107
星明りを隠す天上に広がる雨雲が湿気と共に冷気を運んできたのか、パリの町はこれから夏に向かう季節とは信じられない程の寒気に包まれる。
肌が泡立つような寒さに、足元からの震えが体を伝っていく。
なんだこの惰弱な女の身体は。寒さにも弱いのか。
俺の目の前。
青ざめた顔をして震える女僧侶。血の気の引いた唇を必死に動かして状況を報告するプリュエルの同僚。
その報告を聞くマロー司教の顔色も酷いものだ。青くなったり赤くなったりと忙しい。唇を震わせて吐き出すべき言葉も見失っている。
猫が攫われた。
言葉にすれば、それだけのこと。
俺たちが出て行った隙を付いて屋敷に侵入した二人ほどの賊。最初は静かな様子で賊とも思わなかったらしい。
そいつらが、堂々と猫を攫っていったという。皆が出て行く中、誰も居なくなってはいけないと屋敷に留まったプリュエルの同僚の前で起きた犯行。
急に人が居なくなり静けさを取り戻した屋敷で、さあこれで寝れるぞとばかりに油断しきっていた猫を前に、賊は態度を急変、いきなり袋を被せて、そのまま包んで逃げた。女は屋敷を出て行く賊を止めようとして殴られ、口の端も切れている。かなり大きな傷だ。乾ききらない血の色が生々しい。
「そいつらがルーアンで火をつけた連中と同じだと?」
女僧侶がマロー司教に向けて報告する傍ら、ゴウベルらに視線を向けて問いかける。
「で、逃げられた」
賊どもは、たまたま屋敷の前でイングランドの兵と話し込んでいたゴウベルらと鉢合わせ、揉み合いになり、それでも逃げられた。
ルーアンの騒動は骨の姿で現れた俺が発端ではあるが、俺が町に着く前に騒ぎに騒いだ連中がいる。町の中でリュミエラを攫い、町から出て遠ざかっていく道中で俺と遭遇して、また町へと引き返していった連中だ。そいつらが盛大に地獄が溢れた、死者が蘇って軍勢となって襲ってくるなどと吹聴したために、俺が行く前にルーアンの町は混乱の坩堝の中に落ちていたのだ。
聖女であったかもしれないジャンヌを処刑した、その日の夜のこと。
ジャンヌを魔女として処刑した、その日の夜のこと。
怯え、恐れ、不安と緊張。
何事も無いようにとの祈りも虚しく、俺が現れ、騒ぎが起きた。張り詰めた弓の弦のように緊張していたルーアンの住人は、その扇動者たちの出現によって限界を迎えた。
建物が燃え、多くの死者も出た。
様を見ろ、聖女ジャンヌを処刑した地として連中は当然の報いを受けたのだとその時には思ったが、なんなら、今でも思っているくらいのことではあるが、あの後、様々な経験をしてきた後では、少しばかり思う所はある。胸がすく思いだけではなく、罪悪感と言っていいものも生まれている。
本当に罰を受けるべき者だけが罰を受けたのだろうか? と。
この暗闇の世界に生きる者、誰もが手探りで、誰もが必死だ。ジャンヌを罠に嵌めたコーションのように、明確な悪意を持って行動した者はどれほどいるのか。ルーアンの町に居た連中は、ルーアンの町に居たというだけの連中だ。家財を焼かれ、命を失うのに見合うだけの罪であり罰であったろうか。捕らえられたジャンヌを救わず見殺しにしたというのなら、俺もまた同じ罰を受けねばならない……
「ぐぬぬ、不甲斐ない! すまぬ! 連中は他にも仲間がおって、しかも馬に乗って逃げおった。人の足で追いつけるわけもなく……くう」
こちらにまで歯ぎしりが聞えそうなほどに顔を歪めて悔しがっているゴウベルの声で、思考は現実に引き戻される。
「仲間に連中を追わせてますが、馬の手配に時間がかかって……」
続く泣き虫の声も弱弱しい。
「天より任されし聖なる猫様を奪われるなど、どうやって償えばよいのか、ああッ、お許しを、天使様っ!」
これはクレマン司祭だ。
何が聖なる猫様か。ルルが乗り移っているならともかく、あれはどこにでもいるただの黒猫だぞ。
「プリュエル……とんでもない……どんでもない失態を……ああ……」
泣き崩れた同僚の傍にプリュエルが近づき、手探りで女の手を取り体を支える。盲目の僧侶の表情も悲痛。同僚にかけるべき言葉も見つからない様子。
その二人の姿を見下ろしながら、こらえていたマロー司教の怒りがついに限界へ。
