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思い出(3) 彼女の痛みと私の痛み-1

 美由紀と本当の意味で知り合ってから一年と少し経った頃、彼女は交通事故に遭った。

 奇妙だった。彼女の身に起きたことを知っていくら想像を巡らせても、彼女の痛みや恐怖は決して私には現れないのだから。

 初めて手をつないだあの日以来、私たちは毎日のように一緒に過ごしていた。私のグローブを貸して始めた「練習」も、すぐに彼女はすっかり上達していった。

 彼女はそうやって、私の無二の遊び相手になった。もっとも、彼女にとって私が同じだったとは、とても言えなかっただろう。彼女の好みだとかに、接しはしたけれど。

 例えば彼女は、一番気に入っていると言って、不可思議な生き物が外国の家庭に突然住み着くという絵本を私に見せた。おずおずと、しかし期待に満ちた視線を向けながら。その内容も良さも、つまり彼女の感じ方を全く理解できなかった私が言葉を探して困っていると、彼女は笑ってそれを取り上げ、話を変えてしまった。失望なんて、一切見せずに。

 彼女の笑顔の前では、そんな私の認識も、すっかり覆い隠されてしまった。それでも、決して完全に忘れたりはできなかった。半年も経ったころにはすっかり打ち解けて、悪態の冗談を交わすようにまでなっていたとしても、手を振って別れた後には、どんな言葉が必要だったのだろうと、いつも思ってしまっていたのだから。

 どれだけ想像しても、彼女が体験したことを、感じられもしない。そんな当たり前のことが、私と彼女の間に何の結びつきもないことを示しているように思えて、仕方がなかった。言い残した言葉が居座る胸の奥の、鈍い痛みだけが、確かに存在していた。

 二週間ほど後、私は彼女に会った。ベッドに寝て、頬に大きなガーゼを当て、右腕と右足にはもっと仰々しいものをまとった姿の。

 彼女は平坦な表情で、腹のあたりに、黄色い表紙の、あの一番気に入っているという小さな絵本を広げ、左手だけでそのページを繰っていた。美由紀は私に気づくと、呆然とした様子になって、一度うつむき、また顔を上げた時には明るく笑っていた。

 ――お母さんが来てて、今はちょっと出てるけど……たぶんすぐ戻るよ。

 私には、彼女が何を言っているのか分からなかった。なぜそんなことを言ったのかではなく、本当に、彼女が私に何を話しているのか、それが全く理解できなかった。

 彼女の左側に立って、散々時間をかけてから、私はどうにか、言葉を絞り出した。

 ――元気なの?

 ――まあね。ご飯食べるのとか、大変だけど。右手が使えないから。

 いくつかのやりとりで、もう時間を稼ぐためだけの馬鹿な言葉も思いつかなくなり、私は、内心では必死で、言った。

 ――いつまで入院するの?

 ――えっと、まあ……しばらく。その……結構、長く……らしいよ。

 ためらいがちに、しかしはっきりした声がそう告げるのを聞いて、私は心の入れ物にひびが入っていくような気がした。そして私は、こらえきれなかった嗚咽を漏らし始めた。

 涙を拭うことしかできなくなった私の前で、彼女がどんな顔でいたのかは分からない。見ようがなかったのだから。彼女が私に最初に差し出したのは、その手だった。

 ――大げさだって、そんなの……別に、死んじゃうわけじゃないし。ていうか……私なんて、いなくても大丈夫でしょ。一人でも頑張れるだろうし。足引っ張るのがいなくなって、もっと上手になれるんじゃない?

 そんなわけ、ない。私が、一人で何が出来るのだろう。今の私には、どうしても美由紀が必要だった。その理由を、言葉では表せないほど。いやむしろ、私の思っていることや私に見える私と美由紀の関係を言葉にしてしまえばどうしてもそれは不十分でしかなく、ありもしない枠に押し込めてしまうことになる。まして、私よりもずっと言葉を知っている美由紀にとっては。一人でいても、一人だけでいても、空しいとは思わない。ただ、寂しい。自分がそう感じることに気づき、それが美由紀のいない空白のせいだと気づき、その痛みを見つめて、美由紀がそこにいたのはたったの一年の間でしかないというのが、信じられなかった。美由紀のいた場所は、私が持っていなかった、あるいは、知らなかった心の領域だった。だから、こんなにも寂しいのだろう。傷がついたのならば跡を残しても治るのかもしれないけれど、切り落とされれば元には戻らない。喪失だけがそこに留まる。たとえ、元々持ってはいなかったものだったとしても。私はもう、そうなってしまっていたのだから。

 ――じゃあ、少し待っててよ。そしたら、できなかった間の分も、どんだけでも付き合うから。でもそうなったら、きっと今までよりもっと、私の下手さが目立っちゃうよね。だから、また教えてほしいな。私でよければ、だけど……私も、美佳と一緒にできるの、本当に楽しみなんだから。他のことも、いっぱい、一緒にやろうよ。だから……らしくないから、やめてよ、そんなの。

 彼女の左手を両手で力一杯に包み込んで、私はうつむいて嗚咽を漏らすことしかできなかった。どんな言葉も、彼女の奇跡のような明晰さがなければ伝わりようのない、めちゃくちゃな言葉で表現された私の気持ちを口にすることすらもできないまま。

 ――ごめんね、でも、少しだけだから。この先はもう、ずっと、大丈夫だよ。

 だけどきっと、彼女の前では、私の言葉も必要なかったのだろう。その手が、初めて触れた日と同じ暖かさを持っていたことに、思い当たりさえすれば十分なのだろう。

 病室を出たところで彼女の母親と出くわし、私は自分の顔を見られるのが恥ずかしくてたまらず、短い挨拶だけで済ませると、走り出してしまいそうなほど急いで立ち去った。本当は、もっと前からとっくに見られていたのだろう。

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