夢、捨てても
続きます。
秋の天気は不安定。例年の気配を見せ始めたか、夜にかけて急な大雨が降り注いだ。屋根を弾く雨音がベッドに横たわる俺の鼓膜を刺激したものだ。その状況で眠るためのコツはこの雨音を癒しの音と捉えられるかどうか。今の健康状態や日中の心労もあってか、謎の感傷に浸ることで逆に心地好かったかもしれない。気が付けば朝だった。
支度を終えて家を出ると外に多くの水溜まりはあったものの、薄暗い雲は朝日を妨げる程度で東に流れていた。天気予報によるとこれから晴れるようだ。傘を持って行く必要がないようで安心した。
「……替えの包帯持った?」
「──あっ」
「馬鹿」
などと説教してくるものの、俺の怪我を良いことにちゃっかりお袋の車の送迎の車に同乗してる姉貴である。おいおい、数少ない運動の機会を無くして大丈夫か? 最近腹周りが──って、あんまり俺が言える事でもなく……怪我して慎重になってるせいか余計に体を動かさなくなった気がする。少し前までは夏川に振り向いてもらうために自主トレーニングはちょこちょこしてたけど、あの頃の筋肉貯金もボチボチ底をつく頃だろう。さすがにカッコ悪い体は嫌だし、最低限の身体作りくらいはしないとなぁ……。
出発しようとする車から飛び出し、無駄な動き多めで駆け寄った玄関。体重を乗せて引いた戸の施錠に阻まれ、俺は我が家に弾かれる。ニッコリと口角を上げることで挫かれた出鼻を支えた。
◆
点在する水溜まりを避けながら歩きづらそうに通学する生徒の横を悠々と車で通り過ぎると少しだけ優越感を覚える。秋でこれなんだから、真夏の暑い時期に毎日車で送迎されていた生徒はその比じゃないだろう。きっと徳が減って来世は人よりランクの低い動物に生まれるはずだ。ずっと歩きで通学してた俺は毎日ちゅ〜る食ってる美人の飼い猫に生まれ変われると思う。いや……無理か。
学校に到着して校門の中を進む。さすが姉貴だ、周囲を威圧して水溜まりの無い道を独占する姿からは誰への申し訳なさも感じられない。徳なんざ要らねぇよという意思の表れか。閻魔大王を打倒して地獄の長に成り代わるという前世の誓いをまだ忘れていないらしい。
教室に向かうといつも通りの光景が広がっていた。雨の日だと「湿気で蒸して暑い──」とか「制服濡れちゃった──」とかで女子のいつもと違う姿が見れたりするものだけど、一晩降り注いだくらいじゃ大した影響は無かったみたいだ。ちぃっ……。
俺の席に向かうと、後ろにはいつものように既に夏川が座っていた。今日は芦田は居ないらしい。その横をあえていったん通りすがって机に荷物を置くと、俺はじっと座る夏川に意を決して声をかけた。
「え、えと……おはよ」
「……おはよう」
ただの挨拶程度にどうして逡巡が必要だったかと言えば、視線を机に落としたままの夏川の機嫌が分からないからだった。ちゃんと挨拶が返って来たし、これは……大丈夫なんだろうか。
「夏川、昨日は……」
「……」
「……えっと」
さっそく話してみようと言葉を続けても、夏川の机に向ける視線は動かなかった。いつものような会話のお手本のように目を合わせて聞く姿勢を作る姿を期待しても、夏川は微動だにしない。考える限り最も悪い展開になり頭の中が白く塗り潰されていく速度に言葉が追い付かなかった。
無様にも口をもごもごとさせていると、夏川が静かに立ち上がった。
「──ごめん。ちょっと……」
「あ、はい……」
結局俺と目を合わせる事なく、そのまま教室から出て行く夏川。冷たい、と言うより明らかに元気が無い様子だった。追いかける勇気なんてあるわけがなく、俺は力を無くすように椅子に腰を落とす事しかできなかった。
分かっていてもショックは大きかった。半ば呆然としていると気が付けば時間が経っていたのだろう、後ろの席の主が戻って来た音が聞こえた。さっきの離席は「いまお前と話すことはねぇ」のアピールに違いないし、ここで嬉々とした顔で後ろに振り向いても表情を曇らせてしまうだけだろう。
いったい何が原因でこんな事になったのか。頭の中を整理するために、昨日の放課後のことを思い返す。
