【2】
本日2話目。
夏季休暇が近づき、イルムヒルデは気がめいってくるのを感じた。試験はもう終わっている。結果がわかるのは休暇に入ってからだが、手ごたえはあったのであまり心配していない。成績の問題ではない。
長期休暇中、アイクラー公爵邸に帰るのが嫌なのだ。夏は社交シーズンにもあたるので、帰るとしたら領地ではなく帝都の屋敷になる。そこにはいつでも、保護者であるアイクラー公爵夫妻と実際にはいとこにあたる義理の兄、義理の妹がいた。
あまり交流のなかった姪たちを引き取ることになったアイクラー公爵夫妻だが、彼らはイルムヒルデにつらく当たった。無視する、と思ったら暴言を吐き無理難題を言いつける。それを解決すると暴力を振るわれる。解決できなくても折檻を受けた。それを見て、年の近い義理の兄と義理の妹は両親に倣ってふるまうようになった。特に、義理の兄はひどかった。
イルムヒルデには実の妹がいる。公爵夫妻は、この妹についてはかわいがって見せた。本心からではない。イルムヒルデに見せつけるためだ。夫妻は、どうあってもイルムヒルデを絶望させたいらしかった。公爵夫妻には三人の子供がいて、一番下の娘だけはイルムヒルデやその妹にも分け隔てなく接してくれた。それだけが癒しだった。
イルムヒルデがいなくなれば、彼らの攻撃対象は妹に移行するだろう。それだけは避けたかった。その一心で、五年間耐えてきた。しかし、大丈夫だと思っていても、心のどこかが悲鳴を上げていたのだ、と思う。本人は自覚がなくとも、明らかにイルムヒルデの行動はおかしかった。
今、両親は旅行に出かけている。上の義理の妹も同行しているはずだ。彼女はこの学院に入学できなかったので、別の学校に通っていた。義理の兄は仕事の視察で帝都を離れていると聞いている。二人の妹たちは、この学院の中等部に所属している。
試験もすべて終わり、学生たちは帰宅の準備を始めていた。何をしようか、と予定を立てる楽しげな声から逃れるように、イルムヒルデは湖の周辺の遊歩道を歩いた。
さわやかな風がイルムヒルデの金糸の髪を揺らした。そっけなく襟足で一つにまとめた髪。男装するようになったのはいつからだろう。
――また、耐えるだけの日々が続くのだろうか。
天気はさわやかなのに、イルムヒルデの心の中はどんよりと曇っていた。
一度、領地に帰ると言ったことがある。それは受け入れられなかった。保護してやっている自分に逆らうのか、とアイクラー公爵はいつもよりひどくイルムヒルデに暴力をふるったものだ。
帰る。かつて帰る場所は公爵邸ではなかった。ライヒシュタイン辺境伯家だったはずだ。しゃがみ込んだイルムヒルデは、澄んだ水を眺めた。ここで死ねば、優しかった両親のもとへ行けるだろうか。深く考えるより前に、彼女の手は持っていた小刀に伸びていた――。
そう、あの時、確かに死のうと思ったのだ。なのに、イルムヒルデは生きていた。体が震える。イルムヒルデは自分を抱きしめた。
「イルムヒルデ、大丈夫?」
心配そうにイルムヒルデを見つめる瞳がある。同級生のハイルヴィヒだ。他者との交流が少ないイルムヒルデでも、さすがにこの美貌の少女の名前くらいは知っていた。
「おい、大丈夫なのか?」
もう一人、こちらも同級生だが、フィリベルトがイルムヒルデを気遣うように手を伸ばしてきた。イルムヒルデが悲鳴を上げた。
「いやぁっ! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
一挙に狂乱状態に陥ったイルムヒルデに、フィリベルトはひるんだ。いつもの落ち着いた様子しか見たことがなかった。しかし、この怯えようは何だ。これが家族に虐げられた結果なのだとしたら、フィリベルトは彼女の家族を許せないと思った。
ハイルヴィヒはベッドに乗り上げると、イルムヒルデを抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫ですわ。わたくしたちは、何もしません」
