2 母なるものよ 過去編
その頃、橙蜜柑は下界の人間の更生を行う「更生部」に所属していた。
天界から下界に降りる。今回の出張先は雪が降りしきる北国。
うう……寒い……。
ターゲットは……あ、いた。
眼窩が落ちくぼみ、髪はぼさぼさ。傘も差さずに猫背で歩く、二十代後半の男性。
「セルゲイさん……?」
蜜柑は彼……セルゲイに呼びかける。
彼がこちらを向いた。
蜜柑は瞬時に、聖母のような微笑みを浮かべる。蜜柑は母性で下界の人間の心を動かすように造られたらしい。上司から聞いた話だが、その思考を蜜柑はあまり好きになれなかった。
顔つきが変わった。
「誰……ですか」
「あなた、大丈夫ですか?寒そうですね。わたしの家に来ません?」
セルゲイは警戒する表情を浮かべた。
「そこの家なんです。冷えてしまいますよ。さあ、行きましょう」
目の前の小屋を指差し、にっこりと笑うと彼は頷いた。
「名前……なんというんですか。僕は……セルゲイです」
「サーシャって呼んでください」
スープとパンをテーブルに運ぶ。
「わあ……」
彼はパンに手を伸ばした。
「どうぞ。召し上がってください」
蜜柑もスプーンを取った。
「ありがとうございます……。僕……二日間、何も食べていなかったんです」
「そうなんですか……大変でしたね」
蜜柑は、セルゲイのデータを反芻した。
セルゲイ・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー、二十九歳。
セルゲイは身寄りがいない。母親は癌で死亡。父親は莫大な借金を残して失踪。父親の借金を背負って、公園で生活している。
蜜柑は心が締め付けられるような思いだった。このことを彼に言ったら、同情していると思われるだろう。
守ってあげたい。
蜜柑は自分のその思いに身震いした。
これが……母性、というものなのか?
蜜柑はセルゲイを何日か泊めていた。ここまではマニュアル通りである。
更生部の神たちの使命は、下界の人間たちを更生すること。
蜜柑は彼の心を解こうと努力した。しかし、踏み込めたと思ったら急に暗い目をして黙ってしまう。その繰り返しだった。
ある日、夕飯を二人で食べている時。
「サーシャさん」
「はい、何でしょう?」
微笑みを浮かべた。
息をすっ、と吸って彼の口が開いた。
気づくと、セルゲイが札束を持って家から出ようとしていた。
「ま、待って……!」
蜜柑は駆けていって手を伸ばす。
「さよなら。サーシャさん」
彼女の目の前で、無情にも扉は閉められた。
To Be Continued......