113
砂浜に広げられた上等な敷物。そこに向けて倒れ込む。
敷物の下のきめ細かい砂が優しく俺の体を受け止めてくれる。
ここが今日の寝床になる。
心地よい風に穏やかな気温。
体を反転させて態勢を仰向けにする。
「ふむ、星々に見守られながらの砂のベッド」
悪くない。
「波の音は、さながら子供を眠りへと誘う寝物語の調べか……ふっ……何が寝物語の調べか、阿保か、よもや俺の口から軟弱な詩人が口にするような言葉が出てくるとはな。精神は肉体に引きずられる。こんなことを俺が言い出すのも軟弱な女の身体になったことの弊害か……」
「…………」
同じ敷物の上。俺から少し離れて体を丸めて寝る体勢に移っていた黒猫が、その動きを止めてこちらを見ている。
「……なんだ黒猫。その顔は」
口を半開きにして目を見開き、なんとも間の抜けた表情。
「いやね、女の体とか関係ないからー、とか、それ本人の資質だからー、とか、セルフツッコミ乙ーとか、そういうツッコミをね、しようかとも思ったんだけど、すんでのところでやめたらこんな表情になっちゃった。なんか黒騎士さんが面白そうな成長をしそうだから、このまま触れずに見守っていようかとね……今後の成長に期待」
「なにを期待している」
具体的に何を期待しているのかは知らないが、全力で拒否したい。
涙もろいのも女々しいのも、この女の体がすべて悪い。俺の精神に多大な影響を与えている。違わないはずだ。男だった頃の俺はもっと、もっと、こう……うむ、よく思い出せないが、それでも、もっと、確たる自信があり、貴族であり戦士であり、堂々としていた。うむ。凛としていた。それを口にすると馬鹿にされそうだから言葉にはしないが。
男女の身体の問題ではなくとも、俺の中に確かにあった常識、拠り所、揺るがぬ大地とでもいうべきものを粉々に打ち砕いたのは貴様ではないか、人の言葉を喋る黒猫、ルルよ。
ようやくゆっくりとした時間が持てて、過去を振り返る心の余裕も生まれてきた。
両腕を組み、頭の下に持ってきて枕にする。また流れ星だ。
「黒猫よ、流れ星という現象は……いや、何でもない」
聞きかけて、止める。
凶兆だの人の運命がどうのこうのと、やはり人によって好きなだけ言われている流れ星という現象。多くの者にとっての神秘であり、俺も昔から謎に思っていた。それもルルに聞けば明確な答えはあるのだろうが、今は聞きたくない。理由も理屈も、今はいい。今は何も考えず休みたい。心地よいまどろみの中に溶けていきたい気分。
神秘は神秘のままでいいのではないのか。謎の解明は骨が折れる……
いや、神秘を明らかにするのが知るということだ。学問とはそういうもので……
心の中で相反する気持ちが揺れる。
揺れに揺れ。
俺の心は、風に惑う一輪の花のようで……
「女の身体がいかんのだ。女の身体が……」
「はぁー。やれやれ黒騎士さんや、君はちょっと贅沢すぎやしないかい? そんなに可愛い姿になれて、一体何が不満なの?」
「姿などどうでもいいわ! 俺は最初から見た目の可愛さなど求めておらんっ!」
見た目が骨なのは論外だけどな。
「そういうことではない。向き不向きの問題……女というのは学問に向いていないのではないのかと思っただけだ。学者や哲学者など、みんな男だ」
「それはちょっとばかし偏見の成分が多めの意見というものね、黒騎士さん。そういうのは社会システムの不平等からくる結果としての違いでしかないわ。女性と男性で社会の中で求められる在り方の違いによって生まれる差。男はこれこれ、女はこれこれ……そうであるべき、なんて社会風潮はね、それはもう強固な枷となって人の行動を縛りつけるのよ。では何故そういう風潮が生まれるのかというと、女性は卵子で待ちの姿勢、より高品質なものを求める性質があり、男性は精子で動き回ることが……っと、これは酷い脱線ね。長くなるし、話を戻すわ。……ええと、とはいえ男と女では脳の構造がちょっと違うから、行動も考え方も得意分野も変わるって部分は当然。向き不向きは当然ある。当然なんだけど、こと学問に関わる能力、学習能力に限って言うのなら男と女で大差はないってのが実情よね。要は頭の使い方。頭の良い悪いじゃなくて、パラメータをどこにどうふるかという問題。好む使い方に差はあれど、能力においてはそうではない。頭の使い方にしたところで、そういうのは学習意欲、つまり目的意識と動機づけね、学習環境の違い、つまり学べる機会があるかどうか、学びを生かす場があるかどうか、そういう後付けの理由こそが、ずっとずっと影響の大きいもので……」