とん、とん、と背中をたたく。少し魔術も使い、イルムヒルデを落ち着かせた。だんだん呼吸が落ち着いてきたイルムヒルデが目を閉じて体の力を抜いたのを確認すると、ハイルヴィヒは彼女を横たわらせた。
「フィリベルト、不用意ですわよ」
「……私か」
「当然ですわ。彼女、男性が怖いのですわ」
ハイルヴィヒにきっぱりと言われ、フィリベルトは目を見開いた。
「普通に話したことがあるぞ」
「ええ。驚異的な精神力ですわね。けれど、それとこれは別ですわ。おそらく、無体を働かれたことがあるのだと思います」
思わず、フィリベルトは顔をしかめた。ハイルヴィヒも似たような顔をしている。曲がりなりにもイルムヒルデは公爵家の養女だ。ほとんどの者は手出しできない。なら、候補者は絞られる。いくつか脳裏をよぎった名前に、フィリベルトは誰にしても下郎だ、と罵った。
「……やっぱり、アイクラー公爵家に帰すわけにはいきませんわね」
「当然だ」
うなずいて、フィリベルトは言った。
「叔母上のところに連れて行こうと思う」
フィリベルトの叔母なら、かくまってくれるはずだ。合理主義者ではあるが、情の篤い人でもある。説明を求められるだろうが、包み隠さず話せば、ひとまずイルムヒルデを追い出したりはしないだろう。
「叔母上って、カウニッツ幕僚長のことですの?」
「ああ、そうだな」
フィリベルトに叔母は何人かいるが、所在が知れており、確実にイルムヒルデをかくまえるほどの地位を確立しているのは彼女だけだ。
ハイルヴィヒは目を輝かせる。女性の身で幕僚長にまで上り詰めたフィリベルトの叔母は、ハイルヴィヒにとって尊敬できる女性である。
「わたくしが紹介していただきたいですわ」
「……お前といいアレクといい、なぜそんなに叔母上が好きなんだ?」
確かにすごい人ではあるが。まあ、紹介するくらいならいいか、とフィリベルトはうなずいた。イルムヒルデのことで、今後も手を借りたいし。
「それにしても、珍しいですわね。あなたがここまでするなんて」
ハイルヴィヒにからかうように言われ、フィリベルトは眉をひそめた。
「……さすがに、自殺未遂をするような相手を放っておけない」
一般論を唱えたが、ハイルヴィヒは納得していないだろう。それでも彼女は「そうですわね」と同意を示した。
「まあ、あなたが冷酷ではないということですわね。わたくしも協力くらいはしますわ。まあ、マティアス様にも報告すべきだとは思いますけど」
「ああ、そうだな……」
後から知られるよりも、先に報告しておくべきだとフィリベルトも思っていた。マティアスも、イルムヒルデのことを気にしていたし。
ふと、思う。マティアスは彼女の能力に目をつけていた。そのことを知っていたから、フィリベルトは思わず助けたのだろうか。そして、ここまで手を尽くそうと思ったのだろうか。考えたが、答えはわからなかった。
マティアスは学内にいるのですぐに連絡が取れたが、叔母はそうはいかない。出征しない限りは帝都の元帥府に詰めているので、連絡の取りやすい相手ではあるのだが、そもそも帝都まで少々距離がある。
返事があったころには、学生たちの半数はすでに帰省していた。あと三日もすれば、校内から学生の姿は消えるだろう。
叔母から連れてくる許可は下りたが、イルムヒルデを説得するほうが大変だった。というか、フィリベルトが説得しようとしたのだが。
「友人の家に遊びに行く、ということでこのまま連れて行きましょう」
と、ハイルヴィヒはイルムヒルデの強制移送を提案した。そして、それは実行された。控えめに言って。
「誘拐犯だ……」
「あきらめなさいな」
ちゃっかりと馬車に同乗したハイルヴィヒは開き直ったようにからからと笑った。
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