「ぞっ……賊狩りじゃあ!!!」
伸し掛かる闇すらを消し飛ばさんとばかりに放たれた老司教の怒号が、小雨降るパリの夜の町に木霊した。
「私も連れてきた兵を出そう」
即座、リッシュモンが部下に指示を出し始める。
俄かに場は騒然となる。
「ぅおのれ賊どもめがぁ。神を畏れぬ不届き者めがぁ、ひっとらえて、引きずり出し、正義の鉄槌をその身に受けさせてくれるぅぅ」
「はいはいマローさん、落ち着いて、落ち着いて」
毎度の様にマロー司教を窘めるルルの態度は、いつものように余裕があって冷静なものだ。だがその声の奥に潜む、底冷えするような気配に気づいて息を呑む。
鳥肌が立つような、頭の奥が冷えていくような、そんな感覚。
これは……? もしや屋敷からこっち、この冷気を出しているのはルル本人か。
「おい、ルル」
「なあに、黒騎士さん」
視線をどこか遠くに向けている黒衣の少女。いつものようで、少し違う。やはり、冷気の出元はこいつだ。こいつが今、何かをしているのだ。
「魔術か何かしらんが、さっきから、何かをしているのか?」
「別に、大したことは。ちょっと遠くを”見て”いた、それだけ」
無表情。
こういう時のこいつは、怖い。人を小馬鹿にする微笑を浮かべていたほうが、まだ人間味というのがある。
「怒っているのか? いや、こうなることを、知っていたか? 何でも見える貴様の目には……」
「はい待って、ストップよ、黒騎士さん。誤解しないで」
手のひらをこちらに向けて、されど視線は向けずに、応える。
「良く見える目を持っていても、見ようとしなければそもそも見ないし、気がつかない。事件がある前は何もないなんて場所を見ることはない。見る必要がないからね。だから知っていたかの質問についての答え。知らないわよ、当然。ある程度の未来予測は可能でも、完璧な未来予知は出来ない。未来が作られるのは今だからね。そもそも過去現在未来なんていう区分けが成立するのは、人の意識の領域の中だけ。……それから…………怒っているわよ?」
それも当然でしょ、と続けて、ようやく俺を見る。
「嫌な事があったら怒るし、悲しむし、時には泣くこともあるのよ? 私を何だと思っているのよ」
得体の知れぬ何かだが?
「……けど、ちょっと予測が甘かった事は認めないとね。黒猫……リュンヌちゃんに関しては、もうちょっと意識しておけばよかった。猫攫い問題を先送りにしちゃってた。反省。反省終わり」
「反省が短いぞ。で、どうする? 連中はリュミエラを攫った奴らと同じだそうだ。ふん、つくづく厄介事を引き起こす連中だ。女ならともかく、ただの猫を攫うなど、連中は何を考えているのか」
「ただの猫ではなくなった、そういうことでしょうね」
「それは……そうか」
だたの猫では、なくなった。
ただの女が、聖女に成るように。
ただの猫が、聖なるものへと変わる。
聖女の自覚を持つことで人の性格が変わるような変化ではない。猫自身が変わるわけではない。猫を見る人の意識が変わるのだ。
少しの期間といえど、人の言葉を喋っていた猫が、ただの猫であるはずがない。誰もが、そう思う。誰もが思えば、それが常識となる。それが常識となれば、ただの場所や物すら、特別な意味を持つようになるのだ。
「聖遺物を集めるような感覚か……」
「さて、どうかしらね」
「天使様がお怒りに……恐ろしい、なんて恐ろしいことを……て、天使様、どうか、しばしの猶予を……い、今すぐに追っ手を差し向けて賊どもを捕えて」
「俺も行こう。ルル、剣を出せ。馬もだ。クク、打ち倒せばいいだけの敵がいてくれることの、なんとありがたいことか。ああ、もう、世界がわかりやすい悪人共で満ちればいいのに」
「黒騎士さん、ちょっと何言ってるのかわからない。あと、マローさん。大丈夫。怒っているのは私自身に対してよ。皆にじゃない。それに、追っ手も必要ないわ。こっちの方が、早い」
全身の肌が、一瞬で泡立つ。
そうして何気なく。
ただ何気なく。
ただ状況が、変化した。
その変化についていける者はいなかった。
異物。