「…………」
……質問をする気はなかったが、つい質問のような形になってしまった。これは俺が悪い。うかつだった。俺の頭の中はもう消化しきれない情報だらけで飽和状態だ。このまま俺の頭が”ぱーん”ってなったらどうしてくれる。
「……医者も男しかいないな」
意図して話を変える。
「ルーアンの医者に預けた少女を連れてくるとか言っていたな? 必要あるか?」
「必要あるかないかで言えば、ないわねえ。まぁそれを言い出すと、何もかもが必要ないんだけどね。劇にしろ疫病対策にしろ、もう立ち去ることを決めた私たちが、この世界でする必要のあることは、ない」
「それは……そうなんだが」
無駄。無駄であり。遊び。
シャルル王から話を聞きたいという俺の願望も。きっと。同じく。
「だから後は気分の問題。私たちの問題。黒騎士さんの心の問題。目に見えない小さい物を見る道具を作れやー、なんて無茶ぶりの使命を女の子に与えておいて、面倒になったからほったらかしは、ちょっとどうかと思わない? 後で気にしない? 別れの挨拶くらいはしておくべきでは?」
「まぁ」
そこをつかれると弱い。
俺自身、黒猫の無責任をさんざん責め立てた口だ。少女は俺が狼から命を助けてやったのだからどうとでもなれというのは無責任なのだろう。
俺が自分を無責任だと認めるのも、救うだけ救って俺を放り出そうとした無責任な黒猫と重なるような気がして辛い。俺は黒猫と同じではないと言いたい。言い切りたい。
「与えられる使命……天命か……俺は余計な事をしたのか? 一人の少女の人生……運命を、おかしな方へと追いやってしまったのでは……」
「そこはまあ、いいんじゃないの? 別に気にする必要も無いでしょ。それほど変な事を言われたわけでもないし、真面目に受け取るかどうかもその子次第。その女の子の人生は女の子のものなんだし」
さも事もなげに、黒猫は言う。
腕を舐めながら、言う。猫みたいだ。猫なのか、今は。
「案外、その女の子、歴史に名を残す偉人になるかもよ……って……というかだねえ、黒騎士さんや、その運命とやらについて悩むのは、もーちょっと早い段階で消化すべきイベントだったんじゃないのかと、遅すぎやしないかと。黒騎士さんが登場しなかった歴史と比べて、どれだけの変化が起きていると思ってるのよ」
「変化……歴史……」
俺が未来から来た俺に殺されるという時点で、世界は大きく変わった。
あるべき未来へと、進まなくなった。俺は罪なき少年たちを次々と殺すことはなくなった。代わりに……
「本来の歴史を捻じ曲げた、か……大それたことをしでかしたものだ……黒猫よ」
「え、私!?」
「貴様以外に誰がいる」
驚いた、みたいな顔をしているが、俺が驚くわ。諸悪の根源め。
みだりに歴史に介入することは許さないなんていう意思を持つ騎士団みたいなものが存在していたら、真っ先に槍玉に上がることだろう。
復讐を目論んだ俺も、罪の片棒を担く同犯者で……
「ルーアンの町もパリの町も、貴様が余計な事をしなかったら平穏のままだったのだ」
本来辿る歴史とはそういうものだった。俺が邪悪に身を染めた世界では。
「俺を……」
――死んだままにして復活などさせなければ。
その言葉は、声にはならなかった。口から出すべき言葉ではないことを、知っている。それが間違いであることを、知っている。
言葉は力を持つ。
それは言ってはならない言葉。
責任を他者へと追いやる言葉。
吐いたが最後、俺と黒猫の関係を壊す言葉。
選択肢は常に俺にあったのだ。
最初の最初。闇に落ちた俺が願ったのがジャンヌの救出であったのなら……
もしそうであれば、そういう世界も、あったのだ。
生きたジャンヌと共にあれる世界が。
それを考えると、俺の腹の中に鈍い鉛でも詰め込まれたかのような気分になる。
俺は罪人ではないのか?
