蛇口とコップ
続きます。
夏川に害が及んでは堪らないと、パッキンお嬢様を個人的に警戒する日々が続いた。あれからクロマティからの接触は無い。改めて〝東と西〟の噂を調べた感じ、気まずい空気感がまだあるみたいだ。今のところ部活を通じて仲の悪い噂がじわじわと広がってるって感触だ。帰宅部の俺や夏川には知りようもないわな。芦田もバレー部に西側の生徒居ないっつってた。斎藤さんみたいな茶道部は面識があるらしく、あんまり話はしないらしい。
情報は武器だし、絡まれた夏川も心配だけど俺自身トラブルは避けたい。いつ何をやらかすかわからんし、こういう事はこれからもできるだけアンテナを張っておこう。あれ、何か今の俺デキる男っぽくね?
いやっはっはっは。
「………ハァ」
雨、強め。夏の洗礼である。梅雨といえば六月のイメージだけど、もう何年も七月とか八月に続いてるイメージだ。傘をさしても足元はびっしょびしょだし、それから学校で過ごすにしても濡れた靴下から伝わる不快感がアゲアゲフラストレーション。
通学路を歩きながら、雨音を流行りの曲の伴奏にたとえて口ずさむ。傘を弾く水滴の音がそんな俺の声を掻き消す。湿気がもたらす不快感も、カラオケ会場と化した空間が和らげてくれた──え、今ちょっと詩的な表現じゃなかった? わたお。
そんな日本で一番どうでもいい事を考えてると、後ろからデカめのトラックが迫る音に気付いた。避けなきゃ──つっても歩いてんのは歩道だから心配ないんだけど……や、ちょっと待てよ?
「ちょ待っ──」
◆
「水も滴る良い男……」
「目も顔も死んでるねぇ……」
テンションが魔球ばりのフォークボール。落ち過ぎてキャッチャーの金的ストレートまっしぐら。中々のパワーワードだな、本当に起こったら野球人生っていうか男人生が終わりそうですね……。
「ツいてねぇ……」
水の暴力に襲われた。
芦田の気の毒そうな顔が本気スパイクばりの精神攻撃。まさか色んなとこからハンカチやらタオルやら渡されるとは思ってなかった。有り難いんだけどさ、山崎、このバッグの底から取り出したぐちゃぐちゃのタオルはいつのものなんだい?
それに加えて跳ねた泥とか砂は拭えただけで洗い流せてはいないし。あれだ、洗剤でよく擦り洗いしてんのにまだ食器がヌルヌルしてたときばりの不快感。
「夏なのによくジャージ置いてたわね……未開封の」
「連日着る事が無いからな……春先は一着あれば事足りてたし」
「って、タグ付いたまんまじゃない」
「3,980円……これが俺の値段か」
「ちょっ……」
「わかるー、テンション最悪の時のマイナス思考わかるー」
「んぐふぅ……」
「結構鈍い音したけど……」
目の前の机にデコが落ちた。痛かったけど痛くなかった。もうどうにでもなれ感がスゴい。雨降ってなくても時々こうなる事あるんだよな。嬉しいことがあるとするなら夏川がちょっと優しくしてくれる。あふぅ。
「運が悪かったとしか言いようがないね」
「何で雨の日に限ってトラックが通るんでしょうね……」
「水溜まりぶっかけに来てるよな……」
あんなトラックが住宅街近く通って良いん? 引越し業者ならわかるけど明らかに物流系だったし……誰だよ業務用単位で仕入れしてるパンピーは……。
「……」
「ちょ、え、渉!? 寝るなっ、せめてタグくらい」
「え、寝た? 寝たの? うっそでしょ」
「愛莉より寝付き良いんだけど……」
や、まだ寝てねぇ……でももう良いやこのまんまで。伏せてた方が楽。無駄に動いて濡れたパンツが張りいてんのを感じたくない。
まだ一限すら始まってないのに何なんだろうなこの疲労感……精神的な問題? イヌとかネコの動画でも見て癒されるか……や、でもWi-Fiが無いとこで動画見るのやだな……お袋に怒られちまう。
あー……やる気がなんっも起こらねぇ。体のどっかにやる気スイッチでもねぇかな……無くても良いや。今はせめて、少し乾くのを待って……──。
◆
コップが在った。
真っ白な空間に、透明なコップ。ただそれを見下ろしていた。
蛇口が現れた。新築の家にあるような、お洒落な蛇口。
蛇口の持ち手が上がる。『美味しいですよ』と言わんばかりにコップに水が注がれた。
蛇口から水が止まる。コップには飲み始めるのに丁度良いくらいの水が入っていた。折角だから飲もうと思って手を伸ばすけれど、視界に自分の手が映る事は無かった。呆然とするものの、そのコップはどこか満足げにしていた。
コップから湯気が立った。映らない手でコップを触ってみるけれど、熱くない。上に手をかざすと手の平が湿ったのが分かった。これは……蒸発している?
