だったらもう
続きます。
「甘美な性を表現する傑作たる『音楽』! 許されぬまぐわいを美しい芸術に変えて見せた彼の存在を抜きに古書店を名乗るとは言語道断たる所業ですぞ!」
「あぅぅ……」
え、怖っ──怖い怖い、何言ってんのこのおっさん。それに切り揃えられたロン毛がテラテラしてんだけど?いや無理だわ一ノ瀬さんのキャパをフルバーストでぶち抜いてるわ。そもそも最初はレジ打ち見せるつもりだけのはずだったし。
即座に立ち上がり、横から一ノ瀬さんの立ち位置を奪ってレジカウンターに置かれた文庫本を手に取る。努めてフラットな視線で高等遊民クサく忙しない黒目を真っ直ぐ見つめると、睨まない程度に眼力を入れる。
「うぃっす、こちらの二点っすね」
「むッ……!?」
「ぁ……」
言ってることはよく解んねぇ。けど商品をレジに持って来たのは確かだ、ここは当たり前の対応をこなしてさっさと去ってもらおう。チャラめにいった方が良いか……? せめて空気感だけでもコッチのモノにしないと。
「ブックカバーはお付けしますー?」
「うっ……た、頼めますかな」
「うぃーす、二冊で二百二十円っすー」
「う、うむ……」
謎のお客さんXはバリバリっとバリバリテープの財布を捲ってジッパーを開け、千円と二十円を銭置きではなくレジカウンターの上に直接散らばした。普段ならイラッとする場面だけど今はどうでもよく感じる。一刻も早くこのやり取りを終えたい。
包装袋の持ち手をおっさんに向けていつも以上に丁寧に手渡すと、レジからお釣りを取り出してもっかい目を合わせる。こういった客は隙さえ見せなければ何とかなるんだ。ヤンキー相手だと逆効果かもだけどね。
「八百円のお返しっすー、あざしたー」
「………確かに受け取った」
ファサッとロン毛を振りながら身を翻し、おっさんは真っ直ぐ店から出て行く。自動ドアが開くと同時に鳴り響く鈴の音に超ビックリしてサイドステップを踏んでいた。やだすごい機敏……。
よく分からんけど上手いこと対処できたようだ。
「………すげぇ客だったな」
「……」
「あれ、一ノ瀬さん?」
「……………ふぇ」
「え……?」
目を見開いたまま固まっている一ノ瀬さん。話しかけても返事が無いから覗き込むように窺ってみると、か細い声を発すると同時に肩を震わせ始めた。
あ、あれ? ちょっとこれ……もしかしなくてももしかする……? ヘイヘイヘイちょっと待て落ち着け! キャパどころの問題じゃねぇな! とりあえずこのままにすんのはマズいっしょ!
「一ノ瀬さん! え、えぇっと根詰め過ぎた? いったん居間の方に行こっか! 休憩しよ休憩!」
触れず寄らず目を合わせず。パーティー会場のウェイターのごとく腕をフルに使ってバックヤードに向けて誘導する。視界にキラッと見える透明の粒を見ないようにして先を行かせると、何とか居間の畳の上に座らせた。机の上にあるティッシュ箱を一ノ瀬さんの目の前に置き、急いで倉庫と言う名の納戸で作業してる爺さんの方に向かう。
「店長、ちょっとレジの方に向かってくれませんか。奥さんをお呼びしたいっす」
「何じゃ? どうした?」
「ちょっと癖の強いお客さんに当たっちゃいまして。ぶっちゃけ一ノ瀬さん泣いちゃいました」
「何ぃ!? 深那ちゃんはどこに居る!?」
「居間に休ませてますが店長は行かないでください。こういうのは女の人が適してます」
「むっ、そ、そうだなぁ……あい解った。レジ見とくから頼んだぞ」
「どもっす」
二階に上がってパソコンのキーボードを人差し指で叩いてる奥さんの元に向かう。事情を説明すると、フラットな口調で『わかったわ』と言って一ノ瀬さんの元へと向かってくれた。心配だけど爺さんよりはマシだろ。
「…………泣いちゃったかー」
や、まぁあれは流石に無理ないけどね。バイト初日であんなん来たら俺だって泣きはしなくても狼狽えるわ。何なら警察呼んじゃってたわ。
「………」
割と真剣に考える。最初は不慣れだったとしても一ノ瀬さんのアレは緊張とかじゃなくてメンタルの弱さによる恐怖や不安と言ったもんだ。今回のは仕方ないにしても小難しかったり神経質な客は少なくない。爺さんには悪いけど、この店に来るのはいかにも文学系の───言っちまえば弁が立つ系のお客さんっぽいのが多い。今のままじゃつけ上がらせる一方だと思う。
学校じゃいつも一人。読書をしてる横で俺や芦田が騒がしくしても多分こっそり視線を飛ばしてくるだけ。“自分を守るための壁”を否定するつもりはないけど、だとしてもクラスメイトですらそんな始末。この先、一ノ瀬さんは接客業を上手くやって行けるんだろうか……そもそも接客どころか奥さんや俺といった従業員間のコミュニケーションにも支障が出てるもんなぁ……。
「……俺の早とちりかなぁ………」