罪人が、のうのうと、生きている。生を楽しんでいる。それは許されることなのかと。
俺が骨として蘇ったのなら蘇ったで、森の奥でひっそりと暮らすことも出来ただろう。いや無理か。骨だからな。無理だ。何だ骨って、思考を何週も重ねた今でも言えるわ、阿保か。
「……と、とにかく、俺も少しは責任は感じているという話だ。俺のせいでいくらか変わった歴史もあるのだろう。もう少し考えて行動すれば、本来の歴史からかけ離れることもなく……」
あの時、もし、離れていこうとする黒猫を引き留めなかった場合の俺がどういう運命を辿るかなど、想像もしたくない。想像もしたくないが、今より酷い状況になっていることは確実だ。何が起きたのかわからないまま、人を恐れ、人に恐れられ、激情のまま人を殺し続け、そして世界から排除すべき魔物として人に追われる未来が……
「……お、恐ろしい……罪深い……」
「あー、それこそ黒騎士さんが責任を感じる必要は欠片もないわねえ。まったくの見当違い」
「あん?」
「本来の、なんて形容詞を付けて言えるのは、その歴史を知っている人だけよ。この世界の本来の歴史は、今まさに紡がれている最中なんだし」
「それは……」
どうにも責任逃れの詭弁のように感じる。上手い反論は出てこないが。
「それにね、ほんの少し観測しただけでも世界の歴史が激変することは、もう確定しているのよ」
「?」
まったくわからない。
「どういう意味だ? わかりやすく、簡単に説明してみろ。難しい言葉を使わず、短くな。ほら」
「どんな態度なの!?」
先ほどまであった心地よい眠気が後ろ髪だけ残してどこかに消えて行くのを感じて、少しだけ切なくなっているのだ。あのまま寝られたらよかったのに。
「まったく、その無駄に偉そうなのを変えていかないと、いつか問題を起こすわよ……ええとね」
黒猫は起き上がり、あまり猫らしくない動作で首を捻る。
「あるところに仲の良い夫婦がいたとしましょう」
「何が始まる? 寝付けぬ王族用の寝物語でも始まるのか?」
「千夜一夜! じゃなくて、いいから」
俺も体を横にして黒猫に向かい合う。腕を枕に、話を聞く体勢になる。
猫の金の瞳が星明りに揺れて輝く。
「その夫婦は本当に仲の良い夫婦でえ、今晩は頑張って子供を作っちゃおうかなーなんて考えている夫婦です」
「下の話か? 下世話だな」
「違うわよ! いや違わない? まぁいいから茶化さないで聞いて。相槌なら可」
「ああいいぞ」
「一切合切、何も干渉が無い時の世界を、一応の意味で本来の歴史としましょう」
「うむ」
「夫婦がイチャコラした日から……おせっせした日から数えて十月十日」
「なんだ、おせっせとは。男女の”まぐわい”の事か?」
「わざとぼかした言葉を使ってるんだから配慮して! 話が進まないから! とにかく、本来の歴史では、その夫婦の間に男の子が生まれたとしましょう。男の子ね。男の子よ、覚えておいて。夫婦の間に男の子が生まれた。いい?」
「いいぞ」
「生まれてくる男女の性別の決定は、イチャコラしたその夜……せっせとおせっせした時。その時に決まる。これも重要だから覚えておいて」
「気に入ったのか? おせっせ」
「……でね、そのおせっせの夜、その行為をする前、たとえば朝にね、本来の歴史では無かった事態が起きるとしましょう。たとえば私のような謎存在がふらりと夫婦の前に現れて、夫婦と目が合って、軽く会釈する。したとする。ついていけてる?」
「うむ」
問題ない。自分の事を謎存在と言えるのはどうかと思うが。
「それだけ。たったそれだけのこと。あとは何もしない。何も触れず、何もいじらない。謎存在はさっさと家に帰った。時間と空間を超えてきた謎存在が時間と空間を越えて家に帰った。干渉をしたのは、ほんの一瞬だけ。夫婦と目が合った、それだけ。たったそれだけのことでね、その夫婦の間に生まれてくる子供が……その日の夜、おせっせして十月十日後に生まれてくる子供が……男の子じゃなくて女の子になったりするのよ」
「は? ……は?」
一気に理解が出来なくなった。どうしてそうなる?
