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その24 お魚天国

 一瞬の、軽い立ち眩みのような感覚。それが止むと同時に、周囲の景色が一変していた。


「ふわぁ……」


 ステアの小さな口から零れ落ちる、感嘆の声。

 かくいう俺も、眼前に広がる"明らかに不自然な"絶景に、言葉を失った。


 砂金が散りばめられたように輝く水面、無限に広がる水平線。

 見上げるにつれて、黄金色から徐々に群青色へと変化していく大空は、まるで一枚の絵画のように美しいグラデーションに彩られている。

 魂が震えるような、神秘的な景観だ。


 だが、驚くのはまだ早いのかもしれない。

 優雅に流れ行く雲の隙間から覗くのは……あれはまさか……。


「海……なのか……?」


 俺達の頭上を覆う空、さらにその上に見えるのは間違い無く海面だろう。

 それを意識しつつ、そっと足元に目を向ければ、そこに大地は存在しない。しかし、どういうわけか、俺の足は沈むことなく"水の上に立つ"ことが出来ている。

 脚を上げ、水面に靴底を叩き付けてみれば、水飛沫と波紋が広がっていくものの、それだけだ。足先が水中に沈むことはない。

 腰を降ろし、水を手で掬おうと試みるが、何か硬い物体に遮られてしまった。まるで、海面の上をガラス貼りにしたうえで、表面に薄く水の膜を張ったみたいだ。

 指先に僅かに付着した水を舐めてみると、やはりというべきか、かなり塩辛い。見た目通りというべきか、この階層は海を模しているのだろう。

 よくよく見れば、海中を魚らしき生物が悠然と泳いでいるのが見える。この海はかなり透明度が高いようだ。

 しかし、海中深くにまで光が届くことはないらしく、底の方には仄暗い深淵が横たわっている。

 気を抜いた途端、そのまま海底に引き摺り込まれてしまいそうな、人の不安を煽る深い闇色にぞくりと背筋が凍った。


「いやはや、凄い場所だねぇ」


 ステアは辺りを見回しながら、ぱちゃぱちゃと足元の海水を踏み鳴らす。沈まないことが不思議で仕方ないようで、しきりに足踏みしていた。

 グラムはといえば、何をするでもなく、ステアの傍でボーッと突っ立ているだけだ。この絶景を前にしても、特に感慨はないらしい。いや、実際に彼がどう思っているのかは定かでないが、雰囲気的に、何となくそんな気がする。


「ホントにな。それにしても……」


 ダンジョンとは、入り口を含めた最も危険度が低い層である浅層を含め、中層、深層、最深層の計四層に分けられている。

 これはここベオフェル迷宮に限らない、全てのダンジョンに共通する事柄だ。

 ベオフェル迷宮の場合、完全攻略こそされていないものの、既に何組かのマーセナリーが最深層まで到達しており、彼らから齎された情報により、全ての階層の景観は既に周知されている。


 だが……。


「ベオフェル迷宮に、天と地を海で覆われた階層があるなんて聞いたことがないぞ……」


 今、俺達が足を踏み入れているダンジョンは、洞窟のような地形の浅層、まんま雑木林の中としかいえない中層、水晶のようで水晶ではない謎の鉱物に侵食された坑道のような深層、石畳の地下牢獄を彷彿させる陰鬱な雰囲気の最深層で成り立っている。

 こんな幻想的で美しい階層があれば、間違いなく貴重な情報として、ギルドに纏められているはずなのだが。

 となると、他に思い当たる節としては。


「……"特殊階層"、か」


 単純に迷宮を攻略していくだけでは、決して辿り着けない階層をギルドでは『特殊階層』と呼称している。今回、ステアが隠し通路を見つけたように、普通の方法では進入できず、既存の階層とは異なる景観を持つのが特徴だ。


