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「見る、聞く……つまり、知る事。ただ知る事の危険性が最大限に高まるのはもう少し時代が進んでの事。時代、と表現するよりは、重要なのは道具の発明の方ね。道具の発明と、それを受け入れる土壌。そこに居ながらにして、遠くの情報を、誰でも簡単に得ることが出来る手段が確立されてのこと」
「ふむ」
「それは映像付き、音声付きでの情報になる。万人に、瞬時に、まったく同じものを見せる事の可能な機器の登場。一方的に、徹底的に。これはね、言語として、話として聞くだけなんかよりも、ずっとずっと強力な力を持った代物なのよ。なにせ信用が違う、説得力が違う、黒騎士さん、私が君にしたようにね」
「そうだな、わかる」
「で、新しい技術には、新しい問題が生まれるもの……ここで問題になる事。大衆に向けた情報を取り扱う時に、どんな物を取り上げるか、という問題。いい? 黒騎士さん、人はね、何も無かった事、なんてものは、それに求めたりしないのよ。当たり前よね? 何かがあることで、ようやく情報の配信が始まる。そしてそれは著しく偏ったものになる。見も知らぬ誰々さんが、そこはかとなく幸せになりました、とか、平和で穏やかで平凡な日常を送りました、なんて情報は、要らないのよ。そんなものは求めていない。それは、受け手である自分の幸福、不幸に直結しない。何でも知りたがるのが人の性というものだけど、そういうちょっと探せば身の回りにごろごろと落ちているものに人は価値を与えない」
「ふむ」
「人が求めているのは……求めてしまうのは、自分の得になりそうな情報、そして不正や、悪事、事件、事故、戦争や天災や飢餓……見も知らぬ誰かの不幸、そうした情報、そういうものを、求めてしまう。変化の情報、しかも、それはおおむね悪い方への変化……。状況次第で自分や家族の死にも関係するような情報を、とても有益で価値のある情報だと、思ってしまう。見て知って、学習しようとしてしまう」
「ほお」
「本来なら遠くの誰かであって、自分の人生には生涯関わることもないような人たちの身に起きたことを、さも、ご近所さんの身に起きたかの様に、受けとる。全くの他人の身に起きた不幸を自分に置き換えて、考えてしまう。そして恐れてしまう、よく考えもせずに受け入れてしまう。いざその手の不幸が自分の身に降りかかった時に対処できるようになっておくために、備えるために、知ることを、努力する」
「ああ」
「当然、大衆向けの情報を取り扱う者は、そういうものを多く提供する。人の不幸を、身も知らぬ、誰かの不幸を」
「うむ」
「これはね、怖い事なの。何が怖いって、大衆向けに情報を扱うということは、そういうものなのだと知らないままなのが怖い。自分の知らない色々な事を教えてくれてありがたいなぁで終わってしまうのが、怖い」
「ふむ」
「人は他者の感情を複製する……複製して、自分の物に出来る。そういう風に、自分で自分に嘘をつき、自分で自分を騙すことが出来る。食べ物とか身の回りの道具とか、形のある実際の物品を複製するのは手間だけど、形の無いもの代表である所の感情の複製は簡単で、効率がいいのよ。生存に有利で有効。これは、ある程度のまとまった集団で生活する上で、上手で円滑な人間関係を築くためにも必須となる技能だったりするのだけど。これが、数人とか、せいぜい数百人とかの狭い範囲の話なら、感情の揺れにも限度はある。だから問題も限定的。それでよかった。それまでは。ただ困ったことに、これから人類は世界中と繋がることになる。世界中の不幸を、収集することになる」
「ほう」
「確りとした個人の主張、在り様なんてものも、個人個人で見ればまとまりがないように思うけれど、人類、なんて言葉で乱暴に括れば、結構いいかげんで、実際にはてきとーな感じに仕上がっているらしいのよねえ。旗振り役が右を向けと言えば多くの人が右を向くし、左を向けと言えば左を向く。周囲の多くの人がそっちを向けば、じゃあ俺も俺もとそっちを向く、そういう風に、人類は出来ている。いいかげんで、適当。つまり導き手の好きなように誘導出来る。真実かどうかなんて、二の次、三の次。説得力さえ、あればいい」
「そうだな」
