠れたりしただろうし、それを追う俺たちでもない。そして何も無く、今も無い。そういう世界になった。
プリュエルが目が見えない事で得たものは、確かにある。
「ううむ…………むむ」
「……ひとつだけ、アドバイスゥー。えっとね、選択肢に悩んだ時はね、将来の自分や誰かの姿を思い浮かべて、その表情が笑顔になっているかどうかで判断するといいよ」
なんとも曖昧な判断基準だ。想像次第でどうとでもなるだろうに。
「ワイン片手に過去を振り返った時『フッ、そういうこともあったな』なんて言って口の端を上げて笑えている自分を想像できるなら、その未来の自分は間違いではない選択肢を選んだってことよ」
「そりゃあ血反吐を吐きながら過去を振り返っている姿よりは正しかろうよ……」
ワイン片手に? フッ?
誰だそれ。俺の真似か? 似ていない。
だが、わかった。
黒猫の言う、どっちでもいいという理由もわかった。
今更、なのだ。
俺や黒猫の行動によって世界は奇跡を知ってしまい、プリュエルもまた完全に巻き込まれてしまっている。眼の治療という奇跡も、あの時、ではなく、今、なのは、もう今更である、という意味を強く持っているのだろう。
わかった。理解した。
ならば、俺の選択は。
◇
轟と唸る風と共に、世界が銀の光で満たされる。
風が止み、人々が眼を開けた時、そこに広がるのは奇跡の光景。
先ほどまでは雑草のみが生い茂っていた畑に広がる、視界いっぱいのレンズ豆畑。
「お……おお……おお……」
誰もが言葉を失い、呆然とした表情。震える手足が反応できない大奇跡を目にした人の心の弱さを表現している。
レンズ豆がゆっくりと成長していくという映像演出は無しだ。調子に乗り出したルルに何か変な作業を割り振られそうだったので。
何だ地獄の缶詰作業とは。下請け映像編集者が締め切りに追われる時の気持ちの詳細とか、知りたくもない。目を開けたら育ち切ったレンズ豆。それで十分。
「あ……ああっ……」
そして。
灰色の世界から色を取り戻したプリュエルが手で顔を覆い、ゆっくりと前にかざす。
その眼を大きく見開き、驚愕している。
「ふふ」
盲目の――かつては盲目であった女僧侶がかざした手の先には、雨の街道に佇む一匹の笑う黒猫。
「改めまして、どうもプリュエルさん、視界の具合はどうかしら?」
奇跡の裏で眼の治療をする医師編とかが始まらなくてよかった。
俺の選択により、ルルが仕事をした。
視界を取り戻したプリュエルが、震える。
「か……神……様……」
言葉にならない感情が、それでも溢れるようにして口から零れる。
「畑だ! 畑が出来ている!?」
「ああっ……神よ!」
「夢か、夢じゃないのか、夢じゃない!」
「本物だ! 本物だぞこれ!」
「奇跡が、あはは、奇跡が……」
「何が……何が……」
呆然から一転。先ほどまでは欠片も存在しなかった左右のレンズ豆畑に反応を始めた人々の中、プリュエルの傍を離れようとしなかった老いた司教だけが彼女の異変に気付く。
「銀の聖女様……もしや目が、目が……」
俺たちと出会い聖女と呼ばれるようになったプリュエルが手に入れたもの。
濡れた銀の髪、傷一つ無い白い肌。そして……
「マロー司教さま……目が、目が見えるのです……ああ、神様、神様、神様」
光を取り戻した女僧侶の瞳には、濁りの一つない、銀の輝き。
すぐにクレマン司祭も気がつき、叫び、祈る。
馬から降りて、プリュエルと同じように祈る白髪交じりの騎士。
異変は周囲に届き、銀色の瞳を持つ女僧侶は騒々しさの渦の中心となる。
違えようのない奇跡と、祝福。
物語的だろう。
実に話になる話だ。
作り物の様に、よくできた、物語。
弔いの為、一人でパリの町を彷徨った盲目の聖女が出会った天の使い。
知らず提供したレンズ豆。
その後も驕ることなく普通であることを願った奇跡の聖女。
そして困窮する聖女のもとに天使が食料救済の手を差し伸べる。
あの時の恩に報いましょう、と、貴女に視界いっぱいのレンズ豆畑で返しましょう、と言って。
そうして盲目の僧侶は視力を取り戻しましたとさ。
ははっ、完璧だ。
演出として完璧だ。
完璧で有無を言わせない、堂々たる奇跡だ。何十年、何百年と語り継がれる奇跡の物語だ。
そんなものをくらった人など……
ああ、そうなる。なるしかない。
雨の降るさなか、誰も彼も泥にまみれて神に祈りを捧げる。感謝と感動。震える心が渦となって大地を振るわすようだ。もはや涙と雨の区別もつかない。
熱狂していく。狂おしいほどに。
神の実在を疑う者など、ここにはいない。
だが。
誰か。
気がつかないのか?
奇跡の前と後で、変わったことはレンズ豆畑とプリュエルの視力だけか?
奇跡の裏側で起きていた事。
俺も一応、働いたのだ。
ほら、お前らから見て俺は一瞬でコートも脱いで泥だらけになって、しかも疲れ切っているぞ。
誰も俺の姿の変化に気がつかないのか?
俺は学んだ。
奇跡の裏側を知るという事は、奇跡の熱狂に混じって感動することも出来なくなることなのだと。
俺もまた何かを得て何かを失ったのだ。
感謝の祈りはちらりとも姿を見せなかった神ではなく。
俺と黒猫に捧げろ。
馬鹿ども。




