恐怖の対象
続きます。
『なん、で……そんな、ことを……』
最初は悲しそうな表情じゃなかった。びっくりしたような顔で、目を見開いて。自分が涙を流していることに気付いていないようだった。その時の俺は突然の事に気が動転していたのか、夏川の様子がおかしくなった理由を考える余裕は無かった。
『何でって……いや、それより……』
『〝それより〟……? ぇ──』
ようやく絞り出した俺の言葉に夏川の瞳が見たことないくらいに鋭く細められる。それによって視界が滲んだのだろう、夏川はようやく自分の体に起こった変化に気付いたようだった。
『ぁ……』
頬を伝って落ちた雫が夏川が広げた両手の上に落ちる。顔に手をやって、頬に触れた指先が濡れていることを確認すると、自覚したように端正な顔を歪め、慌てたように袖の裾で何度も目元を拭った。
『な、夏川……』
『……っ……!』
『ぁ……』
あまりの様子に思わず手を伸ばすと、夏川は弾かれたように俺から一歩距離を置いた。今に至るまで結局想いを断ち切ることができていない俺には強いショックだった。思わず固まってしまった。
『ご、ごめ……なさっ……!』
夏川も動揺してるようだった。必死に涙を止めようとしているのがうかがえた。しかし袖の先が湿っていくだけで、どうにもできないようだった。
『──っ……!』
『あっ……』
泣き顔を隠すように身を翻し、走り出す夏川。その背中が校門を出て見えなくなるまであっという間の事だった。追いかけようにも俺の体は金縛りを受けたように動かなくなっていた。動かせたとしても、この状況をどうにかできる自信もかけるべき言葉も持ち合わせていなかった。
『──……』
どれくらい時間が経ったのだろう、茫然自失となり、頭が真っ白になった後に俺の体は自由自在になった。想い人にはっきり拒絶されるという懐かしい喪失感によって逆に冷静になった俺は、夏川に逃げられた理由について頭を巡らした。
──普通に考えれば、それもそうか。
よく考えれば当然の帰結だった。そもそも、俺がこの怪我の真相を夏川に知られたくない理由こそが答えだった。
目の前に、自らの首に刃物を宛てがう人が居る。そのまま眺めていては惨たらしい悲劇が待ち受けている事は分かりきっている。だから、どうにかしなければならない。
そうだ、目の前で怪我して見せて血を見せよう。
頭のおかしい発想だ。誰かを助けるために自らを深く傷付けるなんて正気の沙汰じゃない。現に俺は、それをやった直後には強く後悔していた。どうしてこんな方法を取ったのか。もっと別の手段があったんじゃないかと。
夏川はそんな事をしでかした俺を認められなかったんだ。身近な存在がこんな頭のおかしい事をしたのだと信じたくなかったんだ。俺自身すら怖いと思ったこの衝動に、恐怖を覚えたんだ。
理屈で理解できるものじゃないだろう。だから意識の外で涙を流し、ああやって逃げ出すしかなかった。理解の及ばない存在から自分自身を守るため、俺から距離を取るために。
『──運転手さん』
『! は、はい……』
『カバン、返してくれます? 帰りの世話とか要らないんで』
『は……し、しかし』
『要らねぇっつってんだよ』
『……。どうぞ』
差し出されたカバンを引ったくるように手に取った。今にして思えば運転手さんに対して申し訳ない態度を取ったと思う。多少の怒りはあれど、正直そこまでではなかったから。事実を隠し続ける後ろめたさが無くなって少しスッキリした部分もあった。
結局のところ、俺は真実によって夏川がどんな反応をするか何となく分かっていたんだ。だから話さなかった、あんな目で見られることが怖かったから。あの時、首にカッターナイフを宛てがったのがお嬢じゃなくても同じことをしていただろうから。これがバレるのは遅かれ早かれの話だったのかもしれないと、この時点で自分の運命を察していた。
『あ、あの──!』
『……何だ』
『その……』
どこか必死そうなお嬢。俺に近寄ってきたかと思えば、不安そうに制服のよれた部分を摘んで謝ってくる。
この期に及んで、と思った。
申し訳なさそうにするという事は、俺との関係性をまだ持ち直そうとしているという事だ。もともと吹けば飛ぶような縁で繋がっているような薄い関係だというのに。いっそのこと、これで二度と関わり合いにならなければ楽なはずなのに。
『悪いお嬢様だな。お前は』
『ぁ……』
