第一話 生きる、の意味が変わった世界
『命』が失われる『死』という結果には、大きく分けて三つの要因が必ず付きまとう。
その三つというのが怪我や病気……そして老化だ、前者二つを完全に防ごうとするにはあまりにも不確定な要因が多く研究者たちは次々に匙を投げた。
しかし最後の要因である老化、生まれた瞬間より個々に与えられた時間であり神の領域とも言うべき死の一手に対してある科学者がこう声を上げた。
『老化は阻止する事が出来る、私が人類を老いという呪いから解放してみせる!』
何を馬鹿な事を言うんだと人々は彼を嘲笑い、顔の見えぬ情報の裏側から執拗に責め立て攻撃し続けた……だがそんな状況も、ある一つの発表で大きく覆る事になる。
よく分からない理論だの専門用語だのは置いておいて、彼が発表したのは専用の機械を用いた『記憶の抽出技術』だった。
『そもそも老化が何故起きるのか、時間の経過? 違う、では皮膚や体内環境の劣化なのか?……違う! 全ては記憶の累積による脳への負荷が原因である!』
脳の容量は膨大だとは言われているが個人によってその許容量はまばらであり、一言で記憶といっても様々な種類があるのだと科学者は言う。
記憶の種類は大きく分けて三つあり一つは一般的な人生における経験や知識を何重にも保存していく蓄積記憶、二つ目は一つ目の記憶を自分が覚えやすい形に変化させて小分けに保存しておく変像記憶……そして三つ目が普段の生活で目や耳、鼻などで感じつつも記憶にはあまり残らないと思われがちな瞬間記憶だ。
この中でも瞬間記憶が特に厄介で何気ないものだと思っていても色彩や音の波長など種類は多岐にわたり、三つの記憶の中でも断続的に取得する為に脳への負荷が最も高い。
ちなみに瞬間記憶の取得率は年齢が低い程高く、高齢になるほど下がっていく……子供の成長が早いというのは、この瞬間記憶の取得率が高い事が原因だという事になる。
――ここまでを前提として、ではどうすれば老化を防ぐ事が出来るのか?……その問題に科学者は記憶の抽出という形で結論を出した。
『余分な記憶を捨て去る事で脳への負荷を無くす、これを定期的に行う事で若返る事は出来ませんが現在の年齢から老いる事は無くなり……実質的に永遠に今の状態のまま生きられるのです! 予め定められた時間しか生きられない限られた命……本当に皆さんはそれでいいんですか!?』
大きく張り上げられた科学者の言葉に世間は大きくどよめいた。
半信半疑な者や頭から嘘つきだと決めてかかるもの、神への冒涜だと憤る者もいた……意見は多種多様だったが、一つだけ間違い無いのは画面の向こうで両手を広げて不敵な笑みを浮かべる科学者に当時の人類は誰もが注目していたという事だ。
死ぬ事も老いる事も怖い、しかし記憶の抽出なんていう未知の技術を受けるのもやはり怖い……そんなグズグズとした世間の意見もある一人の壮年の著名人が名乗りを上げた事で一変する事になる。
彼は歌を仕事にしている人物だった……歌う事が好きで人気が無くなり世間から消えるならともかく、老いなんていう理不尽で歌えなくなるぐらいなら……と人類初の記憶の抽出実験に参加の意を示し、彼はその後数年に渡り変わらぬ歌声を披露し続け、何年経っても変わらぬ姿を世間の前に出し続けた……こうなれば今までの意見なんてどこへやら、科学者の元に俺も私もと電話が殺到する事になる。
「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
「……ん?」
ふと腕に着けていたリストバンド式の小型モニターから目を離すとウエイトレス姿のアンドロイドが覗き込むようにこちらを見ていた、ウエイトレスから視線を外してテーブルの上を見るといつの間にか注文した料理がズラリと並んでいる。