◆
俺の下に訪ねて来たお嬢は、俺の左手の怪我が問題なくなるまで家に送る事を申し出た。まさかの申し出に戸惑っていると、夏川がどうして他の誰でもないお嬢がそんな事を言うのかを尋ねた。そこからいくつかの問答の末、ついに俺の怪我の原因の話になってしまった。今にして思えばここで無理にでも割って入り、はぐらかしておけば良かったのかもしれない。
この怪我の原因を俺の〝ドジ〟であると片付けた夏川。当然だ、俺がそう伝えていたのだから。夏川は俺が説明した通りのことをお嬢に話しただけだった。お嬢も、周囲に真実を打ち明けない事は病院で知っていたはずだけど……。
『──そんなわけないでしょうッ!!』
目の色を変えてブチ切れて、本当の事を洗いざらいブチ撒けたわけだ。
いったい何がお嬢の逆鱗に触れたのか──いや、何となく分かってる。俺への態度があからさまに軟化してたし、あんなアフターフォローみたいな事まで申し出たんだ。少なからず罪悪感は覚えていたんだろう。当事者でもない無関係の夏川が発した〝佐城渉はドジで怪我をした〟という言葉は、お嬢にとって労うべき対象を貶められるような発言だったのかもしれない。でも、それは。
『───わたくしの命を守るために、自身の手を刺したのよッ!!』
アウトだ。
俺が真実を打ち明けるならまだしも、お嬢がそれを話してはならなかった。俺やお嬢だけの都合じゃない。治療費の支払いのほか、学校に対して偽の説明をする事を生徒会を抑えてまで東雲家が請け負うことができたのは俺の意向と東雲家の都合が合致したからだ。実際にこの左手に穴を空けたのが俺自身によるものだったとしても、お嬢が自傷行為では済まない事をしようとしたという事実に通ずる話は文字通り禁句だった。つまり、この真実の隠蔽は既に当事者間だけの話じゃない。
まるで自らが正義であるかのように夏川に真実をぶつけ、肩で息をしていたお嬢。俺は夏川に真実を知られたことよりも、お嬢が禁を破った事に頭痛を覚えた。
『…………おい、監視』
『も、申し訳ありませんッ──』
さすがの俺も声を低くして文句を垂れるしかなかった。これで俺に学校側や他の大人から追及が及ぶようならもはや取り繕うことをせず、お嬢が自分の首にカッターナイフを向けた事を含め真実の全てをブチ撒ける事すら考えた。先に喋ったのはあっちだし、そこまで行ってしまえばもはや高校生風情の俺には隠し通せないからだ。外に煙が漏れたら、火事だと騒ぐのは大人も子供も関係ないことだ。
『お嬢様ッ……!!!』
『ヒッ──……あっ』
老年の男に肩を掴まれながらそれまで以上に語気強く呼ばれる事で、激昂していたお嬢もさすがに我を取り戻す。しかし、それは時すでに遅く。
お嬢は十秒にも満たない前の自分の発言を思い返したのか、サッ、と顔を青褪めて茫然自失の状態に陥った。この怪我の事については反省していても、変な方向に思い切ってしまう性格は何も改善していなかったようだ。
一方で、俺にもやらねばならない事があった。
『な、夏川。この事は……』
『──……ん、で……?』
『え……?』
お嬢を抑えて大人しくさせるまで、俺は斜め後ろに立つ夏川の様子に気付いていなかった。嘘を伝えていた事に気まずさしかなく、目を合わせないよう地面を見ながら振り返った先で、夏川の足下の土に湿った斑点ができていることに気付いた。視線を上げたところで、俺は瞬きを忘れた。
『なん、で……』
『……!』
初めて見る涙だった。思わず頬を転がるように落ちる雫を目で追ってしまう。何か声をかけようにも、頭の中は真っ白だった。
嘘をついたんだ。そのうえ黙ってもらおうとする後ろめたさの先には、いつものように頬を膨らませた夏川が待っていると思っていた。
今思えばそう考えてしまう事こそが俺の油断だったのかもしれない。もう迷惑をかけないと──そう誓ったはずなのに。想いを断ち切れないまま近い距離に居られた喜びに浮かれていたツケが回って来たのだろう。
そんなときに限って、咄嗟に左手を犠牲にするほどの機転は生まれなかった。




