非現実
続きます。
「───え?」
「だ、だからっ……!ア、アンタさえ良かったら───」
身を引き裂かれる思いで邪念を殺し、上履きシューズを履き替えようとしたところで手に取ったローファーを落とした。思ったより遠くに転がってそれを取りに行くっていう何ともカッコ悪い姿を見られた。
あの、夏川さん……今日っすか……マジすか……。
何とも急な話──や、実は別に急でもないのか? 夏川が俺だけ連れてくって可能性を完全に潰してたわ。少なくともまさか今日って事ぁねぇだろと思ってた。
「え……うん?何か準備するとか言ってなかったっけ?」
「そ、それはっ…………こ、心の準備」
「可愛い」
「かっ、可愛いとか言うなばかっ!」
「ごめんリビドーが」
「……前に圭も言ってたけど何なのよそれ………」
え、芦田も言ってたの……? 芦田が夏川にリビドーを感じた? もしかして俺って芦田のライバルだったって事? やだすっごい百合の香りがしてきた。もう俺なんか引っ込むんで心置きなくリビドー感じちゃってください大好物です。あとできれば俺の前で。
や、もう贅沢なんて言わねぇし言えねぇよ。よく考えたら夏川が俺と接してくれるってだけでもうこの上ない幸せなんだから。握手会のチケットはどこで手に入りますか。
……え、じゃあなに、俺今から夏川の家に行くの? ヤバくね? それヤバくね? 芦田の言ってたヤバさってそういう事? めっちゃヤバいんだけど。何か菓子折りとかそういうの──愛莉ちゃん、えっと……ひもQ?
◆
帰り道が懐かしく感じる。ついこの間までの事なのにそんな感想が強く湧いた。四月からこの道を夏川と何回一緒に帰った事だろう。俺ただ追いかけてただけなんだけどね。ハハッ。
さて、あの頃と違う点としては夏川が俺の前をスタスタと歩くんじゃなくて、俺の横に位置してる事だ。何とも面映ゆいものである。
「なぁ、夏川」
「な、なに」
「思ったより緊張で死にそう」
「な、何で緊張すんのよ!」
「夏川と二人っきりだからだよ」
「なっ、な……!?」
「や、解らない? 見てみろ俺の脚、もうガックガクなんだけど」
「……震えてる」
わざわざ言わなくて良いから。キミ、俺がアナタの事どう思ってるか知ってるよね? 解るかな今のこの気持ち……天国に居るけど拷問受けてる感じなんだよね。お腹いっぱいのところに大好物だからと巨大ハンバーグを出された感じ。それもこれも当方の心の準備ができていないからと言いますかつまりそういう事であります軍曹。受け皿なんかやってる場合じゃなかった☆
「そんなに緊張しなくて良いわよ……」
「開き直るわ、もう緊張をパワーに変える」
「そ、そう……」
そう、考えるんだ。これは別に色っぽい展開じゃない。夏川が単に俺を妹ちゃんに紹介するだけ。そうそれだけ。夏川が俺と一緒に帰ってるのは手続きに過ぎないんだ。つまりこの状況は事務的なのである。
とはいえ今のこの状況で何を話せば良いのか。俺に家の場所教えて良いのかとか家に上げて大丈夫なのかとか訊きたいけど、それ訊いちゃうと「じゃあ何で今まで駄目だったん?」って話につながるから駄目だ。たぶん夏川をまた苦しめる。だから、何か別の話題にしよう。
「……妹さんはどんな子なんだ?今んとこスマホの写真でしか見たことないからさ。ちなみに俺の姉はゴリラ」
「アンタお姉さんと仲直りしたんでしょうね……」
「したと思う。肉まん口にぶっ込んどいたから」
「何やってんのよ!お姉さん怒るじゃないっ!」
ぷりぷりと怒る夏川。可愛いんだなこれが。いや本気でぶっ込んだわけじゃないんだけどね。何ならぶっ込まれに行ってたからねあの霊長類。
でもそれが俺ら姉弟の在り方っつーか? 近況報告し合ってるみたいなもんだ。タイムラインと同じ。姉弟の家庭なんてどこも同じ感じなんじゃねぇの。
「それで怒って拳で語り合おうとして結局俺が語られるだけなのがスキンシップなんだよ。よく考えりゃ一番腹ん中さらけ出してんの姉貴だろうかんな……向こうはどうか知らんけど」
腹ん中っつーか姉貴が物理的に腹をさらけ出して見せてる男が居るとしたら俺くらいだろうな。あれ他の男からしたらマジでヤバいんじゃね? 夏川で想像したら──やめろ、今はやめろ。何かヤバい空気になりそうだ。
「そ、そうなの?そんなスキンシップもあるのね……」
「キョーダイ持ってる身としちゃ夏川の先輩だからな。妹さんに肉まん口にぶっ込まれたら教えてくれ、相談に乗る」
「愛莉がそんな事する日は未来永劫来ないわよ」
いや分からんぞ。幼い子供だって十年も経てば変わるんだ。姉貴だって十年前はゴリラなんかじゃ──あれ、おかしいな……昔から印象変わってねぇや。ブランコで一周しろってすげぇ無茶な命令されたの思い出した。
「愛莉は……そうね、愛莉は……」
「うん」
「───天使よ」
「うん、夏川が超可愛がってんのは解った」
真剣だった。俺は夏川とは別で同様に天使とやらを可愛がる先輩を知っている。その経験あってか夏川の妹に対する心酔具合を察した。まぁあのメチャ可愛の画像見る限りだと無理は無いわな。
「それで? 溺愛ポイントとかあんの?」
「え? えっと……私に完全に安心感を持ってくれてるとこ」
「え、わかるもんなの?」
「あのね、抱き上げると全部を私に預けるの……全部の力を抜いて、スッて寝るっていうか」
「……」
んんっ……可愛い! 妹の事になると語気が柔らかくなる夏川超可愛い! え、俺にこんな優しい顔見せた事あった!? 何年も関わって来てこんな顔初めて見たんだけどどういうこ!? もうマジっ……俺今日死ぬんじゃねぇの!?
