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【16】












 イルムヒルデは少々及び腰になっていた。立派な屋敷を前に、シグリの腕をつかむ。彼女の中では、すでにシグリは頼ってもいい人、と分類されていた。

「……本当に入るんですか?」

「何のために来たと思ってるんだ。行こう」

「はい……」

 訪れたヴェルナー大公邸は豪奢な巨大な屋敷だった。イルムヒルデが暮らしていたアイクラー公爵邸もなかなか大きな屋敷ではあったが、大公邸には負ける。それに、アイクラー公爵家は見た目より資金繰りが厳しく、見えないところはほったらかしにされていたりする。しかし、この大公邸は隅から隅まできれいにされている。


 中もまた豪奢であった。いや、どこがいいとかよくわからないのだが、センスが良すぎて理解できない、というような。大公邸の使用人が優雅に礼をした。


「いらっしゃいませ、シグリ様。そちらのお嬢様がイルムヒルデ様ですね」

「初めまして」


 緊張を押し隠しながら取り繕う。シグリが軽くイルムヒルデの背中を叩いた。

「早速、ご案内いたします。こちらへ」

 案内されたのは庭園だった。建前は庭園の鑑賞なので当然である。噴水の近くの東屋には、背の高い男性の姿があった。

「閣下」

「ああ、シグリ。出迎えもせず、すまんな」

「いえ」

 そう言って笑ったシグリを、イルムヒルデは見上げる。さすがは甥がポーカーフェイスというほどのことはある。まったく表情が読めない。いや、微笑んではいるのだが。


「閣下、彼女がイルムヒルデです」


 シグリに紹介されて、イルムヒルデは礼をとった。今日は男装なので、形だけだが。


「イルムヒルデ・フォン・アイクラーと申します」

「私はヴェルナー大公ローレンツだ。大公でも元帥でも、好きなように呼んでくれ」


 顔を上げると、女性にしては長身の部類のイルムヒルデが見上げなければならないほど背が高い、精悍な男性だった。柔和とはいいがたく、どちらかと言えば強面の印象になる。しかし、笑みの浮かんだ顔はそれほど怖いとは思われなかった。この人は、はるかに年下で身分が下の小娘であるイルムヒルデにも、礼儀を持って接してくれるだろう。そんな直感がした。


「……なるほど。父君に似ているな」

「あ……」


 思わず、声が漏れた。ローレンツの言う父とは、アイクラー公爵のことではない、と察するのに少し時間がかかった。彼が言うのは、イルムヒルデの実の父、ライヒシュタイン辺境伯のことだろう。

「父を」

 ご存じなのですか、と聞こうと思い、はっとした。シグリはライヒシュタイン辺境伯領フリューアでローレンツと出会ったのだ、と言っていた。つまり、フリューア国境紛争で指揮を執っていたのは彼なのだ。そういえば、当時の記録にもそう載っていた気がする。

 震えるイルムヒルデの背中を、シグリが撫でてくれた。東屋の椅子に座らせてくれる。

「すまない。不用意なことを言ってしまったな」

 直属の部下ににらまれつつローレンツが言うと、イルムヒルデは首を左右に振った。

「いえ……驚いただけで」

 ライヒシュタイン辺境伯家でのことが、話題に上らなくなって久しい。アイクラー公爵家では絶対に口に出せなかったし、そもそも、シャルロッテは両親が亡くなったとき、幼すぎた。周囲はイルムヒルデに気を使って口をつぐんだ。まだ覚えている人がいるということを、忘れていた。


 背中を撫でてくれるシグリに頬を寄せると、抱きしめてくれた。

「そうしていると、姉妹のようだな」

「少し年が離れておりますけれど」

 からかうようなローレンツに、シグリが肩をすくめるのが分かった。離れている、と言っても、シグリと彼女の実の姉エルナのほうが年齢が離れている。


「そろそろ、マティアスが来るな。行ってくる」

「はい。行ってらっしゃいませ」


 ローレンツに気を使わせてしまった、とイルムヒルデは顔を上げたが、シグリは彼女の頭を軽くたたいた。

「目が腫れている。今のうちに何とかしよう」

「でも」

「閣下がいいというのなら、いいんだ」

 いたずらっぽく笑い、シグリはイルムヒルデの目元に手を当てた。ひんやりとした冷気を感じ、ややあって掌が外された。

「いいぞ。うん、治癒はあまり得意ではないのだが、大丈夫そうだな」

「……ありがとう、ございます」

 もう一度イルムヒルデの頭を撫で、シグリは立ち上がった。釣られるようにイルムヒルデも立ち上がると、近づいてくる男性の集団が見えた。ローレンツと、約束のあったマティアス、それに従うフィリベルトと護衛のハーラルト。マティアスはイルムヒルデを見て目を細めた。

