第八話 二つの鍵
『……おい、なんだそいつは?』
『上層でさまよってた子よ、名前以外の記憶は殆ど消去済み……スクラップ・チャイルドってやつよ、ここまで徹底してるのは珍しいけど』
懐かしい場面だ、俺がまだ一人で情報屋の任務をこなすケチなハッカーの真似事をしていた頃……小雨の降る路地裏に報酬を受け取りに来た俺の前に情報屋は彼女と共に現れた。
『……そうかい、それはお優しいこったな。それで? 俺の報酬はどこだ?』
『ここよ』
ご丁寧にチェーンをつけられたデータポッドが情報屋の指先からぶら下げられた、まるで餌だと言わんばかりの差し出し方に怒りを感じたのをよく覚えている……しかしどうにか感情を押し込めて歩み寄り、受け取ろうと差し出した俺の手から逃げるようにポッドはするりと離れていった……情報屋がデータポッドを摘まむ手を上げたのだ。
『……どういうつもりだ? お前の依頼はこなしてやっただろうに』
『ええ、見事な仕事だったわ。アナタに渡す今回の報酬は五百……どう? その金額でこの子を買わない?』
そう言ってデータポッドを持つ手と同じ手から更にぶら下がったのは一本の小さな鍵……すぐには何の鍵か分からなかったが、よく見れば小さな少女の細い両腕には似つかわしくない頑丈そうな電子手錠がつけられているではないか。
『……成果には報酬を、俺達のルールを破るつもりか?……ククル』
『アナタこそ、相手を本名で呼ぶのはご法度じゃなかったかしら?』
『先に破ったのはお前だろうが!』
素早くブレードを抜くと二人に向けて突き付ける、情報屋の顔には一瞬緊張が見て取れたが少女は虚ろな目をしたままその瞳には俺も情報屋も映っていない。
『……見なさいミドー、この子は見ての通り若いわ。ここでアナタに捨てられたら臓器の売買目的や生体の外部記憶ユニットとして買われるか……どちらにしても幸せな未来なんて無いでしょうね、まぁアナタが買ったところで慰みものになるだけかもしれないけれど?』
『誰がそんな事をっ……!』
怒りのままにブレードを投げ捨て、感情のままに情報屋の手首を掴み捻り上げる……その手からぶら下がっているのは二つの道──金か、一人の少女の自由か。
「……ん、くぁ……」
「あ、起きた? ミドー?」
バカみたいに軋むベッドの上でゆっくりと目を擦りながら体を起こすと俺の声に気付いたのかサチが駆け寄ってきた、台所の方からは美味しそうな匂いが漂ってくる。
「俺は……あー……あれから寝ちまったのか」
「帰ってすぐにね、仕方ないよ。それより腕の調子はどう?」
言われてみればいつもの癖で右腕を支えにして起き上がったが痛みは殆どない、さすがに触ると少しビリビリとした感覚がするが随分良くなっているのが包帯越しでも分かる。
「……包帯、替えてくれたんだな」
「寝てる時にね、ずっと何か寝言言ってたけど……何か夢でも見た?」
「ん?……ああ、そう……だな」
寝癖でボサボサの頭を乱暴に掻きながら記憶を辿る……ぼんやりとしか覚えていないが、例え一欠片だけでもあの場面が何かを忘れたりはしない。
「確かに夢を見てたよ……お前を引き取ったあの日のな」
「……そっか、いいなぁ……あの時の事、私はあんまり覚えてないもん」
「だろうな、あの時のお前は見るからに心ここにあらずって感じだったからな」
からかうように笑う俺に少し不満そうな表情を浮かべるサチ……例えサチが覚えていなくても俺は決して忘れない、あの時金へと手を伸ばしかけた俺の服の裾を僅かに掴んだ彼女の小さな手を……その瞬間からただただ燻っていた俺は記憶を食い物にして上層の裏で踊っている奴らの敵になったのだから。
「……サチ、ちょっとこっちにおいで」
「え……な、なに?」
両手を広げて呼びかけると見て分かるぐらいにサチの全身が一本の金属の棒のように固くなってしまった、慌てた様子でせわしなく両目を動かし辺りをキョロキョロと見回している。
「少し人肌恋しくなってな……ダメか?」
「ダメとか……じゃ、ない……けど」
まるで一瞬で錆だらけのロボットにでもなってしまったかのようにぎこちなく体を動かしてサチの膝がゆっくりとベッドの上に乗る……たったそれだけでベッドが激しく軋み、耳障りな金属音をたてる。
しかし緊張しきった彼女の耳にはそんな音も届いていないのか俺から視線を外さずゆっくりと体を寄せ……おずおずといった様子ではあるが、しっかりと体を密着させると両手を俺の背に回した。
「ああ、いいな……これ、落ち着くよ」
「やめて……改めて言われると、すっごい恥ずかしい」
その言葉を証明するかのように俺の胸越しに彼女の小さな心臓が早鐘を打っているのを感じる、この柔らかな髪の感触もふわりと香る匂いも……彼女の全てが俺に人間らしさを取り戻させてくれる、愛おしいかと問われたら俺は何の躊躇いもなく頷くだろう。
「……サチ、一つ伝えたい事がある」
「え……な、に……?」
彼女の鼓動が更に強くなり、俺の体まで震えているかのような気がしてくる……思わず口角を上げながら、彼女にそっと今の気持ちを言葉に乗せた。
「……肉、焦げてるぞ」
「……え?……あっ!」
サチの表情が一瞬で真顔に戻り、そして何かに気付いたのか俺を突き飛ばして台所へと走っていった……この焦げ臭さにも気付かないとは、一体何にそこまで気がいっていたのか……などとすっとぼけた思考を巡らせながら突き飛ばされたせいで再びベッドで横になり、家中に響く大声で笑ってしまう。
「もうっ……ミドーのバカ! ホントにバカ!」
少し離れたところから飛んでくる罵声ですら心が温まるのを感じる、この後俺は炭と化した肉を食わされるのだろうが構うものか……俺の選択は間違っていなかった、このたった一つを忘れない限り俺はこれからも間違える事は無い。
少し目を閉じ、心を決めるとベッドから立ち上がり……すっかり怒らせてしまった姫様のご機嫌を直す為に台所へと向かった。