俺たちの居る場所と、俺たちを囲んだ民衆との間。その空中に、音もなく人間が、現れていた。まるで最初からそこに居たかのように。
軽鎧をつけた、6人の男。その姿は、つい先ほどまで馬に跨っていたかのような足を開いた姿勢。ただ、その下に存在すべき馬はいない。
その男たちはしばしの時間、空中にいたが、自分たちが地面から離れていたことを思い出したかのように、唐突に大地に落ちていく。
「あぐぁあ!?」
「ぐへ!?」
「な!?」
落ちる者とは離れて、一つの袋だけがそのまま宙に浮いている。その袋は、呼び寄せるようにして伸ばした黒衣の少女の腕の中へと吸い込まれていく。
「話を聞いた時から捕捉していたからね。何も無い所を見ることはないけれど、何かあるなら意識を向ける。そして見ようと思えば見れる。見れるなら干渉も出来る。ごめんなさいね、マローさん、待てなくて」
そして袋から救出された一匹の黒猫が、黒衣の少女の腕の中で暴れる。暴れる。
酷く鳴きながら。
泣きわめく子供の様に、酷く、鳴きながら。
「はいはい、落ち着いて黒猫さん。恐い思いをしたねえ、辛かったねえ、大丈夫。もう大丈夫よ」
黒衣に爪を立てられるのもいとわず、暴れる黒猫を抱き込み、頬ずりをするルル。
「人が嫌い? 大嫌い? まあ、そうねえ、何度も酷い目に遭わされたものねえ、可哀そうに。人との出会い方、ちょっとだけ時の巡りが悪かった、そういうことで許せそう? あ、駄目そう? そう……なら、今は……おやすみ……いい夢を、見れますように」
猫と会話らしきものをした少女の腕の中で、黒猫は瞳を閉じ、動かなくなる。
動かぬ黒猫を大事そうに抱きかかえたルルがこちらを向き「ん?」と首を傾げても、動き出せる者はいなかった。
心臓の鼓動だけが時を刻む中、誰もが無言。突如現れ地に落ちた者たちも、それを間近で見た者たちも口を開けて呆けている。自分の見たものを消化するのに手間取っている。
ルルのやることにいくらか慣れている俺がいち早く復帰し、言葉を掛ける。そうか、耐性が付くとは、こういうことか。
「だから、奇跡だろうが、そういうのが」
「さんざん兜とか剣とか出したり消したりしてきたでしょ。病原菌を周囲から消せたのもそういうことが出来るならと納得してくれたからでしょうに。まあ? 人だけを丸ごと? 一部も欠けることも無く五体満足で転移させるっていうのは、ちょっと難易度は高いんだけど。球体の空間指定とかの方がずっと簡単なんだけど、それだと彼らの乗っていたお馬さんが無事じゃなくなるからね。がんばった」
――人体の一部だけが出現する可能性もあったのか。
――がんばる所を間違えていないか?
――納得してたか? 理解出来ず、ついていけてないだけでは?
――兜や目に見えないものならとにかく、人だぞ。人。
――違うだろ、それらは。
――だとしても、奇跡だろ。
反論らしき考えは頭に浮かぶが、それを言葉にして吐き出すことが出来ない。何を言ってもこいつには届かないだろうという、確信めいた感覚がある。理解し合えないから貴重だとは、いつ聞いた言葉だったか。
「な、なんだ!?」
「け、景色が!? 乗っていた馬は!?」
「痛っ、痛あ」
「は? は? はあ?」
「こっ、こいつらだぁっ!」
「捕まえろっ」
「猫攫いめッ!!!」
「何がどうなって!? え!?」
「ひ、ひとがきゅうに……」
静寂から一転、混乱、混迷。場は混沌へと落ちて行く。
いつものように。
このルルと出会って以降、何度見た光景か。これもまた、慣れた。
「……混沌の申し子か」
「それって私の事?」
「自覚はあるだろ」
「混沌そのものとか言われたことも何度かあるけど、あ、それだと混沌の申し子ポジションは黒騎士さんね、やったね」
「嬉しくないわ……」
そういえば、ふと口から出た混沌の申し子、たしか骨の姿の時に俺がリッシュモンに言われたものだったような。
混沌より生まれ、世に混沌をまき散らす者。
ふん、俺からすれば、勝手に周りが騒いでいるだけだ。それはルルも同じか。
混沌の申し子と混沌そのものとでは、語感的にどちらが強そうだろうか。……くだらん事を考えた。どうでもいい。