「元気そうだね、イルムヒルデ」

「お久しぶりです、殿下」

 眼鏡の奥の瞳を細めて、マティアスは微笑んだ。

















 お茶と、茶菓子と、テーブル一杯の花。男性の方が多いし、二人いる女性も漏れなく男装しているが、場だけ見れば女性が集まるサロンのような風情だ。もともと、庭の鑑賞という名目なのだから仕方がないが。


「……さすがに無理があったようだ」


 苦笑したのはシグリが入れた紅茶をすすったローレンツだった。そもそも、家主が彼の時点で庭の鑑賞とは、という状態である。

「音楽鑑賞のほうがよろしかったでしょうか。まさか晩餐会に招くわけにもいきませんし、若者たちを引き合わせるという意味では悪くないと思うのですが」

 と生真面目にシグリ。シグリの淹れた紅茶の美味しさに驚いていたマティアスが首をかしげる。

「僕たちとしては、ローレンツと幕僚長の逢引きに同乗したつもりなんだけど」

「面白い冗談だ、マティアス」

 ローレンツが一刀両断したが、イルムヒルデはシグリは結構脈ありなのではないだろうか、と思う。というか、ローレンツのほうが好意をはっきり示している気がする。

「で、だ。久しぶり、イルムヒルデ。元気そうで何よりだ」

「おかげさまで……それで、殿下に置かれましては、私にどのような御用でしょう?」

 イルムヒルデの言葉を聞いて、マティアスがシグリに言った。

「幕僚長に感化されてない?」

「半月以上ともに暮らしておりますからね」

 シグリ、にべもない。マティアスは肩をすくめてさっそく本題に入ることにした。


「実は、イルムヒルデを勧誘に来たんだ」

「勧誘、ですか?」


 注意深くイルムヒルデはマティアスを見た。にこにこ笑っている彼はシグリと同じくらい表情が読めない。

「そう。簡単に言うと、部下あさりだね」

「……私を部下にしたいということですか?」

 マティアスは破顔して手を打った。

「話が早くて助かるよ」

 直球すぎるほど素直に言ってのけたマティアスに、イルムヒルデは一瞬あっけにとられたが、かつてシグリに言ったことと同じようなことを言った。

「……私には、何もお渡しできるものがありません」

 隣に座るシグリがイルムヒルデを見た。すぐに視線を外し、紅茶に口をつけた。

「うん。僕は君の能力、頭脳を買いたい。官僚を探してるんだ」

「官僚……」

 イルムヒルデはシグリを見た後、フィリベルトを見た。彼にもできそうな気がする。マティアスも気づいたらしく、ああ、と声を上げた。

「彼はどちらかというと技術者だからね。やらせてできなくはないだろうけど」

 実際、シグリからお墨付きをもらっている。だが、人材は広く集めたいマティアスである。


 イルムヒルデはシグリを見た。彼女もイルムヒルデを見ていた。

「いつでも選ぶ権利はイルムヒルデにある。私もそうだったように」

 ローレンツはシグリの言葉にかすかに笑みを浮かべた。確かに、彼女は自ら選んで今の立場にある。

「……正直に申し上げると、とてもうれしい、です」

 次期皇帝をみなされるマティアスは、本当に官僚を探しているのだろう。彼は温和に見えるが、無駄なものには労力を割かない。つまり、今こうしてイルムヒルデに会っている時点で、彼にはイルムヒルデが必要だ、と思われているということだ。それは純粋にうれしいと思う。

「ですが、今すぐお受けすることは不可能です。私は今、アイクラー公爵家の保護下にあります。彼らは私がマティアス様に仕えるのをよしとしないでしょう」

 むしろ、息子を側近に、娘を妃に、と言ってくる可能性が高い。下の妹たちを人質などにされたら、イルムヒルデは引かざるを得ない。

 イルムヒルデの慎重な言葉に、マティアスは待ってました、とばかりに言った。

「イルムヒルデ。今、君がライヒシュタイン辺境伯の爵位を引き継げるということは知っている?」

「知っています」

 思いがけない返答に、マティアスがあれ、という表情になった。











ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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