知らない彼女
続きます。
「……」
「ね、ねぇ……何考え込んでんのよ」
「あ、いや……」
頭の中で色んな考えが巡っている。そうしているうちに黙り込んでしまっていたのか、夏川が不安げな顔で訊いて来た。愛莉ちゃんを放すと、俺に近付いてそっと肩を揺すって来る。そのせいか、俺の頭の中に巡っていたものは複雑に絡み合い、遂には弾けてしまった。
───頭の中が、真っ白になった。
「ちょ、ちょっとっ……何とか言ってよ」
「ぁ……っと…………」
口は開くけど声が出ない。何を言えば良いのか分からない。こんなのはいつもの俺じゃない。いつもなら湯水のごとくアホみたいな考えばかりが湧いていたはずだ。こういう時こそ同じ様にそれを発揮できれば良いものを……。
「むしするなー!」
「うわっ!?」
気まずい空気を切り裂くように、愛莉ちゃんが身動き取れず固まっていた俺に飛び込んで来た。うつ伏せで腕立ちしていたところを横から押され、ゴロンと転がされて仰向けになる。
「おねぇちゃんをいじめるなぁ……」
「い、いじめてない! いじめてないから!」
泣きそうな顔で俺を手でてしてしする愛莉ちゃん。マジで泣かれたら堪らない、とりあえず慌てて弁明した。経験した事の無い焦燥感にさっきとは別の意味でどうして良いか解らなくなる。
夏川を見るとこちらも困惑した顔で愛莉ちゃんを見ていた。心なしかこちらもちょっと目が潤んでいて──っておいおいおいおいッ!!
「こ、今度そっちの方行くわ! 夏川が良ければの話だけどさ! てか行って良いの!? 大丈夫!? ファイナルアンサー!?」
頭ん中ごっちゃごちゃのまま叫ぶ。本当はまだ教室ではあんまり近付かない方が良いと思うけど……まぁ言ってしまったもんは仕方がない。
こうも調子を狂わされるのは夏川が“いつも”と違うからだ。何なら学校から出た時点でいつもと違う。だから、ここらでいつもの感じに戻してやる。
「また変に馴れ馴れしくするかもしれねぇよ?もしかしたら癖で変な事言うかもしんないし。それでも良いなら行っちゃうけどよ」
良くなんてない、〝その気〟で来られるのは嫌なはずだ。仲間意識は有ったとしても、異性として好きでもない男にそんな目を向けられるのは気持ち悪いに違いない。その気持ち悪さをずっと夏川に向けて来た。恋で盲目の俺に器用な事なんてできなかったから。
俺が癖付いてしまったように、夏川も反射的に俺を突き放す癖があるんじゃないか。そして思い出すんだ、追い払っても追い払っても追いかけて来るストーカーのようなピエロを──
「──………約束ね?」
「……」
……。
……何が起こった? まさか夢でも見てんじゃねぇか?
そっと摘まれた袖。夏川がどんな理由でそうしたかは解らないけど、少なくとも拒絶されたわけじゃないのは解った。
こんな甘酸っぱい感じのが本当に俺に起こり得るの? 誰かが仕組んだ事じゃなくて?
甘酸っぱいなんてものじゃない、甘過ぎる。一度味わってしまえば忘れられなくなってしまう──これはもはや毒だ。〝魅惑のひととき〟は相手を夢中にさせる。それは幸せな時間なのかもしれないけど、与える側の気分次第で拷問にもなり得る劇薬のようなものだ。
「ぁ……」
そっと腕を引いて、甘すぎる束縛から逃れる。それと同時に胸の中で強烈なもの悲しさが生まれたけども、グッと堪えて無理やり抑え付けた。
落ち着け、佐城渉。これは〝そういう〟状況じゃない。取り憑かれるな。今までの自分の行動を振り返れ。俯瞰しろ、戒めろ。
「………任せたまえよ」
「な、何よそれ……」
「なによそれー!」
厳かに答えると、夏川は少し笑いながら呆れた顔を浮かべた。超真面目な顔で言ったのが上手いことハマったのだろう。その様子に安心したのか、愛莉ちゃんも大きな声で夏川の真似をした。こら、人のお腹をぺちぺちするのはやめなさい。ちょ、こら──
「───だぁーらっしゃあああ!」
「ふわぁぁ……!」
微妙に残った変な空気を切り裂くように立ち上がる。その際に愛莉ちゃんを勢いのまま抱え上げてやった。夏川直伝の抱っこが完成すると、愛莉ちゃんはその勢いが楽しかったのかキャッキャと笑い出した。ふぅ……あぁ……可愛い。
「ちょ、乱暴しないでよね!」
「大丈夫、絶対に危険な目に遭わせないから」
「もうっ……」
おうまさん、あるじ、まもる。
とはいえ乱暴な子には育って欲しくない。ダイナミック抱っこは軽いお仕置きの様なもの……のはずだったんだけど。あんまり人をぽこぽこ叩いてたら嫌われちゃうからな。何よりそれは夏川が悲しむからここは年上のお兄さんとして一肌脱ごう。
「ほぉら、人を叩くとお姉ちゃんが怒るぞー」
「やだ」
「俺もやだ。だから叩いちゃダメ」
「うん、わかったさじょー」
「お兄ちゃん」
「さじょー」
「……」
……うん、解ればよし。よく考えたら俺って人の上の立場になった事なんてほとんど無ぇな。こんな俺でも何かを教える事が出来たのなら嬉しいもんだ。どうか健やかに育って夏川の様に才色兼備なイタタタタ何で髪引っ張るのぉっ……!