「ステア、油断するなよ」

「んー」


 俺は殺界を出来る限り広範囲に展開して、周囲を警戒する。


 特殊階層では、何が起こるか予測がつかない。完全な不可思議領域であると言っても過言ではないだろう。


 他所の迷宮において発見された特殊階層では、大量の宝箱が見つかったり、特定の階層へ"ジャンプ"できるショートカットの魔法陣が見つかったり、魔物が一切出現しないセーフエリアのような場所であったりと、マーセナリーの面々が飛び跳ねて喜びそうな報告が上がっている。特に、セーフエリア型の特殊階層には一種の中継地点というか、独自の街が構築されたりするらしく、発見者には莫大な富が流れ込むようだ。羨ましい限りである。

 ここまで聞くと、特殊階層の発見は良いこと尽くしのように思えるだろう。しかし、所違えば、悪夢ような報告も。

 異様に強い魔物が跳梁跋扈していたなどというのは、まだマシな方。最悪なのは、フロアボス並みに凶悪な魔物が堂々と鎮座していたり、異常な数の魔物が屍肉に集る蟲のように大挙して襲い掛かってくるパターンだ。

 これらに最初に遭遇してしまったパーティには、お悔やみ申し上げることしかできない。

 まぁ、今現在において、俺達も襲われない保証などないのだが、こちらにはステアとグラムがいる。魔物の襲撃程度なら、どうとでもなるだろう……なると信じたい。


「改めて、とんでもないところだな、ここ……」


 辺りを見回し、観察してみるが、どこまでいっても水平線が広がるばかり。目印になりそうなものなど何もない。

 何ともなしに、空を見上げてみた。

 雲の隙間から覗く大海原は、意外と低い位置にあるのかもしれない。目を凝らせば、海面を跳ねる魚すら目視できるではないか。

 上を見て、海。下を見て、海。こちらの海は凪だが、上の海は波が立っている。

 こちらの海が上のように畝っていたら、こうして突っ立ていることさえ困難だっただろう。

 いや、そんなことはどうでもいいか。


「さて、どこに向かうべきか……こうも判断材料がないんじゃ、どうしようもないんだが……」

「……」


 思わず、独り言ちてしまう俺の隣で、ステアが足元の海中をじっと眺めている。海の中では、様々な種類の魚が、大きな群れを成して泳いでいた。

 まるまると肥えた巨大魚は見るからに脂が乗っていそうで、どうにかして釣れないものかと詮無い事を考えてしまう。


「なんかブクブクしてる」

「ん?」


 ステアがポツリと零す。言われて、足元を見下ろしてみれば、確かに気泡が浮いてきていた。いつの間にやら、海面でぽこぽこ弾けては消えるを繰り返している。

 てっきり海中の魚を見ているのかと思っていたが、どうやらこの気泡を気にしていたらしい。

 どういう理屈なのか、この海は俺達を拒むくせに、気泡は素通りさせるようだ。いや、もしかしたら、元から海中にあるものなら、何でも通してしまう可能性も考えられる。


 というより――


「何か、だんだん気泡が大きくなっているような気がするのだけど、これはわたしの勘違いかな?」

「……いや」


 ぶくぶくと大きさと数を増していく気泡。最初こそ可愛げがあったそれらは、今では無数の泡と化し、得も言えぬ不気味さを醸し出している。

 何というか、嫌な予感しかしない。そして、大概にして、こういう予感は当たるものだ。


「うわぁ……」


 ステアがドン引きしたように呻き声を漏らす。

 俺達の足元、最初に気泡が昇ってきたところが、血のように真っ赤に変色していく。ぞわりと全身に鳥肌が立ち、咄嗟にステアを抱き寄せる。そのまま思い切り後方に跳躍して、距離を取った。グラムも遅れずに付いてくる。