「男が、女に? なる?」
「そう、男が、女に」
「どういう、理屈で……そんな……」
変化が起きるのか。
「性教育……じゃないわね……これは保健体育の領分? まあいいわ。こほん。人の生まれてくる仕組みが、そんな感じになっている」
「そんな感じとか……」
それじゃ何もわからんぞ。
答えが来る前に、身体を起こして考え込む。
謎存在と目が合っただけで夫婦の間に生まれてくる男が女になる理由、理屈……
うむ。手がかりすらない。神による運命のいたずらとか、何か変な魔法か何かとかか?
そうではない……
いつもいつも、ルルの語る話にはそんなものは登場しない。神も魔法も、出番は無いのだ。
「せっせとおせっせして、女性の胎の中で卵子と精子が出会い、巡り会い、子供になる……でね、女性の側、女性の胎の中にある卵子、それには生まれてくる子供の性別を決定する要素は無いの。子供の性別を決定するのは男性の側の精子……せーしちゃん」
言い直すな。変わって無いし可愛くもなっていない。
「おせっせの時に男の人のあそこから出る白いの。アレの中にはね、目に見えない小さい細胞がいっぱいいるのよ。黒騎士さんが思い浮かべる数字の、もっともっと多くよ」
また目に見えない小さいものか。どれだけのものを人は見逃しているのか。
「つまり、せーしちゃんが山ほど。そのせーしちゃんは、実はそれぞれ特徴が違う。同じ男の人からのせーしちゃんでも、それぞれ違った情報を持つ。同じ夫婦から生まれてくる兄弟が、似てはいても違う理由の半分が、それ。卵子も卵子でそれぞれ違うから、その組み合わせね。で、大きく分けて、子供を女の子にするせーしちゃんと、子供を男の子にするせーしちゃんがいる。約半分半分で」
猫を見る。ふざけている様子は無い。
「で、これからは、おせっせした日の女性の胎の中で起きる話になる。せーしちゃんと違い、卵子は一個。デーンと待ち構える卵子……卵子たんに、いち早くゴールするために、最初にタッチするために、抱きしめキスをするために、せーしちゃんによる、卵子争奪レースが開催される……大量にいるはずのせーしちゃんでも、卵子たんと一つになって一人の子供になるために必要なせーしちゃんは、たったの一つ。たったの一つしか必要ない。そのたった一つになるために、せーしちゃん達は懸命に尻尾を振って頑張る」
「…………」
ついていけてるか、俺。
まだ大丈夫。先ずはそういうものだと、受け入れる。俺の中には無い知識なのだから。
頭の中で組み立てる。
それは城攻めを行う軍隊のようなものだ。
籠城した城。城の中にいる討ち取るべき敵将は一人。味方は大勢。敵将を討ち取り栄誉を受けるのは早い者勝ち。一人のみ。だから味方はすべて、栄誉を奪い合う敵となる。
旗を振って突撃突撃と叫ぶ聖女の姿が思い浮かんだ。
心の中によぎる感傷は郷愁とでも言うべきものか。
「卵子たんは厳しいので、最初に辿り着いたせーしちゃんしか受け入れない。そういう仕組みになっている。その卵子たん争奪レースは、とんでもなく過酷で苛烈なものになる。勝敗は常に揺蕩い、変化する。身じろぎひとつ違うだけで、レースの結果が違ってくるほどに」
「男になるはずの結果が、違ってくる……?」
激戦の中、ただちょっとした運命の違いで、敵将の首を取る者が、変わる。
名声を得る者が、違う。
それは兵士の数だけ可能性があって……
「そう。男の子が女の子になると言ったのは、ただの一例であって、実際は男の子のままだったりするかも、けど……それでも……違う特徴の子供になるの。なって、しまう。本来の歴史で生まれるはずだった子は……もう生まれない」
それがまるで怖い話かのように、猫は語る。静かに、厳かに。声を潜めて、波音に紛れるかのように。
実際に、怖いのか。これは、怖い話を、しているのだ……