たぶんどうもしたくないよね知ってた。
「……一応言っとくけど、俺に佐々木みたいなお兄さん感を期待すんなよ。よく考えたら幼い子供と接した事なんてほとんど無いし」
「あ……そうよね。アンタ、弟だもんね……」
「期待してたん?」
「し、してないわよ! 調子乗るな!」
「それであの、参考までに佐々木はどんな風に接していたのかをですね……」
「……さてはハードル下げようとしてるわね……別に普通にしていればそれで良いわよ」
だって嫌われたくないし……普通にするってどうすりゃ良いの? 今まで普通にしててキモいって言われて来てるんですけど。
いやホント、どうすりゃ懐かれるわけ? 初対面の子供と仲良くする方法とか全く浮かばないんだけど。ってか大丈夫? 俺の髪の色とか初対面の奴からしたらたぶん結構ヤンチャなイメージだと思うんだよね……あ、これヤバいっすね。
「あの、夏川さん……」
「な、何よ」
「……帰ってもいーい?」
「ハ、ハァ!? 何で今さらそんな事言い出すわけ!?」
「だって緊張で押し潰されそうなんだもん……」
「〝もん〟とか言うな! そ、そういうとこだかんね!」
「うっ……」
今まで夏川に何を言われようと傷付かなかったけど、そんな客観的な言い方されると弱い。自尊心が! 俺の自尊心が! 毒霧ステージのHPのようにみるみる減って行く……!
「い、良いから来て! ここまで来て帰るとか無いんだからね!」
「あ、ちょ……」
腕を掴まれ、いつも歩く道とは違う道に引っ張られる。この先に夏川の家があるんだろう。おっふ……俺の頭のマッピング機能が勝手にフル稼動してやがる。所詮、俺の体はまだ夏川に一途という事か。ごめんな、全国の夏川ファンのみんな……俺今日、夏川の家に行く。
「ぁぁぁぁぁぁ………」
「小声で唸るな!そんな緊張する事なんか無いわよっ……」
いやまず想い人の家に上がり込もうとしてる時点でさ……解るだろ? 解んない? 解ってお願い! 俺の気持ち知ってるでしょ夏川さん……! 嬉しいけど嬉しくないの! 怖いの! 鬼ヶ島なの!
終始挙動不審だったらどうしよう……そうなったらもういよいよ夏川とは距離を置くしかないな。だって俺がツラいんだもん…………これか、これがキモいんか。
「夏川……今更だけどよく積極的に男子を家に連れ込めるよな」
「つ、連れ込むとか言い方しないでよ!」
「や、実際ヤバいと思うぜこの状況……」
「うっ……」
っべーな。夏川のためならどんなとこまででも付いて行ける気がしてたけど、思ったより俺の現実的な面がこの稀有な状況から逃げ出そうとしてるわ。全然黙って付いて行けてねぇじゃん。言葉出る出る。
「…………ど、どこがおかしいのよ」
「……え?」
「に、二年半も一緒に居るじゃない。家に上げることの何がおかしいのよ……別におかしくないじゃない」
「おかしく、ない……? オカシクナイ、オカシクナイ……」
「え、ええっ……!?」
そうだな……よーく考えたらもうすぐ二年半にもなるか。確かに夏川の言う通りだわ。そんなにつるんで来たんなら別に異性だろうと一人で家に上げるのも違和感はない……のか?
夏川が俺とずっと一緒に居たっていう認識なのがもう驚きだし、心の距離が遠すぎて寧ろ俺の方に〝つるんでた〟って認識が無かったわ。
こうなったらもう耐えるしかない。できる、俺ならできる。緊張で腹痛? ハハッ、姉貴の鳩尾パンチの方が百倍痛ぇわ。持ってくれよ俺の理性……! 現実逃避三倍だぁぁああッ!!