【5】
もともと、マティアスはシグリとそれほど親しいわけではない。ただ、従兄のローレンツの直属の部下で、有能な幕僚であると聞いていた。彼もぜひ、彼女ほどの部下が欲しいものである。
そのため、彼女に話を聞くために、従兄であるローレンツを呼び出す必要があった。シグリがローレンツの部下として同行するほうが自然だからである。その従兄は藍色の瞳を面白そうに細めている。黒髪に、藍色の瞳。長めの髪を襟足で束ねた精悍な印象の男性だ。マティアスとはあまり似ていない、と言われることが多い。
一方、マティアスの学友フィリベルトの叔母にあたるシグリも、フィリベルトとはそれほど似ていない。淡い亜麻色の髪は長く波打ち、澄んだアイスグリーンの瞳は理知的を通り越して冷たい印象すら与える。しかし、基本的に表情が柔らかく、語り口も穏やかなため、それほど冷酷な印象は受けない。マティアスと同じく魔眼を持つため、眼鏡をかけているが、彼とは違い、シグリは魔眼を完全に制御できていた。
十人に聞けば八人が美人だ、というであろう中性的な美貌の持ち主、シグリはころころと笑った。
「まあ、これは奇なことをおっしゃいますね」
「あなたがかわいがる甥っ子に頼まれたからと言って、そう簡単に他人の身柄を預かるはずがないと思うんだ」
「なるほど。それは認めます。では、殿下は何が理由でわたくしがアイクラー公爵令嬢の身柄を預かったと考えておられるのですか」
下手をすれば不敬罪に問われかねないシグリの調子だが、マティアスはこれくらいのほうが張り合いがあっていいと思う。
「イルムヒルデはライヒシュタイン辺境伯家の生き残りだ。彼女には、その地位を継ぐ正当な権利がある。しかも、ライヒシュタイン辺境伯家は選帝侯でもある。いつまでも空位のままにはできない……というのは表向き」
マティアスは笑ってシグリを見た。
「幕僚長とローレンツは、フリューア国境紛争の際、最前線の辺境伯領にいた。だから、助けられなかったと負い目を感じているんじゃない? 別にあなたたちのせいではないと思うけど」
「鋭いご指摘ですこと。まあ、わたくしも、助けを求める少女に対して拒否できるほど冷酷ではなかった、ということですね」
きっぱりとシグリが言いきった。結局のところ、マティアスが言うように、シグリがイルムヒルデを助けたのは、彼女の両親によるところが大きい。見捨てられなかった、ということだ。そして、助けてしまったからには、最後まで面倒を見る必要があると、シグリは思う。
「いい機会ではあるだろう。アイクラー公爵には黒いうわさが多い。この辺で釘をさしておくべきかもしれん」
低い声でそう言ったのは、従弟と部下のやり取りを面白そうに眺めていたローレンツだ。彼は、この年の離れた従弟をかわいがっていた。皇帝になれる器であると思う。ローレンツの叔父でもある今の皇帝は、マティアスを次期皇帝に指名するだろうとみなされていた。
「そもそも、イルムヒルデを公爵家の養女にした手順についても疑問が残ります。一応、法と規則に即してはいるのですが」
こういうものは、ちゃんと手順を乗っ取ったほうが安全かつ迅速に手続きできるものだ。だから、アイクラー公爵夫妻もちゃんと手順を乗っ取っているのだが、いまいち違和感が残るのである。
「というか、イルムヒルデはライヒシュタイン辺境伯家の跡取りだったわけだよね? そんな人を養女にできるんだ?」
マティアスがふと疑問に思って尋ねる。辺境伯夫妻が亡くなった時点で、イルムヒルデが辺境伯を名乗っても不思議ではない。十二歳と幼いが、前例がないわけではないし、この国は女性でも爵位、帝位を継ぐことができる。例えば、シグリのすぐ上の姉がカウニッツ女侯爵を名乗っていた。
「法律上は問題ありません。跡取りだからと言って、他家の養子になることができないのは、何かと不都合がありますから」
よどみなく答えるシグリだ。答えが明瞭であることに定評のある彼女だが、もともと、官僚になるために法学を修めていたので詳しいのだ。
「今のイルムヒルデの場合、アイクラー公爵令嬢ではありますが、同時にライヒシュタイン辺境伯位の継承者でもあります。すでに十七歳ですので、彼女が望めばライヒシュタイン辺境伯を名乗ることも可能です」