「騒々しいのは嫌いなんだろう? 周りを見ろ。すさまじく騒々しくなったぞ。もっと、こう、他に方法はなかったのか?」
「苦しんでいる猫さんを”見た”からね。早急な救出もやむなし。見なければ何でもない事も、見てしまえば対応を迫られる。それが見るということ、知るということ、繋がるということ」
怖いのよ、知るという、それだけのことも。そう言って眠った猫の頭をやさしく撫でる黒衣の少女。
見過ごせないという感情が生まれる前には、何かを見る必要がある。知ってしまえば手を差し伸べることにもなる。見るだけ、知るだけで繋がりが生まれてしまう。視界に映ったから、そうしてプリュエルを助けたりもしたのだな。思えばリュミエラもそうか。
もう冷気は感じない。寒くもない。
屋敷でもリッシュモンが連れてきた病人の場所を”見た”のだろう。ルルが超常の力を振るうと、俺は悪寒を感じる。そういうことだ。それがルルが魔王になったかのように感じた理由。そういう感覚を持つのも骨ではなく血の通う命ある肉体になったことが理由だろう。勝手に寒がり、勝手に怯えた。タネが知れれば恐ろしくもない。
「天使様……」
プリュエルから離れ、這うようにして俺たちの前に進み出た女僧侶が涙声で訴える。
「どうか、お許しを。天使様より預かりし聖なる猫様を、危険にさらしてしまいました。ああ、私めへの罰はいかようにも、ですが聖女プリュエルには罪は無く……」
「はい、貴女もストップ、マローさんもクレマンさんも来なくていいから、跪かなくていいから、そのまま、そのまま」
女の懺悔に合わせるように、こちらに近づこうとしていた二人を手で制す。
「根本的な勘違いを正してあげる」
猫を抱えた黒衣の少女は、自分の方から女僧侶に近づく。
「私は誰かを罰するためにここにいるんじゃないのよ? 無用の心配」
女僧侶は地面に膝を付けて手を組み祈る。涙を浮かべた瞳で見上げる先には黒猫を抱いた黒衣の少女。
「悪いことをしたのなら、それは悪いことをした人が悪いのよ。猫攫いなら、猫を攫った人が悪い。で、貴方はどう? 助けようとしてくれた。守ろうとしてくれた。力が及ばずにそれが出来なかったのだとしても。……そんな人物に私が掛ける言葉はこうよ」
黒衣の少女は猫を抱えたまま器用に片手を伸ばして、膝まづく女僧侶の切れた唇に指を当てる。
「助けようとしてくれて、ありがとう。貴方は何も悪くない」
「あ……」
音もなく。光もなく。
猫を抱く黒衣の少女が指を離した後には、切れた唇が癒された女僧侶。口元には血の跡もない。滴った数滴の血の跡、わずかな痕跡のみが、僧衣に残る。
漏れ出る溜息は誰のものか。
もしかしてだが。
ひょっとしてだが。
ルルの奴、盛大な光や音を伴わないなら奇跡じゃないとか思っているんじゃなかろうか。確証は無いが、その可能性が高い。光ったりなどの演出を飛ばせば奇跡が奇跡じゃなくなるとか思っているのでは?
芽生えた疑惑に関して、心の中だけで突っ込む。なわけ、ないだろうが、と。
「癒しの奇跡……」
誰かの呟きにも心の中で同意する。だよな。
「おらぁ! 近づくんじゃねえ! 何がどうなってやがる!」
騒動の中心は、ここ以外にももう一つ。
猫攫い共。
制圧に失敗したのか、イングランド兵だかリッシュモンの連れてきた兵だかに囲まれた連中は一塊になり、剣を抜いて周囲を威嚇している。
確かにルーアンの町に行く前に会ったような気がする。見覚えがあるような、ないような、そんな顔をした連中だった。顔など覚えようともしなかったからな。どうでもいい。
だが……
そんな有象無象に紛れて、確かな顔見知りが一人。
俺のよく知っている人物。
「ラ・イル……貴様か……」
ラ・イル。
粗暴で略奪癖のある、昔の俺の戦友。ジャンヌとともに肩を並べて戦い、オルレアンを解放した、救国の英雄の一人。
憤怒の意味を持つあだ名をつけられ、以降自分でもそう名乗っている。本名は別にあるはずだが俺は忘れた。本人含め誰も本名では呼ばないからな。
そうか。
リュミエラを攫いルーアンで扇動したのはアルマニャック派の手の者だった。つまり昔の俺の仲間。そして、お前の、手下だったか。