事実を突きつけるように、あのとき刃物が宛てがわれた首筋に左手で触れる。怪我と引き換えに守ったきめ細かな肌は包帯越しでも生温かく、よく血が通っているのが分かった。
『だ、だって……夏川さんが──』
『いい加減にしろ』
『……ごめんなさい』
夏川を毅然と詰めた態度はどこに行ったのか。かつてステージ上に居た強い女はどこにも居らず。今ここにいるのはドジな男に安易に首を触られる弱い女だった。手を離した際の上目遣いが嫌に記憶に残った。
結局、俺が東雲家の世話になることは無かった。
◆
ようやくと言うべきか、大人しくしていれば血が滲むことのなくなった左手の包帯。皮膚を再生しようとする事で生じる痛痒い感覚にもいい加減慣れてきたところだ。こいつが無ければ昨日のような事も無かったのだと思うと自分の左手ながら憎らしく思える。
それでも、また横の壁にでもぶつけてしまえば嫌でも夏川を意識させる事になるだろう。昨日まではただのドジと思われていたかもしれないけど、今だと「この男はイカれた野郎だからそんな事をする」と曲解され怯えられかねない。それはマジでドジなんです……信じて。
お陰様で「どうせ自分自身のことだから」という甘い考えは欠片も無くなった。是が非でもこの左手を大事にしてみせる。右手を賭けても良い。
「……」
後ろの席に居る夏川からは身動ぎの音すらしない。きっと今も俯いているのだろう。ただ俺が近くに居るせいでそうなっているならどうすべきかは簡単な話だ。けど、俺が距離を置いたところで何も変わらないのならちゃんと向き合う必要がある。
仮に夏川を泣かせてしまった原因が俺の考え通りだとするなら。ちゃんと夏川に俺の行動を理解してもらうための弁解がある。それは〝二度と同じような真似をしない〟という事だ。じゃああの時、生徒会室でのお嬢を止められる方法が他にあったのかと言われれば特に無いんだけれども。それでも、あんな事はもうしないと断言できる。
──だって、あんなに痛いと思わなかったんだもん……。
痛かった。むっちゃ痛かった。痛いとかいう次元じゃなかった。激痛なんて表現は生温い。爆痛。腹の具合によっては俺の尊厳すら終わってた。そんな事を予見できないくらい、自分の掌に異物を突き刺すという事の意味を分かっていなかった。
アニメや漫画、ゲームが子供に悪影響を与えるなんてニュースをまるで他人事のように見てたけど、俺もバッチリ影響を受けていたらしい。仲間を守るために自らを盾にしてサックリと肩に刺さったナイフを無表情で引き抜くみたいなシーンを見過ぎてた。心のどこかで「まぁイケるだろ」と高を括っていたらしい。
あの苦しみが事前に分かっていれば。たとえ最高レベルの緊急事態だとしても、床に転がる裁ちバサミを拾い上げるという選択肢はいの一番に消え去っていただろう。中身をぶち撒けたペン立てを蹴り飛ばしてお嬢をヘッドショットするくらいの事はしてたと思う──その手があったか……!
つまるところ、俺はあの自傷行為による自分自身へのフィードバックを甘く見てたんだ。決して誰かを助けるためだからと喜んで自らの身を差し出したわけじゃない。そもそも家族でも好きな女でもない奴のために自分を犠牲にするとか割に合わねぇし。この怪我の原因が俺のドジである事はやっぱり変わらないんだ。
それを、どこかのタイミングで夏川に説明できれば──。
少なくとも今じゃない。昨日の今日で夏川にとって今の俺は最高に理解の及ばないイカレ野郎だろう。異常な行動なんかしなくても話しかけただけで距離を置かれかねない。無理やりにでも伝えれば良いのかもしれないけど……俺の心が持たねぇわ。左手の回復を待っているこの状況でストレスのあまりホルモンバランスが崩れてみろ、怪我したところから指が生えちまうよ。
幸いにも今の俺と夏川は席が前後だ。会話の無い状態で俺の背中でも眺めてもらって慣れてくれれば有難い。それで夏川が今までのようなプリティースマイルを浮かべてくれるようになるならそれで良し。それでダメならガチ恋距離ならぬゼロ恋距離で俺の話を聞いてもらおう。
「今日は席替えしまーす!」
いったん、今はこのまま──え?
「──はーい! じゃあ今日からみんなこの席ね!」
「…………え?」
気が付けば、俺の後ろから夏川は居なくなっていた。
本話とは関係ありませんが、アニメの方で不手際があったため、活動報告の方でお詫びを述べさせていただいております。