先に爺さんに相談してみよう、店長だし。バイトの先輩としては一ノ瀬さんの仕事っぷりを報告する義務なんかも多分あんだろう。何か良い案でも出してくれるかもしれない。
◆
居間の前を通りかかると、一ノ瀬さんの肩を抱いて慰める奥さんの姿があった。流石に泣いている女の子には優しいらしい。あの空間に飛び込む勇気は無かったので、レジ番をしてる店長の元に向かう。
「店長、あざっす。一ノ瀬さんは奥さんがケアしてくれてるんで大丈夫だと思います」
「そうか……佐城くん、どんなお客さんだったんだ?」
「いかにも文系ってタイプの、早口で何か哲学的な事をまくし立てる感じのお客さんでしたね。ですが正直なとこ似たようなお客さんは3日に一回くらいは対応してます」
「む……あの系統か。古い文学はわしも興味あってな……正直、割と彼らの言ってる言葉の意味が少し解る」
「え、マジすか」
知識をひけらかされてんのは何となく解るんだけど、俺が何も知らねぇもんだから謎の呪文の様にしか聴こえないんだよな。俺も文学少年になれば理解できんのかね……あの早口を聴く限り、知識の他にも内容を噛み砕くアタマも無いと意味無さそうだけど。
「あの……店長。このバイト、接客───ていうか、ある程度ああいうのを躱すスキルは必須っすよね……」
正直難しいとは思わない。躱すと言ってもこっちは機械のように手を動かしていれば大抵の客は引き下がる。俺は顔が似合ってなくて取り繕ってんのがバレバレになるからあんな風になったんだけど……問題はそれを一ノ瀬さんができるかどうかだ。
「そうだな……うむ、そうだ」
「っすよね……」
俺が抜けた後……楽なバイトとは言え接客の全てを店長に任せて他は一ノ瀬さんが───というわけにはいかない。そんなもんはアルバイトする人間としての義務を果たしていない。甘えだわ。幾ら何でも許されるもんじゃない。
言うか。言うぞ。
「店長。俺、一ノ瀬さん向いてないと思うんすけど……」
「なにっ、貴様あの子の上っ面だけで───」
「や、だったら店長も見てみますか。それで接客は全て自分が受け持つなんて言おうもんなら奥さんが黙ってないっすよ」
「………」
割と語気強めに主張する自分が居た。お客さんが居ないのは幸いだった、自分で自分のらしくなさにちょっとビックリする。確かにあの客はタチが悪かったかもしんないけど、思ったより俺は一ノ瀬さんの方にもイラついてんだと思う。つくづく相性が悪い。もしくは俺の心が狭いだけか。
世の中には向き不向きがあって、出来ないものは出来ないなんて人が居るのは頭で解ってんだ。だけど当たり前のようにできる最低限の会話を一から十まで世話してやんなけりゃなんない事に言いようもない焦れったさを感じてしまう。これは俺だけなんかね。
間違いだとしたら、俺の言い分を爺さんに真剣に受け止められるのが怖く感じた。
「深那ちゃんは……」
「?」
「深那ちゃんは───この店の可愛い常連さんなんだ……」
「……」
ぎょっとして爺さんの顔を見る。そこにはどうすりゃ良いか分からないと言いたげな表情が浮かんでいた。“自分ではどうする事もできない”と、そう言われているように思えた。
「……えっと」
初めて見る爺さんの“弱い部分”に動揺してしまう。いつだって強い人だと思ってたから正直信じられない、信じたくなかった。時折見せる頑固ジジイな部分は鬱陶しく感じつつも頼もしく感じていた。だから、今回のような悩ましい問題も同じくどうにかしてくれると思っていた。
「……奥さんは───」
言いかけてやめる。一ノ瀬さんの前髪を切ろうとした人だ。寛容さと卓越した人生経験はあるだろうが、“一ノ瀬さん”を察する事ができるとは思えない。同じ女だからと言って、何でもかんでも共感できるとは思えない。
「……あの、ちょっと一ノ瀬さんと話してみますね」
「ほ、ホントか……?」
縋るような目を向けられる。年上、しかもご年配クラスの人にこんな目を向けられるのは初めてだ。今まで俺がどれだけ末っ子気質だったのかが解る。人に頼られるってこんなにプレッシャーなのか。嫌だ、ああ嫌だ。だから俺は生徒会も風紀委員もなりたくないんだ。
「すんませんけど……あんま期待はしないでください」
「………あいわかった」
一ノ瀬さんはいつも学校で一人だ。あの場所に拠り所なんてもんが在るわけがない。だけど少なくとも、この古本屋と自分を気にかけてくれる爺さんは間違いなく拠り所に違いない。そうでなきゃリピーターにはなんないだろ。
ここが───この場所が、この空間が嫌いになるなんて事があってはならない。爺さんのためにもだ。
だったらさ……もう一ノ瀬さんが内気だとかどうとか気にしてる場合じゃないよね。せめて、“どう転んでも大丈夫”な奴が言うしかないよね。