 浸食の速度が尋常ではなく、気付けば水平線の彼方まで赤く染まっている。それだけでなく、頭上の海まで赤くなっていた。

 何という事だ。幻想的で美しい景色から一変、まるで地獄が顕現したかのような、怖気の立つ場所に一瞬で様変わりしてしまった。


「一面、血の海だな。やっぱ吸血鬼の身としては、こういうのって興奮するのか?」

「普通にキモく感じてますが、何か? タロウは、地平線まで埋め尽くす大量のステーキを見て、興奮するのかい?」


 なにそれ、普通にキモイ。


「すんません」


 ステアがジトッとした眼で睨んできたので、素直に謝っておく。


「それに、わたしは既にタロウの血の味を知っているからね。今更、その他有象無象の血を見たところで興奮なんかしないよ」

「それはそれで、またコメントに困る発言だな……」


 と、そんなつまらない会話をしているところへ、とうとう"異形"が現れた。

 血の海から歪な腕を突き出し、海の上へ這い上がるようにして姿を現したのは――


「うげっ……」

「ふむ、ディープワンか。あいつらは生臭いから、あまり近寄りたくないのだけど」


 魚類型亜人系第三位階、ディープワン。マーマン種のように上半身が人族、下半身が魚といったタイプではない。見たまま、魚が足を得て、二足歩行になったサハギン種である。

 ただし、ディープワンともなると、その体型はより人間に近付いたスマートなものとなる。そして、面構えは魚類のそれではなく、人間の頭蓋骨を彷彿とさせる恐ろしげなものに変貌するのだ。短剣のように伸びた爪は神経毒で満たされており、厄介な事この上ない。リスクが高い近接型の戦闘職にとっては、顔を顰めたくなる魔物である。

 奴らは見た目通りに水辺を好む魔物であり、特に水中では独壇場ともいえる戦闘力を発揮する。非常に危険な種族だ。

 水中に引き摺り込まれたが最後、同じく水中に特化した戦闘職でもなければ、ほぼ勝ち目はない。それだけでなく、陸上での戦闘においても並の近接職を寄せ付けないくらいには強い。少なくとも、レベル1は論外。レベル2の戦闘職がパーティを組んでようやく勝てるといったところか。

 レベル3でも、一対一で倒せるかは職との相性次第だろう。以前の俺では、苦戦は免れなかったはずだ。


 そんな厄介な奴らが、1匹、2匹、3匹……際限なくどんどん増えていく。

 出現速度も半端ではない。あっという間に、四方八方を囲まれる形で、無数のディープワンに包囲されてしまった。

 殺界の探知範囲を限界まで広げて、尚も底知れない数だ。それこそ、少し高い場所から全体を見渡すことができれば、地平線の彼方までディープワンが敷き詰められている、気持ちの悪い光景が眼下に飛び込んでくることだろう。


「……勘弁してくれ」


 思わず、口を突き破って漏れ出す一言。

 これまでの人生の中で、これほどの数の魔物と相対したことは一度もない。ある意味で、壮観と言えなくもないかもしれない。

 とはいえ、こちらにはステアとグラムがいる。この2人がいれば、ディープワンの殲滅も可能だろう。

 問題は、磯臭い魚人共が一掃されるまでの間、俺が生き延びられるか、だ。


「ステア、魔力はどれくらい回復してる?」

「約2割ってところだね」

「全然回復してないな。多少、血を分けた程度じゃ駄目か」


 元々、膨大というのも憚られる底知れない魔力総量を誇っているらしいステア。昨夜の就寝前にも少し血を与えたのだが、焼け石に水のようなものでしかなかったようだ。


「いやいや。何か勘違いしているようだけど、タロウの血だからこそ、ここまで回復したのだよ? 他の人間では、干乾びるほど吸い尽くしたところで、今の3分の1も回復していないのではないかな」


 ステアは俺の首筋を横目で見つめながら「やっぱり、わたしとタロウの相性は抜群だね?」と、妖艶な微笑を浮かべる。

 ぞくりと震える背筋を意識の外に追い出し、俺は首を回して周囲に視線をやった。

 それに反応したわけでもないのだろうが、虚空を見つめたまま微動だにしなかった魚類共の眼が、ぎょろりとこちらを向く。

 同時に、甲高く悍ましい咆哮が一斉にあがった。

 圧倒的な音圧で空気が震えている。気の小さい者であれば、これだけで失神してしまいかねない。


「まぁ、安心したまえ。ディープワン程度であれば、魔法を使うまでもない。素手で充分さ。タロウのこともしっかり守ってあげるから、大船に乗ったつもりでいるといいよ」

「――そりゃ頼もしいね」


 うん、ホントに。


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