第四十八話 トゥー・パピーズ
「だから……ですって!」
「そんなの……」
ぼやけた頭と耳に何かを言い争うキンキンとした声が鳴り響く、決して快適な目覚めとは言えない感覚を覚えながらゆっくりと目を開くと……二人の少女がキッチンで言い争っていた。
「いい加減にしてミコト、卵焼きに砂糖なんて入れる訳無いでしょ?」
「いーえ! お姉ちゃんだからって譲らないっす、絶対美味しいですって!」
「……くっ、くくく……」
朝から何を騒がしくしているのかと思い一言注意してやろうと開きかけた口はその内容のあまりの下らなさに笑いへと変化した、微笑ましいというか可愛らしいというか……そんな事を考えていると、俺の声に気付いたのか二人の少女の瞳がこちらに向く。
「ねぇ! おにーさんはどう思います? 卵に砂糖、絶対合いますよね!?」
「おはようミドー、さっきからずっとこの調子なの……ミドーからも言ってあげて?」
とりあえずミコトにはそうやって男が寝ているベッドに乗り込むものではないと教えてあげたい、しかしわざわざ指摘するのも微妙な気がしたのでぐっと言葉を飲み込むとバカみたいに軋むベッドから逃げるように立ち上がり、大きく伸びをする。
「くぁぁ……おはよう、とりあえずだが……卵焼きに砂糖を入れるのは普通にあるぞ」
「えっ……そうなの?」
「ほらぁ! だから言ったじゃないっすかぁ!……っていうか何でアタシの時は疑って、おにーさんが言ったら一発で信じるんすか!」
「当然でしょ、私よ?」
「ぐぬぅ……」
理屈も何も無い筈なのに胸を張って笑みを浮かべるサチの妙な信憑性にミコトが小さく唸った、何だか気恥ずかしいがここで俺が照れるのも違う気がしたので、とりあえずかゆくもない頭を軽く掻いて誤魔化しておく。
「でもでも! ちゃんとあるなら朝ご飯の卵に砂糖を入れてもいいって事っすよね!?」
「あー……悪いが俺は甘い物が苦手でな、ウチで出るのはしょっぱいやつだけだ」
「そんなぁー!」
悲痛な叫びを背中に受けながら洗面所へと移動しジャブジャブと顔を洗う、ひんやりとした水を洗いたてのタオルで拭う……ふと汚れた鏡に映った自分の顔を見て見ると口元がにやけている事に気が付く、なんという平和な時間だろう……胸の中に渦巻いていた重い不安や窮屈なものが取り払われたら、心というのはこんなにも晴れやかになるとは思わなかった。
「お姉ちゃん! ここ、空いてるっすよ!」
「はいはい……一々言わなくても分かってるって」
電導車に乗り込むと、我先にとミコトが空席を見つけてこちらに手を振った。
苦笑しつつ仕方ないという姿勢を崩さないサチだがその表情は随分と楽しそうに見える、四人掛けの席の奥側に向かい合って少女たちが座るのを確認すると俺もサチの隣に腰をおろし彼女の小さな頭越しに窓の外をぼんやりと眺める……。
──カシム博士を殺したあの日からひと月ほどが過ぎた。
最初こそ上層部では混乱が起きたようだったが、それもすぐに新たな指導者が現れた事で収まった……新たなトップに文句を言う者もいるが、徐々に沈静化しているところをみるに人は何だかんだ言いつつ支配されている方が安心するのではないかとすら思えてくる。
上層と下層の力関係にも変化が起きた、以前よりも明らかに犯罪が減りガム・ワームのような目立つグループはその数を日に日に減らしている……上層での仕事先が増えたお陰で犯罪を犯す必要も無くなってきたからだろうが……しかし、それでも完全に潰えた訳では無い。
「……よぉ、相変わらず可愛らしい娘さん連れてるな? それに見りゃべっぴんがまた一人増えたようじゃないか、お前さん……本当に親子か?」
窓の外を眺める視線を外し声のする方に目を向ける……身なりはともかく下心に塗れた小汚いその表情は微かにだが記憶にある、ミコトと出会ったあの晩にも電導車の中で遭遇した変態野郎だ。