「そんな旗振り役を一手に担う者は、当然、当たり前にして、然るべくして、巨大な権力を持つようになる。生まれ、そして育った権力が最優先で行う事、それはね、自己保身よ。自己正当化で、自己肯定」
「うん」
「自分たちは間違いなく公平で、正義で、平等で、掛け値なく善の側であり、愛と秩序と平和の為に欠くことの出来ない存在、世界の為に良い事を行うものである、と、言い始める。ふふ、全知全能とか絶対無敵の最強系主人公とかと同じく、公平も正義も平等も、人の頭の中、人の創作した物語の中にしか存在しないというのにね。そういう耳障りの良い言葉は、武器になるからね。正義の側の俺たちに敵対するなんて、貴様は悪の側だ、とかね。人は正義が好きだから。正義の側にいると、安心するから。正義と悪が戦えば、最後には正義が勝つってことを知っているから。時代が違えど場所が違えど、正義と言うものは人の王道……。当たり前で正しい。そういうものだから。そういうふうに人の世界は出来ている。正義が悪に勝つのは、決まりきったルールなのよ」
「…………」
「……で、簡単に誘導されちゃう大衆と、不幸を扱う事こそが本分なのに自分らは正義だと言えちゃうそれらが強固に結びつくと……世界は滅びます」
「なんでだ」
視線を下から上に上げて、突っ込みを入れる。
今の俺の着ているものはティーシャツとジーパンとかいうものらしい。
夜着に女物のドレスを着せようとするルルに女物は断固として拒否すると言ったらこれを渡された。ティーシャツが白でジーパンが青だ。体の線が見事に浮き出ているので人前には出にくいが、まぁ動きやすい。ルルの奴も似たような恰好。ただし、あちらは黒の上下で揃えている。
「なーんか、話も聞いてないっぽいし、もういいかなーって」
最初は何だったか。ラ・イルとの決闘の前に言われた、ラ・イルと俺は別人だと念を押されたことについて、それは重要な事だったのか? と聞いたら始まった話だった。
自分から聞いておいてなんだが、中身の内容は見事に右から左に抜けていった。最後だけは、しっかりと拾ってしまったが。
「いやすまん。話が入ってこなかったのは事実だ。だが最後、なんで最後は世界は滅びる結論になる」
この話の流れ、前にもあった気がする。簡単に滅び過ぎだ、世界。
「何にでも対立を煽って争いを起こして、なんなら地球の裏側からからでも不幸を持ってきて、さあ怒れ、さあ怯えろ、さあ罪悪感を覚えろ、さあさあさあ、ってやられ続けているとね、人はうんざりしちゃうのよ。頭がぱーんってなっちゃう。頭ぱーんになっちゃった状態の時に、世界を滅ぼせるくらいの大変な技術を持っちゃってると、ついうっかり使っちゃうのよねえ」
「未来の人類は馬鹿なのか」
将来、世界を滅ぼせるほどの技術を人が持つという段階で、もう俺の手には負えない。想像力の限界というものなのだろう。
「馬鹿っていうか、まぁ、そこには人がいるだけよ。この時代の人たちともさほど変わらない人たちがいて、扱う道具が違う、その程度の違い」
片手に持つ火ばさみを打ち鳴らして少女は続ける。
「人が幸せになるのを見ると自分も幸せな気分になる。人を気持ちよく笑わせると自分も気持ちいい。そういう感情の動きはね、人類の標準装備なのよ。そして誰かの不幸は自分を不幸な気持ちにする。嫌な気持ちにする。人ってのは結構いい加減に出来ているので、気分次第で健康まで左右したりするのよ。不幸は人を不健康にする。それは目からうつる病気とも、あるいは毒とも言い換えてもい。毒でもね、少量なら分解も排除も出来るように出来ているのが人なんだけどね、許容量ってものはある。頭ぱーんにならない為には、大衆向けの情報とはそういう性質のものだと知っておくこと。鳥が空を飛ぶように、魚が水の中を泳ぐように、それは世界中の不幸という毒を複製、拡散していく機器なんだって知った状態で利用すること。何より大切なのは、他人は他人だっていう当たり前の意識をひとりひとりが持ち続けていること。他人の不幸まで自分が背負い込むことはないわ。他人の怒りにまで自分が責任を負うことはしなくていいって話。地球の裏側で不幸になっている人は、自分とは別人なんだって意識を、ちゃんと受け手である個人個人が持てるようになっておくこと。