放っとけなくて⑥
続きます。
自転車置き場の奥の、あまり生徒が行き着かないスペース。何か事情を察したように、渉や東雲さんはその場所へと歩みを進めた。その後ろを慌てて付いて行く。
「……」
「……そう、すか」
状況が飲み込めず、視線だけが渉と東雲さんの間で揺れ動く。何か嫌な予感がするも、詳しい話を聞くための言葉は言いようもない場の緊張感が押し留めた。
「……それで? そんな状況で、どこか潜むように俺に話しかけて来た理由はなんです?」
どこか呑気そうな声色で尋ねる渉。家の指示により監視されているという東雲さんの言葉を聞いて何も思っていないというわけではなさそうだ。暗くなりかけた空気を払おうという意図がうかがえる。
「……。その手……」
「!」
渉の言葉に対して、痛ましげな視線を返す東雲さん。向けられた先は、少しだけ赤茶色の滲む包帯が巻かれた渉の左手だった。少しの間見つめると、監視下という制限の中で許されていると言っていたように、渉の方へと足を踏み出した。
「おい、何をっ……」
一歩後ずさる渉。しかし東雲さんは歩みを止めず、渉の目の前まで進む。そして、視線を向ける左手を患部に触れないようにそっと優しく拾い上げた。急な行動に渉と、そして私まで面食らう。
「あぁっ……私のせいでっ……私が、あんなことをしなければ……」
「いや、ちょっと……お嬢……」
東雲さんは腫れ物を扱うように渉の左手を自らの掌に乗せ、反対の指先で撫でた。そして動揺する渉に追い打ちをかけるように、今度は自らの白い頬に寄せて祈るように目を閉ざす。その顔には悲痛さや後悔のような悲しみが見受けられた。今にも泣き出しそうにも見える。
呆然としていると、今度は東雲さんを監視しているという運転手さんが動き出した。
「──お荷物を」
「えっ……あの、これは、渉の……」
「承知しております」
圧倒的な歳上の老紳士から白手袋の両手を差し出され、思わず言われるがまま渉のバッグを渡してしまいそうになる。しかしすんでのところで両腕に力を入れ、取られないようにギュッと抱き締めることが出来た。
「私どもで、佐城様をご自宅までお送りいたしますので」
「え、えっと……」
困ってしまい、渉に視線を向けるとちょうど目が合った。
東雲さんに左手を取られたままの渉が、困った表情で諦めたように頷く。私は腕の力を抜いて、バックを差し出した。
「お預かりいたします」
「ぁ……」
懐が空いたところに空気が入り込むことで湧き出る喪失感。渉のバッグは、私がこの場で自分を落ち着かせるための拠り所だったのかもしれない。それを失ってしまい、急に自分が無防備に思えて堪らなくなった。
「佐城さん」
「……何でしょ」
一歩後ろに下がり───しかし渉の左手を取ったまま話し始める東雲さん。呼びかけられた渉は呆れているような声色で返す。怪我している部分を相手に握られていて、渉は怖くないのかな。そっと放してもらうようにするとか……もう少し、何か抵抗みたいな事をしても……。
「登校時はご両親に送迎していただいていると聞いています」
「まぁ、はい……誰から聞いたのかはわかりませんが」
「そしてお帰りの際は、ご両親の都合が合わず歩いて帰っているとも」
「え、ほんとに誰から聞いた?」
そういえばそうだ。渉は患部を労るために登校の時は車で送ってもらっているのに、帰りは歩いていた。一緒に帰ることに気を取られていて疑問に思った事もなかった。そんな事情があったんだ。
東雲さんはそれをどこで知ったんだろう。何となく、普通の女の子には無い力を持っていそうな人だとは思っていたけど、調べようと思えば調べられるのかな……。
「ですので、このお怪我がご負担にならなくなるまでご自宅までお送りする役目を引き受けさせていただこうかと」
「えぇ……」
終始、場の主導権を握られ続けている状況に渉は困っているようだった。それは私も同じ。ずっと話を聞いているけれど、渉の怪我について東雲さんが関わる意味を理解できなかった。どうして東雲さんがこれから先、渉を家まで送り届けることになるのか。
それではまるで、私はもう──。
自らの内側から湧き上がる感情に理由は問わなかった。不安と困惑に苛まれた自己防衛反応か、落ち込んだ気持ちの線はバネで弾かれるように右上を指し示した。
「──あ、あの!」
「! な、夏川……?」
「渉はっ……私が責任を持って家まで送り届けますので!」
状況はわからない。しかし、確実に外せないことは〝渉は私と一緒に帰る〟ということだった。そこに余計なものは要らない。あの左手に包帯が巻かれて暫く、学校で後ろから、時には横から渉に注意を払い、手を焼いたのは誰なのか。私だけと言うつもりは無いけれど、今さら出張って来た誰かにその役目を取られたくはなかった。
東雲さんが、渉を解放してこちらに体を向ける。
「……徒歩で、ですの?」
「うっ…………と、徒歩で……」
「何の責任があって?」
「そ、それは……」
「夏川愛華さん」
「……っ…………」
碧く、強い眼差しが私に向けられる。
東雲さんの目的は、怪我をしている渉に負担をかけさせないこと。その手段として車を用いて、実行に移そうとしている。
それに対して私はどうか。渉が自分の怪我に気を取られ、新しい事故を起こさないこと。そのために私が渉の左手の代わりとなり、目となって注意を巡らす。そのために一緒に帰る──どちらが確実で、〝渉のためになる〟かは……返す言葉も無いほど明白だった。
「……」
それなら、責任は? 確かに私がわざわざ渉の側でそんな事をし続ける責任は無いかもしれない。それでも側に居続けた理由は、他でもない私がじっとなんてして居られなくて、このまま放って置くなんてできなくて、安心なんてできなくてっ……!
