思い出(2) 笑顔の向こう側
三年前、彼女に本当の意味で出会った。体育のソフトボールの授業が終わり、三年後に私たちが独占することになるグラウンドを、鉄のトンボを引きずってならしていたとき、いくらか土で汚れた体操服姿の彼女が私と同じように右手で鉄の柄を握って、進んで来ているのが見えた。行き合ったところで、彼女がにっこり笑い、
――もう終わりだよ。
と言った。そして、彼女と並んで歩きながら、私は初めて本当の意味で彼女と話した。
――真田さん、道具の片付けだったんじゃないの?
――そうだけど、もう終わっちゃったから。
――ああ、そう……ありがとう。
――全然! これ(と、引きずっている物を示しながら)、重いよねぇ。
――使ったことないの?
――うん。部活は体育館(「い」が一つ足りない)でやるのばっかりだったし。正田さんは、経験者だよね。
――まあ、野球だけど。
――あ、そっか、ごめん。でも似てるっていうか、経験が役に立つんじゃない? すっごい活躍してるし。私は無理だなぁ。ってか、知ってるよね、見てたから。
――じゃ、なんでソフトにしたの?
彼女が私から視線を外して、口ごもった。そんな彼女の顔を見ているうちに、私は、自分が何か、まずい言い方をしてしまったような気がしてきた。
――いや、なんか……私が入れば、人数がちょうど良さそうだったからってだけだよ。他のも、できるわけじゃないし……
――ありがとう。
彼女が、きょとんとして私を見つめた。
――真田さんがいなかったら、中途半端になってたよね。
そして私が続けて言葉を発しようとしたとき、彼女は決心でもしたように表情を切り替え、にっこり笑って、グラウンドの方に走っていってしまった。
次の授業で、私は彼女に声をかけた。驚くほど、理由も分からずにどきどきとしながら。
最初きょとんとした彼女がすぐに笑顔で答えてくれたときには、もっと驚くほど、ほっとした。それから、キャッチボールだとかの練習は、決まって一緒になってするようになった。その後の試合でチームが同じなら隣り合って座り、分かれれば目配せをして、言葉も使わずに何かを伝え合った。そして一緒に歩くようになった帰り道で、決まって最後には笑う。ただその笑顔も、ちょっとしたことで、全く違う表情に変わったりもした。
たぶん二度目か三度目かの帰り道だったと思う。私が自分の入れる野球部がないので興味のある部活動がない、というような話をしたときだった。
海に注ぐ河口の近くの小さな橋を渡りながら、ほんの少し夕方の色がつき始めた空の下、その空の色を映す黒々とした海を背に、彼女が私に、いつも通りの笑顔を向けた。
――ああそういえば、真田さん。いつも、図書館で何読んでるの?
――え……っとぉ……
私にとっては、美由紀のように一人で本を相手にするというのは全く知らない世界で、単純に興味があった。何の抵抗も感じないままそれを口にしたのだけれど、彼女が顔を凍り付かせ、戸惑ったような、不安なような表情を次々に見せたのは、驚くというか、気がとがめた。そして、おずおずとした様子で、ほんのわずかな言葉を発した。
――絵本……とか?
実のところ、ここには勘違いが含まれていて、私は以前見た学校の図書館(図書「室」と言っていれば、誤解されなかったのだろう)での姿について問いかけたつもりだったのだけれど、彼女は、その頃に自分がよく通っていた町の図書館においてのことだと思ったのだった。しかしそれを互いに理解して笑い話にするのはもうほんの少し後であって、このときに私は、彼女の言葉、声、不安げな表情が、私の胸の痛みを引き起こしているのを、ただ感じていたのだった。
――あー、やっぱり、変だよね、あはは……
右の頬に、右手の人差し指を当てながらの苦笑い。それまでに彼女が見せてきた笑顔と同じく笑ってはいても、全く違うものだった。
その不思議な笑顔の向こう側から、ごく控えめに、慎重な、ためらいがちの、心細げな、しかしほんのりと期待の混じった視線が、私を見ていた。今よりも長かった髪を簡単に後ろで束ねただけのすっきりした顔の中で印象的な、大きな目で。
――そんなふうに、思わないよ。真田さんのこと、私は知ってるし。
いつの間にか、私は彼女の左手に触れていて、言葉か手のどちらか、あるいは両方に驚いた表情を見せた彼女も、ゆっくりとその手を開き、つなぐ形に握り返してくれた。
そうして私たちの一緒にいる時間は長くなり、二人だけで、野球の練習という名前をつけた真剣な遊びを始め、やがて私は、彼女をただ美由紀と呼ぶようになっていた。