誰かの悲しみや怒りを共有するばかりじゃ、世界は悲しみや怒りで満たされることになっちゃう。悲しみや怒りだけが共振し、増幅し、満ちていく……これはね、人の不幸に知らんぷりしろとか言ってるんじゃないのよ? 将来の不幸に備える心構えや、他人を助けたいという意識が持てる、なんてことは、まぁ良い意識よね。美徳とか言われるもの。身近な誤り、不正や悪事を放っておかないってことも、きちんと大切。だから重要なのは、目の前に出された情報という食材を、自分がどれくらい摂取していいのかどうか、毒があるものかどうか、毒なら毒で、どういう毒であり、どれくらいなら食べていいのかどうかを、個人個人で判断出来るようになっておくこと。それはまるで、病気に対して、免疫耐性を付けるように……聞いてないねえ」
聞いてなかった。右から左だった。驚くほど頭に入ってこない。
聞いて理解しようとする努力はしていたが、視線がどうしても下へ向いてしまう。
「そろそろいいんじゃないのか?」
視線の先。
俺の目の前には、砂浜の上に作った石のかまど。
良い感じに熾火になった状態の焚き火と、その上の網に乗っかる海の食材たち。
タコでありイカでありエビであり大ぶりの貝である。
無人島の闇の中、赤々と熱せられた火処の上の食材に照明に当たって、赤や白が、映える。
先ほどからのこと。赤熱した炭の上に食材から出た汁がしたたり落ちて、木材の弾ける音と静かな海の波音を背景に軽快な音を奏で続けている。汁が落ちた所から白煙と、えも言われぬ良い匂いが立ち昇り、鼻の奥へと侵入して来ている。
食に対しての興味はさほどないはずの俺だが、これは……たまらん。
音と匂いで食欲が刺激され口内に唾が溜まる。直後、唾が溜まって飲み込む音と、腹の鳴る音が重なる。
もう十分に火が通っている。それ以上は焼き過ぎではないのか。
「まったく……はいはい、熱いから気を付けてね」
片手に缶ビールを持ったルルの奴が苦笑しつつ、もう片方の手に持った火ばさみを器用に使い、十分に焼けた食材たちを俺の目の前の皿の上に乗せていく。
皿の上の海の食材たちから白い湯気がこれでもかと昇っている。エビも貝も大きい。特に貝。これほどの大きさの貝は知らない。そして、いかにも熱そうだ。
はやる気持ちを抑えつつ手で持てるようになるまでしばし待つ。
「この貝は何て言う種類だ?」
「さあ? なんてったっけ……」
自分の皿にも貝やエビなどを盛り付けながら適当な返事を寄こす。こいつが名前に無頓着なのは食材に対してもか。
ルルの奴が網の上に次の食材たちを乗せて焼き始めるのを無言で見守る。もう話をするのは止めたようだ。俺が聞いてないからな。すまんな。今はそれどころではなくて。謝罪は心の中でだけ。
まだ熱いだろうが、待ちきれなくなって蓋の開いた貝の端を素手で掴む。
「熱っ」
零さぬように慎重に口に持って行き、貝から出た汁を一口、啜る。
まるで雷で打たれたような衝撃。
まるでというか、骨の姿の時に実際に雷に打たれたことはあるが、ルルにやられたことはあるが、それに近い衝撃が頭の中に走る。旨い。文句なく旨い。塩も何も、余計な味付けは何もしていない、ただ海の食材に熱を通しただけのものが、凄まじく旨い。
照明に照らされ宝石のように白く輝く貝の身。滑るようにして口に入ってきたそれを噛みしめる。噛みしめる度に溢れる汁が口内を満たす。熱くて、旨い。熱くて、旨い。
「なんだこれ、旨いな。旨い。旨いぞ、ルル」
人は衝撃を受けすぎると語彙力を無くす。アリセン少年や偽ジャンヌを笑えない。
「ふふ」
満足気に口の端を上げて缶ビールを煽るルル。
こうなると俺も酒が欲しくなる。
「ビールを……いや、なんでもない」
「欲しいの? さっきは断られたけど、いる?」
「いや、禁酒すると決めたのだし、いや……」
エビの殻を剥きながら懊悩する。
鉛毒入りワインの件で、もう酒はやらないと決めたし、実際に勧められても断ったが、これは、ううむ……
「そうねえ、好きにするのがいいけど、一つアドバイス。自分の決めた事ならば、自分で覆してもいい。ふふ、正解なんてものは、その時々で揺れ動くものなのよ、楽にいきましょ。楽に、生きましょう」
「そういうものか」
「海鮮バーベキューにキンキンに冷えたビール、さぁていつまで耐えられるかしら。君の選ぶ道よ、君が決めるの」