気が付けば、お洒落な蛇口は消えていた。
コップの水が倍速再生でもされたかのように減って行く。その度にコップが「待って、行かないで」と必死に叫んでいるのが伝わった。
少しずつ、しかし確実に減って行く水はやがて底を突き、コップの中身を空にした。どうもコップは悲壮感に苛まれているようだ。「何で、どうして」と泣いて悲しんでいる。それを見て、何故だか胸が痛んだ。
しばらくその時間は続いた。コップは空のまま。どうもここは時が早く過ぎているらしい。ただでさえ判りやすく空のコップが渇いて行くのに、自分はその様をただ眺めることしか出来なかった。コップはそんな渇き行く自分を受け入れ、じっと俯いているように思えた。
水の音が聴こえた。
ハッとした。コップも驚いていた。慌てて辺りを見回し蛇口を探す。すると、コップの上に蛇口が現れた。さっきのものとは違う、寂れた公園にでもあるような少し錆び付いた蛇口。しかしコップはそれを見て喜んだ。
それも束の間、蛇口から途轍もない勢いでコップに水が注がれた。コップはそうして潤っていく自分に一瞬喜ぶも、自らの適量を超えると慌てだした。「もう良いよ、もう注がないで」と、懸命に訴え掛けているのが分かった。けれど、水は無情にもコップから溢れ出す。
蛇口はまだ物足りないのか、「もっと、もっと貰ってくれ」と言わんばかりにコップに水を注ぎ続ける。何がそこまで彼を駆り立てているのか解らない。コップはその蛇口に憤っていた。
水の勢いがほんの少しだけ弱まった。蛇口を見ると、注ぎ口の付け根の隙間から漏水していた。元々錆び付いたものだったからだろうか、強すぎる水の勢いに耐えられなかったのかもしれない。
気になってコップを見る。コップは水を溢れさせながら、迷惑そうにそっぽを向いてツンとしていた。そもそも頭上の蛇口を見上げる余裕など無いのだろう。
どれだけ時間が経っただろう、蛇口の水の音が変わる。何だと見上げた瞬間、蛇口の注ぎ口が吹き飛んだ。
壊れて、部品と水が弾ける。何とかしようと思わず手を伸ばすものの、相変わらずその手は視界に映らなかった。まるで、そこに存在していないかのように。
さすがのコップも気付いた。注がれていた水の勢いの変化が露骨だったのだろう、頭上を見上げ、蛇口の有り様を視界に捉えるととても驚いていた。「大丈夫なのか」とコップが問いかけてはみるものの、その声が蛇口に届くことは無かった。
蛇口が壊れた一方で、コップは余裕を取り戻し始めた。水が溢れることはなくなり、他を気に掛ける余裕も生まれたようだった。コップはようやく本調子を取り戻したと、壊れた蛇口をよそに喜んだ。
水が止まった。
蛇口は蛇口としての形を大きく歪ませ、自ら水を堰き止めてしまったようだ。激しく水を噴き出していた時のような熱情は感じられない。それこそただの意思なき物として──壊れた蛇口としてそこに在るようだ。
一方でコップは鼻歌を唄うくらいご機嫌だ。特に何かをしているわけでもないのに、水面をゆらり、ゆらりと、愉快に揺らしながらにこにことし続けている。
そんな悠長にしていて大丈夫かと思った。これは果たして笑っていられる状況なのだろうか。そんな疑問に応えるように、先程と同じ蒸発が始まった。コップはまだそれに気付いていない。
水が減る。半分以下になったところでコップが気付いた。驚いて慌てるものの、減り行く水は止められない。先程のお洒落な蛇口とは違って、上の壊れた蛇口は姿を消さずにそこに在り続けていた。
コップは満たされていた時の感覚が忘れられないのだろう、最初とは違って渇いて行く自分を許せなかった。やめて、行かないで、自分には水が必要なんだ。水が無ければ自分は────。
水が無くなった。
コップは泣いた。涙が流れているか、悲しい表情をしているかなんて見えない。至って無音な空間に違いないのに、何故だかそのコップの慟哭が聴こえた。その様子に、またしても胸がズキズキと痛くなる。満たされようと渇こうと、この手では何もできないコップの運命がとても理不尽に思えた。
コップは泣き止まない。水は無くなり渇き尽くされようというのに、まだ求め続けている。
何故だ、どうしてまだ求める? さっきも同じだったろう? 自分の運命を受け入れて、納得するしかほかに道は無いのではないか? 現実なんてそんなものだろう?
ただそう思っただけ。決して口には出さなかった──はずだったのだが、まるでメッセージとして伝わったかのように、コップは此方に振り返った。
コップは此方を見て驚くと、そっと意識を閉ざした。
──やがて、コップは枯れた。




