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【11】















「私が今の上官……ヴェルナー大公に出会ったのは、戦場だった。そう、ライヒシュタイン辺境伯領フリューアでのことだ」


 シグリはイルムヒルデを見る。彼女もシグリを見ていた。彼女がかつて暮らしていた地。彼女が両親を失った地。シグリの話をするにはこのフリューア紛争の話は避けて通れない。イルムヒルデが嫌がるのなら話すのはやめようと思ったのだが、彼女は聞く、といった。なので、話を続ける。

「もともと私は官僚だった。外務省に属していてね、戦場で不足した幕僚の補充として戦場に送られた」

「え……でも、通常、軍務省の官僚が充てられるのでは? それに、女性が選ばれることはめったにないと聞きました」

 驚いてイルムヒルデが尋ねると、シグリは肩をすくめた。

「私に離婚歴があるのは知っているか?」

「あ、はい……」

 イルムヒルデはうなずいた。こんなにきれいで優しい人と離婚するとは、その人は見る目がないのだろうか。


「実は、元夫を叩いてしまって」

「……えっと」


 何と言っていいかわからず、イルムヒルデは口をつぐんだ。対してシグリは笑っている。

「あなたが気にすることではない。五年も前のことだ。まあ、それで、私は夫を叩くような女だ、と離縁され、上司に疎まれて戦場に追いやられた」

「……叩いたくらいで?」

 驚いたイルムヒルデに、シグリはうなずいた。

「叩いたくらいで」

 これでシグリに離婚歴があり、独身である理由が分かった。夫を叩いたせいで、よくないうわさが立ったのだろう。イルムヒルデにも覚えがあることだ。すぐ下の義理の妹がイルムヒルデの誹謗中傷を夜会で言いまわったことがあるのだ。

 公爵家にいても折檻を受け、一歩外に出ればよくない娘だ、と陰口をたたかれる。結局、イルムヒルデは学校で過ごす時間が一番落ち着けた。


 でも今はどうだろう。こうしてシグリと話をして、ハイルヴィヒやアレクシア、フィリベルトと出かけて。そんな日々を楽しい、と思える自分に驚いた。

「カウニッツ家はすでにすぐ上の姉が継いでいて、その家族もいた。離縁された家には戻れない。職場にももう居場所はないだろう……そう思ったのだけど、私は思いがけず、閣下に拾われた」

 拾われた、という表現は、イルムヒルデがフィリベルトに『拾われた』と思っているので、なんとなく理解できた。この聡明な女性にも、そう思うことがあるのだな、と妙に親近感がわいた。

「以降、閣下に仕えさせていただいているわけではあるんだが。一度、聞いたことがある」


 私の存在は、閣下にご迷惑をおかけしているのではないでしょうか。


 シグリは、イルムヒルデほどではなくとも曰く付きである。当時、社交界での評判は最悪といってよかったし、外務省が外に出すくらいには官僚にも疎まれた。そんな人間をそばに置くなど、ローレンツにとっては都合の悪いことではないかと思われたのだ。

「だが、あの方は私におっしゃられた」


 迷惑だと思ったなら、初めから幕僚に置いたりしていない。私にはお前の力が必要だった。そして、お前は私の思いに十分こたえてくれている。迷惑だと思ったことはない。言わせたい奴には言わせておけばいい。誰が何と言おうと、私はよい拾い物をしたと思っている。


 そう言って、ローレンツは笑ったものだ。

「……うれしかったよ。とても」

 かみしめるように、シグリは言った。泣きそうになったのを覚えている。そこまで彼女を認めてくれた人は、今までいなかった。この人についていこうと思った。

「……私を助けても、何も返ってこないと思います……」

 シグリの話を聞き、むしろ気を落としてしまったイルムヒルデである。彼女には、シグリほどの才覚はない。少なくとも、本人はそう思っている。うなだれてしまったイルムヒルデの頭を、シグリは優しく撫でた。