「……正しい道を知っていても、そこを進むかどうかは自由、だったか……ううむ……いや……」
「ふふふ、人を悪の道に誘うのは楽しいわねえ」
「悪魔か」
悪魔め。
結局、二本目にいった悪魔が美味そうに喉を鳴らしながら飲む姿に負けて、俺もビールを貰う。
悪魔の誘惑を振り切れなかった……意志薄弱な俺を笑え。
まあ? 禁酒しようというのも特に考えも無くその場の思いつきのようなものだったからな。よく考えての決定ではないので、良しとしよう。
手には冬を切り取ったかのような冷たいビール。口の中で泡が弾け、喉を潤す。これがまた香ばしく焼けたエビと実によく合う。なんだこれ、これが悪徳の味か。くはぁ。
「貴様は食べんのか?」
ルルの奴は焼くのとビールを呷るので忙しいのか、一切、手を付けていない。
「冷ましているのよ、猫っていう生物は、ほら、猫舌だから」
「もしかして猫の姿になって食べるのか? いいのか? さっきは猫にとっては毒だとかどうとか言っていたが」
「その手の毒は火を通せば大丈夫だから大丈夫」
姿ままのイカを頭からかぶりつきながら思う。
毒だと知らずに唯々諾々と受け入れていれば、いつしかその体を壊す。だが毒を知れば、対処を知れば、それと付き合うこともできる、いなすことができる。逸らし、受け流し、そこから逃げることも出来る。
「それも知識、か……」
「そう」
ルルと過ごした時間も長くなった。
様々な事を聞いて知った風になっているが、実際に俺が賢くなったかというと、そうではない。今まで通り、何もかもが不思議で、わからないことだらけだ。
「……知りたい」
「ん?」
「知りたい……何もかもを、知りたい……それが毒になるような知識であっても、俺は知りたい」
「…………」
学びたい。今は何でも知りたい。知識が欲しい。
罪人ジル・ド・レの記憶。知る前と知った後で俺は変わっただろうか。
……変わったのだろう。知ってしまったせいで、俺は俺を業の深い罪人なのだろうかと疑っている。ルルは別人だと否定するが、俺はそれを納得できないでいる。あのジル・ド・レと俺は別人、だが……
知らなかった時には、もう戻れない。
知ったせいで生まれた心の隙間に、何かを埋めたい。その為の知識が……
独り言だとわかってくれているのだろう。ルルは何も言わない。何も聞かれていないので、何も答えない。そういう奴だ。
「ルルよ」
「なあに、黒騎士さん」
「明日、シャルル王の居る場所に連れて行ってくれ。それで終わりにする。どんな話になろうが、何を知ろうが、何を聞こうが、それで終わりだ。……それで俺のこの世界での人生を、終わりにする」
骨の姿であれば心から満足すると消えたらしいが、今の女の身体ではそうはならないだろう。寿命なり事故なりで死ぬまで終わりがない。だが、どうしたって、この姿で生きて死のうとは思えなかった。俺はもういい。俺はこの世界から去るべきだ。死人はさっさと、あの世に行くべきだ。そう考える。そう考えた。そう決めた。
歯ごたえのあるタコの足を齧り切る。これも旨い。噛めば噛むほど旨い。その姿から悪魔の魚だのと言われて忌避されるらしいが、いざ喰ってみれば物凄く旨いではないか。ああ、旨い。
「よく考えた?」
「ああ」
ルルにしてみれば、わざわざ手間をかけて俺の為にと作った女の身体。それで俺にこの世界を生きて欲しかったらしいが、幸せになって欲しかったらしいが。
その願いには応えられそうにない。
すまんな。
心の中だけで、謝る。
「いいわ。じゃ、明日の予定はそうしましょう。けど仕事は残っているからね。舞台の仕事。それが終わるまでは退場は無しよ」
「やるのか!?」
「やるわよ。やり残したことがあると気持ち悪いでしょ。気分良くこの世界を去れないでしょ」
「まぁそうだが……」
舞台の話、すでに頭から消えかけていたぞ。そのまま終われそうな流れではなかったか。
焼けた食材を全て俺の皿に乗せて、ルルは猫の姿になる。少女の姿が揺らぎ、掻き消えたらそこには、金の瞳を持つ黒猫が佇む。
「私のやり残しでもある」
鼠の話も疫病の話もルルにしてみれば頼まれたようなものだろう。
貝に鼻を近づけて匂いを嗅ぐ黒猫。口元の髭が跳ねる。