「ああこれでいいよ、ありがとう」
ウエイトレスが手に持っている注文確認ボードに指をかざして認証するとウエイトレスは一つお辞儀をして店の奥へと歩いて行った、個室の座敷で統一された大衆居酒屋……俺のお気に入りの店の一つではあるが寂れた旧和風の店にも関わらずウエイトレス姿のアンドロイドというのは些か違和感があるのは俺だけだろうか?……大方店長の趣味とかなのだろう、どうやら俺とは話が合いそうに無い。
「……美味い」
大皿に乗った揚げ出し豆腐を一つ小皿に移して箸で小さく切って軽く冷ましてから口へ運ぶと出汁の効いた良い香りと柔らかい豆腐が舌の上で踊った、歯触りの良いネギや鰹節も満足度を更に引き立てている。
……とは言ってもこれらは全て合成材料で作られた偽物なのだろう、この豆腐にしても数百年前の人間が口にしたら食べられたものじゃないのだろう……だが構うものか、どうせ俺には本物の豆腐の記憶なんて既に無いのだから。
「……ねぇ、アナタって私を変な場所に呼び出す趣味でもあるの?」
「なんだやっと来たのか、ほらそっち座れ座れ」
ちびちびと料理を食べ進めていると唐突に個室の扉が開き、不機嫌そうな表情の女性が姿を現した。
堅苦しいスーツに鉄のマントのような丈の長いスカート……服装の事なんかこれっぽっちも分からないが眉間にシワの寄ったその表情が美人を台無しにしている事だけは分かる、スーツの上着に上手く隠れてはいるが腰の辺りの僅かな膨らみ……恐らくは射出型のスタンシューターだろう、乳白色の綺麗な長髪を揺らし長年の友人のように砕けた口調だが未だに俺は信用されてはいないらしい。
「……何笑ってんのよ」
「いや何でも? ほら、せっかくの料理が冷めちまうぞ?」
笑いを噛み殺しながら向かいの席に座るよう促すと一瞬躊躇うような雰囲気を見せたあとで女性は席に腰をおろした、しかし用意された箸を掴む気配は無い。
「……アナタ分かってるの? 私、別に味方じゃないんだけど?」
「だからって敵って訳でもないだろ? 仮に敵だったとしても飯時ぐらい休戦だ休戦、ほれこれ美味いぞ?」
少し大きめの取り皿に揚げ出し豆腐や唐揚げ、厚焼き玉子などを次々に乗せていき女性の前に置く。
「……最悪、普通一つの皿にまとめたりする?」
「あれ、ダメだったか?」
まぁ確かに見てくれは悪いかもしれないが食べれば一緒だろう? と視線で伝えると地の底から吹き上がるようなため息が返ってきた。
「はぁ……まさかアナタ、サチにも同じような事してないでしょうね?」
「安心しろ、あいつは自分の分は自分で取るしなんなら俺が同じ物ばっか食わないように注意してくれてるさ」
「それもそれでどうなのよ……」
再び大きくため息をつくと女性はようやく箸を手に取り料理を食べ始めた、なんだかんだ文句を言いながらも食べてくれるのはコイツの良いところだと思う。
「……それで、今回は何だ?」
料理も殆ど平らげ、渋い緑茶を一口飲んで本題に入ると女性は皿に残った料理を食べる手を止めて顔を上げた、まさか俺より食べるとは思っていなかった……今度からはもっと注文してあげるとしよう。
「少し待って……これよ」
自分でも夢中で食べていた事に気付いていなかったのかハッとして口元を布で拭いながら細長い小型のデータポッドをテーブルの上に置いた、それをひょいと拾い上げて左腕のリストバンドに接続すると脳内にいくつかの情報が表示される。
「……貸し記憶の管理係? また妙なやつがターゲットだな?」
「前金で八千、成功報酬で更に八千よ……どうする?」
「はっ……報酬までデカいときたか、こりゃいよいよ胡散臭いな」