「……何を言いたいのは知らんが、下手な考えは──」
「褒めてくれるのは嬉しいっすけどねぇ……アタシ、こういう者なんすよ? それでもまだ何か用っすか?」
「ひっ……武人!? 何でこんなところに!?」
顔の前に手を掲げ、餓鬼の仮面だけを出現させて見せると男は情けない悲鳴を上げて電導車の奥へと逃げていった……声には出さないが、騒ぎに気付いた他の客も何事かとこちらにチラチラと視線を向けている。
「まだ捕まってなかったんだ……あいつ」
「知ってる奴っすか?……まぁでもアタシらを不快にさせたんすから後で拘束しときます、そもそも上層にいてアタシら武人から逃げられる筈無いっすもん」
平静に喋っているように見えるがサチのその手は無意識に俺のコートの裾を握っている、いざとなれば圧倒的にサチの方が強いのは間違いない筈だが……ああいうのに対してはそういう問題では無いのだろう、頭をそっと撫でてやると裾を掴んでいる事にようやく気付いたのかパッと手を離し、恥ずかしそうに俯いてしまった。
「……いいなぁ」
ボソリと呟かれたその声に顔を上げるとミコトと目が合った、まだ何も言っていないというのに顔を赤くして両手をこちらに向けて突き出し、激しく左右に振っている。
「わ、わはぁ! なーんて冗談、嘘っす! ちょっと言ってみたかっただ……け」
右手でサチ、左手でミコトの頭を撫でている姿勢は何とも楽とは言い難いが二人の反応が明らかに違うので見ていて面白い。
サチは最初こそ恥ずかしそうにしていたが今は俺の手に頭を擦り付けようとしているし、ミコトは普段とは違い随分と大人しい。
「わ、わひゃ……あう、わふ……ふはぁ」
……いや、俺の手が動く度に小さな声で鳴いていた……何を言っているのかさっぱり分からないが、嫌がっている訳では無さそうだ。
ミコトはあの日以来、ちょくちょく遊びに来るようになった。
最初こそ何か問題が起きたのかと俺達は勘繰ったが本当に遊びに来ているだけのようで、サチが一度突然は来るなと注意したお陰で事前に連絡を入れるようになり……家の壁には予定が書き込めるカレンダーが増えた。
『上層第一層、上層第一層……扉が──』
「……ん、着いたみたいだな」
目的の駅へ到着した事を知らせるアナウンスが耳に届き二人の頭からそっと手を離す……何故二人ともそんな寂しそうな顔をするのか、嬉しさと恥ずかしさの混ざり合った気持ちを隠すように降りる事を宣言し立ち上がると不意に右手が軽く引っ張られた。
何事かと振り向くとサチが俺の右手を自らの頬に当ててこちらを見つめていた、目を細め……何かを訴えるかのようなその表情には妖艶さすら窺える、記憶を抽出しているとはいえ精神の成長までは止められない……子供だと思っていたい相手に思わず高鳴る胸の鼓動は果たして正しいのか間違っているのか、俺の方が分からなくなってしまっている。
「さ、ようこそ上層へ……っす! ちゃんと来るのは初めてなんじゃないっすか?」
上層に降り立つやいなや俺達の前に立ちはだかり両手を広げて宣言するミコトに頷いてみせる、確かに何の不安も無く来たのは初めてだ。
「まぁ……そもそも偽造コード無しだとすぐに捕まっちゃうもんね、私達」
「身も蓋もないっすよお姉ちゃん……」
ガックリと肩を落とすミコトに思わず笑ってしまった、彼女は動きが一々大きいので見ていて飽きない。
それにミコトの言う通り今日の俺達は偽造コード無し、事前に貰った正式なコードでここへ来ている……嬉しいが、どうしても『奴』は俺を上層へ迎え入れたいらしい。
「と、とにかく今のアタシ達はどこにでも入れる訳っすけど……とりあえず先に会いに行ってあげて欲しいっす、この上層の新しいトップ……ディアのところに!」