「…………」
ただ目が合っただけで、生まれてくるものが、生まれてこないという……
「子供の性別が違えば、その子に付ける名前も、なにもかも、全部が全部、違っていく……少し、ではないわよ? その子の人生、その子の周り、それがごっそりと、変わる。わかる?」
「ああ……」
「ごっそりと変わった人々が……また少し関係を持っただけの隣人に影響を与える。隣人は隣人に影響を与え……あっという間に、瞬く間に、世界の全ては、変わる……」
「…………」
「病が感染していくように……疫病、どころの話じゃないわね。その変化はもっと苛烈に、もっと静かに、誰に、気づかれることもなく進行していくのよ……」
猫が俺を見る。俺が猫を見る。見ている。見ているだけだ……見ているだけ……
「数十年も経てば、本来の歴史にいた人々の顔ぶれは、まったく違うものになるでしょうね」
黒猫が笑う。いかにも楽し気に。口を歪めて。漆黒の闇に浮かぶ金の月のような瞳を、歪めて。
「まったく違う世界になることでしょうね……おしまい、さ、寝ましょ」
「寝れるかっ!」
寝れる雰囲気ではないわ。
寝る前になんていう話を聞いてしまったのか。
仕組みが理解出来てしまっただけに、より怖い。
殆ど何もせずとも、これほどまで簡単に世界は変わってしまう。世界は、それほどまでにあやふやで、曖昧なものなのかと……自分は……生まれてきた自分の男女の性別すら、ただの気まぐれ、ただの結果で……
「怖い。なんぞ恐い話だぞ」
「怖くないって。だから、気にする必要はないからねって話だったでしょ。安心していーよと」
「安心がどこにある!? 生まれてくるはずの子供が生まれないなどと……」
「生まれてくるはずだった子は生まれないけど、生まれない子も生まれてくるからプラスとマイナスでちょうどいい塩梅になる、そんな感じで納得しなさいよ」
「納得とか!」
俺がどうのこうのという話じゃない。
黒猫に目を付けられた時点で終わりだったのだ。手遅れだったのだ。この世界にとっては、もう。
だが、それを理解出来る者はこの世界にはいない。俺たち以外には、誰も。誰も世界がおかしくなったなどとは、思わない……
本来の姿を知らないから……
「これを寝物語に選ぶには性根が悪すぎるぞ、黒猫……」
軽い気持ちで聞くんじゃなかった。
ああもう、また余計な知識が増えた。考えることが増えた。ぱーんなる。
「この世界は……俺は……男が女に……」
「あー、もう、考えすぎ禁止。本当黒騎士さんたら、適当な所はとことん適当に出来ているのに、繊細な所はとことん繊細なんだから。未来なんてものは、そんな程度のもの、だから、今を大切にして生きましょうねっていう良い話だったでしょ」
「問題があるだろう……問題はないのか……」
「とくには。実際問題、事件とか発見した人とか、歴史や図鑑に書かれる人や物の名前もコロコロ変わっちゃうから、名前を憶えようとする気が無くなっちゃうのよねえ。それくらい?」
「そうか……貴様が名前に無頓着なのは……」
そういうことだったか。
また一つ、余計な知識が増えた
「そんな些細な事より、黒騎士さんにはもっと気にすべき事があるはずよ」
「そんな些細な事ではないわ……何だ?」
黒猫は俺に近づいて来て横倒しになる。手を伸ばせば触れられる距離。
「猫愛し係の仕事を全然してないでしょ? さあ、私の体を撫でなさい」
「はあ?」
「うわぁ、すごい顔。嫌そうが伝わりまくる」
表情に出た。
「猫愛し係とか……意味があるとは思えん」
「いーから! ほれ、愛でろ」
「ぬ、ぬう……」
無防備に腹を見せて横たわる黒猫。
そこに手を伸ばしかけて、やめる。
猫には触れずに、両手を放り出して仰向けに寝る。
「くっ……殺せ」
「何がどうなってそうなったァ!?」
