【6】
ローレンツとシグリが退出するのを待って口を開いたのは、マティアスの護衛であり学友でもあるハーラルトだった。
「なんだったんでしょう、あのお二人」
「そうだね」
マティアスは微笑んで背後に控えるハーラルトを見上げた。紅茶色の髪にとび色の瞳をしたこの少年は、整ってはいるが特徴のない顔立ちをしている。剣術の天才であるが、あまり思慮深いとは言えない。頭が悪いわけではないのに。
彼には、あの二人の独特な雰囲気が通じなかったようだ。ハーラルトはマティアスの側近として、何度か元帥ローレンツにあったことはある。しかし、その幕僚長となるとこれまで数度話したことがあるかどうかというところだ。
マティアスの見立てでは、年の離れた従兄とその幕僚長は、互いを憎からず思っているはずだった。最後に出たローレンツの言葉だって、シグリを自分の隣に引きずり出したいがための言い訳のようなものだ。
しかし、有効であることは確かだ。マティアスでさえそう思うのだから、シグリもわかっているだろう。夜会には情報が落ちている。出席すれば情報収集ができるし、軍人であるからと言って遠慮している内政への干渉も、巻き込まれたのだ、と言いとおすことができるかもしれない。まあ、この辺りは皇帝の甥であり大公であるローレンツの協力が必要であるが、彼は乗り気なようだった。軍部のほうから手を貸してくれるだろう。実際に手配するのはシグリだろうけど。
「まあ、うん。仲がいいんだよ」
「マティアス様、馬鹿にしてません?」
「馬鹿にはしてないけど、わからなかったかぁという気持ちはある」
「え、どういうことです?」
ハーラルトがマティアスに尋ねるが、彼は笑ってソファから立ち上がり、執務机についた。
「とにかく、ハーラルト。僕の側近強化計画に付き合ってくれ。何としてもイルムヒルデを引っ張り込む」
「はっ」
護衛騎士として答えながらも、ハーラルトはまだもやもやしたものを抱えていた。マティアスは尊敬できる主ではあるが、たまにこういうところがある。フィリベルトも鈍感なほうなので、二人して首をかしげることが多かった。
「とにかく、アイクラー公爵の噂の裏をとることと、イルムヒルデの公爵家での立場の確認、ああ、妹さんたちも無事保護しないと」
ぱっと思いつくだけでもやることが多い。そして、マティアスはいつものごとくため息をつくのだ。
「ああ、官僚が欲しい」
その官僚を手に入れるために、官僚的な作業が必要だった……。
「閣下! シグリ!」
ローレンツとシグリは、マティアスの執政室を出たところで少年に遭遇した。元帥府幕僚の護衛という名目で置かれている魔術師、エーリック・フォン・リヒトホーフェンである。彼は嬉しそうにシグリの隣に並ぶと、彼女と手をつないだ。近衛兵の一人が見とがめるような目を向けたが、何も言わなかった。皇帝の甥であるローレンツに意見できるものは少ない。
「お疲れさまでした。方針は決まりました?」
小首をかしげて尋ねる彼は十五歳で、かつてローレンツが面倒を見たこともある少年だ。褐色の髪に琥珀色の瞳をしたこの少年はかわいらしい顔立ちをしており、中性的な面差しのシグリと並んでいると、年の離れた姉弟のようにも見えた。
元帥府まで戻り、ローレンツの執務室に入る。当然のようにシグリとエーリックも入ってきた。二人は今回の件の当事者なのだ。
「エーリックはイルムヒルデの妹たちの様子を見てきてくれたのか」
シグリがエーリックに尋ねると、彼は紅茶をいれながら「うん」とうなずいた。
「二人は大丈夫そうです。まあ、姉君のことを心配していましたけど」
「……なら、問題はやはり、イルムヒルデだ」
シグリは首を左右に振って言った。年齢的にも、彼女の妹は五年前のことをよく覚えてはいないだろう。覚えているとすれば、イルムヒルデだけだ。しかし、シグリもローレンツも、フリューアでイルムヒルデに会った記憶はなかった。
「その時期なら、学校ではないですか。五年前なら、イルムヒルデ様は中等部二年生のはずです」
エーリックが紅茶をシグリとローレンツの前に置き、自分はシグリの隣に座った。
「……なるほど。フリューア戦役は冬から春にかけてだったからな」
ローレンツは当時を思い出して言った。彼がシグリに会ったのは、寒さが緩んできたころだったか。そのころ、当然、総合学院は学期中だったはずだ。
現在、フリューアは国から派遣された官僚が代理統治をおこなっている。宙に浮いているのだ。国としては、正当な後継者に引き継いでもらう必要がった。