通常、十五歳で成人とみなされる。十七歳であるイルムヒルデは、訴え出れば辺境伯の名を継げるはずなのだ。
「それを、彼女は知らない?」
「かもしれません。あまり事例のないことですので」
ふむ、とマティアスはうなずいた。ただ、今のイルムヒルデにライヒシュタイン辺境伯家を継ぐように言ってもうなずくとは思えない。そして、継いだとして、彼女に維持できるだけの力があるとは思えなかった。アイクラー公爵夫妻に乗っ取られるような気がする。長年の力関係が、イルムヒルデの中に刷り込まれている。ということは、やはりアイクラー公爵をなんとかせねばなるまい。
「……僕は寡聞でよく知らないんだけど、アイクラー公爵夫妻ってどういう人?」
ぱっと顔が思い浮かばないということは、それほど重要な役割を担っているわけではないのだろう。
「はい。昔ながらの領地からの収入で生活しているタイプの貴族ですね。ただ、アイクラー公爵領の税収は決して良くありません」
答えたシグリは、読んだ報告書を思い出す。彼らは、時代の変化についていけていないのだ。小麦などを育てる肥沃な土地であるが、それを維持できずに土地がやせてきている。かつてほどの収入は見込めないし、収穫高に対して国庫に納める税が少なすぎた。脱税を疑ってくれ、と言っているようなものである。
「夜会などで見かけたことはあるが、気持ちの良い相手ではないな」
そう評したのはローレンツだ。大公である以上、彼は夜会に出席することが多い。同じく公爵であるアイクラー夫妻も、よく夜会で見かけた。最も、格式ばったことが苦手なローレンツに対し、夫妻は派手なことを好むようではあった。
公爵は中年太りのひげを生やした男だ。醜悪な顔立ちをしているわけではないのに、その顔に浮かべる表情は卑しかった。夫人のほうは派手好きで、身の丈以上のドレスや宝玉をまとっていた。まあ、公爵夫人であるので、身の丈以上というのはおかしいかもしれない。正確には、年若い女性が着るようなドレスやアクセサリーを好んでいた。
ふと、ローレンツはシグリを見る。侯爵令嬢である彼女だが、幕僚の制服を着た彼女の着飾ったような姿はほとんど見ない。最後に彼女がドレスをまとっているのを見たのはいつだろう?
「ローレンツ様?」
「……ああ」
シグリに名を呼ばれ、現実に戻ってきたローレンツである。
「まあ、自己顕示欲の強そうな夫婦ではあったな」
アイクラー公爵夫妻をそうまとめ上げた。マティアスが「うーん」とうなる。
「イルムヒルデ自身はいい子なんだよね。いい子過ぎてちょっと違和感があるけど……」
「手ひどい仕打ちを受けていたのであれば、品行方正に見えるようにふるまうこともありましょう。エーリックなどもそうですし」
シグリの言葉に、ローレンツは「ああ」とうなずく。しばらく預かっていたことのある少年は、確かにそんなそぶりを見せていた。
イルムヒルデが品行方正なふるまいをするほど、アイクラー公爵夫妻は自分たちを責めているのだ、と思うのではないだろうか。シグリは思った。たとえそんなことはなくとも、そう考えてしまうのが人間だ。
「……まあ、イルムヒルデのことはお任せくださいませ。アイクラー公爵夫妻のことはお任せいたします」
投げるようなことをシグリが言うので、マティアスが眉をひそめた。
「えー。手伝ってくれないの?」
「殿下。わたくし、これでも軍吏なのですけど」
いくら元官僚といえども、元帥府幕僚であるシグリが手を出すのは、文官に対して干渉が過ぎよう。軍吏である以上、シグリは軍人なのだ。
「相変わらずお前、きっちりしているな。だが、そうだな。情報収集などはできるのではないか」
ローレンツが言うと、どういうことですか、とシグリが生真面目に尋ねた。ひじ掛けに頬杖をつき、ローレンツは言った。
「これから社交シーズンだ。俺も好むと好まざるとにかかわらず、出席しなければならない夜会などもある。お前が俺とともに出席してくれればいい」
「はあ」
彼女にしては不明瞭な返事をしたが、ローレンツは気にしなかった。
「俺も、エスコートする女性を押し付けられずに済む」
これに対して、シグリはやはり「はあ」と返した。
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