「そんなこともないと思う。フィリたちは親しい友人が増えるし、私は一人で夕食をとらずにすむ。イルムヒルデが来て、意外と私は寂しがり屋なのだな、と思ったくらいだ」

 笑いながら言う心優しい軍吏に、イルムヒルデは思わず笑った。

 得とか、損とか、考えるようなことではないのかもしれない。フィリベルトは助けたかったからイルムヒルデを助けたし、ローレンツは必要だったからシグリを拾った。二人とも損をするとか、考えていなかったのだと思う。

 なら、イルムヒルデがそれを言い出すのはおかしい。イルムヒルデが言うことではない、とシグリの話を聞いて思った。迷惑をかけているとかいないとか、判断するのはイルムヒルデではなくて、助けた側であるフィリベルトやシグリなのだ。彼女が勝手に迷惑だから、と出ていけば、彼らはむしろ失望するだろう。


 こういう、他人の思いを推し量る力が、まだ足りないな、と思う。そういうと、これから身に着けていけばいいのだ、とシグリは笑った。

「お茶が冷めたね。淹れなおそう」

 そう言って立ち上がったシグリに、イルムヒルデは慌てた。

「あ、私が」

「そう?」

 シグリからポットを受け取り、今度は紅茶を注ぐ。話に夢中で手を付けていなかった菓子にも手を伸ばした。必要なのは遠慮することではない。ここで何かを得て、もらった分を返していけばいい。返せれば、いい。

 そしてふと、イルムヒルデは思った。これは好奇心である。

「あの、シグリ様」

「うん」

 シグリは小首をかしげていた。そんな彼女に、好奇心なのですけど、と前置きをしてから尋ねた。


「シグリ様は、ヴェルナー大公閣下のことが、その、お好きなんですか?」


 かなり直球で尋ねたのだが、シグリは動揺したりしなかった。さすが、甥にポーカーフェイス、常にテンションが一定、といわれるだけある。

「さて。あなたにそう見えるのなら、そうなのかもしれないな」

 どうともとれる返答を聞いて、イルムヒルデは「失礼なことをお聞きしました」と引き下がる。シグリだから怒らなかったが、人によっては怒っただろう。そう、イルムヒルデのすぐ下の義理の妹などなら、怒ったはずだ。

 しかし、とイルムヒルデはシグリの顔を見る。常にポーカーフェイスといわれる彼女。だが、ローレンツの言葉を『うれしかった』と言ったとき、とてもいとおしげな顔をしていたような気がしたのだ。

「変なことを聞いてしまってすみません……でも、お話が聞けて良かったです」

「イルムヒルデ。一つ、厳しいことを言うが、いいかな」

「え? あ、はい」

 改まった口調のシグリに、イルムヒルデはうなずいた。柔らかな表情の多い彼女だが、真剣な表情になると少し怖い。シグリは美人だが、怜悧な美女、といっていいだろう。柔らかな表情が消えると、その顔立ちが際立つ。


「あなたは『迷惑をかけている』『妹たちを助けなければ』と思っていたな」

「はい、ええ……」


 イルムヒルデがうなずくと、シグリはそこでふいに優しげな表情を浮かべた。

「そう思うのは人の、妹のためじゃない。そう思うことで、自分を縛っているだけだ。もちろん、同じことを思っていた私には、本来言う資格はないがね」

「……」

 イルムヒルデは目をしばたたかせた後、紅茶の水面を見た。そう思うのは人のためではなくて、自分のため……。そうなのかもしれない、と思った。少なくとも妹たちは、イルムヒルデがいなくても今を楽しんで生きている。

 厳しい。けれど、優しい言葉。イルムヒルデは顔を上げた。

「はい。心にとめておきます」

 顔を上げたイルムヒルデを見て、シグリは少し驚いた後、「そうか」ともう一度笑った。












ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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