「くぉら、髪引っ張らない」
「あう」
ヨイショと抱え直し、その反動で髪から手を遠ざける。ダメだとようやく理解してくれたのか、愛莉ちゃんがそれ以上乱暴する事は無かった。夏川が不安かつ心配そうな顔でこっちを見てたから、愛莉ちゃんを返した。
「はぁ……元気だな」
「そうね……幼稚園の子に対してだってこんな活発じゃないんだけど。アンタは虐めやすいのかもしれないわね」
「それがマジなら俺の本質っぽく聴こえるんでやめてもらっていいですか」
虐めやすいって……そんな悲しい星の下が在って良いんですか……いや! そんな事は無い! 相手は子供だ! きっと俺にだってその辺のイケメンより良い意味で好かれる部分だってあるはず! 面白さとか! でも一応訊いとこうかな!
「愛莉ちゃん、タカアキとどっちがイケメンですか?」
「なに訊いてんのよ……」
「いけめん〜?」
「素晴らしい教育を受けているようですね」
「早くに教えるわけないでしょそんな言葉」
教えられて知る言葉じゃないんですよ……一歩外に出ればそこは喧騒の世界。数多の雑学が転がる俗世で余計な情報だけ間引く事など普通なら不可能なのです。しかしこの愛莉氏は1日に最低3回は聞きそうな余計ワードを知らないと言う。何と素晴らしい才媛か! 我が姉など今こそイケメンに囲まれているものの小さいころからイケメンイケメンとうるさかったぞ!
「タカアキとどっちがカッコいいですか?」
「めげないわねアンタも」
「たかぁき!」
「もっとお勉強しような」
「叩くわよ」
ごめん、つい。
変になった空気だったけど少しはマシになったように思う。俺の程度の低い胸の内を聞いたとこで何か得があるようには思えねぇし。やっぱりこの距離感は少しばかり近過ぎるわ。真剣な眼差しで真っ直ぐ凝視なんてされてみろ、俺なんかナメクジみたいに溶けちまうわ。実際、頭ん中がそんな感じにトロトロしちゃうし。
◆
窓から差し込む光が赤くなっている事に気付く。時計を見るとそこそこ良い時間、今が日の高い季節である事を忘れていた。
「──むぅ〜……」
「ふっ……まだまだ甘いな」
「なに言ってんのよ……」
夏川の腕の中で悔しそうにする愛莉ちゃん。というのも俺とはしゃぎにはしゃぎまくって疲れ果て、今は絶賛睡魔に襲われているからだ。途中でもう疲れたのかと挑発的に言ったらムキになる事いとをかし。高校生男子の体力に付いてける五歳児など存在しないのだよ! フハハハハッ!
「アンタ、途中この子と精神年齢同じだったわよ……」
「その方が性に合ってんだよ。佐々木みたいに〝お兄さん〟をやるのは俺じゃ無理だわ」
「その割に疲れてんじゃない……」
途中でぶつかり稽古みたいのが始まったのに端を発した。夏川いわく、愛莉ちゃんは今みたいに誰かに思いっきりぶつかることはあまり無いらしい。お父上様はどうやら簡単に転がされちゃうようで……ってか何でこの子は俺に力で勝とうとするわけ……?
俺は俺でかなり神経遣わされた。床がジョイントマットとはいえ危ないもんは危ない。受け止めつつ怪我もさせないようにするのはかなり疲れた。世の中のお父さんっ……! もっと頑張ってください!
「……良い時間だし、そろそろお開きかな」
「あ……そ、そうよね」
「なに、『名残惜しい』だって……?」
「い、言ってないわよっ……!」
知ってた。しゅん。
芦田が言うように、確かに夏川は何らかのつながりを求めているように思う。そうでなきゃ普通こんな招待なんてないもんな。どうしたものか……どうして今になってこんな状況になってるんだろうな。俺が夏川を恋愛対象以外に見ることなんてほぼ不可能だっていうのに……。
今日の夏川と関わった一日を振り返って何となく困ってしまう。それが顔に出たのか、不思議そうな目を向けられるも、頭を掻いてやり過ごすという典型的な反応をしてしまった。夏川は可愛いわ愛莉ちゃんは可愛いわでもう擦り切れる精神すら残ってない気がする。
「…………さじょー………」
「ん……?」
「さじょー……もっかい」
「おー、わかったよ」
愛莉ちゃんは俺の奥義──ダイナミック抱っこをいたく気に入ったみたいだ。ぶつかり稽古(仮)にしろ、どうにもこの子はスリルが好きらしい。絶対ジェットコースター気に入るよねこの子……早くおっきくなろうな。