すっかり仕事モードなのか女性は俺の軽口には乗らず眉一つ動かさず静かにこちらを見つめている、今までにない妙な相手がターゲットなのは気になるが……とはいえこの報酬は魅力的だし任務内容自体も難しいという程のものでもない、即断即決はあまり好みでは無い……が、既に自分を納得させる理由を探している時点で答えは決まっているようなものか。
「……いいだろう、受けるよ」
「そ、良かったわ」
データポッドを懐にしまっていると女性が小さな鞄から別のデータポッドを差し出した、俺も左腕を伸ばしリストバンドを女性に向けるとデータポッドが差し込まれ確かに八千の金額が追加された。
「んじゃこの後はどうする? 美味いデザートを食わせる店にでも……お?」
リストバンドを袖に隠して顔を上げると向かいの席には既に女性はおらず、扉の前まで移動していた。
「ここも嫌いじゃないけど今度はもっと美味しい店がいいわね、あの子にも聞いてみたら? アナタよりサチの方が舌も信用出来るし」
「……その任務の方がよっぽど難しそうだなぁ」
女性が出て行った後の扉に向けてぼそりと呟き、少し寂しくなった空間で一人温くなった緑茶をじっくりと堪能する事にする。
「ふぅ……」
店から出ると鉄錆と何かの薬品が混ざったような不快な臭いが鼻を掠め、食後の満足感を一瞬でどこかへと吹き飛ばしてしまった……この掃き溜めのような下層では陽の光なんてものは無く道には暗闇が広がり、古びた街灯が点々と立ってはいるがそれでも周囲はかなり薄暗い、殆ど人はおらず時折見かけても誰もがフラフラと道を歩いており、彼らの目はどこか虚ろだ。
──記憶の抽出技術によって人類の寿命は飛躍的に伸びた、しかしそれは同時に人類が進んでいた方向性を大きく変える結果になってしまったのもまた事実だろう……上層と下層という風に人が住むエリアが分かれたのもその結果の内の一つだ。
上層に住む者は落ちないように必死に足掻き続け、下層の者はもはや上を見る事すら無くなった……これが今の人類の社会、死なないだけの膨大な時間が目の前に広がるというのは人の心を壊すには充分すぎるものだったらしい。
「……おい、おいじっちゃん。そんなところで寝てたらメモリーキー盗まれちまうぞ?」
気の滅入るような道を歩いていると道端に一人の老人が座り込んでいた、何枚も服を重ねて着ているようだが至る所に穴が開いている……下層の夜はかなり冷える、酔って眠りこけているんだとすれば朝には冷たくなっているだろう。
「おい、聞こえてんのか?……おいって!」
老人の肩に手を乗せて大きく揺さぶる、すると老人の体は大きく揺れ……そのまま地面に力無く倒れ込み、ポケットにでも入れていたのであろうピンク色の錠剤がいくつか地面に転がった。
「……チッ」
錠剤の一つを拾い上げて観察し、思わず舌打ちをする……郷愁薬だ。
十倍以上の寿命を手に入れた代わりに過去の記憶がどんどんと薄れていき数十年前の自分がどんな風だったかすら忘れていくのが今の人類であり、その中にはこの老人のように過去に浸りたい者も少なくない。
そんな心の弱さをつけ狙うかのようにいつの間にか人々に広まったのがこの郷愁薬だ、飲めば過去の記憶を呼び起こし懐かしい気持ちになれる……らしい、だがこの薬が見せる過去は自分のものではなく多数の過去の記憶を適当に繋ぎ合わせて作られた偽物、まやかしだ……一時の快楽は得られるだろうがそんな負荷の塊を飲み続ければどうなるか、今まさにこの老人が証明してくれている。
動かなくなった彼のポケットを漁り、回収できるだけの郷愁薬をまとめて近くの溝に投げ捨てると改めて家への道を歩き始める……背後では老人の所持品を誰かが漁っている音が暗闇の中で静かに響いていた。