「前にね、ちょっとね、やろうとして、けど流れのまま、やらなかったことがあって、少しだけ気になっていて、もう出来ないなーとか思ってて、それが心残りにもなってて、で、今回はそれをやろうとしててね」
「なんだそれは?」
「ええと、まぁ秘密」
「待て、言え。秘密にするな。恐いぞ」
「ふふ、怖いことはしないから。じゃあ安心してもらうためにヒント。どうもこの姿でいると、人類とかどうでもいいという思いが強くなるっぽい」
「何だそのヒント!? ますます怖くなったが!?」
何をしでかすのか。
「最後にはね、神の黒猫さんである所のリュンヌちゃんが、大勢の人の目の前から消えて行くという筋書きも用意してるのよ。黒騎士さんも、その時に一緒に消えるといいわ。そこが終わり、それでいきましょう」
消えてしまえば攫うも何も無いからな。黒猫に関しての猫攫い問題はそれで解決というわけか。
それよりも気になる問題が増えた。
宿る肉体によって精神は引きずられる、だったか。人嫌いの猫の身体を使うルル……
大丈夫か人類。滅びたりしないだろうか。
頂きます、そう言ってから貝にかぶりついた猫が唸る。
「うっわ! うっま! 貝! これは美味しい! これは幸せ、幸せの味だねえ! やば! 駄目だったかも! いけないことしちゃったかも! こんな幸せな記憶を猫さんが持って大丈夫!? うま! うっま!」
貪りつくようにして喰らう猫を見ていて俺の食欲も刺激される。
しばし、食べることに集中する時間。本当に旨い。
「……はぁ、これは黒騎士さんに謝る事が増えたかもね。これは失敗、というより、配慮が足らなかった? 気にすべき事を気にしなかったが正しいのかな」
「なんだそれは」
食べ終え、いくらか膨らんだ腹をさする。何かをやり遂げた感がある。何もやり遂げてはいないのに。ふう、波音が心地よい。
「前にさ、骨の姿の時の黒騎士さんにお肉を食べてもらった時があったでしょ。あれも相当に自信のあるお肉だったのよ。あんまり反応が薄いから逆に私が驚いたわ。けど、そうね、今なら理由がわかる」
「それは?」
「あの状態はね、精神の宿る肉体として常に万全に近い状態で維持されるようにしていたのよ。だからだった」
「ん?」
「あれは、まぁひとつの性欲を削り落とした姿なわけだけど、食欲までは削らなかった、と思っていた。お腹もすくし、味覚も存在する、けど、実際には食欲まで制限が掛かっていたらしいわ。そら睡眠欲だけが残る」
「いや、ん?」
今一要領を得ない説明に首を捻る。
「足りないから満たされる。欠けているから欲する」
前足で顔を洗いながら猫は語る。
「欲望、欲求の基本だったわ。常に栄養状態が満ち足りていれば食べ物に幸福を感じないのは当然だった」
「ああ、そうか」
理解が出来た。
旨いと思うものは、体が欲しがっているものなのだ。骨の状態ではそれがなく、今の生身の身体にはそれがある。足りない、欠けているという状態が、ある。
「死ぬほど喉が渇いていれば、ただの水でさえ天上の美味となる、ということだな」
「まさしく」
知識が無いから知識を欲するのと、それはおそらく同じもので……
ああ……わかった……
「全知全能なんて奴がいれば、そいつはきっと何も欲しがらない奴なんだ」
天に手を伸ばす。星を掴もうとするように。
「助けたいとも、救いたいとも、思わない奴なんだ」
常に満たされていて、何一つの欠けもない。そんな存在が何を望むか? 何もない。
すべてあるから、何も無い。手を差し伸べる、理由すらも。
本当の意味を、わかった。
全知全能の神に祈ることの意味を。
助けを求め、救いを求め、それが叶わなかったと嘆いた己の愚かさを。
「目があるのは物を見たいが為。手があるのは掴みたいが為。そして言葉を交わすのは……繋がりたいが為……」
欲しがっているのは俺であって、そいつじゃない。
もっと早く気がつけばよかった。
祈る暇があれば行動すればよかった。
そうすれば……
……ジャンヌ、お前を助けられたのかもしれなかった。
星を見上げ続ける。天を睨み続ける。そうすることしか、出来なかった。
精神は肉体に引きずられる。
どうにも、女の体というものは、この俺が使うには軟弱に過ぎるようだ。
だから今は、それしか出来ない。
涙が零れぬように上を見続けるしか。
この二人が雑談を始めるとストーリーが進まないんよ……