猫を撫でてやることに抵抗は無い。だがその中身がルルではなぁ。
しかも言われたまま撫でるなど、何か勝負に負けたような気がしてならん。
そういうのがなんだかんだと心の中で渦巻いて、そうなった。
「ほら、私とリュンヌちゃんは夢で繋がっているって言ったでしょ。首を斬りかかったのは手違いであり、黒騎士さんは無害な存在であり、仲が良いんだよってところを、夢で伝えて上げるの。嫌う相手とか、復讐の相手とか思われたくないでしょ。私がリュンヌちゃんの中にある黒騎士さん嫌いの心を抑えている間に! さあ! さあさあ!」
「はぁ、やれやれ……」
俺に罪悪感を押し付けおって。
面倒だが、凄まじく面倒だが。
再び体を起こし、猫の腹に手を当てる。
「うりゃーーーーっ!!」
「んな!?」
そして引っ掻かれた。
「いッ、痛あーーーッ!? なっ、何をする貴様ァーッ!?」
腹に触れた瞬間に猫の四肢が右手に襲い掛かり、爪を立てられた。
咄嗟の事に驚いたせいで腕を引っ込めて、より傷口が酷くなった。
見ると幾つもの線状に走った猫の爪の傷跡に沿って、いくつもの血の玉が滲み出てくる。相当深くいった。なんだ。何が起きた。
「あはははははっ! 『今だ! ヤっちまえ!』という心の中の獣の叫びに抗えなかったわ。あははは」
「き、きさま……」
言葉を失う。
俺からの反撃を恐れたのか。敷物から飛び去った黒猫が砂浜を踊るように走って逃げていく。
なんだ。本気でなんなんだ。
「おのれ……おのれェ……」
「そんな愛らしい顔で凄んでも謝りませんー。恐くないものー。あはは」
笑っている。笑っていやがる。
砂浜の上を楽し気に右に左に移動しながら、俺を見て笑っていやがる。
俺の方は血管中の血液が頭に登って来たような眩暈を覚える。
「……ようし……いいだろう……どちらかが死ぬまでの……決闘だな……黒猫ォ……」
「まぁまぁ黒騎士さん、抑えて抑えて。さっきのでいい事も起きたのよ?」
「……ふ、ふふ、殺す前に聞くだけは聞いてやる……殺す、殺す……」
俺も立ち上がり、黒猫との距離を詰める。
逃げられない様に。慎重に。一歩ずつ。
「リュンヌちゃんの心がね、こうね、……スッとした。そんな気がする。あと100回くらい同じこと繰り返せば黒騎士さんへの心の隔たりも解きほぐれるんじゃないかしら?」
「付き合ってられるかっ!」
くっ、距離が詰まらん。黒猫は俺の間合いの外を絶妙に察して逃げ回る。
俺の方がこらえきれなくなって、ついに駆け出す。だが奴も速度を上げて逃げる。逃げる猫を追う。
あと一歩。あと半歩。
「剣をよこせっ! 痛い、すごく痛いぞ! 見ろ! 物凄く血が出始めた。治療しろ、いいから治療して剣を寄こして俺に斬られろ!」
「あははー! 忘れたの? 黒騎士さん? ちゃんと前もって宣言しているでしょ。馬鹿やって付いた傷は癒さない、と」
「馬鹿をやったのは貴様だ馬鹿ーーーーーッ!」
だが追いつかない。
逃げ回る黒猫を追って、砂浜の上を何度も何度も周回していく。
星々が照らすだけの誰も観客がいない無人島での追いかけっこは、いつまでも続く。
寝るどころの騒ぎではない。
馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しさの極みだ。
壊れた常識が破片となって、新しい常識と混じり、再び俺の中の常識となっていくようだ。
いかにも大それたような深刻な事態も、大して深刻なものではないのだと。
お前の思い悩むことなど、無きに等しい些事なのだと。
大切なものは、それでも残るのだとでも、言って聞かされるかのように。
悔しくて。なさけなくて。泣けてくる。
ああ。
誰聞くこともないが、これだけは明確にしておかねばならない。
今、俺の目に浮かぶ大量の涙は、普通に痛いからだぞ。