「夏川、ここは」
「──東雲さんは、どうなんですか」
「お、おい、夏川」
切り返した言葉とともに、私はいま戦っているんだと自覚する。どうしようもなく嫌だという思いがあって、それを言葉に乗せて伝えた以上、後に退くことはできない。
「何の責任や理由があって、渉に近付くんですか? 」
「……夏川さん」
「単なる親切心なら、私で間に合ってます。わざわざ接点の少ない東雲さんがそんな事をしなくても──!」
……負けたくなかった。
東雲さんよりも知っていたかった。
今さら隠し事なんてされていないと思っていた。
また同じ明日を送りたかった。
語気の強まる最中、東雲さんの眼差しを捉える。その瞳に動揺はなかった。余裕を持っていた。迎え打つ意志を感じられた。都合の悪い情報ばかりが飛び込んで来る視界に反して、私に自分の心を鎮めるブレーキなんて存在しなかった。
「──責任も理由もありますわ」
「……ぇ」
捻じ伏せられるような言葉に、私の勢いは殺された。
時間が止まったように風が止んだ。冷えた頭が冷静さを呼び、嫌な予感の再来とともに認めたくない現実があったことを思い出した。離れゆく背中と、見たことない顔。権利を失った心のベクトル。
「……それは、なんですか?」
「な、夏川、もう良いって。 俺も夏川に迷惑かけたくないしさ」
「渉は……不注意で怪我をしたんじゃないんですか? 転けて、手を突いた拍子に工具が刺さったって」
「そう、そうなんだよ」
渉から聞いていた、怪我に至るまでの一連の流れ。
大きな怪我で心配の気持ちが膨らむ一方で、文化祭に力を尽くした渉なら、一生懸命なあまりそんなドジもあるのかなって思ってた。ドジだなって、呆れてしまっていた部分があった。
「渉の──ドジじゃないんですか?」
そうであったなら、好きに側に居ることができた。渉ただ一人の一身上の都合を理由に、後ろめたさも隠して。理由も探さず、ただそれだけを口実にして話しかけることができた。不安を覆い隠す蓋として、今の私が縋ることのできる──
「……ドジ? ドジ、ですって……?」
「……!」
「お、おい……」
東雲さんの声色が変わる。白い肌の顔が真っ赤に染まり、自らの両手を固く握りしめ、歯を食いしばり、肩を震わせ始める。
怒りと泣き顔の入り交じったような表情とともに、潤みによって照りの増した鋭い目が私の方に向いた。
「──そんなわけないでしょうッ!!」
初めて見せられた感情的な姿。文化祭でのファッションショーの時のような余裕さも、先ほどまでの渉に対してのしおらしさも消え、ブロンドの髪を振り乱すように私に強い言葉をぶつけて来る。それに抗おうとも思わず、受け止める勇気も無く──ただ、本当の事が知りたかった。
「こ、この方はッ──」
「おいお嬢ッ!」
「お嬢様!」
「私を守るためにッ……!」
体の震えに邪魔されながらも言葉を絞り出す東雲さん。暴れてもいないその肩を、渉と運転手さんが掴んで制止する。渉は口を塞ごうともしたらしいけど、その手には包帯が巻かれており、動きに躊躇いがあった。
「───わたくしの命を守るために、自身の手を刺したのよッ!!」
激情の乗った真実が冷水となって私に降りかかる。
言葉の勢いとともに、東雲さんの碧の目の片方から雫が滑り落ちた。嘘の欠片も感じられない涙の透明さが赤く染まった肌を映し通している。
ああ……私は、
「痛みに喘いでッ! 血の流れる手を見せて! 愚かな私が踏み止まるようにッ!」
私は──また何も知らなかったんだ。