「何しろ、ライヒシュタイン辺境伯家には秘宝の伝説があるからな……」
「それが事実かはわかりませんけれど、もともと、かの辺境伯家は帝国の一部ではありませんでしたからね」
ひじ掛けに頬杖をついたローレンツに、上品にティーカップを持ち上げたシグリが言った。ライヒシュタイン辺境伯家は、もともと、小さな領邦国家だった。それを、百年ほど前に帝国が組み込んだわけだが。
「……なかなかあたりがきつかったからな」
「左様でしたね」
救援に来ているのだというのに、当地の住民たちは、生粋の帝国人であるローレンツたちを不審そうに見ていたのを覚えている。やはり、このあたりの事情もあって、ライヒシュタイン家の者に後を継いでほしい。他者が治めるには難しいのだ。
「こればかりは軍略が役に立ちませんからね。状況を整えることはできますが、あとはイルムヒルデ次第でしょう」
そのあたりはフィリベルトたちが何とかするだろう、とシグリは緩く微笑む。
「まあとりあえず、閣下にはたまった草案に裁可をいただかなければ」
「……うちの幕僚長は優秀だが厳しいな……」
うんざりした口調で言ったローレンツだが、自業自得なのでは、と思わないではないエーリックだった。
シグリが早めに帰宅すると、イルムヒルデを見舞いに来たフィリベルトとハイルヴィヒがまだいた。
「おや、珍しいな。夕飯も食べていく?」
「あ、うん。じゃなくて、話もあって」
フィリベルトがシグリを見て言った。彼女がまとうのは元帥府の官服だ。この穏やかな女性が、実は名目だけとはいえ軍人なのだ、と認識させた。
「……イルムヒルデを、外に連れ出したんだが」
「ああ、いいんじゃないか」
あっさりと言われ、フィリベルトは目を見開いた。
「いいのか?」
「いつまでも閉じこもっているわけにはいかないからね。妹さんにも会いたいだろう」
「ああ……さすがに宮殿まで連れていけないんだが……」
イルムヒルデの妹をこの屋敷まで連れてくることはできるが、不自然だ。せめて、貴族の屋敷で引き合わせなければ。子爵家であるハイルヴィヒの家では家格が低いので、クラルヴァイン侯爵家か、もしくは公爵家の令嬢である友人に頼むことになるだろう。フィリベルトとハイルヴィヒの中では、すでにこの友人を頼ることで決定していた。
「わかった。こちらでも手配しておこう」
「ありがとう」
ほっとしてフィリベルトは礼を言った。一般的に穏やか、と言われるシグリだが、交渉するときは緊張する。テンションが一定であるということは、常に冷静であるということだ。フィリベルトはこの年の近い叔母が取り乱したところを見たことがなく、それ故に恐ろしい、と思うこともある。
「さて。私は着替えてくる。先に食堂に行っていてくれ」
シグリの言葉にうなずき、フィリベルトはイルムヒルデとハイルヴィヒのいる客間に向かった。出かけるにしても、護衛がいるような気がする。フィリベルトもハイルヴィヒも、魔法は得意であるが武術はさほどでもない。そういう人員を確保する必要がある気がした。
イルムヒルデは、時間が合えばシグリとともに食事をとっているそうだ。お互い踏み込まないだろうからどんな会話をしているのか気になるところだが、今日はハイルヴィヒが気遣っていた。押され気味であるが、フィリベルトも寡黙なわけではないし、イルムヒルデも人当たりの良い人だ。子供たちでなんとなく会話が続く。
「シグリ様も、総合学院のご出身でしたわよね?」
ほほえましげに眺めていたシグリにもついに話を振るハイルヴィヒだ。シグリは「うん」とうなずく。
「懐かしいな。もう八年も前の話だ」
「叔母上のことだから、頭がよかったんだろ」
フィリベルトも何気なく尋ねると、シグリは「どうだろうか」とほほ笑んだ。
「最終的な成績は六位だったけれど。試験勉強がうまかったのだと思う」
試験勉強が得意なのと、頭がいいのは違うのだ、とシグリは言った。彼女の話を聞いて、マティアスが欲しているのは「試験勉強ができる人」ではないのだ、とフィリベルトは察した。
「君たちも頭が良いのだろう?」
「まあ、悪くはないと思いますわ」
ハイルヴィヒが悪びれずに言った。その物言いが面白かったようで、シグリは笑う。
「なるほど。それは頼もしい」
フィリベルトは、ハイルヴィヒの自信の一割でもイルムヒルデにあげられればいいのにな、などと考えていた。
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